「ある夜、ご神木を狙う集団が神域へ侵入しました」
「……ご神木を?」
「ええ。警護の者は命こそとりとめましたが、皆が重傷を負っておりました。侵入した理由は様々伝えられております。ご神木の神威を我が物にしようとしたとも、ご神木で私服を肥やそうとしたとも」
「ひどい……です」
「ええ。その夜、柔一朗様はただ一人、ご神木を守るため神域へ向かわれました。奉行所の役人を待っている時間はなかったのです。ご神木が傷つけば、国を支える結界が崩れ、民にも影響が及ぶ恐れもあります」
「柔一朗様がお一人で、ですか?」
「ええ。神官が止めようとした時には、柔一朗様はすでに神域へ出向かれた後でした。柔一朗様はご自身でご神木をお守りになると決められて動いていたのです」
詩季はごくりと唾を呑み込んでいた。
神聖なるご神木を狙い、警護の人間に怪我を負わせてまで侵入を試みる不謹慎で不埒な集団。
そこに一人で踏み込む――それがどれだけ危険が伴っているのか。
それも現在の詩季と同じ18歳の青年が。
生命さえ落としかねない危険性を孕んでいるのに。
「柔一朗様は、たったお一人で集団を退けたのです。朝方、侵入した全員を奉行所に引き渡しました。ご神木は一本の枝も一枚の葉も失うことなく、朝日を迎えられたのです」
詩季はほっと胸を撫で下ろす。
神官長は穏やかに目尻を下げた。
「柔一朗様の圧倒的な強さと静かな立ち振る舞いは人々の語り草となり、いつしか”神狼が現れた”という噂が国中へと広がっていきました。神域を守る気高い狼のようなお方であると」
どれほど激しい戦いだったのかは語られない。
それでも、その夜の重さも、柔一朗が神狼様と呼ばれる所以も充分に伝わってきた。
詩季は障子越しに屋敷からでも見える雄大なご神木へと目を向ける。
詩季が神契の花嫁となり、毎朝祈りを捧げてきた、この国の歴史を余すことなく見守ってきたご神木。
その荘厳な姿の裏には、一人の若き当主が命を懸けて守り抜いた夜があった。
「柔一朗様は、どこまでも責任感の強いお方でいらっしゃるのですね……」
「ええ。柔一朗様のお父上が急逝なされ、齢17で若永家のご当主になられましたから」
静謐な時間が書庫に流れる。
やがて、柔一朗のことを頭に描いていた詩季が神官長に対して頭を下げた。
「ありがとうございます。お話を伺えて、良かったです」
「いいえ。いずれ詩季様には、お伝えしたいと考えておりました。柔一朗様から、この話をなさることはないでしょうから」
詩季は納得する。
柔一朗は自ら誇ることもしなければ、語り継ごうともしない人間だ。
若永家当主として変わらず日々、ご神木を守り、人々のために務めを果たしている。
これまで過ごしてきた中で、言葉は少なくとも、寡黙な柔一朗の品格が詩季にも自然と伝わっていた。
明くる朝、詩季は今日も日課の神事のために、ご神木の前にいた。
ただ、いつもと違うのは詩季が先に神域に入っていたということだった。
いつもは柔一朗が先にご神木の前で待っている。
「おはようございます。柔一朗様」
先に来ていた詩季に少なからず驚いたのか柔一朗は一度、足を止めた。
「――おはよう」
短い挨拶。
それだけなのに、詩季の表情は綻ぶ。
二人は並んで御神木へ向き直る。
朝日に照らされた枝葉が、風を受けて静かに揺れた。
いつもと同じ祈りに同じ時間。
しかし詩季の胸にはどこか穏やかな温もりが広がっていた。
神事を終え、柔一朗と屋敷へと戻る道すがら、ひらりと舞い落ちた紅葉が詩季の肩へと着地する。
柔一朗は赤橙色の葉を一枚手にとった。
「とても綺麗に色づいています」
「――そうだな」
「もうすぐ豊穣祭ですよね。毎年、忙しくなるとお聞きしました」
「――ああ」
間近に迫った秋の豊穣祭で、詩季は一人で供物の確認を任されるようになっていた。
右も左もわからなかった春から、教わりながら供物を整えた夏を経て、詩季は確実に成長している。
柔一朗と屋敷へ戻ると、いつものように朝餉の支度は整えられている。
「今日の味噌汁に入っているきのこは山で採れたばかりの初物ですよ」
そう告げた女中が部屋から出ていくと、柔一朗と二人の時間が始まった。
「きのこ、おいしいですね。里芋も味が染みていて。秋の味です」
季節の恵みを丁寧に味わう朝餉を詩季が頬を綻ばせながらいただいていると、ふと視線を感じた。
詩季がおいしそうに食べる姿を見て、柔一朗は僅かに表情を和らげる。
「――口に合っているようで何よりだ」
「はい。いつも美味しくて、時季にあったものをいただけて幸せです」
詩季はそれを料理に携わっている使用人たちにも早くから伝えていた。
使用人たちも喜び、ますます調理の腕を振るっているという。
