2
水泳部には、かつて松永透という、航平の同級生がいた。彼に競泳の経験はなく、初めのうちはクロールで二十五メートルを泳ぐだけでも、息継ぎのたびに身体が大きく傾いた。それでも練習を休むことはなく、誰よりも早くプールへ来て、上級生の指示を聞きながらコースロープを張った。全体練習が終わったあとも、許可を得て室内プールへ残り、壁を蹴ってはおなじ動作を繰り返していた。
「航平、いまの、前よりましだった?」
泳ぎ終えた松永が、ゴーグルを額へ上げて尋ねることがあった。
「まだ息継ぎで顔が上がってる。水を横に見るくらいでいいんだよ」
「横か。わかった。もう一本見てて」
松永は注意されたことに腹を立てず、泳ぎ直した。上級生から動きが遅いと叱られても、申し訳なさそうにうつむき、次から気をつけると答えた。航平は、競泳を始めたばかりにしては熱心なやつだと思っていた。
蒼岳高校水泳部には、練習方法とは別に、下級生が覚えなければならない決まりがいくつもあった。
上級生より先に更衣室を使わない。練習前の準備と練習後の片づけは一年生が行う。先輩が使用した道具が残されていれば、頼まれなくても器具庫へ戻す。コース内の順番は学年を優先し、前を泳ぐ上級生へ追いついても、自分から交代を求めてはならない。
航平は、そういうものだと受け入れていた。誰から教えられたのかもわからない決まりであっても、従っていれば余計な注意を受けずに済む。上級生たちも一年生だった頃には同じことをしてきたのだから、自分たちだけが不当に扱われているわけではないと思えた。
松永も正面から反抗することはなかった。
ただ、ときどき、誰に聞かせるでもない調子で疑問を口にした。
「先輩が使ったビート板も、僕たちが数えとくんだっけ」
「そう。足りなかったら一年の責任になるから」
「使った人が戻せば、足りなくならないのにな」
松永はそれだけ言うと、ビート板を一枚ずつ数え直した。声には怒りも不満もなく、変わった決まりだと思ったことを、そのまま口にしているだけだった。
梅雨に入る前、器具庫にあるはずのプルブイが一つ足りず、一年生全員が上級生の前へ並ばされたことがあった。前日に使用したのは二年生だったが、三年生の主将は、道具の管理まで含めて下級生の仕事だと言った。
航平たちは謝った。松永も頭を下げたが、練習へ向かう途中で航平の隣へ並び、声を落とした。
「僕たち、昨日は室内プールだったよね」
「いま言っても話が長くなるだけだろ」
「うん。そうだな」
松永は納得したというより、それ以上話しても仕方がないと判断したようだった。
その頃から、練習後に航平へ泳ぎを見てほしいと頼むことが減った。自主練習をやめたわけではない。全体練習が終わったあとも水へ残っていたが、以前のように誰かへ質問をせず、一人でおなじ距離を往復していた。
六月になると、松永は練習開始よりもかなり早く来るようになった。
熱心になったのだと航平は最初に思った。だが松永は泳ぐためではなく、誰にも不備を指摘されないよう、準備を何度も確かめていたのだ。コースロープの固定具を締め直し、ビート板の枚数を数え、器具庫の鍵が所定の場所にあるかを確認する。一度終えた作業へ戻り、ほんとうに間違いがないかを見直していることもあった。
「それ、さっき数えてなかったか」
航平が尋ねると、松永は重ねたプルブイから手を離した。
「数えた。たぶん合ってる」
「じゃあ、もういいだろ」
「足りないって言われたら、また全員で謝ることになるから」
松永はそう言って笑ったが、そこに以前のような気軽さはなかった。
練習中にも変化が表れた。設定タイムに届かなかったとき、松永は言い訳をしなかった。遅れた理由を聞かれても、自分が遅かったとだけ答え、次の一本では最初から速度を上げた。そのため後半になるほど泳ぎが崩れ、さらにタイムを落とす。注意を受ければ素直に頷き、休憩中も壁につかまったまま時計を見ていた。
航平は、松永が疲れていることには気づいていた。ただ、競泳を始めたばかりなのだから、自分たちより疲れるのは当然だとも思った。ここを越えれば身体が慣れる。いま手を抜かせるより、最後までついてこさせるほうが松永のためになると考えていた。
