テセウスの教室



 練習量を増やしても支障はなかった。むしろ、自分の満足がいくまで泳げるということで、これまで以上に達成感があった。
「先輩、最近調子良いですね」
 泳ぎ終わったあと、プールサイドで水分補給をしていると、倉田が横に並んで話しかけてきた。
「ああ。自分でもびっくりしてる。この調子で調整すれば、いいところまでいけるかもな」
 後輩から褒められるのは悪い気がしなかった。インターハイへの出場が決まってから、教師や同級生に声をかけられることは増えたが、実際に毎日おなじプールで泳いでいる部員から調子が良いと言われるほうが、航平には信用できた。タイムだけではなく、泳いでいる姿を見たうえで言っているからだ。
 ただし、いまのままではほんとうに『いいところ』までいける保証はない。全国へ進んだからといって、名前を見ただけで対戦相手に警戒されるような選手になったわけではない。そのくらいのことは、航平自身がいちばんよく分かっていた。
 ただ、自分はここまでだと思い込んでしまったとき、それ以上の成長は見込めないのではないか。だったらちょっとは傲慢になるべきなのか。『俺は凄い』と暗示をかければ、ほんとうに記録は伸びたりするのか。そういうことを考えると、自分がどんな態度でいればいいのかも分からなくなる。
「俺も藤代先輩みたいにもっと練習量増やしたら、来年は先輩に続けるかな……」
 倉田は独り言のようにそう言ったが、言葉のベクトルは彼自身にも、航平にも、そして周りにいる同級生たちにも向けられているように聞こえた。
 それは、練習量が個々で違ういまの体制への不満なのか、単なる倉田のモチベーションアップのための願望なのか、航平には分からなかった。
「思うことは、やってみればいいんじゃないか。去年までとは違って、いまは随分融通が利くようになったからな」
 きちんと相談をすれば、猪田だって色々考えてくれるというニュアンスで言ったつもりだった。だが、捉えようによっては嫌味だと解釈されるかもしれない。
航平はそれ以上言葉を足さなかった。いまさら「別に猪田を悪く言ったわけじゃない」と説明するのも変だし、倉田がどう受け取ったのかを確かめるために彼の顔を覗き込むのも、意識していることをかえって認めるみたいだ。
「去年までのこと、俺らは話でしか知らないですけど、その頃って、練習きつくしてほしいとか、自分から言えたんですか?」
 倉田は航平の言葉尻を気にした様子もなく尋ねてきた。
「言ったところで、もともときつかったからな。それにみんなおなじ練習量だったし、きつくしてほしいとか、緩くしてほしいとか、そういうことは言える雰囲気じゃなかったかな」
「じゃあ、断然いまのほうがいいじゃないですか」
 倉田はあっさりと言った。
 去年までより、いまのほうがいい。その一言で済ませられるなら、猪田が来てから航平が抱えてきた感情の大半は、最初から問題にもならなかったはずだった。具合が悪ければプールから上げてもらえる。必要のない追加練習はない。言いたいことがあれば顧問へ直接話せる。どれを取っても、去年より悪くなったと言えるところはない。
 それでも、そうだな、と容易く倉田に同意する気にはなれなかった。
「どうだろうな。いいか悪いかなんて、そんな簡単に決められないだろ」
 自分でも随分曖昧な答えだと思った。倉田も腑に落ちた顔はしなかったが、それ以上は聞いてこなかった。

それから数日後、野球部が夏の地区予選で敗れた。
 結果を知ったのは、放課後の練習へ向かう途中だった。昇降口の掲示板に貼られていた組み合わせ表には、蒼岳高校の名前の横へ赤いペンで敗退を示す印がつけられていた。
三回戦。相手は県内でも名の知られた私立高校だったから、試合前から簡単な試合ではないと言われていた。それでも、勝てないと決まっていたわけではない。昼休みまでは教室でも試合経過を気にしている者が多く、授業の合間にスマートフォンを覗いては、誰かが点数を報告していた。
