テセウスの教室

1

 猪田悠真が受け持つ教室には、欠番のようにいつまでも置かれている机がある。
 誰かのためなら自分は悪にでもなる、という歌が昔流行った。
 猪田がその歌を知ったのは、流行していた時代よりずっとあとだった。誰かを守るためなら悪を選ぶことさえ厭わない。そんな覚悟は、物語の中ではひどく格好よく見えることがある。
 では、自分のために悪を選んだ人間は、どうなのだろう。
 誰かを守るためでもない。正義のためでもない。かつてその机に座っていた生徒は、ただ、自分にはない金が欲しくて、人のものを盗った。その一方で、学校では、困っている友人に手を貸し、忘れ物をした相手には自分のものを貸し、誰かがひとりでいるのを見れば当たり前のように声をかけていた。猪田には、教室にいた彼と、人の金を盗んだ彼のどちらか片方だけを本性なのだと思うことが、どうしてもできなかった。どちらも、彼だったのだ。

「先生、これから一年間、よろしくお願いします」
 蟻越健吾は、一学期の始業式を終えた放課後、わざわざ猪田のところまでやってきて、深々と頭を下げてきた。
 いまどき、そこまで改まった挨拶をする生徒は珍しい。新しい担任に愛想よくしておこうという生徒なら毎年何人かいるが、そういう者はたいてい、ほかの教師にも同じようなことをしている。廊下ですれ違うたびに大きな声で挨拶をし、職員室へ来れば必要以上に背筋を伸ばし、教師から好かれている自分を周囲にも見せたがる。
 蟻越には、そういうところがなかった。
「こちらこそよろしくな!」
 猪田が笑いかけると、蟻越も笑った。声を立てるほどではなく、はにかむ程度の笑みで、その様子が生真面目な生徒だという印象をさらに深めた。
「去年も先生のことは知ってました。廊下でよく声が聞こえてたんで」
 担任になった初日に、生徒から声がうるさいことを遠回しに指摘された。そのときは、ただそれだけのやりとりだった。
 だから猪田も、その日のことを特別な出来事として覚えていたわけではない。新しい学年が始まれば、生徒の顔と名前を一致させ、委員や係を決め、提出書類を集め、保護者の連絡先に誤りがないか確認する。放課後には部活動があり、職員室へ戻れば仕事が机に積まれている。担任になった生徒一人ひとりの第一印象など、数日のうちにその後の姿で塗り替えられていく。

 昼休みになって学食に行こうとした生徒の一人が、財布がないと言い出したことがある。朝は持っていたはずだというので、教室や廊下を探したあと、登校してきた道を辿ってみることになった。ほとんどの生徒が腹を減らして弁当を広げ始めるなか、蟻越だけが「どこから学校に入った?」と尋ね、自分の昼食には手もつけず、持ち主と一緒に教室を出ていった。
 二人が戻ってきたのは昼休みが半分ほど過ぎたころだった。財布は駐輪場脇の植え込みに落ちていたらしい。見つかったと喜んでいる本人より、茂みの中まで探した蟻越のほうが、制服の膝や袖を泥で汚していた。
 落としものを拾って届ける。皆が面倒くさがる役割をすすんで引き受ける。教室の後ろで飼っている亀の餌をやる。
 善行と呼ぶには大袈裟で、わざわざ褒めれば本人が困りそうなことばかりだった。だから猪田も、そのたびに蟻越を呼び出して褒めたりはしなかったが、一か月もすると、担任として彼に対するひとつの評価が出来上がっていた。
——蟻越健吾は、きちんとした生徒である。
 成績は飛び抜けて良いわけではなかった。運動も、人より得意な種目がいくつかある程度だった。授業中に居眠りをすることもあれば、友人と話し込んで予鈴を聞きのがすこともある。教師にとって都合のいい優等生ではない。それでも、誰かが困っていれば気づくし、気づいたあとで知らないふりをすることができない。猪田は、彼のそういうところを好ましく思っていた。

 五月に入ってすぐ、家庭環境調査票の確認をしていたとき、猪田は蟻越の用紙で手を止めた。保護者の住所と、現在本人が生活している住所が違っていた。
 取り立てて珍しいことではない。両親の単身赴任や離婚、親族宅から通っている生徒もいる。蟻越の書類には現在の居所として児童養護施設の名称が記され、その下に児童相談所の担当者名と連絡先が添えられていた。
 猪田は書類を読み直したあと、それをほかの生徒のものと同じようにファイルへ戻した。

 施設で暮らしているという事実を知っても、それまで抱いていた印象は変わらなかった。むしろ、いろいろあるのだろうに学校ではきちんとやっている、と少し感心したくらいだった。あとになって考えれば、その評価には猪田自身の勝手な思い込みが混じっていた。
 家庭に事情のある子どもは苦労している。苦労しているのに他人へ親切にできるなら、なおさら立派だ。そんなふうに、事情をひとつ知っただけで、それまでの蟻越の行動を猪田は自分に都合の良いように解釈していた。