昨年の七月、大会を目前に控えた練習で、リレーメンバーの二年生が設定タイムを続けて外した。当時の顧問は部員全体の気持ちが緩んでいると憤慨し、練習に対する姿勢を自分たちで考え直しておけと命じて、メニューが終わる前に職員室へ戻った。
顧問がいなくなると、主将だった三年生の堀が、百メートルを十本追加すると決めた。
一人でも一分二十秒を切れなければ、その一本は全員でやり直す。全員のタイムが揃うまで、十本を終えたことにはしない。堀たちも下級生の頃に受けた練習であり、蒼岳高校の強さを支えてきた方法なのだと説明された。
航平たちは、言われたとおりコースへ入った。松永も拒まなかった。自分には設定が厳しすぎるとも言わず、いつもどおりゴーグルをつけ、航平の後ろへ並んだ。
「順番、僕が最後でいい?」
出発前、松永が尋ねてきた。
「なんで」
「後ろにいたほうが、みんなの邪魔にならないから」
自信がないとも、泳ぎたくないとも言わない。ただ、自分が遅れることをはじめから計算に入れていた。
最初の一本で、松永は設定タイムを外した。
全員が壁へ戻され、もう一度一本目から泳いだ。そのとき、二本目までは間に合ったが、三本目で再び遅れた。松永が壁へ着くたび、堀がタイムを読み上げる。息を切らした部員たちはなにも言わず、次の出発を待ちながら松永を見た。
松永は謝らなかった。謝って済むことではないと思ったのか、それとも謝る余裕も残っていなかったのか、航平にはわからなかった。壁へ触れるとすぐに時計を見上げ、呼吸が整わないうちに、次の出発へ備えて足を壁へつけた。
三度目のやり直しに入る頃には、松永の泳ぎは目に見えて崩れていた。息継ぎのたびに腰が沈み、腕を水へ戻す位置も定まらない。壁を蹴った直後だけは他の部員についていけても、二十五メートルを過ぎる頃には大きく引き離された。
それでも松永は、もう泳げないとは言わなかった。
壁へ着くたびにゴーグルの中へ入った水を抜き、次の出発時刻を確かめた。堀から気持ちで負けるなと言われれば、いつもと変わらない穏やかな声で返事をし、呼吸が整わないまま足を壁へつけた。
何度目かの一本で、松永は折り返しの壁まで届かなかった。
残り十メートルほどのところで腕の動きが止まり、身体がコースロープの方へ流れた。ロープにつかまって顔を上げたものの、すぐに泳ぎ直すことはできなかった。後ろから来た部員は松永を避けて進み、壁へ着くと、振り返って様子を見た。
「松永、止まるな!」
堀の声がプールサイドから飛んだ。
松永は返事をする代わりにロープから手を離し、再び腕を動かした。だが数メートル進んだだけで身体が傾き、今度は隣のロープへ肩を預けた。水面へ上げた顔は赤く、息を吸おうとするたびに喉の奥から細い音が漏れていた。
「もういい。上がれ」
堀は苛立ったように言った。心配して練習から外したというより、これ以上待っても設定タイムを揃えられないと判断したのだろう。近くにいた二年生がはしごを指し、松永はそこまでロープを伝って進んだ。足を一段目へ掛けても身体を持ち上げられず、上級生に腕を引かれてようやくプールサイドへ上がった。
松永はその場に膝をつき、両手を床へ置いた。背中が呼吸に合わせて大きく上下し、顎から落ちた水が足元へ溜まっていく。誰かがタオルを渡すことも、水を持ってくることもなかった。
「松永抜きで、残りをやりますか」
二年生のひとりが堀へ尋ねた。堀は時計を見たあと、首を横に振った。
「もう時間がない。今日は終わりだ」
その言葉に安堵したような息が、いくつかのコースから聞こえた。
部員たちは順番に水から上がった。松永のそばを通るとき、露骨に責める者はいなかったが、声をかける者もいない。何度もやり直した疲労が残っているためか、普段より荒い手つきでゴーグルを外し、タオルや飲み物を取りに向かっていった。
「結局、一本目から揃わなかったな」
「これなら普通のメニューで終わったほうがましだっただろ」
誰に向けたともつかない声が聞こえた。
松永は顔を上げなかった。呼吸が落ち着き始めると、ゆっくりと身体を起こし、壁際まで移動して座った。具合を尋ねられる前に、大丈夫だと言うつもりだったのかもしれない。だが、誰も尋ねなかったため、その言葉を口にする必要もなかった。
航平は自分の飲み物を手にしたまま、松永から離れた場所に立っていた。
