***
いつの間にか、夜明けの空気が澄み渡り、日によってはひんやりとした風が身震いさせた。
神域へ続く石畳には、色づき始めた葉が一枚、また一枚と静かに舞い落ちている。
今日も日課の神事で詩季は柔一朗の隣で両手を軽く合わせ、ご神木の前で祈りを捧げた。
いつものようにつつがなく終えて、屋敷へと続く道を戻る。
詩季が視線を上昇させると、木々の枝先には小さな木の実がいくつも実っているのが目に入った。
「柔一朗様、実がなっています」
詩季の指さした先を柔一朗も目線を上げて確認した。
「――ああ」
柔一朗は詩季の隣で立ち止まって短く頷くだけ。
「春の新芽が、きちんと育っていたんですね」
「――そうだな」
詩季が話しかけても、柔一朗から多くの言葉が返ってくることはない。
それでも僅かに目線を細めたりとか、ほんの少し頬が緩んだりとか、柔一朗が僅かでも反応を見せてくれることに詩季は気がつけるようになっていた。
朝餉を終えると、柔一朗は今日も早々に当主としての務めへ向かう。
柔一朗が屋敷に戻るのは今日も夜遅いのだろう。
詩季は掃除をしようと廊下を進む。
最初は詩季が屋敷の仕事を手伝うことに対して遠慮していた女中たちも、今では観念したのか受け入れている。
「今まで神事は務めても、女中の仕事まで手伝っていた神契の花嫁様はいらっしゃらないそうよ」
以前、女中たちが笑いながら教えてくれた。
「詩季様」
向かいから歩いてきた神官長が穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
「本日の朝の神事もお疲れさまでございました」
「いえ、おはようございます」
「少々、詩季様のお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「今からですか?」
「はい。帳面を整理したいのですが、人手が足りず。恐れ多いのですが、詩季様のお手を借りられればと」
「もちろんです」
「ほっほっほ。少し、書庫へとお付き合いください」
詩季は神官長に頷き、後へと続く。
誰かの役に立つことに詩季がやりがいを感じているのを神官長は見抜いていた。
母屋の奥に書庫はある。
重い木戸を神官長が開けた。
壁一面に設えられた木製の書架には、和綴じの書物や巻物が年代ごとに整然と並び、長い年月を重ねた紙と木の香りがほのかに漂っている。
障子から差し込む柔らかな陽光は、畳を淡く照らし、室内に穏やかな時間を流していた。
中央には低い机と座布団がいくつか置かれ、必要な書物を広げられるようになっている。
「こちらを年代ごとに並び替えていただけますか?」
「はい」
詩季は一冊一冊、丁寧に埃を払いながら棚へ納めていく。
どの帳面も、大切に保管されてきたことが伝わるような温かい手触りだった。
「詩季様、ありがとうございました。よろしければ、ご覧になられますか?」
神官長は棚から一冊の帳面を取り出し、机の上へ置いた。
詩季も促されて神官長の隣へと腰を落とす。
「歴代の神契を記した記録です」
「歴代の……ですか?」
「百年に一度しか行われない神契ですから、記録としてしか次に遺せないのです。その年に起きた出来事や祭礼の記録とともに、大切に次代へと受け継いでおります」
神官長は壊れ物でも扱うかのように大事に表紙を撫でる。
「神契の花嫁様が神前で残されたお言葉も、その一つです。詩季様のものも記録しております」
「え……?」
「百年後に、また神契の花嫁を迎え、この記録を読む神官がいますので」
詩季は少し照れくさくなったのと、改めて百年という月日の長さを思う。
百年後には今この若永神宮に集っている人間は、ほぼ確実にこの世に生きてはいない。
それでも記録として今が重なって受け継がれていく。
「柔一朗様も、詩季様が神契の花嫁で良かったと感じていらっしゃると思いますよ」
「そうでしょうか……」
「感情を表に出す御方ではありませんから」
「あ、あの、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何なりとどうぞ」
神官長の全てを受け入れてくれそうな柔らかな眼差しに、詩季は気にかけていたことを尋ねる。
「どうして皆さんは柔一朗様のことを”神狼様”とお呼びになるのでしょうか?」
柔一朗が”神狼”と呼ばれていることも、その異名に違わない男だということも詩季は知っている。
しかし由来については何も知らなかった。
「あれは六年前……柔一朗様が十八になられた年の秋でした」
神官長が穏やかな声で語り始める。
詩季も耳を澄ませて聞いていた。
