***
朝餉を終えたあと、二人は屋敷内の居間から庭が望める渡り廊下を歩いていた。
庭先では秋風に揺れた紅葉が、ゆっくりと石畳へ舞い落ちていく。
柔一朗は日没を迎えても、すぐに屋敷へと戻らない。
多忙の身であるがゆえ、詩季が眠りに就く後に戻ってきているのだろう。
朝しか柔一朗と共有できる時間はない。
それが当然だと思って詩季は若永家で過ごしてきたが、どういうわけか肌寒さを感じるようになってくると、近頃は少しだけ胸の辺りがぎゅっと縮まるような感覚が走ってしまう。
(おいしい朝餉をいただけて満足しているはずなのに……)
廊下の途中で柔一朗が足を止める。
「――では、行ってくる」
「はい」
「困ったことがあれば遠慮なく言え」
「……」
いつもは「いってらっしゃいませ」と見送る場面だ。
なぜか、その言葉が出てこなくて詩季は口を噤む。
(……ちゃんと柔一朗様を見送らなくては)
自分でも説明のつかない引き止めたい感情と、それをしてしまったら柔一朗に迷惑だという制御と。
自分でも、どうしたことなのか詩季は困惑していた。
柔一朗は普段と違う詩季の様子に切れ長の双眸を細める。
「柔一朗様……」
何を言っていいのかわからず、名を呼ぶ。
柔一朗は急かすことも責めることもせず、詩季がどうしたいのか待っているようだった。
「私は柔一朗様とお呼びしていてよろしいのでしょうか……?」
詩季から放たれる質問に柔一朗は微かに眉を寄せた。
柔一朗を以ってしても想定外の問いだったのだろう。
「柔一朗様ご本人に確認していなかったと思いまして。こちらの屋敷の方々が柔一朗様とお呼びしていましたので、勝手にそうお呼びしておりました。ですが、民の皆さまは神狼様とお呼びになっております」
「――好きに呼べばいい」
余りにもあっさりとした返事だった。
「でも……」
「詩季になら何と呼ばれようが構わない」
(私なら、どう呼んでも……?)
詩季は胸の辺りがどきりと高鳴った。
しかし、夫婦とはどう呼び合うのが普通なのか詩季にはわからない。
詩季の記憶に父母の姿はなかった。
祖父母は互いを詩季に合わせて「おじいさん」「おばあさん」と呼び合っている。
「――柔様」
考えた末に、詩季が唇を開く。
「私は、”柔様”とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
詩季は自分だけの柔一朗への呼び方がほしかった。
(皆と同じではなく……)
柔一朗はまた淡泊に許可を出すかと思っていたが、黙してしまった。
その反応に詩季は不安が増していく。
(不愉快な思いをさせてしまったかしら……)
謝ろうかと考えた矢先、
「――俺に”柔”は似合わないだろう」
柔一朗が先に口を開いた。
詩季は何を言われたのかわからず、ぱっちりとした目を瞠る。
「昔から、そう思っていた」
意外な返答だった。
”柔”の漢字の意味は”やわらかい”や”しなやか”、”おとなしい”だ。
確かに柔一朗は一見すると”神狼”とも異名を持ち、寡黙で、冷静で、笑った顔も怒った顔も見せることはない。
神々に愛されたように欠点のない柔一朗の顔立ちは美しいがゆえに冷淡にも見える。
(まさか柔一朗様がご自身をそう感じていたなんて……)
柔一朗の心の奥に少しだけ踏み込めたような気がして、詩季は口許を綻ばせた。
「柔一朗様はお優しい方ですので、私はお似合いだと思います。素敵なお名前です」
詩季が澄んだ声色で伝える。
柔一朗の表情は変化を見せない。
それでも。
「――構わない」
柔一朗から承諾を受けて、詩季は心が弾んだ。
「柔様」
「――ああ」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
柔一朗は特に照れた様子も見せず、詩季に見送られて屋敷を後にする。
「……柔様……」
ひとり廊下に残された詩季は柔一朗に許可された名を呼んで、満足なのと照れくさいので頬を赤らめる。
秋の澄んだ空気だけが、詩季の声を聞いていた。
