立春の朝は、冬の名残を抱えたまま静かに訪れた。
詩季が障子を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でる。
山の端から差し込む淡い陽光が、夜露をまとった草葉をきらりと照らしていた。
凍てつく冬とは違う、どこか柔らかな香りが風にも土にも混ざっている。
「……また春が来るのね……」
詩季は小さく呟く。
身支度を整えて、庭へと出ると祖父が丹精に育てている梅の枝先に、小さな蕾がいくつも膨らんでいた。
小鳥が二羽、囀りながら、頭上を飛んでいく。
「もう少しで咲きそうだわ」
梅の木を眺めながら、詩季が微笑むと、縁側から祖母が名前を呼んだ。
「詩季ちゃん、おいで。朝露で足をとられないようにね」
「はーい。おばあちゃん、おはようございます」
「おはよう。今日は少し暖かいわね」
「そうですね」
祖母と二人で居間に朝の食卓の準備をする。
中央に置かれた年季を重ねた低い木の食卓。
質素ではあるが、丁寧に整えられた膳は穏やかな暮らしぶりを語っている。
開け放した障子から差し込む瑞々しい陽光に照らされ、汁椀からは湯気がのぼっていた。
畳の香りは今は味噌汁と焼き魚の香ばしい匂いに隠されてしまう。
起きてきた祖父と三人で食卓を囲んだ。
「いただきます」
意図して合わせなくても自然と揃う声。
「今年も梅がきれいに咲きそうだ」
祖父が庭先へ目を向けた。
「はい。蕾が昨日よりも膨らんでいました」
「詩季ちゃんは本当によく見ているのね」
祖母の眼差しも声色も、いつも通り柔らかい。
「今日は立春だ」
「もうそんな時分なんですねえ」
「一年はあっという間だな」
祖父母が穏やかに笑い合う。
「私は一年って長いと思います」
「そう感じるのは詩季ちゃんが若いからよ」
「私も年は18になりました」
「儂にとっては、いつまでも詩季はかわいい孫じゃ」
「うんうん。あの幼かった詩季ちゃんがこんなに成長して……」
いつもと変わらない祖父母の愛に包まれる慎ましやかで穏やかな朝の風景だった。
皆が食事を終え、詩季は片付けるために真っ直ぐに胸まで伸びた絹のような髪を手櫛でまとめていく。
その瞬間、祖母が詩季を見つめたまま、静止した。
「……詩季ちゃん。それ……」
祖母の声は震えていた。
「おばあちゃん……?」
詩季が顔を上げると、祖母は青ざめ、祖父も皺が刻まれた眦を持つ目を丸くしていた。
「まさか、詩季が……」
「おじいちゃんも……?」
ただならぬ祖父母の様子に詩季には疑問と不安だけが募っていく。
「詩季ちゃんの首筋の模様……」
「間違いなく、神契の紋だ」
祖父は詩季の近くへにじり寄ると、震える指先で詩季の細い首筋へと手を伸ばした。
詩季の首筋には、淡い朱色の紋様が浮かんでいる。
幾枚もの花びらが重なり合うような繊細な意匠は、まるで肌へ咲いた一輪の花のようだった。
「神契って何なのですか?」
「百年に一度だけ現れる、神様に選ばれた花嫁の証じゃ」
「花嫁……? 私が……ですか?」
この国には由緒ある家の娘も、教養を誇る娘も大勢いて、神職の家系も多い。
物心つく前に父母を疫病で亡くし、祖父母と慎ましく暮らしてきた庶民の詩季が国中の娘の中から選ばれる理由など、思い当たらなかった。
「間違いなく神契の花嫁の紋に違いない。まさか本当に百年に一度、神がお選びになる花嫁に突如として紋が浮かぶとは……」
「この国には昔から言い伝えがあるのよ。花嫁の首筋に紋が浮かんだら、すぐにご神木のある若永神宮に向かうようにと……」
「若永神宮って、あの……?」
「ああ。国中の人々が手を合わせる、ご神木を代々守っている神社だ」
詩季の幼い頃、一度だけ祖父母に連れられて若永神宮を参拝した記憶がある。
参拝客の多さに圧倒され、広い境内ではぐれないよう、祖母の手を離さないだけで精一杯だった。
それでも一目見たご神木の姿は覚えている。
天を衝くようにそびえ立ち、神々しく、幹は幾人もの大人が手を繋いでも抱えきれないほど太く力強く、空へ伸びる枝が無数に広がっていた。
はるか昔、この国が生まれる前から根を張り、人々の営みを幾千年と見守り続けてきたという。
老若男女の誰もが頭を垂れて、ご神木へと手を合わせていた。
「詩季、さっそく支度をするぞ」
「え? 今からですか?」
「一刻も早くじゃ。紋が現れた花嫁は、すぐに神前へ赴かなければならない。それがこの国に代々続いているしきたりじゃ」
詩季は自分の身に振りかかっていることを正確に把握できなかった。
それでも祖父母の神妙な表情は事実だと物語っている。
立春の穏やかな朝は終わりを迎えた。