あれ以上泳がせれば危なかったとは思う。松永が途中で止まったことを責めるべきではないとも、頭ではわかっていた。それでも、腕や肩に残った痛みを意識すると、自分たちが何度も泳いだ原因を別のところへ向けることができなかった。
「お前、最初から無理だってわかってたんじゃないのか」
二年生の部員が松永へ言った。先程、松永を地上に引き上げた部員だった。
「……たぶん、十本は無理だったと思います」
上級生へ向ける声は、か細く震えていた。
「だったら、先に言えよ。全員巻き込んで倒れられても困るんだよ」
「すみません」
「謝るくらいなら、次からちゃんと考えろ」
松永は言葉なく頷いた。
無理だと言えば、始める前から逃げるなと責められただろう。黙って泳げば、できないとわかっていたのになぜ言わなかったと責められる。どちらを選んでも、松永の方が間違っていることになる。
そのことに、航平はまだ気づかなかった。
片づけが始まると、松永も立ち上がった。足元は覚束なかったが、ほかの一年生と一緒にプールサイドへ残り、ビート板を重ね、コースロープを器具庫まで運んだ。上級生たちは先に更衣室へ戻り、追加練習を終えられなかったことについて話していた。
松永は最後まで何も言わなかった。
帰るときも、いつもどおり上級生へ頭を下げた。ただ、航平が隣へ並んでも、以前のように今日の泳ぎについて尋ねることはなかった。
翌日も松永は練習へ来た。誰よりも早くプールへ入り、昨日使った道具の数を確かめていた。だが練習が始まると、設定タイムを外さないことばかりを気にして、初めの一本から速度を上げた。後半にはまた大きく遅れ、先輩から昨日のことを忘れたのかと言われた。
松永は、忘れていなかった。忘れているわけがないのだ。忘れられないからこそ、以前よりも泳げなくなっていた。
片づけが終わる頃には、日は校舎の向こうへ傾き、屋外プールの半分が建物の影に入っていた。上級生たちは先に更衣室へ戻り、航平たち一年生は、器具庫の鍵を施錠してから部室へ向かった。
松永の姿がないことに気づいたのは、着替えを始めてからだった。
「松永、まだプールにいるのか」
誰かが言ったが、確かめに戻ろうとする者はいなかった。あれだけ泳げなくなったのだから、ベンチで休んでいるのだろうと片づけられた。航平も濡れた水着を脱ぎ、タオルで髪を拭いていたが、床に置かれたままの松永の鞄が目に入り、着替えの手を止めた。
プールサイドにはいなかった。器具庫にも、室内プールへ続く通路にも姿はない。航平が部室の脇を回ると、裏手にある狭い通路から、押し殺したような息遣いが聞こえた。
松永は、建物の壁に背中をつけて座り込んでいた。膝を抱え、そこへ顔を伏せている。濡れた髪から落ちた水が首筋を伝い、まだ水着のままの身体には、タオルさえ掛かっていなかった。
航平が近づいても、松永は顔を上げなかった。
「こんなところでなにしてんだよ」
返事はなかった。松永の肩が細かく揺れていた。声を立てないようにしているらしく、息を吸うたびに喉の奥で音が詰まる。練習中にどれだけ苦しくなっても表情を崩さず、上級生から責められてもただ謝っていた松永が、誰にも見つからない場所を選んで泣いていた。
泳げなかったことが悔しいのだと思った。全員の練習を止めたことを申し訳なく感じているのかもしれない。そうであれば、次に頑張ればいいと伝えることもできた。
だが、口にしようとすると、どの言葉もかけるべきものではないと思った。
「……みんな、もう着替えてるぞ」
結局、航平が言えたのはそれだけだった。松永は膝へ顔を伏せたまま、小さく頷いた。
「先に帰ってて」
同級生へ話すいつもの穏やかな口調だったが、言葉の最後で息が途切れた。
「風邪ひくぞ」
「うん。あとで行く」
航平はしばらくその場に立っていたが、松永が顔を上げる様子はなかった。そばへ座ることも、今日の練習について謝ることもできず、部室へ戻った。
松永が来たのは、ほかの部員がほとんど帰ったあとだった。目元は水で洗ったのか赤みが薄れており、泣いていたことを誰かに気づかれても、塩素のせいだと誤魔化せる程度にはなっていた。
その後も松永は練習へ来た。上級生になぜタイム内に泳げないのかを尋ねられると、体力が足りませんでしたと答えた。堀から、今度は周りへ迷惑をかけるなと言われても、反論はしなかった。
