***
冬の朝は、いつもよりひときわ静かだった。
起床して障子を開けた詩季は、思わず「わあっ」と感嘆の声を漏らす。
空から舞い降ちる白い雪が、裸になった木々や庭石へと静かに降り積もっていた。
ただ穏やかに冬の訪れを告げている。
この年最初の雪が、若永神宮を静かな白へと染め始めていた。
急いで身支度を整えた詩季は、外套を羽織り、ご神木へと向かう。
雪を踏むたび、きゅっ、と小さな音が響くのが、新鮮で楽しい。
夢中になって歩いていたら、新雪に足をとられる。
「きゃっ……」
しかし、詩季の身体は傾かない。
同じくご神木に朝の神事で向かおうとしていた柔一朗が後ろから詩季の肩を支えた。
「すみません、柔様」
「怪我はないか?」
「はい」
振り返って確認した柔一朗の綺麗な顔立ちはいつも通り無表情だ。
けれど、不思議と冷たさは感じない。
「柔様、おはようございます。とうとう雪が降りましたね」
「ああ。寒くないか?」
「冷えますが、大丈夫です。自然と背筋が伸びるような気がします」
二人は並んで雪化粧を施し始めたご神木へ向かい、祈りを捧げた。
枝先に積もった雪が朝日に照らされ、淡い輝きを放つ。
春に芽吹いた若葉が、夏には風に青葉が揺れ、秋には紅葉が境内を彩る。
全てを見守ってきたご神木は今は雪に飾られ、また春を静かに待っていた。
「――今年は雪が多いかもしれない」
二人で屋敷へ戻る時、不意に柔一朗が低い声を落とした。
「どうしてわかるのですか?」
「山の様子を見ると、わかる」
「そういうものなのですね」
「毎年、見てきたからな。ただ、」
柔一朗がそこで言葉を切る。
詩季は隣の柔一朗を見上げた。
「――今年は少し違って見える」
柔一朗も詩季へと視線を流す。
それ以上、柔一朗は語らない。
詩季も理由を尋ねなかった。
「冬の景色も、とてもきれいです」
穏やかに微笑む詩季に、柔一朗は浅く頷く。
雪の上には、二人分の足跡が続いていた。
屋敷へと戻ると、朝餉の支度を終えた女中が笑顔で二人を迎える。
「今日は温かいお粥をご用意いたしました」
「ありがとうございます。身体の芯まで冷えていたので嬉しいです」
若永家の屋敷は居心地が良くて、誰もが温もりに満ちている。
この日常が今の詩季にはかけがえのないものになっていた。
ちょうど朝餉を食べ終え、冷えた身体も温まった頃、神官長が居間へと訪れた。
「柔一朗様、詩季様。失礼いたします」
襖を静かに閉めて、神官長は膝をついて一礼する。
「立春の神契の儀まで、あとわずかとなりました」
詩季は黙ったまま頷いた。
冬も半ばを迎えている。
神契の一年が終わりへと近づいていることは、自然と感じていた。
「本日は、その後の流れについて詩季様にご説明いたします」
神官長はゆっくりと言葉を継いでいく。
「立春の日、最後の儀式が終われば、詩季様の神契の花嫁としてのお務めも終わります。詩季様の神契の紋は日没と共に消えるでしょう」
詩季は無意識に首筋へ手を触れた。
神に選ばれた証として浮かび上がった紋。
今では自分の身体の一部のように鏡を見ても、違和感はなかった。
「翌朝には神契の花嫁様はご実家へお戻りいただくのが、古くからの習わしでございます」
「承知しております」
詩季の返事に迷いはなかった。
最初から決まっていた。
――夫婦として神事を務め、一年で別れる。
ただ、どういうわけか胸の奥がざわめいて止まらない。
詩季はそれを面に出さないように笑顔を見せた。
「祖父母もきっと私の帰りを楽しみに待ってくれていると思います」
「ええ」
神官長は詩季に答えるように笑みを返す。
「お二人とも、更にご立派になられた詩季様の姿にお喜びになるでしょう」
「はい」
詩季は笑って頷く。
柔一朗は詩季の笑顔を見つめたまま、特に口を開かなかった。
神官長は静かに立ち上がる。
「残す神事も、あと幾つかでございます。最後まで、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。最後まで精一杯、お務めいたします」
詩季は神官長と礼を交し合う。
神官長が退室し、室内には柔一朗と詩季だけが残される。
詩季は座り直して、湯呑みに手を添えた。
「帰ったら、こちらでの話を祖父母にたくさんしたいと思います」
日々の神事、夏祭り、豊穣祭、この一年でたくさん学び経験してきたこと。
そして、柔一朗のこと……。
「――ああ、そうだな」
詩季の笑った顔を見つめながら、柔一朗は眉ひとつ動かさず答える。
詩季は胸の奥に生まれた小さなざわめきと痛みの正体を、まだ言葉にすることは出来ずにいた。
