神官長の言葉が境内へ響くと、周囲が一気にざわめいた。
「神契の花嫁……あの子が?」
「あの子が百年に一度の神に選ばれし花嫁……」
華やかな装いの娘たちも、驚いたように詩季を見つめる。
ただ信じられないという表情を多数に向けられた。
その中には少なからず敵意も混ざっている。
「……おじいちゃん……」
詩季は思わず祖父の顔を見た。
祖父は詩季を力づけるように頷く。
「神様が詩季をお選びになったのじゃ」
無意識のうちに詩季は首元に手を添える。
紋の場所が熱を帯びているように感じられた。
(夢ではないのだわ……)
本当に自分なのだと。
詩季の戸惑いは膨張していく。
神官長は改めて詩季へと一礼した。
「若永家ご当主であらせられる柔一朗様がお待ちです」
その一言で、周囲の神官たちが揃って左右へ道を開けた。
参拝客も何事かと足を止め、自然と視線を石段の先へ向ける。
本殿へ続く石段の上。
一人の青年が厳かに佇んでいた。
黒の狩衣を端正に纏い、立春の風がさらりと黒髪を揺らす。
真っ直ぐに立つ、その姿は飾り立てるものなど何一つないのに、人目を引くほど美しく。
その場に立つだけで近寄るのを躊躇わせるほどの威厳が備わっていた。
柔一朗と呼ばれた青年はゆっくりと石段を下り始める。
自然と水を打ったように境内は静寂に包まれていた。
「――神狼様だ……」
参拝客の一人が、小さく囁いた。
その囁きは波紋のように、人々の間へ広がっていく。
ただ歩みを進めているだけなのに、境内の空気まで張りつめていくようだった。
「神狼様にお目にかかれるなんて」
「若永家のご当主様がお出ましになった」
(――あの方が、神狼様……)
門前町でも、その名を耳にすることは少なくなかった。
畏れられ、敬われる、神狼と呼ばれる若永家の若き当主――若永柔一朗。
その姿を認めた人々は、誰からともなく道を譲り、静かに頭を垂れた。
詩季もまた柔一朗から放たれる威厳に身を硬くする。
柔一朗は詩季の前で足を止めた。
切れ長の双眸に宿される宵闇を溶かしたような黒い瞳が、詩季を映し込む。
詩季は柔一朗の鋭い視線に絡めとられたように呼吸さえ止めていた。
「――間違いないな」
低く静かに放たれた柔一朗の一言に神官長は頭を下げた。
「はい。ご神木も、この方を神契の花嫁としてお迎えしております」
神官長が告げると、柔一朗は再び詩季へと向き直る。
柔一朗がなぜ”神狼”と呼ばれているのか詩季は知らなかったが、狼を思わせるほどに研ぎ澄まされた眼差しだった。
「――若永柔一朗だ」
詩季は柔一朗が自分に名乗ってくれているのだと気づくまでに少し時間を要した。
「し、詩季と申します」
慌てて柔一朗に頭を下げる。
(余りにもお顔立ちが整っていらっしゃったから、つい不躾に見つめてしまっていたわ……)
詩季は自分の失態を恥じていたが、柔一朗は特に気にしている様子もなかった。
「柔一朗様、本殿のご用意が整っております」
「――ああ」
端的に返答すると、柔一朗は踵を返し、再び石段を昇っていく。
黒の狩衣が立春の風に揺れていた。
柔一朗の背を見送っていると、神官長が詩季の前まで進み出てくる。
「詩季様、どうぞ、こちらへ」
詩季は促されるままに一歩を踏み出してから、祖父母へと振り返る。
二人は詩季を尊重するように優しく頷いてくれた。
詩季も深く頷き返す。
(おじいちゃんとおばあちゃんとは、次にいつ会えるのかしら……)
詩季は戸惑いながらも、石段を一段一段と昇っていく。
「これより神契の儀の支度をいたします」
年配の巫女に案内され、本殿脇の一室へ通された。
巫女が三名がかりで手際よく詩季の装いを整えていく。
祖母が着せてくれた着物を脱がされた時、胸の奥に鈍い痛みが刺した。
神前へ上がるための白い神契装束へ袖を通す。
髪も飾りを外して解かれ、白い組紐で結い直される。
「詩季様、お似合いでいらっしゃいますわ」
「何と、お美しい……」
巫女たちが召し変えを済ませた詩季を見つめて感嘆の声を上げる。
鏡に映る詩季は、つい先ほどまで祖父母と朝餉を囲んでいた娘とは別人のようだった。
どう反応していいのかわからず、睫毛を微かに伏せた。
「詩季様、こちらでございます」
静かに開かれた扉の向こうの本殿へと足を踏み入れる。
凛と澄んだ空気が頬を撫でた。
広い板張りの床には朝の光が柔らかく差し込み、正面には白布で飾られた祭壇が据えられている。
その奥には大きく開かれた扉越しに、ご神木の幹が見えた。
まるで本殿そのものが、ご神木と一つに繋がっているように思える。
すでに本殿には柔一朗が待っていた。
当主として神事に臨むための正装へと着替えており、先ほどにも増して近寄り難い威厳と神聖さを纏っている。
柔一朗の隣へと案内された詩季を視認すると、神官長は静かに頷いた。
「お揃いになりましたね」
神官長は祭壇の前へと進み、柔一朗と詩季へと一礼する。
柔一朗の礼に、詩季も遅れないように合わせた。
