***
立春の朝は音もなく到来する。
東の空が白み始める頃、詩季はいつものように身支度を整えた。
障子を開け放つと、夜の闇に冷やされた空気が頬へとぶつかってくる。
(……ここでは、まだ寒いわ……)
外套を羽織って、神域へと向かう。
いつの間にか歩き慣れていた石畳が敷かれたご神木が待つ神域への道のり。
(もう雪が解けてきている)
ご神木の前には柔一朗が立っていた。
その姿が、詩季の胸の奥を焦がして締め付ける。
「おはようございます。柔様」
「おはよう」
短い朝の挨拶。
詩季はこのやり取りが好きだった。
二人でご神木と対峙し、神域を包む静寂の中で、祈りを捧げる。
「――戻るか」
「はい」
柔一朗と肩を並べて、屋敷までの道を歩む。
女中の温かい声に迎えられて、柔一朗と朝餉を囲む。
柔一朗も詩季も「最後」という単語を口にはしなかった。
陽がゆっくりと西へ傾き始める頃、ご神木を望める本殿の一室には神官や巫女たちが整然と並んでいた。
中央へと正装に身を包んだ柔一朗と詩季が進み出る。
一年前の立春の日、契りを交わして神契の夫婦となり、そして今日、一年を結ぶ。
神官長の重みのある声で祝詞が奏上されると、境内を包む空気がさらに張り詰める。
始まりの日と同様に二人に盃が差し出された。
今では詩季もお神酒がすんなりと喉を通る。
「これをもちまして、百年に一度の神契は結ばれました。神のご加護に感謝いたします」
神官長に合わせて、柔一朗と詩季、本殿に揃っている全員が深く頭を垂れた。
(……終わった……)
ご神木は今日も変わらず、そこに立ち続けている。
「詩季様、一年のお務め、本当にありがとうございました」
神官長が詩季に対して頭を下げた。
気が付くと本殿に揃っていた神官や巫女も詩季に対して礼をしている。
柔一朗は綺麗な顔で黙したまま、詩季の隣で、その様子を黒い瞳に映していた。
「皆さまのお支えがあったからです。こちらこそ、ありがとうございました」
詩季がそう伝えた時、首筋に異変を感じた。
鏡を見なくてもわかる。
神契の紋が消えたのだと。
昨年の立春の日に神が詩季に授けてくださった証は、音もなく静かにその役目を終えた。
明くる朝。
詩季は屋敷の広間に集った女中たちと目元を潤ませながら、別れの挨拶を交わしていた。
女中の中には泣き伏している者までいる。
「一年間、本当にお世話になりました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「詩季様と過ごせて、本当に楽しい一年でございました」
「いつでも、また遊びにいらしてください」
「はい。私も皆さまのおかげで毎日が楽しかったです」
神官長始め、神官たちや巫女とも、昨日の神契の儀が終わってから惜別の挨拶を交わしていた。
詩季は自分がどれほどに若永家に歓迎され、温かな人たちに囲まれていたのか、実感する。
視界が滲みながらも、詩季は涙を流さず笑顔で皆に見送られた。
別れの最後は柔一朗だった。
柔一朗が鳥居近くの若永家の送迎馬車がつけられている場所まで、詩季を見送ることになっている。
「――運ぶ」
「いえ、自分で……」
詩季の遠慮をさりげなく退け、柔一朗が詩季の風呂敷に包まれた荷物を手に持ち、先に屋敷を後にする。
詩季はたくさんの見送ってくれた者たちに別れとお礼を告げて、柔一朗の後ろ姿に続く。
歩き慣れた石畳が敷かれた道。
いつも、柔一朗と並んで歩いていた。
ここに来てから神事の必要がなかった朝は初めてで、隣ではなく、柔一朗の少し後ろを歩くのも久しぶりで。
(もう、ここを柔様と通ることも、一緒に朝餉をとることもないのだわ……)
ずっと胸の奥がぎゅっと締め付けられているような感覚が続いている。
