***
詩季は出かけるための身支度を整え、特に持参するものもなく、少しばかりの衣類を風呂敷へと包む。
祖父は納屋から馬車を引き、詩季は祖母と乗り込んだ。
車輪が土道を転がる音だけが、耳へと響く。
見慣れた田畑が遠ざかる。
道端には小さな草花が顔を覗かせていた。
まるで詩季を見送ってくれているようだった。
「本当に私が……」
「詩季ちゃん……」
祖母が深く皺の刻まれた手で、そっと詩季の震えた手を握ってくれる。
詩季はまだ自分の状況を呑み込めていない。
馬を操っている、祖父の背中は何も語らなかった。
馬車はあぜ道を抜け、街道へ出た。
同じ方向へ導かれるように歩く人々の数が徐々に増えていく。
旅装束の夫婦。
杖をついた老人。
小さな子を肩車している家族。
皆が若永神宮へと向かう参拝客だった。
「今日は人出が多いんですね」
「立春だからな」
ずっと黙していた祖父が答える。
「一年の始まりを迎える特別な日じゃ。ご神木へ手を合わせようと、国中から人が集まってくる」
改めて詩季は周りを見回した。
自分たちと同じように遠くから来たのであろう馬車の姿も少なくはない。
――ただ目的が違う。
詩季と祖父母は参拝に訪れているわけではない。
「生きている間に、またご神木様にお目にかかれるとは……」
祖父の呟きが鼓膜へと届く。
馬車は若永神社の門前町へとたどり着いた。
焼き団子の香ばしい匂いが風に乗り、店先には縁起物を並べ、商人たちの威勢の良い声が響き渡っている。
希望と活気に溢れた街並みが広がっていた。
祖父は鳥居の手前にある馬屋へ馬車を預けると、詩季たちを振り返る。
「ここからは歩こう」
若永神宮の大鳥居をくぐると空気が変わったように思えた。
自然と背筋が伸びるような神聖な空間。
参拝客は誰も騒ぐことなく、順番に本殿へ向かって歩いている。
鳥のさえずりと、風に揺れる木々の音だけが耳に届いた。
石段を上りきると、詩季は思わず足を止める。
天へ向かって真っすぐ枝を伸ばす一本の巨木。
空へと溶け込むように梢は無数に伸びていた。
(大きいわ……この国を見守り続けるご神木……)
幼い頃にも見たはずなのに、その姿は詩季の記憶よりもはるかに雄大だった。
葉を落とした木々の向こうで、ご神木だけは深い緑を湛えている。
境内の一角には年頃の娘たちが何人か立っていた。
艶やかな振袖。
色鮮やかな帯。
陽の光を受けてきらめく簪。
誰もが晴れの日に相応しい装いで、美しく着飾っている。
その傍らでは、家族らしき人々が緊張した面持ちで娘を見守っていた。
詩季は思わず自分の着物へ視線を落とす。
祖母が大切に仕立て直してくれた薄紅色の小紋。
華やかではないが、丁寧に洗い、皺一つなく整えられている。
髪も祖母が急ぎながらも、綺麗に結ってくれた。
木彫りの小さな簪が控えめに一つ挿されている。
他の娘たちのように華美ではないかもしれないが、詩季は自分の装いが好きだった。
「皆さん、とてもお綺麗だわ……」
「詩季ちゃんも美しいわよ」
祖母がそっと耳打ちする。
優しい笑顔に胸の奥が緩む。
しかし祖父は集う娘たちを見て表情が強張っていた。
「少し待っていなさい」
祖父は近くにいた若い神官へと声をかける。
「失礼します。今朝、孫に神契の紋が現れたのですが……」
「ああ、あなたのところも――ですか?」
若い神官は詩季を歓迎するどころか訝しい表情で祖父に答えていた。
「何名か、同じように申し出られた方がお越しになっておりまして」
若い神官は娘たちが集っている場所を一瞥する。
百年に一度選ばれる神契の花嫁は、国中の憧れだった。
その栄誉を求め、神託のたびに偽装した偽物まで現れる──それは恒例の光景でもあった。
そうとは知らない詩季は自分ではないのだと納得し、少しだけ気持ちが楽になっていた。
(私が選ばれるなんておかしいと思っていた……)
この首筋の紋も何かの間違いに違いない。
あの華やかな女性たちのほうが”神契の花嫁”としてふさわしい。
――その時、社務所の奥から一人の老人がゆっくりと姿を現す。
白装束をまとい、長い年月を神に仕えてきたことが、その厳かな佇まいだけで伝わってくる。
周囲の神官たちが一斉に頭を下げた。
その中の一人が一歩、前へ出る。
「――神官長。この者たち全員が神契の紋が出没したとおっしゃっております」
「ほう」
神官長と呼ばれた老人はゆるりと境内を見渡す。
一人、一人と顔を確認していく。
そうして、詩季を見ると、ぴたりと視線を留めた。
代わりに迷うことなく詩季の前へと歩みを進めてくる。
(私だけを真っ直ぐに見据えている……)
詩季の前で足を止めた神官長は、その穏やかな眼差しを詩季の首元へ向ける。
静かに微笑み、一歩下がり、詩季に対して深く頭を垂れた。
「ようこそ、お越しくださいました」
境内の空気が一変した。
皆が敬意を払う神官長が一人の娘に対して、頭を下げている。
「――お待ちしておりました。神契の花嫁様」