冬の朝は、いつもよりひときわ静かだった。
起床して障子を開けた詩季は、思わず「わあっ」と感嘆の声を漏らす。
空から舞い降ちる白い雪が、裸になった木々や庭石へと静かに降り積もっていた。
ただ穏やかに冬の訪れを告げている。
この年最初の雪が、若永神宮を静かな白へと染め始めていた。
急いで身支度を整えた詩季は、外套を羽織り、ご神木へと向かう。
雪を踏むたび、きゅっ、と小さな音が響くのが、新鮮で楽しい。
夢中になって歩いていたら、新雪に足をとられる。
「きゃっ……」
しかし、詩季の身体は傾かない。
同じくご神木に朝の神事で向かおうとしていた柔一朗が後ろから詩季の肩を支えた。
「すみません、柔様」
「怪我はないか?」
「はい」
振り返って確認した柔一朗の綺麗な顔立ちはいつも通り無表情だ。
けれど、不思議と冷たさは感じない。
「柔様、おはようございます。とうとう雪が降りましたね」
「ああ。寒くないか?」
「冷えますが、大丈夫です。自然と背筋が伸びるような気がします」
二人は並んで雪化粧を施し始めたご神木へ向かい、祈りを捧げた。
枝先に積もった雪が朝日に照らされ、淡い輝きを放つ。
春に芽吹いた若葉が、夏には風に青葉が揺れ、秋には紅葉が境内を彩る。
全てを見守ってきたご神木は今は雪に飾られ、また春を静かに待っていた。
「――今年は雪が多いかもしれない」
二人で屋敷へ戻る時、不意に柔一朗が低い声を落とした。
「どうしてわかるのですか?」
「山の様子を見ると、わかる」
「そういうものなのですね」
「毎年、見てきたからな。ただ、」
柔一朗がそこで言葉を切る。
詩季は隣の柔一朗を見上げた。
「――今年は少し違って見える」
柔一朗も詩季へと視線を流す。
それ以上、柔一朗は語らない。
詩季も理由を尋ねなかった。
「冬の景色も、とてもきれいです」
穏やかに微笑む詩季に、柔一朗は浅く頷く。
雪の上には、二人分の足跡が続いていた。
屋敷へと戻ると、朝餉の支度を終えた女中が笑顔で二人を迎える。
「今日は温かいお粥をご用意いたしました」
「ありがとうございます。身体の芯まで冷えていたので嬉しいです」
若永家の屋敷は居心地が良くて、誰もが温もりに満ちている。
この日常が今の詩季にはかけがえのないものになっていた。
ちょうど朝餉を食べ終え、冷えた身体も温まった頃、神官長が居間へと訪れた。
「柔一朗様、詩季様。失礼いたします」
襖を静かに閉めて、神官長は膝をついて一礼する。
「立春の神契の儀まで、あとわずかとなりました」
詩季は黙ったまま頷いた。
冬も半ばを迎えている。
神契の一年が終わりへと近づいていることは、自然と感じていた。
「本日は、その後の流れについて詩季様にご説明いたします」
神官長はゆっくりと言葉を継いでいく。
「立春の日、最後の儀式が終われば、詩季様の神契の花嫁としてのお務めも終わります。詩季様の神契の紋は日没と共に消えるでしょう」
詩季は無意識に首筋へ手を触れた。
神に選ばれた証として浮かび上がった紋。
今では自分の身体の一部のように鏡を見ても、違和感はなかった。
「翌朝には神契の花嫁様はご実家へお戻りいただくのが、古くからの習わしでございます」
「承知しております」
詩季の返事に迷いはなかった。
最初から決まっていた。
――夫婦として神事を務め、一年で別れる。
ただ、どういうわけか胸の奥がざわめいて止まらない。
詩季はそれを面に出さないように笑顔を見せた。
「祖父母もきっと私の帰りを楽しみに待ってくれていると思います」
「ええ」
神官長は詩季に答えるように笑みを返す。
「お二人とも、更にご立派になられた詩季様の姿にお喜びになるでしょう」
「はい」
詩季は笑って頷く。
柔一朗は詩季の笑顔を見つめたまま、特に口を開かなかった。
神官長は静かに立ち上がる。
「残す神事も、あと幾つかでございます。最後まで、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。最後まで精一杯、お務めいたします」
詩季は神官長と礼を交し合う。
神官長が退室し、室内には柔一朗と詩季だけが残される。
詩季は座り直して、湯呑みに手を添えた。
「帰ったら、こちらでの話を祖父母にたくさんしたいと思います」
日々の神事、夏祭り、豊穣祭、この一年でたくさん学び経験してきたこと。
そして、柔一朗のこと……。
「――ああ、そうだな」
詩季の笑った顔を見つめながら、柔一朗は眉ひとつ動かさず答える。
詩季は胸の奥に生まれた小さなざわめきと痛みの正体を、まだ言葉にすることは出来ずにいた。



