テセウスの教室




 航平は焦っていた。練習中に身体を撫でる汗が、運動をしたことによってかいたものなのか、心を蝕んでくる焦燥が具現化しているのか、最早どちらか分からなくなっていた。
 インターハイが近づくにつれ、航平は自分の名前を見る機会が増えた。
 朝のホームルームでは猪田が、大会当日の公欠について説明した。廊下ですれ違った教師から声をかけられることもあり、クラスの連中は、全国へ行くのだから当然タイムも速いのだろうという認識で航平をみていた。
 出場を決めた時点で、周囲にとってはひとつの結果が出ていたが、航平にとっては、まだなにも始まっていないようなものだった。
 放課後の屋外プールは、陽が傾いても熱を残していた。濡れた足でプールサイドを歩くと、足裏に張りつく床の温度が、練習の終わりまで消えなかった。ほかの部員が長い距離を泳ぎ終え、泳法ごとの練習へ移ってからも、航平は一番端のコースで泳ぐことになっていた。
 猪田はその脇に立ち、ストップウォッチと記録表を手にしている。
 航平は台へ上がると、足の指を縁にかけ、濡れた両手で台の前端をつかんだ。俯いた視界の中で、水面に映る自分の影が細かく揺れていた。
 笛が鳴った。
 身体を前へ投げ出した瞬間、熱を持っていた皮膚が冷たい水に包まれた。深く入りすぎないよう姿勢を整え、速度が落ちる前に浮き上がる。水をかいた手のひらに確かな重みがあり、胸の下を水が滑っていった。
 最初の五十メートルは、思ったとおりに泳げた。
 呼吸を増やさず、腕の回転も抑えたまま、前へ進む力だけを逃がさない。壁が近づくと最後のひとかきを長く取り、頭を沈めて身体を丸めた。足の裏が壁に触れ、強く蹴り返す。折り返した直後には、自己最高記録を狙えるという感触があった。
 だが、浮き上がって数回かいたところで、右腕が水をつかみ損ねた。
 一度だけなら立て直せるはずだった。入水する位置を戻し、肘を高く保とうとしたが、肩の奥に重さが残り、指先だけが水面を撫でた。呼吸をするたびに頭が高くなり、その分だけ腰が沈んでいく。
 焦ると、残りの距離が、急に長く感じられた。
 前半で保っていた姿勢は、どこかへ消えていた。腕を入れれば水が逃げ、脚を打てば身体の下で泡ばかりが増える。それでも速度を落とすわけにはいかず、航平は呼吸を削り、壁だけを見て腕を回し続けた。
 指先がタッチ板に触れた。航平は水面へ顔を出し、片手で縁をつかんだ。肺の底まで空になったようで、息を吸っても胸の内側へ入ってこない。視界の端で猪田がカウントを止め、記録表へ目を落とすのが見えた。
「五十一秒一九。前半は悪くないが、折り返してから腕が外へ流れている。最後の二十五メートルは、水を押す前に手を抜いていたな」
 航平は返事をせず、ゴーグルを額へ上げた。
 予想していた数字より遅いわけではなかった。
 しかし記録は伸びていない。それを認めるたびに、自分の中から時間だけが減っていく気がした。
「もう一度、測ってください。いまのまま終わったら、崩れた泳ぎだけが身体に残ります」
 航平が壁から離れようとすると、猪田は首を横へ振った。
「今日はここまでだ。次を泳げば直る状態なら、後半で直せている。いま必要なのは、おなじ泳ぎをもう一本重ねることじゃない」
 猪田の言葉に腹が立ったわけではなかった。競泳の選手でもなかった彼が、必死で習得してきてくれたのだろう、その言っていることが正しいとわかるからこそ、従うのが苦しかった。
 航平は壁を蹴り、ゆっくりと泳ぎはじめた。腕を前へ伸ばし、水を急がず後ろまで押す。呼吸に合わせて身体を横へ向け、頭を持ち上げないよう意識する。猪田から教えられてきたことをひとつずつ確かめているうちに、先ほどまで乱れていた息が戻ってきた。
 身体が動くようになると、今度は速度を抑えることができなくなった。
 腕の回転が少しずつ速くなった。脚にも力が入り、流すための四百メートルが、いつのまにか通常の練習と変わらない泳ぎになっていた。
 折り返しの壁が近づいたところで、プールサイドから笛が鳴った。