「……ご神木を?」
「ええ。警護の者は命こそとりとめましたが、皆が重傷を負っておりました。侵入した理由は様々伝えられております。ご神木の神威を我が物にしようとしたとも、ご神木で私服を肥やそうとしたとも」
「ひどい……です」
「ええ。その夜、柔一朗様はただ一人、ご神木を守るため神域へ向かわれました。奉行所の役人を待っている時間はなかったのです。ご神木が傷つけば、国を支える結界が崩れ、民にも影響が及ぶ恐れもあります」
「柔一朗様がお一人で、ですか?」
「ええ。神官が止めようとした時には、柔一朗様はすでに神域へ出向かれた後でした。柔一朗様はご自身でご神木をお守りになると決められて動いていたのです」
詩季はごくりと唾を呑み込んでいた。
神聖なるご神木を狙い、警護の人間に怪我を負わせてまで侵入を試みる不謹慎で不埒な集団。
そこに一人で踏み込む――それがどれだけ危険が伴っているのか。
それも現在の詩季と同じ18歳の青年が。
生命さえ落としかねない危険性を孕んでいるのに。
「柔一朗様は、たったお一人で集団を退けたのです。朝方、侵入した全員を奉行所に引き渡しました。ご神木は一本の枝も一枚の葉も失うことなく、朝日を迎えられたのです」
詩季はほっと胸を撫で下ろす。
神官長は穏やかに目尻を下げた。
「柔一朗様の圧倒的な強さと静かな立ち振る舞いは人々の語り草となり、いつしか”神狼が現れた”という噂が国中へと広がっていきました。神域を守る気高い狼のようなお方であると」
どれほど激しい戦いだったのかは語られない。
それでも、その夜の重さも、柔一朗が神狼様と呼ばれる所以も充分に伝わってきた。
詩季は障子越しに屋敷からでも見える雄大なご神木へと目を向ける。
詩季が神契の花嫁となり、毎朝祈りを捧げてきた、この国の歴史を余すことなく見守ってきたご神木。
その荘厳な姿の裏には、一人の若き当主が命を懸けて守り抜いた夜があった。
「柔一朗様は、どこまでも責任感の強いお方でいらっしゃるのですね……」
「ええ。柔一朗様のお父上が急逝なされ、齢17で若永家のご当主になられましたから」
静謐な時間が書庫に流れる。
やがて、柔一朗のことを頭に描いていた詩季が神官長に対して頭を下げた。
「ありがとうございます。お話を伺えて、良かったです」
「いいえ。いずれ詩季様には、お伝えしたいと考えておりました。柔一朗様から、この話をなさることはないでしょうから」
詩季は納得する。
柔一朗は自ら誇ることもしなければ、語り継ごうともしない人間だ。
若永家当主として変わらず日々、ご神木を守り、人々のために務めを果たしている。
これまで過ごしてきた中で、言葉は少なくとも、寡黙な柔一朗の品格が詩季にも自然と伝わっていた。
明くる朝、詩季は今日も日課の神事のために、ご神木の前にいた。
ただ、いつもと違うのは詩季が先に神域に入っていたということだった。
いつもは柔一朗が先にご神木の前で待っている。
「おはようございます。柔一朗様」
先に来ていた詩季に少なからず驚いたのか柔一朗は一度、足を止めた。
「――おはよう」
短い挨拶。
それだけなのに、詩季の表情は綻ぶ。
二人は並んで御神木へ向き直る。
朝日に照らされた枝葉が、風を受けて静かに揺れた。
いつもと同じ祈りに同じ時間。
しかし詩季の胸にはどこか穏やかな温もりが広がっていた。
神事を終え、柔一朗と屋敷へと戻る道すがら、ひらりと舞い落ちた紅葉が詩季の肩へと着地する。
柔一朗は赤橙色の葉を一枚手にとった。
「とても綺麗に色づいています」
「――そうだな」
「もうすぐ豊穣祭ですよね。毎年、忙しくなるとお聞きしました」
「――ああ」
間近に迫った秋の豊穣祭で、詩季は一人で供物の確認を任されるようになっていた。
右も左もわからなかった春から、教わりながら供物を整えた夏を経て、詩季は確実に成長している。
柔一朗と屋敷へ戻ると、いつものように朝餉の支度は整えられている。
「今日の味噌汁に入っているきのこは山で採れたばかりの初物ですよ」
そう告げた女中が部屋から出ていくと、柔一朗と二人の時間が始まった。
「きのこ、おいしいですね。里芋も味が染みていて。秋の味です」
季節の恵みを丁寧に味わう朝餉を詩季が頬を綻ばせながらいただいていると、ふと視線を感じた。
詩季がおいしそうに食べる姿を見て、柔一朗は僅かに表情を和らげる。
「――口に合っているようで何よりだ」
「はい。いつも美味しくて、時季にあったものをいただけて幸せです」
詩季はそれを料理に携わっている使用人たちにも早くから伝えていた。
使用人たちも喜び、ますます調理の腕を振るっているという。



