【短編】百年先へ、春を結ぶ~神狼のご当主様との契約結婚~

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 気温の上昇とともに夏は深まり、迎えた夏祭り当日。
 朝から若永神宮の周囲は慌ただしかった。
 神官たちは祭壇の支度に追われ、女中たちは参拝客へ振る舞う甘酒や水羊羹の準備を進めている。
 詩季も日課の神事と朝餉を終え、袖をまくって手伝いに加わった。

「詩季様、そんな重いものをお運びにならなくても……」
「いえ。意外と力があるので」

 布の束を細い腕で持ち上げて、詩季が運ぶとよろよろと歩みが揺れた。
 女中たちが顔を見合わせて、くすくす笑う。

「だから申し上げたでしょう」
「へ、平気です」
「詩季様は本当に神契の花嫁らしくありませんわ」

 華奢な身体で必死に布の束を運ぶ詩季の後ろ姿を女中たちは誰もが温かく見守る。
 
「詩季様と接すると自然と笑顔になれますね」
「私はこの間、詩季様に着物のほつれを直してもらったわ」
「どんな風に育ったのかしら? 愛らしい子よね」
「幼少期から祖父母に育てられたらしいわよ」
「だから自然と自分に何が出来るか動こうとする習慣が身についているのではって、神官長がおっしゃっていたわ」

 詩季が神契の花嫁として、若永家で迎える初めての夏。
 柔一朗と会話はないままだが、この屋敷で笑うことも増えていた。
 昼を過ぎる頃には、門前町から続く参道は多くの人で賑わい始める。
 色とりどりの提灯に彩られ、祭囃子の音が夏の風に乗って通りを包んでいた。
 行き交う人々の表情にも自然と笑みが浮かび、町全体が祭りの日を待ちわびる熱気に満ちている。
 詩季がここに来た立春の日とはまた違う、夏らしい活気で溢れていた。

「とても賑やかですね」
「毎年、多くの方がお見えになりますから」

 布を運び終え、女中と共に微笑みながら境内を歩く詩季。
 ふっと周囲の空気が一瞬で感化されたのを感じ取る。

「――神狼様だ」

 誰かが小さく呟くと、その声は瞬く間に広がり、人々は次々と頭を下げた。
 参道を歩いていた人々が自然と道を譲り始める。

(柔一朗様だわ……)

 夏の正装に身を包んだ柔一朗が、神官を従えながらゆっくりと歩いてくる。
 参拝客へ軽く会釈を返しながらも、足を止めることはない。
 人々も無理に声を掛けようとはせず、ただ静かにその姿を見送っていた。
 
「なんて素敵なのかしら……」

 詩季の近くにいた女性たちが陶然と柔一朗に視線を奪われている。
 畏れられ、敬われ、憧れられる――神狼と呼ばれる柔一朗。
 その異名がこれほど似合う男は他にいないのだろう。
 その姿は、初めて見た日の印象と少しも変わらなった。
 ――例え、一年限りの夫婦になったとしても。

(やっぱり柔一朗様は遠い人だ……)

 詩季がそう思った、その時だった。

「かか様、こっちこっちー!」

 子どもの声が響く。
 幼い男の子が人混みを縫うように駆けだしていく。
 後ろから母親らしき女性が慌てた様子で追いかけていた。

「こらっ。待ちなさい!」
「やだよーっだ」

 男の子が夢中で駆け抜けた先には――柔一朗の姿があった。

「うわっ!!」

 柔一朗にぶつかった男の子は勢い余って尻もちをつき、手にしていた風車が石畳の上へと転がった。
 境内に緊張感が走る。
 皆が息を呑んだ。

「も……申し訳ございません!」

 母親は血相を変えて、男の子に駆け寄り抱き起した。

「柔一朗様、この子がたいへんなご無礼を……。本当に申し訳ございません」

 頭を下げたまま戻さず、母親の方はずっと震え続けている。
 男の子もただならぬ事態を察したのか不安そうに柔一朗を見上げていた。

(……大丈夫かしら?)

 詩季も胸の辺りが騒ぎながら様子を見守っていた。
 柔一朗の美貌は表情を変えず、代わりに軽く息を吐く。

「――怪我は?」

 柔一朗に尋ねられ、母親は戸惑いに満ちた顔を上げる。
 母親は驚いて声を出せないようだったが、男の子は小さく首を横に振った。

「だいじょうぶ。痛くないよ」
「――それならいい」

 柔一朗は石畳へと転がった風車を拾い上げ、男の子の前へとしゃがみ込んだ。

「――落とした」
「あ……」

 男の子はおずおずとしながらも両手で風車を受け取った。

「ありがとうございます。神狼様」

 柔一朗は男の子に向かって軽く頷き、静かに立ち上がった。

「祭りを楽しむのは構わないが、走るな」

 言い聞かせるような落ち着いた声音だった。

「――危ないだろ」
「うん! もう走らない!」

 男の子の返事を聞くと、柔一朗は再び歩みを進める。
 人々は自然と柔一朗に道を開けた。
 だが、明らかに先ほどまでの張り詰めた空気とは違うものが、そこには流れている。
 隣で見ていた女中が先に口を開いた。

「柔一朗様の反応に、皆さまが驚いていらっしゃいますね」

 詩季は遠ざかっていく柔一朗と一行の背中を見つめながら、小さく頷いた。