テセウスの教室




 部活の顧問が自分の担任までしているというのは、一日中おなじ教師に生活を見られているような気がして落ち着かないことがある。
 朝は教卓から顔色を確かめられ、放課後になればプールサイドから泳ぎを見られる。教室を出れば教師と生徒の関係もいったん終わるという、ほかの部員には大抵ある区切りが、藤代航平にはなかった。

 七月に入り、蒼岳高校水泳部は一年で最も慌ただしい時期を迎えていた。学校の敷地内には、大会とおなじ規格の屋外五十メートルプールがあり、さらに体育館棟には室内二十五メートルプールも備えられている。公立高校としては珍しい設備で、かつて全国大会へ何人もの選手を送り込んだ水泳部のために整えられたものだった。
 晴れた日は屋外で長い距離を泳ぎ、飛び込みやターンの反復には室内プールを使う。大会を目前に控えたいまは、ふたつのプールを行き来しながら、練習が組まれていた。
 その練習を取り仕切る猪田悠真は、この春に水泳部の顧問となったばかりだった。
 猪田が来る前にも、水泳部には練習の手順があった。何時に集合し、誰がコースロープを張り、どの順番でプールへ入り、何本を何秒以内で泳ぐのか。長年積み重ねられてきた決まりは、部員が疑問を挟む余地がないほど細かく定められていた。
 航平も、一年生の頃はそれに従った。決められた本数を泳ぎ切れずにプールの縁へ手をかければ、先輩から指を踏まれた。吐き気を訴えた部員が、甘えるなと水へ戻されたこともある。それでも、強くなるためには必要なことなのだと思っていた。実際、そのやり方で結果を残してきた選手が何人もいたからだ。
 猪田は、その慣習を次々と変えた。
 体調の申告を練習前に必ず行わせ、途中で異変があれば本人が続けると言ってもプールから上げた。先輩が後輩へ勝手に追加のメニューを課すことを禁じ、水分補給のために練習を止める時間まで設けた。屋外の気温や水温が基準を外れれば、五十メートルプールが使える状態でも室内へ移動させた。
 どれも間違った変更ではない。悪しき伝統を根本から変えたといえば、聞こえはいいだろう。
 だからこそ、航平は反対できなかった。
 だが、猪田のやり方を受け入れれば、自分たちが耐えてきた時間を、最初から無意味だったと切り捨てるように思えた。

 朝のホームルームを終えた猪田は、持っていたバインダーの中から一枚の用紙を取り出した。
「藤代、あとでこれを書いてくれ」
 呼ばれた航平が教卓まで行くと、夏休みに行われる中学生向けの学校説明会で配布する、部活動紹介の原稿を渡された。部員数や活動日、主な大会成績を記入する欄が並び、一番上には、すでに見出しが印刷されている。

 ——伝統を受け継ぐ、蒼岳高校水泳部。

 説明会の当日には、希望する中学生を対象に部活動体験も行われる。水泳部も屋内外両方のプールを開放し、猪田と部員数名が練習の様子を見せることになっていた。
 航平は、用紙の見出しをしばらく眺めた。
「これ、見出しの文を変えてもいいですか」
「学校説明会の担当者が決めたものだから、先生だけでは判断出来ないな。変えたい理由があるのか?」
 猪田は、航平が話しはじめるのを待っていた。教室で生徒の返事を待つときも、プールサイドで体調を聞くときも、猪田は変わらず、おなじ対応をしてくる。
中学生たちへいまの水泳部をどう見せるかまで、担任と一緒に考えなければならないらしいと思うと、航平はフンと鼻で笑いたくなった。
「べつに。なんとなくです」
 用紙を受け取り、自分の席へ戻る。
 伝統を受け継ぐと書くのなら、猪田が廃止した練習方法も、辞めていった先輩も、かつていびられていた部員の存在も、すべて現在の水泳部へつながっているはずだった。
 だが学校は、大会の記録や充実した設備について語るときには過去の栄光を持ち出し、以前の指導内容については、すでに終わった体制の問題として扱っている。都合のいい部分だけを中学生に見せ、それを伝統と呼ぶ紹介文を、旧水泳部から残った航平に書かせようとしているのだ。