ただ、以前のように航平へ泳ぎを見てほしいとは頼まなくなった。
練習表が貼り出されると、松永は自分が設定時間を守れる内容かどうかを何度も確かめた。タイムが落ちれば上級生に注意され、その次の一本ではさらに無理をした。
やがて松永は部活を休むようになった。
連絡は体調不良となっていた。部室へ鞄を置いたあと、腹が痛いと言って帰る日もあった。
学校自体を休むことはなかった。休み時間に友人と話し、体育の授業にも参加していたため、他の部員たちは仮病だと決めつけた。
「水泳部に来るときだけ具合が悪くなるんだな」
松永はそう言われても、曖昧に笑うだけだった。
「まだ、この前のこと気にしてるのか」と、航平が理由を聞いたこともある。
「気にしてないよ」
「じゃあ、なんで来ないんだよ」
「ちょっと疲れてるだけ」
松永はそれ以上話さなかった。困ったように眉を八の字に曲げ、淡々と話す仕草も変わらなかった。
航平も、無理に理由を聞き出すことはしなかった。しばらく休めば戻ってくると思っていたし、戻る気があるなら、自分から話すだろうと考えた。
だが、松永が部室へ来る回数は減っていった。以前のような失敗はほとんどなくなった一方で、松永が楽しそうに泳ぐこともなくなった。練習が終われば、質問もせずに片づけを済ませ、上級生へ挨拶をして帰った。
七月が終わる前に、松永の母親から学校へ連絡が入った。
息子が朝になると食事を摂れなくなり、夜も眠れていない。学校へは普通に行けるのに、部活に参加しなければならないと思うと吐き気を訴える。理由を聞いても、松永は自分の体力が足りないだけだと答え続けていたらしい。
母親が何日もかけて話を聞き、ようやく、追加練習の日に起きたことだけでなく、入部してから続いていた部内の決まりなども心労の原因になっているかもしれないと言ったそうだ。
下級生だけに課される準備と片づけ。上級生より速くても前を泳げないコース内の序列。誰か一人の失敗を理由に、全員へ追加される練習。体調や競技経験の差を無視し、できない者の気持ちが弱いとして扱う指導。
学校は最初、部内の上下関係として済ませようとしたが、一年生への聞き取りが始まると、それは松永だけに留まらないことがわかった。上級生の指示で練習予定にない距離を泳がされた者や、体調不良を訴えてもプールから上がらせてもらえなかった者もいた。過去の部員にも確認が行われ、おなじやり方が何年も続いていたことが明らかになった。
顧問は、自分が追加練習を命じた事実はないと説明した。上級生たちへ自主性を持たせるため、練習中の指導を任せていただけだと言った。
水泳部はしばらく活動停止になった。
三年生の全員は、学校から一方的に悪者へされたと反発して退部した。二年生も、保護者から続けることを止められた者や、調査の対象になることを嫌って部を離れた者がいた。競泳は校外のクラブで続けると決め、水泳部だけを辞める者もいた。
松永も退部届を出した。活動が再開されたとき、水泳部に残っていたのは、航平を含む一年生四人だけだった。
以前は全部のコースを使っていた屋外プールも、四人では一つあれば足りた。部室には退部した上級生が使っていたロッカーが並び、器具庫には使われなくなった道具が残された。部の名前も、大会記録も、二つのプールも以前と変わらないまま、そこにいる人間だけがいなくなった。
それでも航平は辞めなかった。自分まで離れれば、水泳部そのものがなくなるように思えた。松永へ言ったことを忘れたわけではない。それでも、これまでの練習や、先輩たちが残した記録まで、すべて間違いだったことにして捨てることはできなかった。
水泳部には戻らなかった松永は、のちに野球部へ入った。
二年生になった春、航平と松永はおなじクラスになった。松永は放課後になると校庭へ向かい、失敗すれば仲間にからかわれ、言い返しながら笑っている。水泳部にいた頃より楽しそうにしていることは、航平にもわかった。
航平は、松永が安心して活動できる場所を見つけたことに安心してよいのかわからなかった。いま楽しく過ごしているからといって、あの日のことがなくなるわけではない。だからといって、松永をいつまでも水泳部の被害者として見るのも違うように思えた。