朝餉を終えたあと、二人は屋敷内の居間から庭が望める渡り廊下を歩いていた。
庭先では秋風に揺れた紅葉が、ゆっくりと石畳へ舞い落ちていく。
柔一朗は日没を迎えても、すぐに屋敷へと戻らない。
多忙の身であるがゆえ、詩季が眠りに就く後に戻ってきているのだろう。
朝しか柔一朗と共有できる時間はない。
それが当然だと思って詩季は若永家で過ごしてきたが、どういうわけか肌寒さを感じるようになってくると、近頃は少しだけ胸の辺りがぎゅっと縮まるような感覚が走ってしまう。
(おいしい朝餉をいただけて満足しているはずなのに……)
廊下の途中で柔一朗が足を止める。
「――では、行ってくる」
「はい」
「困ったことがあれば遠慮なく言え」
「……」
いつもは「いってらっしゃいませ」と見送る場面だ。
なぜか、その言葉が出てこなくて詩季は口を噤む。
(……ちゃんと柔一朗様を見送らなくては)
自分でも説明のつかない引き止めたい感情と、それをしてしまったら柔一朗に迷惑だという制御と。
自分でも、どうしたことなのか詩季は困惑していた。
柔一朗は普段と違う詩季の様子に切れ長の双眸を細める。
「柔一朗様……」
何を言っていいのかわからず、名を呼ぶ。
柔一朗は急かすことも責めることもせず、詩季がどうしたいのか待っているようだった。
「私は柔一朗様とお呼びしていてよろしいのでしょうか……?」
詩季から放たれる質問に柔一朗は微かに眉を寄せた。
柔一朗を以ってしても想定外の問いだったのだろう。
「柔一朗様ご本人に確認していなかったと思いまして。こちらの屋敷の方々が柔一朗様とお呼びしていましたので、勝手にそうお呼びしておりました。ですが、民の皆さまは神狼様とお呼びになっております」
「――好きに呼べばいい」
余りにもあっさりとした返事だった。
「でも……」
「詩季になら何と呼ばれようが構わない」
(私なら、どう呼んでも……?)
詩季は胸の辺りがどきりと高鳴った。
しかし、夫婦とはどう呼び合うのが普通なのか詩季にはわからない。
詩季の記憶に父母の姿はなかった。
祖父母は互いを詩季に合わせて「おじいさん」「おばあさん」と呼び合っている。
「――柔様」
考えた末に、詩季が唇を開く。
「私は、”柔様”とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
詩季は自分だけの柔一朗への呼び方がほしかった。
(皆と同じではなく……)
柔一朗はまた淡泊に許可を出すかと思っていたが、黙してしまった。
その反応に詩季は不安が増していく。
(不愉快な思いをさせてしまったかしら……)
謝ろうかと考えた矢先、
「――俺に”柔”は似合わないだろう」
柔一朗が先に口を開いた。
詩季は何を言われたのかわからず、ぱっちりとした目を瞠る。
「昔から、そう思っていた」
意外な返答だった。
”柔”の漢字の意味は”やわらかい”や”しなやか”、”おとなしい”だ。
確かに柔一朗は一見すると”神狼”とも異名を持ち、寡黙で、冷静で、笑った顔も怒った顔も見せることはない。
神々に愛されたように欠点のない柔一朗の顔立ちは美しいがゆえに冷淡にも見える。
(まさか柔一朗様がご自身をそう感じていたなんて……)
柔一朗の心の奥に少しだけ踏み込めたような気がして、詩季は口許を綻ばせた。
「柔一朗様はお優しい方ですので、私はお似合いだと思います。素敵なお名前です」
詩季が澄んだ声色で伝える。
柔一朗の表情は変化を見せない。
それでも。
「――構わない」
柔一朗から承諾を受けて、詩季は心が弾んだ。
「柔様」
「――ああ」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
柔一朗は特に照れた様子も見せず、詩季に見送られて屋敷を後にする。
「……柔様……」
ひとり廊下に残された詩季は柔一朗に許可された名を呼んで、満足なのと照れくさいので頬を赤らめる。
秋の澄んだ空気だけが、詩季の声を聞いていた。