詩季は出かけるための身支度を整え、特に持参するものもなく、少しばかりの衣類を風呂敷へと包む。
祖父は納屋から馬車を引き、詩季は祖母と乗り込んだ。
車輪が土道を転がる音だけが、耳へと響く。
見慣れた田畑が遠ざかる。
道端には小さな草花が顔を覗かせていた。
まるで詩季を見送ってくれているようだった。
「本当に私が……」
「詩季ちゃん……」
祖母が深く皺の刻まれた手で、そっと詩季の震えた手を握ってくれる。
詩季はまだ自分の状況を呑み込めていない。
馬を操っている、祖父の背中は何も語らなかった。
馬車はあぜ道を抜け、街道へ出た。
同じ方向へ導かれるように歩く人々の数が徐々に増えていく。
旅装束の夫婦。
杖をついた老人。
小さな子を肩車している家族。
皆が若永神宮へと向かう参拝客だった。
「今日は人出が多いんですね」
「立春だからな」
ずっと黙していた祖父が答える。
「一年の始まりを迎える特別な日じゃ。ご神木へ手を合わせようと、国中から人が集まってくる」
改めて詩季は周りを見回した。
自分たちと同じように遠くから来たのであろう馬車の姿も少なくはない。
――ただ目的が違う。
詩季と祖父母は参拝に訪れているわけではない。
「生きている間に、またご神木様にお目にかかれるとは……」
祖父の呟きが鼓膜へと届く。
馬車は若永神社の門前町へとたどり着いた。
焼き団子の香ばしい匂いが風に乗り、店先には縁起物を並べ、商人たちの威勢の良い声が響き渡っている。
希望と活気に溢れた街並みが広がっていた。
祖父は鳥居の手前にある馬屋へ馬車を預けると、詩季たちを振り返る。
「ここからは歩こう」
若永神宮の大鳥居をくぐると空気が変わったように思えた。
自然と背筋が伸びるような神聖な空間。
参拝客は誰も騒ぐことなく、順番に本殿へ向かって歩いている。
鳥のさえずりと、風に揺れる木々の音だけが耳に届いた。
石段を上りきると、詩季は思わず足を止める。
天へ向かって真っすぐ枝を伸ばす一本の巨木。
空へと溶け込むように梢は無数に伸びていた。
(大きいわ……この国を見守り続けるご神木……)
幼い頃にも見たはずなのに、その姿は詩季の記憶よりもはるかに雄大だった。
葉を落とした木々の向こうで、ご神木だけは深い緑を湛えている。
境内の一角には年頃の娘たちが何人か立っていた。
艶やかな振袖。
色鮮やかな帯。
陽の光を受けてきらめく簪。
誰もが晴れの日に相応しい装いで、美しく着飾っている。
その傍らでは、家族らしき人々が緊張した面持ちで娘を見守っていた。
詩季は思わず自分の着物へ視線を落とす。
祖母が大切に仕立て直してくれた薄紅色の小紋。
華やかではないが、丁寧に洗い、皺一つなく整えられている。
髪も祖母が急ぎながらも、綺麗に結ってくれた。
木彫りの小さな簪が控えめに一つ挿されている。
他の娘たちのように華美ではないかもしれないが、詩季は自分の装いが好きだった。
「皆さん、とてもお綺麗だわ……」
「詩季ちゃんも美しいわよ」
祖母がそっと耳打ちする。
優しい笑顔に胸の奥が緩む。
しかし祖父は集う娘たちを見て表情が強張っていた。
「少し待っていなさい」
祖父は近くにいた若い神官へと声をかける。
「失礼します。今朝、孫に神契の紋が現れたのですが……」
「ああ、あなたのところも――ですか?」
若い神官は詩季を歓迎するどころか訝しい表情で祖父に答えていた。
「何名か、同じように申し出られた方がお越しになっておりまして」
若い神官は娘たちが集っている場所を一瞥する。
百年に一度選ばれる神契の花嫁は、国中の憧れだった。
その栄誉を求め、神託のたびに偽装した偽物まで現れる──それは恒例の光景でもあった。
そうとは知らない詩季は自分ではないのだと納得し、少しだけ気持ちが楽になっていた。
(私が選ばれるなんておかしいと思っていた……)
この首筋の紋も何かの間違いに違いない。
あの華やかな女性たちのほうが”神契の花嫁”としてふさわしい。
――その時、社務所の奥から一人の老人がゆっくりと姿を現す。
白装束をまとい、長い年月を神に仕えてきたことが、その厳かな佇まいだけで伝わってくる。
周囲の神官たちが一斉に頭を下げた。
その中の一人が一歩、前へ出る。
「――神官長。この者たち全員が神契の紋が出没したとおっしゃっております」
「ほう」
神官長と呼ばれた老人はゆるりと境内を見渡す。
一人、一人と顔を確認していく。
そうして、詩季を見ると、ぴたりと視線を留めた。
代わりに迷うことなく詩季の前へと歩みを進めてくる。
(私だけを真っ直ぐに見据えている……)
詩季の前で足を止めた神官長は、その穏やかな眼差しを詩季の首元へ向ける。
静かに微笑み、一歩下がり、詩季に対して深く頭を垂れた。
「ようこそ、お越しくださいました」
境内の空気が一変した。
皆が敬意を払う神官長が一人の娘に対して、頭を下げている。
「――お待ちしておりました。神契の花嫁様」