 それからしばらく、蟻越の生活に目立った変化はなかった。
 彼は部活動には所属していなかった。猪田が一度、なにかやらないのかと尋ねると、「施設で、帰る時間が決まってるんで」と答えた。それ以上詳しい説明はなかったし、猪田も無理に勧めなかった。部活動に入ることは必須ではない。学校へ来て、授業を受け、友人と過ごし、家へ帰る。それで困っていないのなら、教師が勝手に足りないものを探して与える必要もないと思っていた。
 蟻越はすぐにクラスに馴染んでいた。昼休みになればみんなで机を寄せて弁当を食べ、くだらない話で笑っている。体育では人数が足りないほうへ自分から入り、文化祭の係決めでは誰も手を挙げなかった備品担当を引き受けた。そういう役回りを好んでいるわけではないらしく、「どうせ最後まで決まらないなら、もう僕でいいですよ」と面倒そうな顔もする。それでも役割を引き受けた以上は放り出さなかった。
 だから、蟻越が自分の小遣いというべき金をほとんど持っていないことに、猪田はすぐには気づかなかった。最初に気づいたのは、校外学習について確認したときだった。
 二年生は七月に大学見学会へ行くことになっていた。見学先はいくつかの大学に分かれており、生徒はそれぞれ希望した大学へ向かう。その際の昼食は各自で取る予定になっていた。学校から配られた案内には、昼食代として千円程度を持参するよう記されていた。
「先生、千円じゃ足りなくないですか?」
 ホームルームで猪田が説明をしていると、教室の後ろから声が飛んできた。
「昼飯だぞ。なに食う気なんだよ」
「大学の近くにラーメン屋があるらしいです。大盛りにしたら千円超えます!」
「じゃあ普通盛りにしろ。大学の見学に行くんであって、食べ歩きに行くんじゃないからな!」
 教室に笑いが起きた。別の生徒が、帰りにコンビニへ寄っていいのかと尋ね、猪田が寄り道するなと返す。冗談と真面目な話が飛び交う、いつものホームルームだった。
 翌日の昼休みになって、蟻越が職員室へ来た。
「先生、ちょっといいですか」
「おう。どうした」
「校外学習の昼飯なんですけど、僕は弁当を持っていってもいいですか」
「ああ、いいぞ。別に現地で買わなきゃいけない決まりじゃない」
「じゃあ、そうします」
 それだけ言って帰ろうとしたので、猪田は呼び止めた。
「施設で作ってもらえるのか?」
「たぶん。頼めば大丈夫だと思います」
「だったらいいけど。難しかったら言えよ。学校でどうにかできることもあるからな」
 蟻越は、ありがとうございます、と答えた。その返事にも、困っている人間が助けを求めるような響きはなかったし、実際、校外学習の日には弁当を持ってきた。
 昼になり、ほかの生徒たちが大学の学生食堂へ向かうなか、蟻越はベンチに座って持参した弁当を広げた。ひとりで食べていたわけでもない。彼の友人がふたり、食堂の混雑を嫌って売店でパンを買い、蟻越の隣に座った。三人で話しながら食べている様子を見て、引率していた猪田はそれ以上気にしなかった。
 帰り際、大学の売店の前を通ったときだった。
 大学名の入ったボールペンやノートが棚に並び、生徒たちが珍しそうに覗き込んでいた。そんなものを買う必要などないのに、こういう場所へ来ると何か欲しくなるらしい。数人が記念だと言ってペンを買い、別の生徒は大学のロゴが入ったクリアファイルを手にしていた。蟻越も足を止めた。手に取ったのは、百五十円ほどの小さな消しゴムだった。
「それ買うの?」
 隣にいた友人に聞かれ、蟻越は値札を見てから棚へ戻した。
「いや。いらない」
「さっき欲しそうに見てたじゃん」
「見てただけ。消しゴムはまだ残ってるし」
 その会話を、猪田は少し離れたところで聞いていた。
 百五十円だった。猪田は、その金額について深く考えなかった。欲しいと思ったものを必ず買わなければならないわけではない。むしろ、必要のないものなら買わないほうがいい。蟻越はその分別がすでについているのだと思った程度だった。
 ただ、そのあとも似たような場面が何度かあった。自動販売機の前で友人に誘われても、蟻越は飲み物を買わなかった。購買で期間限定のパンが出たと照井涼真が教室で騒いでいる日も、自分は弁当があるからと列には並ばなかった。放課後に友人たちが駅前の店へ寄ろうと話していると、施設の帰所時間を『門限』と誤魔化して断っていた。
 どれもひとつだけなら、そして互いをなにも結びつけなければ、とりたてておかしなところはない。蟻越自身も、表面上は不満そうな顔をしていなかった。
 