 航平は組み合わせ表の前で足を止めたものの、すぐにプールへ向かった。自分には自分の大会が迫っている。野球部が負けたからといって、練習内容が変わるわけではない。
校門の前に停まったバスから、野球部員たちが順番に降りてくるのがみえた。先に降りた三年生の中には、帽子を深く被ったまま顔を上げない者もいた。荷物を受け取るためにバスの下部へ回った下級生たちは、普段より声を抑えて動いている。地区予選で敗れたという会話の中には、野球部の夏が終わった、という言い方をする生徒もいた。
 荷物を運んでいる部員の中に、松永と照井涼真の姿もあった。すでに制服に着替えている。それが余計に、彼らの夏がほんとうに終わってしまったのだということを表しているようにも感じられた。
 航平は立ち止まって、二人の様子を見ていた。彼らは航平に見られていることに気付いていない。なにかを言い合いながら並んで歩いている。時折見える松永の横顔は、試合に負けたというのに、水泳部にいたときには見せたこともなかったような、清々しい表情をしているようにみえた。
 航平は、話しかけられなかった。ふたりとはおなじクラスなのに、所属している部活が違うだけで、自分には踏み込めない領域のようなものがあるように感じられた。
 水泳部を辞めて、野球部に移った松永は、レギュラーメンバーに選ばれたわけでも、補欠としてベンチ入りしていたわけでもなかった。試合に出なかった松永は、きっとスタンドで照井たちを応援していたのだろう。
(……なんであんなに楽しそうなんだ、あいつは)
 航平がインターハイ出場を決めたとき、松永はそれほど喜んではくれなかった。少なくとも航平はそう捉えた。教室で顔を合わせたとき、他のクラスメイトに混じって、他人行儀に「おめでとう」と言ってきただけだった。それはそれで、別にいい。きっと松永には水泳部でのいい思い出は少ないだろうし、そんな部活にまだ在籍している航平とはあまり関わりたくないと思っているのかもしれない。
 松永がなぜ野球部に移ったのかは分からない。誰かに誘われたからなのか、自分から入部したいと思ってのことなのか、本人に聞いたことはないからだ。過程はどうあれ、いまの松永は楽しそうだった。チームが負けたのに、かつて彼が上手く泳げて褒められたときよりもずっと、楽しそうだった。

 百メートルを泳ぎ切って壁に手をついた瞬間、プールサイドから猪田の声が飛んできた。
「藤代、五十秒九八!」
 顔を上げた航平より先に、猪田がストップウォッチを持ったままプールの縁まで来た。
「藤代、やったぞ。五十秒九八!」
 声が大きすぎて、隣のコースを泳いでいた倉田まで途中で顔を上げた。
「先生、ほんとですか」
「嘘ついてどうするんだよ。ほら!」
 差し出されたストップウォッチの画面には、確かに五十秒九八と表示されている。これまでの自己ベストは五十一秒一九だった。たった〇・二一秒。普段なら、一秒にも満たない数字を縮めるために毎日何千メートルも泳いでいることを馬鹿らしく思う瞬間もあるのに、その〇・二一秒が今日は途方もなく大きく見えた。五十一秒台という数字を何度見せられても、次こそはと思ってスタート台に立ち続けた。その先に、ようやく違う数字が現れた。
「よっしゃあ! やったな、藤代!」
 突然、猪田が拳を握った。
「先生がそんな喜びます?」
「喜ぶに決まってるだろ。ずっと五十一秒一〇台をうろうろしてたんだぞ、お前。やっとそこから抜けたんだ。嬉しくないわけあるか」
 航平がプールから上がるあいだにも、猪田は記録用紙へラップを書き込んでいた。いつものようにすぐ反省点を探し始めることはなく、書き終えるとまた数字を見ている。
「後半もいい。最後までフォームも乱れてない。藤代、いまのはほんとによかったぞ」
「はい」
「はい、じゃない。もっと喜べよ」
「喜んでますよ」
「全然そうは見えないぞ」
「先生が俺のぶんまで喜んでるからじゃないですか」
 航平がそう言うと、猪田は声を上げて笑った。
