テセウスの教室



 インターハイの当日は、レースが終わったあと、航平はしばらく会場を離れる気になれなかった。自分の出番はとっくに終わっているのに、会場のプールではまだ別の種目が続いている。スタートの合図が鳴り、水しぶきが上がるたびに、ついさっきまで自分もあの中にいたのだという感覚が戻ってきた。
ゴーグルを外して濡れた髪を掻き上げると、残っていた水が額から頬へ落ちた。肩や腕にもまだ水滴が残り、身体を動かすたびに床へぽたぽたと落ちていく。泳いでいる最中には冷たさなど意識もしなかった水が、じっとしていると急に冷たく感じられた。呼吸はもう落ち着いている。それでも身体の内側には、百メートルを全力で泳いだあとの熱がまだ残っていた。
決勝のレースで自己ベストは更新した。だのに目標にしていたところまでは届かなかった。それでも、泳ぎ終えた直後に感じたのは悔しさだけではなかった。もっと出来たはずだと思う一方で、あれ以上なにをすればよかったのかと訊かれても、すぐには思い付かない。
練習量を増やしたことが正しかったのかどうかは、いまの航平にもまだ分からなかった。ただ、あのとき自分からもっとやりたいと言わなければ、この結果には届かなかっただろうという実感はあった。
そんなことを考えていると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、猪田がこちらへ歩いてくる。レースが終わってからもう何分も経っているというのに、顔を見ればまだ結果を喜んでいることが分かった。
「藤代! よくやった! ほんとに、よくやったな!」
 さっきも聞いた気がする。タオルの暖かさに身を委ねていると、応援に来ていた水泳部員たちのあいだをぬって、猪田が満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「決勝で自己ベストだぞ! しかもあの泳ぎ、最後まで全然崩れてなかった。予選のときよりよかった。ほんとにすごかったぞ!」
「先生、さっきもおなじこと言ってましたよ」
「何回でも言うよ。こんなの何回言ったっていいだろ」
 後ろにいた倉田たちまで「藤代先輩、おめでとうございます!」と改めて声をかけてきて、航平はさすがに照れくさくなった。自分では、目標に届かなかったことのほうを先に考えてしまう。それなのに、猪田も後輩の部員たちも、まるで自分たちのことのように喜んでいる。決勝へ進んだ時点でも充分騒がれたのに、自己ベストを更新したことで、また最初から喜び直しているようだった。
 猪田はまだ褒め足りないらしく、手にしていた結果表を航平の前へ差し出した。自分の名前も順位も、さっきから何度見たか分からない。それでも、航平は促されるまま紙面へ視線を落とした。
「決勝に残った八人を見てみろ。三年生じゃないの、お前だけだぞ。二年でここまで来たんだ。来年どうなるか、先生はいまから楽しみでしょうがないよ」
 言われて初めて、航平は順位の横に記された学年をまともに見た。自分より上の順位にいる選手は、全員が三年生だった。だからといって、今日自分が頂点には立てなかったという事実が変わるわけではない。来年になれば、今年は決勝に残れなかった一、二年生が伸びてくるだろうし、新しく入ってくる一年生に速い選手がいないとも限らない。いまの八人だけを見て、来年はもっと上へ行けると決まったわけではなかった。
 それでも、猪田が嬉しそうに指している自分の名前を見ているうちに、航平の中でも別の見方が出来るようになってきた。
目標には届かなかった。だが、全国の決勝まで残り、そこで自分がそれまで持っていた記録を更新した。それまでを否定してしまう必要はない。
「先生、来年の話をするのはさすがに早くないですか。まだ今日の大会終わってませんし」
「こういうのは早いほうがいいんだよ。来年は四十九秒台どころか、その先だって狙えるかもしれないだろ。お前がどこまで行くのか、先生はちゃんと見ていたいからな!」
 猪田はそこでようやく結果表を折り畳んだが、しまう様子はなく、そのまま手に持っている。
「でも、今日のところはよくやった。ほんとに胸張っていいぞ。お前が自分でもっとやりたいって言って、そこからちゃんと結果につなげたんだからな」
 航平はその言葉を聞いて、猪田の顔を見た。
 もっと厳しくしてほしいと申し出たとき、猪田はすぐに賛成したわけではなかった。必要なら止めるとも言われたし、航平自身、それを鬱陶しく感じたこともある。それでも最後には、航平が求めたことを無視せず、どうすれば結果につながるのかを考えてくれた。
「……ご指導ありがとうございます」
 航平はそう言ったが、今日のベストタイムは決して、猪田のおかげだけで勝ち取ったものではないと考えていた。
実際に泳いだのは自分だ。指導がよかったことは認めている。それでも、あのタイムを出せた理由の大半は自分にあるはずだ。
 そこで、ふいに松永の顔が浮かんだ。野球部が地区予選で敗れた日、彼が照井と並んで歩いていたときの顔だ。試合に出たわけでも、ベンチに入っていたわけでもない。それでも、水泳部で上手く泳げたときより楽しそうに見えた。航平のように全国大会を目指しているわけでも、記録を一秒でも縮めるために練習量を増やそうとしているわけでもない。それでも松永は、いまも野球部にいる。もしあいつが水泳部に残っていたとして、自分とおなじだけ練習をこなしていれば、もっと速くなれたのだろうか。考えるまでもなく、それを確かめることは出来ないし、そもそも松永がそんなものを望んでいたのかさえ、航平には分からなかった。
 もうひとり、倉田の言葉も思い出した。自分も練習量を増やせば、来年は航平に続けるだろうか、と言っていた。あのときは、やってみればいいと答えた。いまでも、その考えが間違っているとは思わない。ただ、自分が練習量を増やして速くなったからといって、倉田もおなじように速くなるとは限らない。
それで結果が出なければ、さらに本数を増やすのか。まだ足りないと言って休む時間を削り、それでも記録が伸びなければ、立っていられなくなるまで追い込めばいいのか。どこまでやれば十分なのかを決める基準がなければ、結果が出ないたびに「もっときつく」という答えだけが残る。そうして練習の厳しさを積み重ねていけば、いつのまにか、最後まで耐えた者だけを評価していた去年までの水泳部と、おなじところへ戻ってしまうのではないか。
 自分は高いところへ行きたかった。そのためなら、苦しい練習を増やすことも望んだ。そして今日、その選択は結果になった。松永はそうではなかった。倉田がどうなのかは、まだ分からない。
 