「これより神契の儀を執り行います」
「神契の花嫁……あの子が?」
「あの子が百年に一度の神に選ばれし花嫁……」
華やかな装いの娘たちも、驚いたように詩季を見つめる。
ただ信じられないという表情を多数に向けられた。
その中には少なからず敵意も混ざっている。
「……おじいちゃん……」
詩季は思わず祖父の顔を見た。
祖父は詩季を力づけるように頷く。
「神様が詩季をお選びになったのじゃ」
無意識のうちに詩季は首元に手を添える。
紋の場所が熱を帯びているように感じられた。
(夢ではないのだわ……)
本当に自分なのだと。
詩季の戸惑いは膨張していく。
神官長は改めて詩季へと一礼した。
「若永家ご当主であらせられる柔一朗様がお待ちです」
その一言で、周囲の神官たちが揃って左右へ道を開けた。
参拝客も何事かと足を止め、自然と視線を石段の先へ向ける。
本殿へ続く石段の上。
一人の青年が厳かに佇んでいた。
黒の狩衣を端正に纏い、立春の風がさらりと黒髪を揺らす。
真っ直ぐに立つ、その姿は飾り立てるものなど何一つないのに、人目を引くほど美しく。
その場に立つだけで近寄るのを躊躇わせるほどの威厳が備わっていた。
柔一朗と呼ばれた青年はゆっくりと石段を下り始める。
自然と水を打ったように境内は静寂に包まれていた。
「――神狼様だ……」
参拝客の一人が、小さく囁いた。
その囁きは波紋のように、人々の間へ広がっていく。
ただ歩みを進めているだけなのに、境内の空気まで張りつめていくようだった。
「神狼様にお目にかかれるなんて」
「若永家のご当主様がお出ましになった」
(――あの方が、神狼様……)
門前町でも、その名を耳にすることは少なくなかった。
畏れられ、敬われる、神狼と呼ばれる若永家の若き当主――若永柔一朗。
その姿を認めた人々は、誰からともなく道を譲り、静かに頭を垂れた。
詩季もまた柔一朗から放たれる威厳に身を硬くする。
柔一朗は詩季の前で足を止めた。
切れ長の双眸に宿される宵闇を溶かしたような黒い瞳が、詩季を映し込む。
詩季は柔一朗の鋭い視線に絡めとられたように呼吸さえ止めていた。
「――間違いないな」
低く静かに放たれた柔一朗の一言に神官長は頭を下げた。
「はい。ご神木も、この方を神契の花嫁としてお迎えしております」
神官長が告げると、柔一朗は再び詩季へと向き直る。
柔一朗がなぜ”神狼”と呼ばれているのか詩季は知らなかったが、狼を思わせるほどに研ぎ澄まされた眼差しだった。
「――若永柔一朗だ」
詩季は柔一朗が自分に名乗ってくれているのだと気づくまでに少し時間を要した。
「し、詩季と申します」
慌てて柔一朗に頭を下げる。
(余りにもお顔立ちが整っていらっしゃったから、つい不躾に見つめてしまっていたわ……)
詩季は自分の失態を恥じていたが、柔一朗は特に気にしている様子もなかった。
「柔一朗様、本殿のご用意が整っております」
「――ああ」
端的に返答すると、柔一朗は踵を返し、再び石段を昇っていく。
黒の狩衣が立春の風に揺れていた。
柔一朗の背を見送っていると、神官長が詩季の前まで進み出てくる。
「詩季様、どうぞ、こちらへ」
詩季は促されるままに一歩を踏み出してから、祖父母へと振り返る。
二人は詩季を尊重するように優しく頷いてくれた。
詩季も深く頷き返す。
(おじいちゃんとおばあちゃんとは、次にいつ会えるのかしら……)
詩季は戸惑いながらも、石段を一段一段と昇っていく。
「これより神契の儀の支度をいたします」
年配の巫女に案内され、本殿脇の一室へ通された。
巫女が三名がかりで手際よく詩季の装いを整えていく。
祖母が着せてくれた着物を脱がされた時、胸の奥に鈍い痛みが刺した。
神前へ上がるための白い神契装束へ袖を通す。
髪も飾りを外して解かれ、白い組紐で結い直される。
「詩季様、お似合いでいらっしゃいますわ」
「何と、お美しい……」
巫女たちが召し変えを済ませた詩季を見つめて感嘆の声を上げる。
鏡に映る詩季は、つい先ほどまで祖父母と朝餉を囲んでいた娘とは別人のようだった。
どう反応していいのかわからず、睫毛を微かに伏せた。
「詩季様、こちらでございます」
静かに開かれた扉の向こうの本殿へと足を踏み入れる。
凛と澄んだ空気が頬を撫でた。
広い板張りの床には朝の光が柔らかく差し込み、正面には白布で飾られた祭壇が据えられている。
その奥には大きく開かれた扉越しに、ご神木の幹が見えた。
まるで本殿そのものが、ご神木と一つに繋がっているように思える。
すでに本殿には柔一朗が待っていた。
当主として神事に臨むための正装へと着替えており、先ほどにも増して近寄り難い威厳と神聖さを纏っている。
柔一朗の隣へと案内された詩季を視認すると、神官長は静かに頷いた。
「お揃いになりましたね」
神官長は祭壇の前へと進み、柔一朗と詩季へと一礼する。
柔一朗の礼に、詩季も遅れないように合わせた。
「これより神契の儀を執り行います」