水泳部には、かつて松永透という、航平の同級生がいた。彼に競泳の経験はなく、初めのうちはクロールで二十五メートルを泳ぐだけでも、息継ぎのたびに身体が大きく傾いた。それでも練習を休むことはなく、誰よりも早くプールへ来て、上級生の指示を聞きながらコースロープを張った。全体練習が終わったあとも、許可を得て室内プールへ残り、壁を蹴ってはおなじ動作を繰り返していた。
「航平、いまの、前よりましだった?」
泳ぎ終えた松永が、ゴーグルを額へ上げて尋ねることがあった。
「まだ息継ぎで顔が上がってる。水を横に見るくらいでいいんだよ」
「横か。わかった。もう一本見てて」
松永は注意されたことに腹を立てず、泳ぎ直した。上級生から動きが遅いと叱られても、申し訳なさそうにうつむき、次から気をつけると答えた。航平は、競泳を始めたばかりにしては熱心なやつだと思っていた。
蒼岳高校水泳部には、練習方法とは別に、下級生が覚えなければならない決まりがいくつもあった。
上級生より先に更衣室を使わない。練習前の準備と練習後の片づけは一年生が行う。先輩が使用した道具が残されていれば、頼まれなくても器具庫へ戻す。コース内の順番は学年を優先し、前を泳ぐ上級生へ追いついても、自分から交代を求めてはならない。
航平は、そういうものだと受け入れていた。誰から教えられたのかもわからない決まりであっても、従っていれば余計な注意を受けずに済む。上級生たちも一年生だった頃には同じことをしてきたのだから、自分たちだけが不当に扱われているわけではないと思えた。
松永も正面から反抗することはなかった。
ただ、ときどき、誰に聞かせるでもない調子で疑問を口にした。
「先輩が使ったビート板も、僕たちが数えとくんだっけ」
「そう。足りなかったら一年の責任になるから」
「使った人が戻せば、足りなくならないのにな」
松永はそれだけ言うと、ビート板を一枚ずつ数え直した。声には怒りも不満もなく、変わった決まりだと思ったことを、そのまま口にしているだけだった。
梅雨に入る前、器具庫にあるはずのプルブイが一つ足りず、一年生全員が上級生の前へ並ばされたことがあった。前日に使用したのは二年生だったが、三年生の主将は、道具の管理まで含めて下級生の仕事だと言った。
航平たちは謝った。松永も頭を下げたが、練習へ向かう途中で航平の隣へ並び、声を落とした。
「僕たち、昨日は室内プールだったよね」
「いま言っても話が長くなるだけだろ」
「うん。そうだな」
松永は納得したというより、それ以上話しても仕方がないと判断したようだった。
その頃から、練習後に航平へ泳ぎを見てほしいと頼むことが減った。自主練習をやめたわけではない。全体練習が終わったあとも水へ残っていたが、以前のように誰かへ質問をせず、一人でおなじ距離を往復していた。
六月になると、松永は練習開始よりもかなり早く来るようになった。
熱心になったのだと航平は最初に思った。だが松永は泳ぐためではなく、誰にも不備を指摘されないよう、準備を何度も確かめていたのだ。コースロープの固定具を締め直し、ビート板の枚数を数え、器具庫の鍵が所定の場所にあるかを確認する。一度終えた作業へ戻り、ほんとうに間違いがないかを見直していることもあった。
「それ、さっき数えてなかったか」
航平が尋ねると、松永は重ねたプルブイから手を離した。
「数えた。たぶん合ってる」
「じゃあ、もういいだろ」
「足りないって言われたら、また全員で謝ることになるから」
松永はそう言って笑ったが、そこに以前のような気軽さはなかった。
練習中にも変化が表れた。設定タイムに届かなかったとき、松永は言い訳をしなかった。遅れた理由を聞かれても、自分が遅かったとだけ答え、次の一本では最初から速度を上げた。そのため後半になるほど泳ぎが崩れ、さらにタイムを落とす。注意を受ければ素直に頷き、休憩中も壁につかまったまま時計を見ていた。
航平は、松永が疲れていることには気づいていた。ただ、競泳を始めたばかりなのだから、自分たちより疲れるのは当然だとも思った。ここを越えれば身体が慣れる。いま手を抜かせるより、最後までついてこさせるほうが松永のためになると考えていた。