 自分にとって正しいと思ったことは、誰にとっても正しいことにはならない。
 猪田は、航平がもっと厳しくしてほしいと言い出したとき、それを頭ごなしに否定せず、それでも言われるままに練習を増やすこともしなかった。倉田たちには倉田たちの練習をさせ、航平には航平のメニューを組んだ。去年までのように全員をおなじところへ押し込めるのではなく、それぞれが望んでいるものと、いま出来ることを見ながら変えていたのだとすれば、航平が考えていることなど、猪田にはとっくに分かっていたのかもしれない。

 猪田の背中が、人のあいだに紛れて見えなくなる。
(……あの人、マジでそこまで考えてたのかな)
それを聞けば、得意そうに「もちろんだ」と答えるかもしれない。だが、その顔を見たところで、本当に彼が最初からそこまで考えていたのかどうかは、たぶん分からないままだ。

 インターハイから戻って数日後、航平は部活へ向かうために鞄を開き、その中に入れたままだった部活動紹介の原稿を見つけた。学校説明会まで、もうそれほど日がない。大会のことばかり考えていて、すっかり後回しにしていた。猪田からも、「そういえば、部活紹介の原稿、そろそろ頼むぞ」と声をかけられた。
——伝統を受け継ぐ、蒼岳高校水泳部。
 見出しは、最初に渡されたときのままだった。あのときは、都合のいい過去だけを残して伝統と呼ぶことに腹が立った。いまでも、去年まで水泳部で起きたことまでなかったことにしていいとは考えていない。ただ、航平自身、昔の練習によって身についたものまでは否定出来なかった。
 おなじものを、そのまま残すことだけが受け継ぐという意味ではないのだろう。
 航平は部員数と活動日を書き込み、大会成績の欄には、自分が出場したインターハイの順位とタイムを記した。すべて埋めてから用紙を見直し、猪田のところへ持っていく。
「見出し、変えなくていいのか?」
 以前のやり取りを覚えていたらしい。
「はい。これでいいです」
 猪田は理由を聞いてこなかった。
「よし。じゃあ、これで出しておくな」
 原稿を手にした猪田は、そう言って航平に背を向けた。航平は、先を歩いていくその背中を見ながら、この人のあとなら、もうしばらく着いていってもいいと思った。