それは終わりが近づいていると自覚してから。
詩季は足を止めて、ご神木を見上げた。
そして、向き直り深々と一礼する。
悠久の時を経て。今日も年輪を刻むご神木へと感謝の気持ちを込めて。
柔一朗は何も言わず、自分も立ち止まり、詩季を待つ。
「お待たせいたしました。柔様」
今度は柔一朗の隣を歩く。
自然と合う歩調は一朝一夕では積み上げられない柔一朗と共有した時間を物語っている。
鳥居の外では馬車が詩季の到着を待っていた。
門前町を行き交う人々が”神狼様”の姿にざわついている。
柔一朗は無数の視線を気にすることもなく、御者へ詩季の手荷物を渡した。
「持っていただいて、ありがとうございます」
詩季がお礼を告げると、柔一朗は静かに首を振る。
「――気を付けて帰れ」
「……はい」
詩季は初めて、時間が巻き戻ればいいと願った。
でも、それが叶わないことは知っている。
伝えるべきことを伝えなくてはと一つ深呼吸をして、真っ直ぐに柔一朗を見つめた。
「この一年、本当にありがとうございました。神契の花嫁として過ごした日々は、私にとってかけがえのない時間になりました。きっと生涯、忘れることはないと思います」
そう言い切ったら、目許が痛んだ。
涙は見せないように、ぐっと唇を噛みしめてから、静かに開く。
「柔様がお相手で良かったです……」
無言で詩季の話に耳を傾けていた柔一朗が口を開く。
「昨年の立春、詩季は神に選ばれた」
「……はい」
「神契の花嫁が選定される基準は判明していない」
「はい」
「だが、詩季だから選ばれたのだということだけはわかる」
柔一朗の低い声音に胸が震えた。
(でも、ここで涙を見せてはいけない気がする)
「――元気で暮らせ」
「柔様もお元気で」
一年限りの神契の夫婦。
二人は役目を全うし、粛々と離縁した。
立春の朝は音もなく到来する。
東の空が白み始める頃、詩季はいつものように身支度を整えた。
障子を開け放つと、夜の闇に冷やされた空気が頬へとぶつかってくる。
(……ここでは、まだ寒いわ……)
外套を羽織って、神域へと向かう。
いつの間にか歩き慣れていた石畳が敷かれたご神木が待つ神域への道のり。
(もう雪が解けてきている)
ご神木の前には柔一朗が立っていた。
その姿が、詩季の胸の奥を焦がして締め付ける。
「おはようございます。柔様」
「おはよう」
短い朝の挨拶。
詩季はこのやり取りが好きだった。
二人でご神木と対峙し、神域を包む静寂の中で、祈りを捧げる。
「――戻るか」
「はい」
柔一朗と肩を並べて、屋敷までの道を歩む。
女中の温かい声に迎えられて、柔一朗と朝餉を囲む。
柔一朗も詩季も「最後」という単語を口にはしなかった。
陽がゆっくりと西へ傾き始める頃、ご神木を望める本殿の一室には神官や巫女たちが整然と並んでいた。
中央へと正装に身を包んだ柔一朗と詩季が進み出る。
一年前の立春の日、契りを交わして神契の夫婦となり、そして今日、一年を結ぶ。
神官長の重みのある声で祝詞が奏上されると、境内を包む空気がさらに張り詰める。
始まりの日と同様に二人に盃が差し出された。
今では詩季もお神酒がすんなりと喉を通る。
「これをもちまして、百年に一度の神契は結ばれました。神のご加護に感謝いたします」
神官長に合わせて、柔一朗と詩季、本殿に揃っている全員が深く頭を垂れた。
(……終わった……)
ご神木は今日も変わらず、そこに立ち続けている。
「詩季様、一年のお務め、本当にありがとうございました」
神官長が詩季に対して頭を下げた。
気が付くと本殿に揃っていた神官や巫女も詩季に対して礼をしている。
柔一朗は綺麗な顔で黙したまま、詩季の隣で、その様子を黒い瞳に映していた。