 航平は一度目を無視した。二度目の笛は長く、水の中にまで響いてきた。
「藤代、もう上がれ。ダウンでまで速さを競うようじゃ、身体を休ませる気がないだろ。今日はもう終わりだ」
 航平は壁まで泳ぎ切り、そこでようやく止まった。
 水から上がると、脚に思っていたほど力が残っていなかった。縁へ手をついて身体を持ち上げようとしたものの、濡れた掌が滑り、肘をつき直すことになった。猪田がはしごを使えと言ったが、航平は聞こえないふりをして、そのままプールサイドへ這い上がった。
 立ち上がるまでに、いつもより少し時間がかかった。
 猪田はなにも言わず、ベンチからタオルを取って航平へ渡してきた。航平は肩で息をしながら、猪田が記入した記録表を覗き込んだ。
 数字は縦に並んでいた。泳いだ日付も、前半と後半の差も、猪田が書き込んだ短い注意も残っている。途中までは少しずつ縮まっていたはずの記録が、インターハイ出場を決めてからほとんど動かなくなっていた。
 努力していないわけではない。朝は授業が始まる前に陸上で身体を動かし、放課後には猪田が組んだメニューを一度も抜かずに泳いでいる。食事も睡眠も気をつけていた。それでも、壁に触れた瞬間に出る数字だけは、航平の焦りを知らないように変わらなかった。
「先生。俺の練習を、もっときつくしてもらえませんか」
 猪田はすぐには答えず、航平の呼吸が落ち着くのを待つように、記録表を閉じた。
「きつくすること自体が目的なら、いくらでもできる。距離を増やすことも、休む時間を削ることも、目標タイムの設定を上げることもできる。ただ、それで後半の五十メートルが良くなるという根拠を、お前は説明できるのか?」
「いまの練習を続けて、いまとおなじ記録のまま続くほうが怖いんです。泳げなくなるまでやらせてほしいとは言いません。ただ、俺がまだ泳げると言っているのに、予定の本数を終えたからというだけで止めないでください!」
 言葉にしてから、航平は、自分が思っていたより長いあいだ、それを心の中に呑み込んでいたことに気づいた。
「お前がまだ泳げると思っていることと、次も質のある一本を泳げることはおんなじじゃない。そこを見分けるために指導者がいる。お前が厳しい練習を望んでいるからといって、その望みどおりに本数を増やすだけなら、指導者である必要はないだろう」
「前の顧問なら、こんなところで終わらせませんでした。先輩たちも、俺の気が済むまで泳がせてくれたと思います」
 口に出した瞬間、失言をしたと気付いた。以前の顧問を引き合いに出された猪田が気を悪くしたのではないかと、おそるおそる顔を見上げる。だが猪田は表情を険しくすることもなく、先ほどまでと変わらず航平の言葉を受け止めていた。
「藤代は、前の顧問とおなじことをしてほしいのか」
「全部を戻してほしいわけじゃありません。でも俺は、誰かに命令されて泳いでるんじゃない。インハイに出るからには、結果を出したいと思ってるんです。だから俺が望んでいる練習まで、前の体制に問題があったからという理由で避けるのは違うと思います」
 猪田はそれを聞いたあと、しばらく黙っていた。プールでは片づけが進み、広く空いた水面には、さっきまで大勢が泳いでいた痕跡が波となっている。
「そこまで言うなら、お前のあしたのメニューを変えてみよう」
 やがて猪田はそう言った。
「ただし、お前が望んだ本数をそのまま加えるわけじゃない。今日の記録と泳ぎを見て、後半の負荷を上げる。そこでお前が苦しいと言っても、すぐには下げない。その代わり、先生が止めると決めたら、お前がまだ泳げると言っても止めるからな」
 航平はすぐに頷こうとした。だが、自分から厳しくしてほしいと求めたのに、最後に止める権利だけは猪田が持つという条件が引っかかった。なにも変わらないよりはよかったのだと、自分に言い聞かせる。
「……わかりました」
 航平が答えると、猪田は片づけをはじめた。航平はその背中を見送ったあと、まだ波の残っている水面へ目を向けた。もう一本くらいなら泳げる。あと二本でも、おそらく身体は動く。そう思う気持ちは、猪田と話したあとでも消えていなかった。