 その日の放課後、航平が屋外プールへ着いたときには、すでに一年生たちが器具庫からコースロープを引き出しているところだった。照り返しの強いプールサイドを、青と白の浮きが連なった長いロープが這っている。水面にはまだ誰も入っておらず、風に押された細かな波が、底に引かれた黒いラインを揺らしていた。
 蒼岳高校の屋外プールは八コースある。観客席こそないものの、スタート台や背泳ぎ用のフラッグまで公式戦に近い設備が揃っているのは、部活紹介の大きなネタになるだろう。
 航平は更衣室で水着に着替え、朝から鞄へ入れたままだった原稿を取り出してベンチの下へ押し込んだ。制服を脱いでも、印刷されている見出しが頭から消えたわけではない。
「藤代先輩! 今日は三コースまででいいんですよね!」
 ロープの端を持った一年生部員の倉田が、プールの反対側から声を張ってきた。
「四コースまで張っとけ!」
「え、でも今日、短距離組は室内じゃないんですか!」
「それでも使うかもしれない。先に準備しておけば困らないだろ!」
 倉田はそれ以上聞いてこずに、そばにいた一年生と二人で四本目のロープを運びはじめた。長いロープは、片方を水へ落としただけでは真っすぐに張れない。向かい側まで泳いで端を渡し、巻き取り機へ固定したあと、浮きの間隔が偏っていないかを確かめる必要がある。
 航平が一年生だった頃は、上級生が更衣室から出てくるまでに、コースロープもビート板もプルブイも、すべて準備しておくことになっていた。使用するかどうかは関係なく、準備が足りなければ下級生の落ち度とされた。
 航平はスタート台のあいだを歩き、ロープの張り具合を確かめた。緩ければ泳いでいる途中で身体へ絡む。張りすぎれば固定部分が外れて事故につながるかもしれない。倉田が結んだ三コース目だけ浮きが中央へ寄っていたので、航平は無言で巻き取り機を回して直した。

 部員が揃う頃、猪田が姿を現した。黒い膝丈の水着を穿き、首から笛とストップウォッチを下げている。手にしているバインダーには、印刷された練習メニューと、各部員の設定タイムを書き込むための紙が挟まれていた。
 学生時代に猪田がやっていたスポーツはバドミントンであり、競泳ではない。顧問になってから水泳の指導法を学びはじめ、外部の講習にも参加しているらしいが、部員の泳ぎを見ただけで、腕の入水角度やキックの乱れのすべてを見抜けるわけではなかった。
 部活中に水着を履くのも、泳ぎを教えるためというより、自分も水へ入るためだった。練習の前後や空いたコースで、部員に混じって何本か泳ぐ。体力はあるので長く泳ぎ続けることはできるが、如何せん力に頼った泳ぎ方をするため、上半身ばかりが先へ進み、腰から下が沈みやすい。一年生から姿勢を指摘されても腹を立てず、むしろどうすれば直るのかを聞いている。
 その姿を見て、親しみやすい先生だと喜んでいる部員もいたが、航平には、自分が知らないことを素直に認められるところまで、猪田の計算された振る舞いのように思えてならなかった。
「全員、集まれ。先にメニューを説明するぞ」
 猪田が笛を短く鳴らし、部員をホワイトボードの前へ集めた。
 今日の練習は、八百メートルのウォーミングアップから始まる。クロールを中心に四百メートル泳いだあと、キックとプルを二百メートルずつ。その後は五十メートルを八本、前半の四本で泳ぎを整え、後半は一本ごとにタイムを上げる。メインは百メートルを十本。航平たちは一本一分三十秒の間隔で出発し、五本目と十本目だけ大会で目標にしているペースまで上げるよう指示された。
 以前の練習では、全員がおなじ本数を泳ぐことが多かった。短距離の選手も長距離の選手も、上級生が決めた距離を、終わるまで繰り返す。逆に猪田は種目や現在のタイムに応じて部員を分け、それぞれの泳ぐ本数と休憩時間を変えた。
 猪田は顧問であり、練習の方法を決める側にいる。その一方で、水へ入れば航平たちより泳げない者のひとりにもなる。
 なにも知らない人間に、水泳部を変えられたくない。
 航平はそう思っていた。だが、猪田は競泳の経験がないからこそ、これまでの決まりを当然のものとして受け入れず、必要だと思えば、平気で変革を起こすのかもしれない。