 航平もタオルで顔を拭きながら、もう一度ストップウォッチを見た。見間違いではない。練習量を増やしてから、身体が重くなったわけでも、疲労が大きく出たわけでもなかった。それどころか、自分が欲しかった後半の粘りが、数字として初めて現れた。それは素直に嬉しくて、いままでの苦しかったことがやっと報われたような気がした。
「藤代」
 呼ばれて顔を上げると、猪田は今度こそ記録用紙から目を離していた。
「よくやったな。ほんとによくやった。でもインターハイまで、まだ時間はあるからな。ここで満足するなよ」
「分かってます」
「よし。その顔なら大丈夫だ!」
 猪田はそう言うと、五十秒九八の横へ大きな赤丸を書き込んだ。その丸が、ほかの記録よりやけに目立っていた。
(……それでも……まだ……)
 頂点には届かない。
 百メートル自由形における去年の優勝タイムは、五十秒を切っている。出場する選手たちがそこに合わせてきているなら、いまの自分のベストタイムだと、ベスト八に入れるか否かだろう。それでも充分だと言う者もいるが、航平は違った。おなじ挑むなら、結果はより良いほうがいい。

「先生、俺、次は四十九秒台狙えますか」
 航平は水に入ったまま尋ねた。水上と水中の温度差に、顔だけがジリジリと灼かれていくようだ。
猪田はほかの部員たちに向けていた視線をこちらに向けた。驚いた様子はなかった。ただ、航平がベストタイムを出したことにあれだけ喜んでいた顔から、顧問らしい真面目な表情に戻った。
「狙おう。お前がその気なら、先生もとことん付き合うぞ」
 もっと慎重なことを言われると思っていた。五十秒台に入ったのはまだ一度だけだとか、全国大会を前に欲を出しすぎるなとか、猪田ならそういうところから話を始めてもおかしくない。
「まず五十秒台を安定して出せとか言われるかもしれないって思ってました」
「それも必要なことだ。でも、四十九秒台を目標にするのは、なにも問題ないだろう」
 猪田はそう言って、記録用紙を航平のほうへ少し傾けた。五十メートルまでのタイムと、そのあとのラップが並んでいる。航平が見ても、今日の一本は後半の落ち幅が以前より小さいことが分かった。
「ほら。前半を無理に上げて出たタイムじゃない。だったら、次に見るところも分かりやすい。後半をもう少し詰められれば、四十九秒台は数字だけの目標じゃない。むしろ目指せよ。せっかく全国まで行くんだから、五十秒台が出ました、よかったです、で終わるほうがもったいないだろ」
 その言葉を聞いて、航平は初めて、猪田も自分とおなじ選手だったのだと思った。競技こそ違うが、試合に出る以上は勝ちたいと思い、そのために昨日より強くなろうとしていた時期が、猪田にもあったはずだ。記録を伸ばしたい、全国まで行くならそこで終わりたくないという航平の気持ちを、猪田は教師として理解しているだけではないのかもしれない。
「四十九秒台は本気で取りにいくぞ。ただし、練習で全部使い切るな。お前が一番速く泳がなきゃいけないのはインターハイの一本だ。そこまでどう持っていくかは先生に任せろ」
 その言葉には、以前なら素直に頷けなかったかもしれない。自分の身体なのだから、どこまでやれるかは自分がいちばん分かっている。そう思っていたし、いまでも完全に考えが変わったわけではない。それでも、五十秒九八という数字が出た日に言われると、以前ほど猪田の慎重さを邪魔だとは思わなかった。
「じゃあ、任せます」
 航平が言うと、猪田はプールから視線を戻した。
「お、珍しいことも言うもんだな!」
「四十九秒台、出させてくれるんでしょう」
「出すのはお前だよ」
「はい、分かってます」
「なら良し。でも、ほんとに狙おうな! 先生も見たいよ、お前が表彰台に立つところ」
 航平はその言葉には返事をせず、タオルで濡れた髪を拭いた。返事をしなかったのは、気恥ずかしかったからでも、期待を重く感じたからでもない。ただ、猪田が自分とおなじ方向を見ていることが分かっただけで、いまはそれで充分だった。