【短編】百年先へ、春を結ぶ~神狼のご当主様との契約結婚~

 神官長の言葉に本殿の空気が張り詰めた。
 神官長は祭壇へ向き直り、厳かな声で祝詞を奏上した。
 粛々と響く言葉を詩季には理解できなかったが、そのひと声ひと声がご神木へ捧げられているように感じられた。
 やがて祝詞が終わると、神官長は二人へ身体を向けた。

「神契とは、百年に一度、神がお選びになった花嫁と、ご神木を代々守護する若永家当主が結ぶ神聖な契りです」

 まるで自分に説明するように話す神官長にの言葉に耳を傾け続ける。
 未だに詩季は必死に周りへ合わせているだけで、置かれた状況を把握しきれていなかった。

「ご神木へ新たな神力を還すため、柔一朗様と詩季様のお二人には一年を通し夫婦として四季折々の神事をお務めいただきます」
「……え?」

 詩季から思わず漏れた声が、静まり返った本殿に響く。

(柔一朗様と私が夫婦……?)

 確かに”花嫁”という言葉が出てきてはいたが。
 神官長は穏やかな眼差しのまま頷く。

「神契は神前で夫婦の契りを交わすことで初めて成立します」

 詩季は並び立つ柔一朗を見上げる。
 柔一朗は最初から知っているかのように平然と神官長を真っ直ぐ見据えていた。
 
「私は若永家で暮らすということになりますか?」
「さようでございます。一年の神事を終えるまで、お二人には神契の夫婦として、ご神木の神威(しんい)をお支えいただきます」

 神官長は柔らかな声音で答える。
 詩季は顔色こそ変えなかったが、内心ではひどく狼狽していた。
 朝まで祖父母と囲んでいた食卓が、遠ざかっていくようで急に寂しさに襲われる。
 神契の紋が詩季に浮かび上がった事実だけで、自分の人生が大きく変わろうとしていた。
 神官長の合図で神官が祭壇上の白木の盆に載せられていた二つの盃を一礼して手に取る。

「神々の御前にて、お二人には契りをお交わしいただきます」

 神官は柔一朗と詩季の前に進み出る。
 漆黒の盃は柔一朗の前。
 朱色の盃は詩季の前へと差し出される。
 盆の上に載った盃には澄み切ったお神酒が満ち、その水面に祭壇の明かりが淡く写り込んでいた。

(受け取っていいの?)

 これを受け取れば、もう後戻りはできない。
 結婚という一生において数少ない重要な決断を流されるままに交わしていいのか詩季を躊躇わせる。
 詩季がなかなか手を伸ばせないでいると、柔一朗が初めて口を開いた。

「――一つだけ、伝えておく」

 詩季は顔を上げた。
 柔一朗は低く抑揚のない声で言葉を継ぐ。

「一年の神事が終われば、この契約も解かれる」

 柔一朗の落ち着き払った声に、詩季の心も自然と落ち着いた。
 ――一年。
 夫婦として神事を務め、一年で別れる。
 それが神契の花嫁としての務め。
 神官長だけでなく、柔一朗もこの場に顔を揃える神官や巫女たちの誰もが詩季を急かさなかった。
 言葉を重ねたり、強要もしない。
 本殿を渡る風がご神木の枝葉を揺らし、かすかな葉擦れの音だけが響く。

(この先ずっと……というわけではなく期間限定なのね……)

 詩季はゆっくりと息を吐いた。
 驚きがないわけでも、不安が消えたわけでもない。

(それでも……)

 祭壇の奥に見えるご神木を見つめた。
 悠久の時の流れの中で、この国を護り続けているご神木。
 祖父母だけではなく、この国で生まれた誰もが敬意を払う象徴。
 ――神様がお決めになったことなら……。
 ――この国を守るために必要なことであるのなら……。

(きっと意味のある一年になるわ……)

 詩季の迷いはなくなった。

「……一年も、お務めさせていただけるのですね」

 詩季の言葉に神官長は意表をつかれた。
 柔一朗も隣の詩季へと視線を注いだ。

「一年もあれば、たくさんのことを学べます。ご神木のことも神事のことも、こちらの神社のことも……」

 詩季は、はにかみながら微笑む。

「お役に立てるよう精一杯、務めます」

 口を結んで詩季の声を聞いていた神官長はえびす顔を見せた。

「そのように受け止めてくださるとは……」

 神契の儀の記録は、百年を超えて代々神社へ受け継がれてきた。
 神に選ばれし花嫁たちが神前で何を思い、何を口にしたのか。
 その言葉もまた、記録の一つとして残されている。
 突然選ばれたことへの戸惑い。
 若永家での暮らしへの緊張と不安。
 神に選ばれた誉れへの感謝。
 けれど、与えられた一年を嘆くでも恐れるでもなく、まず「自分に何ができるだろう」と考えた花嫁は、これまで一人としていなかった。
 神官長は慈愛に満ちた瞳で一つ頷く。

「では、お二人のご意思を神前へお示しください」

 柔一朗と詩季はそれぞれに差し出された盃を両手に取る。
 詩季の動作はたどたどしかったものの、柔一朗は一切の無駄がなく神事に深く携わってきた者だけが持つ厳かな風格があった。
 柔一朗は詩季を密やかに一瞥する。
 柔一朗の鋭い双眸に宿された瞳には、わずかに思案の色が宿っていた。

「……」

 柔一朗は何も発しない。
 二つの盃が祭壇の前で静かに掲げられた。
 神官長の祝詞が、本殿へ厳かに響き渡る。
 こうして、百年に一度の神契が今回も結ばれた。