「皆さまのお支えがあったからです。こちらこそ、ありがとうございました」
詩季がそう伝えた時、首筋に異変を感じた。
鏡を見なくてもわかる。
神契の紋が消えたのだと。
昨年の立春の日に神が詩季に授けてくださった証は、音もなく静かにその役目を終えた。
明くる朝。
詩季は屋敷の広間に集った女中たちと目元を潤ませながら、別れの挨拶を交わしていた。
女中の中には泣き伏している者までいる。
「一年間、本当にお世話になりました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「詩季様と過ごせて、本当に楽しい一年でございました」
「いつでも、また遊びにいらしてください」
「はい。私も皆さまのおかげで毎日が楽しかったです」
神官長始め、神官たちや巫女とも、昨日の神契の儀が終わってから惜別の挨拶を交わしていた。
詩季は自分がどれほどに若永家に歓迎され、温かな人たちに囲まれていたのか、実感する。
視界が滲みながらも、詩季は涙を流さず笑顔で皆に見送られた。
別れの最後は柔一朗だった。
柔一朗が鳥居近くの若永家の送迎馬車がつけられている場所まで、詩季を見送ることになっている。
「――運ぶ」
「いえ、自分で……」
詩季の遠慮をさりげなく退け、柔一朗が詩季の風呂敷に包まれた荷物を手に持ち、先に屋敷を後にする。
詩季はたくさんの見送ってくれた者たちに別れとお礼を告げて、柔一朗の後ろ姿に続く。
歩き慣れた石畳が敷かれた道。
いつも、柔一朗と並んで歩いていた。
ここに来てから神事の必要がなかった朝は初めてで、隣ではなく、柔一朗の少し後ろを歩くのも久しぶりで。
(もう、ここを柔様と通ることも、一緒に朝餉をとることもないのだわ……)
ずっと胸の奥がぎゅっと締め付けられているような感覚が続いている。
それは終わりが近づいていると自覚してから。
詩季は足を止めて、ご神木を見上げた。
そして、向き直り深々と一礼する。
悠久の時を経て。今日も年輪を刻むご神木へと感謝の気持ちを込めて。
柔一朗は何も言わず、自分も立ち止まり、詩季を待つ。
「お待たせいたしました。柔様」
今度は柔一朗の隣を歩く。
自然と合う歩調は一朝一夕では積み上げられない柔一朗と共有した時間を物語っている。
鳥居の外では馬車が詩季の到着を待っていた。
門前町を行き交う人々が”神狼様”の姿にざわついている。
柔一朗は無数の視線を気にすることもなく、御者へ詩季の手荷物を渡した。
「持っていただいて、ありがとうございます」
詩季がお礼を告げると、柔一朗は静かに首を振る。
「――気を付けて帰れ」
「……はい」
詩季は初めて、時間が巻き戻ればいいと願った。
でも、それが叶わないことは知っている。
伝えるべきことを伝えなくてはと一つ深呼吸をして、真っ直ぐに柔一朗を見つめた。
「この一年、本当にありがとうございました。神契の花嫁として過ごした日々は、私にとってかけがえのない時間になりました。きっと生涯、忘れることはないと思います」
そう言い切ったら、目許が痛んだ。
涙は見せないように、ぐっと唇を噛みしめてから、静かに開く。
「柔様がお相手で良かったです……」
無言で詩季の話に耳を傾けていた柔一朗が口を開く。
「昨年の立春、詩季は神に選ばれた」
「……はい」
「神契の花嫁が選定される基準は判明していない」
「はい」
「だが、詩季だから選ばれたのだということだけはわかる」
柔一朗の低い声音に胸が震えた。
(でも、ここで涙を見せてはいけない気がする)
「――元気で暮らせ」
「柔様もお元気で」
一年限りの神契の夫婦。
二人は役目を全うし、粛々と離縁した。