昨年の七月、大会を目前に控えた練習で、リレーメンバーの二年生が設定タイムを続けて外した。当時の顧問は部員全体の気持ちが緩んでいると憤慨し、練習に対する姿勢を自分たちで考え直しておけと命じて、メニューが終わる前に職員室へ戻った。
顧問がいなくなると、主将だった三年生の堀が、百メートルを十本追加すると決めた。
一人でも一分二十秒を切れなければ、その一本は全員でやり直す。全員のタイムが揃うまで、十本を終えたことにはしない。堀たちも下級生の頃に受けた練習であり、蒼岳高校の強さを支えてきた方法なのだと説明された。
航平たちは、言われたとおりコースへ入った。松永も拒まなかった。自分には設定が厳しすぎるとも言わず、いつもどおりゴーグルをつけ、航平の後ろへ並んだ。
「順番、僕が最後でいい?」
出発前、松永が尋ねてきた。
「なんで」
「後ろにいたほうが、みんなの邪魔にならないから」
自信がないとも、泳ぎたくないとも言わない。ただ、自分が遅れることをはじめから計算に入れていた。
最初の一本で、松永は設定タイムを外した。
全員が壁へ戻され、もう一度一本目から泳いだ。そのとき、二本目までは間に合ったが、三本目で再び遅れた。松永が壁へ着くたび、堀がタイムを読み上げる。息を切らした部員たちはなにも言わず、次の出発を待ちながら松永を見た。
松永は謝らなかった。謝って済むことではないと思ったのか、それとも謝る余裕も残っていなかったのか、航平にはわからなかった。壁へ触れるとすぐに時計を見上げ、呼吸が整わないうちに、次の出発へ備えて足を壁へつけた。
三度目のやり直しに入る頃には、松永の泳ぎは目に見えて崩れていた。息継ぎのたびに腰が沈み、腕を水へ戻す位置も定まらない。壁を蹴った直後だけは他の部員についていけても、二十五メートルを過ぎる頃には大きく引き離された。
それでも松永は、もう泳げないとは言わなかった。
壁へ着くたびにゴーグルの中へ入った水を抜き、次の出発時刻を確かめた。堀から気持ちで負けるなと言われれば、いつもと変わらない穏やかな声で返事をし、呼吸が整わないまま足を壁へつけた。
何度目かの一本で、松永は折り返しの壁まで届かなかった。
残り十メートルほどのところで腕の動きが止まり、身体がコースロープの方へ流れた。ロープにつかまって顔を上げたものの、すぐに泳ぎ直すことはできなかった。後ろから来た部員は松永を避けて進み、壁へ着くと、振り返って様子を見た。
「松永、止まるな!」
堀の声がプールサイドから飛んだ。
松永は返事をする代わりにロープから手を離し、再び腕を動かした。だが数メートル進んだだけで身体が傾き、今度は隣のロープへ肩を預けた。水面へ上げた顔は赤く、息を吸おうとするたびに喉の奥から細い音が漏れていた。
「もういい。上がれ」
堀は苛立ったように言った。心配して練習から外したというより、これ以上待っても設定タイムを揃えられないと判断したのだろう。近くにいた二年生がはしごを指し、松永はそこまでロープを伝って進んだ。足を一段目へ掛けても身体を持ち上げられず、上級生に腕を引かれてようやくプールサイドへ上がった。
松永はその場に膝をつき、両手を床へ置いた。背中が呼吸に合わせて大きく上下し、顎から落ちた水が足元へ溜まっていく。誰かがタオルを渡すことも、水を持ってくることもなかった。
「松永抜きで、残りをやりますか」
二年生のひとりが堀へ尋ねた。堀は時計を見たあと、首を横に振った。
「もう時間がない。今日は終わりだ」
その言葉に安堵したような息が、いくつかのコースから聞こえた。
部員たちは順番に水から上がった。松永のそばを通るとき、露骨に責める者はいなかったが、声をかける者もいない。何度もやり直した疲労が残っているためか、普段より荒い手つきでゴーグルを外し、タオルや飲み物を取りに向かっていった。
「結局、一本目から揃わなかったな」
「これなら普通のメニューで終わったほうがましだっただろ」
誰に向けたともつかない声が聞こえた。
松永は顔を上げなかった。呼吸が落ち着き始めると、ゆっくりと身体を起こし、壁際まで移動して座った。具合を尋ねられる前に、大丈夫だと言うつもりだったのかもしれない。だが、誰も尋ねなかったため、その言葉を口にする必要もなかった。
航平は自分の飲み物を手にしたまま、松永から離れた場所に立っていた。
