「今夜が別邸での最後の夕餉ですね」
「灰理が望むなら、このまま別邸で暮らしてもいいんだよ」
「いいえ、当主が本邸にいないのはおかしいですから。私は千輝様のおそばにおります」
慣れ親しんだ別邸を離れるのは寂しいけれど、抄子をはじめとする使用人たちは皆引き続き本邸で働いてくれる。
それがとても心強い。
「今夜は優次郎も呼んでいるから、みんなで最後の夜を楽しもう」
「紫倉先生来てくださるのですか! すごく楽しみです!」
「……そんなに喜ばれるのは嬉しくないな」
千輝はむすっとする。
「灰理は優次郎に懐きすぎだと思う」
「懐いているといいますか、師匠と仰いでいます」
「うーん、気に食わない。優次郎の皿には苦手な唐辛子をたんまり入れてやろうか」
「ダメですよ!」
「冗談だよ」
口ではそう言っていたが、目が本気に見えた。
案外嫉妬深い一面には戸惑うけれど、嫌ではない。これからもっと、一番近くで千輝の色々な一面を知りたいと思う。
「ふふっ」
「何故笑う?」
「かわいらしいな、と思いまして」
「私が?」
「はい」
「心外だな」
「褒めていますよ?」
「かわいいのは君の方じゃないか」
千輝は不意打ちで灰理の額に口付けを落とす。
みるみるうちに灰理の顔は真っ赤に染まる。
「ほら、かわいい」
「千輝様! 不意打ちはずるいです!」
「あははっ」
恥ずかしくて照れくさくて仕方ないが、それ以上に幸せだった。
何気ない穏やかな日常を、大好きな人と過ごせている一瞬一瞬が幸福に満ち溢れている。
灰理がずっと望んでいた夢が叶ったのだと思うと、不意に涙がこぼれそうになる。
「千輝様、これからもおそばにいさせてください」
菖蒲色の瞳を真っ直ぐ見つめてそういった灰理を、千輝はふわりと抱き上げる。
「離せと言われても一生離さないよ」
「……離さないでください」
元より離れるつもりなんかないけれど。
「ずるいのは、君の方だ」
「え?」
「今そんなこと言われたら、帰りたくなくなる」
熱のこもった視線を真っ直ぐ向けられ、さらに頬の熱が上がってゆく。
きゅっと胸が締め付けられながら、それでも視線を逸らせなかった。
「っ、千輝様……」
千輝の大きな手がそっと灰理の頬を包み込む。
永遠なんていらない、けれど時折思う。この時が止まってしまえばいいと。
「——千輝、灰理。何をしている」
突然話しかけられたと思ったら、優次郎が立っていた。
「二人で何を遊んでいるんだ。お前たち、きちんと薬は飲んでいるのか?」
怪訝そうに眉根を寄せる優次郎に、灰理は慌てて離れる。
「もちろん! 忘れずに飲んでおります」
「本当か? 千輝も忘れていないだろうな」
「優次郎、今夜のお前の夕餉は特別に唐辛子山盛りだ。いくらでも食べてくれ」
「はあ!?」
「別邸最後の食卓、楽しもうじゃないか」
「おい千輝!」
相変わらず少年のようなやり取りをする二人を見て、思わず笑ってしまう。
それと同時に日常がかえってきたのだな、と改めて実感する。
「灰理、何をぼうっとしている」
「灰理、帰るよ」
千輝は灰理に向かって手を差し出す。
「はいっ。私たちの家に帰りましょう」
灰理は微笑み、千輝の手を握りしめる。
大切な人たちと過ごす何気ない普通の日常がいつまでも続いてほしい。
でも、永遠はいらない。限りある時間の中で積み重ねていくからこそ、何よりも尊く輝いている。
fin.



