「父上」
千輝が呼びかけると、左京はゆっくりと振り返る。射抜くような強い眼力に早くも足が竦みそうになる。
灰理は何とか立って、ゴクリと唾を飲み込む。
(この方が、千輝様のお父様の紫上院公爵……)
ニコリともしない仏頂面、冷たい金色の瞳、そこに存在するだけで気圧される圧倒的な威圧感。顔立ちや雰囲気に至るまで千輝とは似ていないなと思った。
「ご無沙汰しております、父上」
千輝が深々と頭を下げたのに倣い、灰理もお辞儀する。
「どうやら私は、お前を好き放題させすぎたようだ」
頭上から低い声が降ってくる。
「よもや私の許可も得ず、勝手に婚約するとは」
「全くですね。どこの馬の骨ともわからん娘を娶ろうなど、公爵家の自覚が足らなすぎる」
若い男性の声に千輝がピクリと反応したのがわかった。
「これは兄上、ご機嫌麗しゅうございます」
「フン、思ってもないことを」
一瞬にして空気がひりつくのがわかった。左京とはまた違った緊張感が走り、灰理の鼓動が更に速くなる。
紫上院蘇芳、この男が千輝の命を蝕む元凶をつくった。
(この人がいなければ、千輝様は——)
灰理は自分でも初めて経験する感情に襲われた。体中に血が昇り、熱くなる。
今まで黒須家でどんなに虐げられてきても耐えてきた。理不尽な理由で殴り蹴り、罵声を浴びせる晶穂は憎いよりも怖いという感情が勝っていた。
しかし蘇芳に対する感情は明らかに憎悪だった。
この男さえいなければ、千輝は短命の呪いに冒されることはなかった。
自分の中にも怒りや憎しみといった感情があったことに驚かされる。
「おい、そこの女」
蘇芳に声をかけられ、灰理は思わずビクリとする。
「何か言ったらどうだ」
「……ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
内なる暴れ出したくなる気持ちを必死に押し殺し、灰理は平静を装う。
「黒須灰理でございます。紫上院公爵様、並びに蘇芳様とお会いできましたこと、何よりの誉れにございます」
「そんな社交辞令などどうでもいい」
左京は吐き捨てた。
「千輝、どういうことか説明してもらおうか」
「父上のお怒りは尤もにございます。まずは父上に何の報告もなく婚約したこと、お許しください。ですが私は——」
「そんなことを聞いているのではないっ」
左京が声を荒げると、少し騒ついていた空気が一瞬にして静まり返る。
「この女は、何者なのだと聞いている」
「黒須家という非瑛人の貴族の出身です」
「非瑛人だと……?」
途端に左京の表情が険しくなる。
非瑛人の娘を娶るなどといったら反対されるのはわかっていたが、調べたらすぐにわかることだ。
これについては偽りなく話そうということで事前に決めていた。
「はい、ですがご安心ください。家の者は灰理の瑛気に気づいていません。瑛気そのものすら認識していない」
「馬鹿なことを抜かすな。そんな髪をしていながら、瑛気に気づかないだと?」
不躾にも蘇芳は灰理の頭を指差した。それだけで灰理は不快感を滲ませる。
「仰る通り、この髪色から私は彼女が瑛人だと悟りました。ですが彼女の瑛気は少々特殊で、瑛気を知らない者には気づきにくいものなのです」
「どういうことだ?」
「彼女は自分しか癒せない治癒の瑛気の持ち主なのです」