あれ以上泳がせれば危なかったとは思う。松永が途中で止まったことを責めるべきではないとも、頭ではわかっていた。それでも、腕や肩に残った痛みを意識すると、自分たちが何度も泳いだ原因を別のところへ向けることができなかった。
「お前、最初から無理だってわかってたんじゃないのか」
二年生の部員が松永へ言った。先程、松永を地上に引き上げた部員だった。
「……たぶん、十本は無理だったと思います」
上級生へ向ける声は、か細く震えていた。
「だったら、先に言えよ。全員巻き込んで倒れられても困るんだよ」
「すみません」
「謝るくらいなら、次からちゃんと考えろ」
松永は言葉なく頷いた。
無理だと言えば、始める前から逃げるなと責められただろう。黙って泳げば、できないとわかっていたのになぜ言わなかったと責められる。どちらを選んでも、松永の方が間違っていることになる。
そのことに、航平はまだ気づかなかった。
片づけが始まると、松永も立ち上がった。足元は覚束なかったが、ほかの一年生と一緒にプールサイドへ残り、ビート板を重ね、コースロープを器具庫まで運んだ。上級生たちは先に更衣室へ戻り、追加練習を終えられなかったことについて話していた。
松永は最後まで何も言わなかった。
帰るときも、いつもどおり上級生へ頭を下げた。ただ、航平が隣へ並んでも、以前のように今日の泳ぎについて尋ねることはなかった。
翌日も松永は練習へ来た。誰よりも早くプールへ入り、昨日使った道具の数を確かめていた。だが練習が始まると、設定タイムを外さないことばかりを気にして、初めの一本から速度を上げた。後半にはまた大きく遅れ、先輩から昨日のことを忘れたのかと言われた。
松永は、忘れていなかった。忘れているわけがないのだ。忘れられないからこそ、以前よりも泳げなくなっていた。
片づけが終わる頃には、日は校舎の向こうへ傾き、屋外プールの半分が建物の影に入っていた。上級生たちは先に更衣室へ戻り、航平たち一年生は、器具庫の鍵を施錠してから部室へ向かった。
松永の姿がないことに気づいたのは、着替えを始めてからだった。
「松永、まだプールにいるのか」
誰かが言ったが、確かめに戻ろうとする者はいなかった。あれだけ泳げなくなったのだから、ベンチで休んでいるのだろうと片づけられた。航平も濡れた水着を脱ぎ、タオルで髪を拭いていたが、床に置かれたままの松永の鞄が目に入り、着替えの手を止めた。
プールサイドにはいなかった。器具庫にも、室内プールへ続く通路にも姿はない。航平が部室の脇を回ると、裏手にある狭い通路から、押し殺したような息遣いが聞こえた。
松永は、建物の壁に背中をつけて座り込んでいた。膝を抱え、そこへ顔を伏せている。濡れた髪から落ちた水が首筋を伝い、まだ水着のままの身体には、タオルさえ掛かっていなかった。
航平が近づいても、松永は顔を上げなかった。
「こんなところでなにしてんだよ」
返事はなかった。松永の肩が細かく揺れていた。声を立てないようにしているらしく、息を吸うたびに喉の奥で音が詰まる。練習中にどれだけ苦しくなっても表情を崩さず、上級生から責められてもただ謝っていた松永が、誰にも見つからない場所を選んで泣いていた。
泳げなかったことが悔しいのだと思った。全員の練習を止めたことを申し訳なく感じているのかもしれない。そうであれば、次に頑張ればいいと伝えることもできた。
だが、口にしようとすると、どの言葉もかけるべきものではないと思った。
「……みんな、もう着替えてるぞ」
結局、航平が言えたのはそれだけだった。松永は膝へ顔を伏せたまま、小さく頷いた。
「先に帰ってて」
同級生へ話すいつもの穏やかな口調だったが、言葉の最後で息が途切れた。
「風邪ひくぞ」
「うん。あとで行く」
航平はしばらくその場に立っていたが、松永が顔を上げる様子はなかった。そばへ座ることも、今日の練習について謝ることもできず、部室へ戻った。
松永が来たのは、ほかの部員がほとんど帰ったあとだった。目元は水で洗ったのか赤みが薄れており、泣いていたことを誰かに気づかれても、塩素のせいだと誤魔化せる程度にはなっていた。
その後も松永は練習へ来た。上級生になぜタイム内に泳げないのかを尋ねられると、体力が足りませんでしたと答えた。堀から、今度は周りへ迷惑をかけるなと言われても、反論はしなかった。