 蟻越がお金を持っていない事情を猪田が知ったのは、夏休みを目前に控えた三者面談の時期だった。
 蟻越の面談には、保護者ではなく児童相談所の担当者が来ることになっていた。家庭環境調査票に記されていた桜木という名前と同じ人物で、四十代ほどの女性だった。約束の時間より少し早く学校へ着き、職員室で猪田に名刺を渡したあと、蟻越が教室に来るまでのあいだに、現在の状況を簡単に説明しておきたいと言った。
 そこで猪田は初めて、蟻越が児童養護施設へ正式に入所しているわけではないことを知った。
 蟻越は家庭での生活を続けることが難しくなり、高校一年の夏休みに、児童相談所によって一時保護された。ところが保護者は施設への入所に同意しておらず、かといって家庭へ戻せる状況でもない。現在は児童養護施設に一時保護を委託する形で生活しており、その状態がすでに一年近く続いているという。

「本人には、いつまでこの宙ぶらりんの状況が続くのかという不安がかなりあると思います」
 桜木は、机の上に置いた書類へ目を落としながら言った。桜木もまた蟻越と同じくらい真面目そうな印象で、そんな彼女から『宙ぶらりん』という言葉が出たことがちぐはぐに感じられた。
「ただ、この学校のことはすごく大事にしています。転校もしたくないと言っていますし、出席も安定していますよね」
「はい。学校では特に問題ありません。友達とも普通にやっています」
「それは本人からも聞いてます。ここへ通えていることが、いまの蟻越くんにはかなり大きいんだと思います」
 蟻越が学校を嫌がっている様子は見たことがない。他の生徒のように授業がだるいと言ってみたりしている様子を見たことはあるが、本心ではなさそうだった。
 朝から教室にいて、授業を受け、友人と話し、放課後になれば帰る。本人にとっては当たり前になっているその一日が、施設での生活とは違う意味を持っているのかもしれない。
 桜木から聞いた事情のなかで、猪田が気になったのは別のところだった。
「一時保護って、本人が自由に使える金はどうなってるんですか」
 校外学習の日、百五十円の消しゴムを棚へ戻した蟻越の姿が思い浮かんだ。
「施設では、生活に必要なものは用意されています。ただ、蟻越くんの場合は正式な入所ではありませんから、ほかの入所児童とまったく同じ扱いにはできない部分があります。施設では入所児童に毎月いくらかのお小遣いが支給される制度がありますが、蟻越くんはそれが適用されていないんです。いまは、本人が自由に使えるお金はほとんどないと思ってください」
「ほとんどって、どのくらいですか」
 猪田は思わず聞き返した。
「必要なものがあれば、その都度施設や児相で確認します。学校生活に必要な文房具などは当然対応します。ただ、本人が好きに使えるお小遣いとなると、今の状況では難しいんです」
 説明を聞けば、施設が意地悪をしているわけではないことは分かった。正式な入所児童と一時保護の蟻越では、金銭の扱いも同じにはできない。保護者との関係も残っており、児童相談所が本人の生活すべてを勝手に決められるわけでもない。
 それでも猪田は、すぐには納得できなかった。
「でも、あいつ十七歳ですよ。百円とか二百円とか、そういうちょっとした金までいちいち大人に頼まないと使えないんですか」
「猪田先生がおっしゃりたいことは分かります」
 桜木は眉を下げて苦笑した。
「友達とジュースを買うとか、学校帰りに寄り道をして買い食いをするとか、そういうのも、いまの蟻越くんには、簡単ではないですね」
 猪田はなにも言えなかった。食べるものがないわけではない。着るものがないわけでもない。寝る場所もあるし、学校にも通えている。必要な文房具がなくなれば買ってもらえる。だから生活に困っているとは言えないのかもしれない。だが、十七歳の高校生が使う金は、生活必需品を買うためだけにあるわけではない。
 喉が渇けば、自動販売機で飲み物を買う。友人が新しい菓子を見つければ、一緒に買って味の感想を言い合う。百円ショップでどうでもいいものを見つけて、必要もないのに買ってしまうこともある。猪田自身、高校生のころはそうだった。小遣いを使い果たしては後悔し、それでも翌月になればまた同じことをしていた。蟻越には、その無駄遣いをする自由さえなかった。
「本人は、そのことにたいして、なんと言ってるんですか」
「欲しいものがあるとは、ときどき言いますよ。ただ、自分の状況は理解しているので、私たちに無理を言うことはほとんどありません」
 無理を言わない。
 蟻越について、学校でも同じようなことを思っていた。誰かが困っていれば手を貸すくせに、自分が困っていると訴える姿を見たことがない。

 しばらくして本人が教室に入ってきたので、話はそこで終わった。三者面談そのものは、拍子抜けするほど普通に進んだ。成績は中ほどで、欠席も少ない。進路について聞くと、蟻越はまだ決めていないと答えた。大学へ行きたい気持ちはあるらしいが、どこへ行きたいのか、何を学びたいのかまでは考えていないという。
 猪田はそれを聞いて、まだ本格的に焦る必要はないが、自分の将来のことなのだから、納得いくまでちゃんと考えたほうがいいと、当たり障りのないことを伝えた。蟻越も「わかりました」といつものように朗らかに返事をしていた。