欲望に忠実で非道なこの男が公爵を継いだら、この世は終わる。
「あなたは、当主には相応しくないわ」
「なんだと?」
蘇芳は額にピクリと青筋を立てたが、灰理は怯まなかった。
「あなたみたいな自分のことしか考えてない人は、人の上に立つ資格なんてない」
千輝は違う、どんな人間も差別せずに弱き者に手を差し伸べる。
自分の命を削るとわかっていても、目の前で困っている人を見過ごせない優しい人だ。
「あなたが千輝様に劣るのは、瑛気だけじゃない……!」
「黙れ!!」
「きゃあっ」
大きな轟音とともに部屋の中に水が流れ込む。
水流が龍の如くうねり、灰理に襲いかかって水中に閉じ込めた。
(苦しい……っ!)
「無能のくせにわかったような口を聞くな!」
「……っ!」
水が鼻から入り込み、喉の奥が焼けるように痛んだ。
息を吐けば泡がこぼれるが、次に吸い込める空気はない。
胸が破裂しそうだった。耳の奥で自分の心臓の音だけが、ドクンドクンと遠く響く。
(苦しい……っ)
傷なら治る。骨が折れても、肉が裂けても、灰理の体は再生する。
けれど——呼吸はできない。
(私、本当に死ぬ……?)
目の前にはっきりと“死”というものが立ち塞がる。
死が迫ってきたのはあの火事があった時以来のことだった。
「流石の貴様でも水中では息が続かないだろう。生きて帰してやるつもりだったが、貴様はここでくたばれ!」
意識が遠のく中、蘇芳の下衆な高笑いが微かに耳に響いていた。
「ち、ぎら……さま」
だめだ、死ぬわけにはいかない。ここで死んだら千輝も死ぬことになる。
千輝のためにも、絶対に倒れるわけにはいかない。
そして死を目前にして灰理は後悔していた、千輝に対する自分の想いを押し殺していたことを。
千輝が向けてくれる優しさを勘違いしてはいけない、自分の想いも彼にとっては迷惑だろうと思っていた。
だが、許されるのなら伝えたかった。
心から愛していると、これからも共に生きていきたいのだと千輝に伝えたい。
(私はまだ、死にたくないの……!)
するとその時、灰理の胸元が光った。眩い光の正体は、首飾りにして身につけていた千輝の瑛気の結晶だった。
結晶の光はどんどん強くなっていき、やがて巨大な輝きとなって爆発する。
「うわあ……っ!」
あまりの眩さに目をやられた蘇芳はそのまま床に倒れ込んだ。その直後、灰理は水牢から解放される。
「けほっ、ゴホッ」
思いきり水を飲んでしまい、しばらくは苦しさが続いたが生きている。指先が冷たくなりながらきちんと息ができているのを実感する。
次の瞬間、どこからか光のブーメランが飛んできて灰理の両手両足を繋いでいた縄が切れて解き放たれた。
「灰理! 無事ですか!?」
「ち、千輝、さま……?」
「無事でよかった!」
千輝は灰理に駆け寄り、ぎゅっと強く抱きしめる。温かくて優しい匂いがした。
その手も声も微かに震えていたが、抱きしめる力は強い。それでも痛いとは思わず、むしろその痛みさえも安心するものだった。
「本当に……よかった」
本物の千輝だとわかった灰理は、安心したと同時に全身から力が抜けていくのがわかった。
「灰理!」
(よかった……)
千輝の叫ぶ声を聞きながら、灰理は瞼を閉じる。そのまま千輝の腕の中で意識を手放した。