ただ、以前のように航平へ泳ぎを見てほしいとは頼まなくなった。
練習表が貼り出されると、松永は自分が設定時間を守れる内容かどうかを何度も確かめた。タイムが落ちれば上級生に注意され、その次の一本ではさらに無理をした。
やがて松永は部活を休むようになった。
連絡は体調不良となっていた。部室へ鞄を置いたあと、腹が痛いと言って帰る日もあった。
学校自体を休むことはなかった。休み時間に友人と話し、体育の授業にも参加していたため、他の部員たちは仮病だと決めつけた。
「水泳部に来るときだけ具合が悪くなるんだな」
松永はそう言われても、曖昧に笑うだけだった。
「まだ、この前のこと気にしてるのか」と、航平が理由を聞いたこともある。
「気にしてないよ」
「じゃあ、なんで来ないんだよ」
「ちょっと疲れてるだけ」
松永はそれ以上話さなかった。困ったように眉を八の字に曲げ、淡々と話す仕草も変わらなかった。
航平も、無理に理由を聞き出すことはしなかった。しばらく休めば戻ってくると思っていたし、戻る気があるなら、自分から話すだろうと考えた。
だが、松永が部室へ来る回数は減っていった。以前のような失敗はほとんどなくなった一方で、松永が楽しそうに泳ぐこともなくなった。練習が終われば、質問もせずに片づけを済ませ、上級生へ挨拶をして帰った。
七月が終わる前に、松永の母親から学校へ連絡が入った。
息子が朝になると食事を摂れなくなり、夜も眠れていない。学校へは普通に行けるのに、部活に参加しなければならないと思うと吐き気を訴える。理由を聞いても、松永は自分の体力が足りないだけだと答え続けていたらしい。
母親が何日もかけて話を聞き、ようやく、追加練習の日に起きたことだけでなく、入部してから続いていた部内の決まりなども心労の原因になっているかもしれないと言ったそうだ。
下級生だけに課される準備と片づけ。上級生より速くても前を泳げないコース内の序列。誰か一人の失敗を理由に、全員へ追加される練習。体調や競技経験の差を無視し、できない者の気持ちが弱いとして扱う指導。
学校は最初、部内の上下関係として済ませようとしたが、一年生への聞き取りが始まると、それは松永だけに留まらないことがわかった。上級生の指示で練習予定にない距離を泳がされた者や、体調不良を訴えてもプールから上がらせてもらえなかった者もいた。過去の部員にも確認が行われ、おなじやり方が何年も続いていたことが明らかになった。
顧問は、自分が追加練習を命じた事実はないと説明した。上級生たちへ自主性を持たせるため、練習中の指導を任せていただけだと言った。
水泳部はしばらく活動停止になった。
三年生の全員は、学校から一方的に悪者へされたと反発して退部した。二年生も、保護者から続けることを止められた者や、調査の対象になることを嫌って部を離れた者がいた。競泳は校外のクラブで続けると決め、水泳部だけを辞める者もいた。
松永も退部届を出した。活動が再開されたとき、水泳部に残っていたのは、航平を含む一年生四人だけだった。
以前は全部のコースを使っていた屋外プールも、四人では一つあれば足りた。部室には退部した上級生が使っていたロッカーが並び、器具庫には使われなくなった道具が残された。部の名前も、大会記録も、二つのプールも以前と変わらないまま、そこにいる人間だけがいなくなった。
それでも航平は辞めなかった。自分まで離れれば、水泳部そのものがなくなるように思えた。松永へ言ったことを忘れたわけではない。それでも、これまでの練習や、先輩たちが残した記録まで、すべて間違いだったことにして捨てることはできなかった。
水泳部には戻らなかった松永は、のちに野球部へ入った。
二年生になった春、航平と松永はおなじクラスになった。松永は放課後になると校庭へ向かい、失敗すれば仲間にからかわれ、言い返しながら笑っている。水泳部にいた頃より楽しそうにしていることは、航平にもわかった。
航平は、松永が安心して活動できる場所を見つけたことに安心してよいのかわからなかった。いま楽しく過ごしているからといって、あの日のことがなくなるわけではない。だからといって、松永をいつまでも水泳部の被害者として見るのも違うように思えた。