 練習が終わると、航平は一年生たちへ片づけの役割を振った。倉田ともうひとりにはコースロープを外すように言い、残りの一年生には、プールサイドに出したビート板やプルブイを室内プール脇の器具庫まで運ばせる。自分は猪田がつけていたタイムを確認し、練習日誌へ書き写すつもりだった。
 航平が一年生だった頃、練習後の片づけを上級生が手伝うことはほとんどなかった。泳ぎ終えた三年生から更衣室へ入り、二年生も遅れてそれに続く。コースロープを巻き取り、道具を洗い、プールサイドに残った水を掃くのは、一年生の役目だった。片づけに手間取れば、要領が悪いと叱られる。先輩が戻ってきて手順を教えてくれるわけではないため、下級生同士で相談し、翌日からはおなじ失敗をしないように動き方を覚えた。
 航平は、それを理不尽な決まりだとは思っていなかった。毎日使う器具の場所や、濡れたコースロープをどう持てば運びやすいかは、実際に何度も片づけるうちに身についた。誰かに細かく指示をされなくとも、練習が終われば必要な仕事を見つけて動く。その習慣を下級生のうちにつけるためにも、上級生が先回りして手を出すべきではないと考えていた。
「倉田、二コース目から外せ。巻き取り機が引っかかるから、一気に引っ張るなよ」
「はい」
 倉田たちがロープの固定具へ向かうのを見届け、航平はストップウォッチの置かれたベンチへ歩き出した。
 その横を、黒い水着姿の猪田が通り過ぎた。
 猪田は航平へなにも言わず、倉田たちが向かっているのとは反対側の端へ回ると、コースロープの金具を外した。プールの中へ垂れた部分を両手で引き上げ、濡れた浮きを一つずつプールサイドへ載せていく。水を含んだロープは重く、引くたびに猪田の足元へ水が広がった。
「先生、そこは一年にやらせますから」
 航平が声をかけると、猪田は作業を続けたまま顔を上げた。
「手が空いたやつがやるほうが早いだろ」
「そういう話じゃなくて、片づけも練習のうちなんで」
「なら先生がやっても問題ないな」
 猪田はそれだけ答え、再びロープを引き上げた。ふざけているような口調ではなかった。航平の考えを否定したわけでもなく、自分が片づけに加わることを特別な行為だとも思っていないらしい。
 猪田が一人で長いロープを扱っているのを見て、近くにいた一年生が手を貸した。
たしかに片づけはすぐに進んだ。倉田たちがプールの端まで泳いでロープを受け取りに行く頃には、半分近くが引き上げられている。
 航平はベンチの前に立ったまま、その様子を見ていた。
 早く終わること自体は悪くない。全員で片づければ、一年生も早く更衣室へ戻れる。それでも、猪田が手を出せば、倉田たちは指示された場所へ動くだけになる。自分で全体を見て、次になにをすればいいか考える必要がなくなる。今日の片づけが滞りなく終わっても、来年、倉田が後輩へ仕事を教える立場になったとき、なにも覚えていなければ困るのは本人じゃないのか。
 猪田は、そういうことを一切考えず、ただ部員を楽にすることばかり考えている。
航平にはそう見えた。だが航平が一年生の頃、上級生が先に更衣室へ入ったのは、本当に下級生へ仕事を覚えさせるためだったのかと考えると、すぐには頷けなかった。先輩たちは、自分たちが片づけをしない理由を説明したことなど一度もない。ただ、そういう決まりだから下級生へ任せていただけだった。
「藤代、タイム見るんじゃなかったのか」
 コースロープを抱えた猪田が、こちらへ声をかけた。
「いま見ます」
 航平はベンチに置かれたバインダーを取り、記録された数字を確認した。練習前半は設定どおりだったが、後半になるほど遅れが大きくなっている。目標より二秒以上遅いものが二本あった。
 部室へ戻った航平は、棚から練習日誌を取り出した。黒い表紙の厚い大学ノートで、年度が替わるたびに新しいものが一冊ずつ加えられている。今日の日付と天候、使用したプール、練習内容を記入し、その下へ部員ごとのタイムを書き込んだ。
 猪田が顧問になってから、日誌の書き方も変わった。以前は全員が泳いだ総距離と、練習の中で最も速かった一本のタイムだけが記録されている日が多い。現在は一本ごとの時間や、設定からどれだけ外れたかまで残すようになった。猪田はそれを見ながら、次の練習で本数や出発の間隔を調整している。
 航平は今日のページを書き終えると、数枚前へ戻った。猪田が作ったメニューには、百メートルを十本、一分三十秒の間隔で泳ぐと書かれている。そのさらに前の年度の日誌を棚から出し、昨年の同じ時期のページを開いた。
 そこにも、百メートルを繰り返し泳ぐ練習が記録されていた。ただし本数は十五本で、出発の間隔は全員一律だった。途中でタイムを落としても本数は減らされず、最後まで泳ぎ切った者の名前にだけ丸印がつけられている。
 今年のメニューが、去年までのものとまったく無関係に作られたわけではないことはわかった。泳ぐ距離も目的も似ている。ただ猪田は、部員ごとに設定時間を変え、本数を減らし、一本ごとのタイムを記録させていた。
 航平が以前の練習日誌を読んでいると、部室へ入ってきた猪田が、肩に掛けていたタオルで頭を拭きながら棚の前で足を止めた。
「去年のメニューか」
「参考にしたんですか」
「したものもある。全部イチから考えるより、ここでどんな練習をしてきたのか見たほうがいいからな」
 猪田は航平の手元にある日誌を覗き込んだ。
「じゃあ、前のやり方を否定してるわけじゃないんですか」
「使えるものまで捨てる理由はないだろ」
「でも、本数も休む時間も変えてるじゃないですか」
「去年と部員も違うし、大会までの状態も違う。そのまま使ったら、日誌を見る意味がない」
 猪田は着替えを取るために自分のロッカーへ向かった。航平は開いたままの日誌へ視線を戻した。
 昨年のページには、当時の顧問の字で練習内容が書かれ、その下に航平たちのタイムが並んでいる。今年のページには猪田が組み直したメニューがあり、同じ場所に、今の部員たちの記録が続いていた。ノートが替わっても、棚へ並べられた順番は途切れていない。
 猪田は、以前の水泳部をなくそうとしているのだと思っていた。
 実際は残された記録を読み、使える部分を選んでいる。古いやり方をすべて捨てるのではなく、おなじ形では残さない。それが過去を引き継ぐことなのか、自分に都合のいい部分だけを拾っているのか、航平には判断できなかった。