いつの間にか、夜明けの空気が澄み渡り、日によってはひんやりとした風が身震いさせた。
神域へ続く石畳には、色づき始めた葉が一枚、また一枚と静かに舞い落ちている。
今日も日課の神事で詩季は柔一朗の隣で両手を軽く合わせ、ご神木の前で祈りを捧げた。
いつものようにつつがなく終えて、屋敷へと続く道を戻る。
詩季が視線を上昇させると、木々の枝先には小さな木の実がいくつも実っているのが目に入った。
「柔一朗様、実がなっています」
詩季の指さした先を柔一朗も目線を上げて確認した。
「――ああ」
柔一朗は詩季の隣で立ち止まって短く頷くだけ。
「春の新芽が、きちんと育っていたんですね」
「――そうだな」
詩季が話しかけても、柔一朗から多くの言葉が返ってくることはない。
それでも僅かに目線を細めたりとか、ほんの少し頬が緩んだりとか、柔一朗が僅かでも反応を見せてくれることに詩季は気がつけるようになっていた。
朝餉を終えると、柔一朗は今日も早々に当主としての務めへ向かう。
柔一朗が屋敷に戻るのは今日も夜遅いのだろう。
詩季は掃除をしようと廊下を進む。
最初は詩季が屋敷の仕事を手伝うことに対して遠慮していた女中たちも、今では観念したのか受け入れている。
「今まで神事は務めても、女中の仕事まで手伝っていた神契の花嫁様はいらっしゃらないそうよ」
以前、女中たちが笑いながら教えてくれた。
「詩季様」
向かいから歩いてきた神官長が穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
「本日の朝の神事もお疲れさまでございました」
「いえ、おはようございます」
「少々、詩季様のお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「今からですか?」
「はい。帳面を整理したいのですが、人手が足りず。恐れ多いのですが、詩季様のお手を借りられればと」
「もちろんです」
「ほっほっほ。少し、書庫へとお付き合いください」
詩季は神官長に頷き、後へと続く。
誰かの役に立つことに詩季がやりがいを感じているのを神官長は見抜いていた。
母屋の奥に書庫はある。
重い木戸を神官長が開けた。
壁一面に設えられた木製の書架には、和綴じの書物や巻物が年代ごとに整然と並び、長い年月を重ねた紙と木の香りがほのかに漂っている。
障子から差し込む柔らかな陽光は、畳を淡く照らし、室内に穏やかな時間を流していた。
中央には低い机と座布団がいくつか置かれ、必要な書物を広げられるようになっている。
「こちらを年代ごとに並び替えていただけますか?」
「はい」
詩季は一冊一冊、丁寧に埃を払いながら棚へ納めていく。
どの帳面も、大切に保管されてきたことが伝わるような温かい手触りだった。
「詩季様、ありがとうございました。よろしければ、ご覧になられますか?」
神官長は棚から一冊の帳面を取り出し、机の上へ置いた。
詩季も促されて神官長の隣へと腰を落とす。
「歴代の神契を記した記録です」
「歴代の……ですか?」
「百年に一度しか行われない神契ですから、記録としてしか次に遺せないのです。その年に起きた出来事や祭礼の記録とともに、大切に次代へと受け継いでおります」
神官長は壊れ物でも扱うかのように大事に表紙を撫でる。
「神契の花嫁様が神前で残されたお言葉も、その一つです。詩季様のものも記録しております」
「え……?」
「百年後に、また神契の花嫁を迎え、この記録を読む神官がいますので」
詩季は少し照れくさくなったのと、改めて百年という月日の長さを思う。
百年後には今この若永神宮に集っている人間は、ほぼ確実にこの世に生きてはいない。
それでも記録として今が重なって受け継がれていく。
「柔一朗様も、詩季様が神契の花嫁で良かったと感じていらっしゃると思いますよ」
「そうでしょうか……」
「感情を表に出す御方ではありませんから」
「あ、あの、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何なりとどうぞ」
神官長の全てを受け入れてくれそうな柔らかな眼差しに、詩季は気にかけていたことを尋ねる。
「どうして皆さんは柔一朗様のことを”神狼様”とお呼びになるのでしょうか?」
柔一朗が”神狼”と呼ばれていることも、その異名に違わない男だということも詩季は知っている。
しかし由来については何も知らなかった。
「あれは六年前……柔一朗様が十八になられた年の秋でした」
神官長が穏やかな声で語り始める。
詩季も耳を澄ませて聞いていた。



