「さあ、今日からここがあなたの家です」
「ここが……」
車に乗ってやってきたのは黒須家の邸宅とは比べ物にならないほど大きく立派な洋風の屋敷だった。
車に乗ることすら初めてで道中はずっと落ち着かなかったが、案内された場所に今度は呆気に取られる。
「ここは紫上院の別邸で私と使用人しかいません。どうか気兼ねなくごゆるりとなさってください」
「あっ、ありがとうございます」
この屋敷で別邸ということは本邸はどのくらいの大きさなのだろう。早くも紫上院の規模感を目の当たりにし、慄くばかりだ。
(ここが私の家になるだなんて、全く実感が湧かないわ)
あの黒須家から抜け出せただけでもまだ信じられない。
自分は一生あの山奥でひっそりと暮らすのだと思っていたからだ。
それがまさか、千輝の婚約者として迎えられるなんて。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、なんでもありません」
(どうしよう、千輝様のお顔を見ているだけで緊張する)
本当に自分にこんなに素敵な人の婚約者が務まるのだろうかと、何度も悶々としてしまう。
「おかえりなさいませ、千輝様!」
明るい声とともに一人の少女がパタパタと駆け寄ってきた。服装を見る限りは女中のようで、年は灰理よりも年下に見える。
そばかすのある人懐っこい笑顔で少女は言った。
「道中お疲れ様でございました」
「ただいま、抄子。こちらが私の婚約者、黒須灰理さんだ」
「黒須灰理と申します」
灰理はドギマギしながら頭を下げる。まだ婚約者という言葉に慣れず、顔が熱くなるのを感じながら。
「初めまして、灰理様。私は水野抄子と申します」
「これから抄子が専属の女中として身の回りの世話をしてくれるので、何かあれば抄子を頼ってください」
「灰理様にお会いできるのを楽しみにしておりました! よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私に女中なんて、と言いかけた言葉を飲み込んで深々と頭を下げる。
(私は千輝様の婚約者として迎えられるんだもの、それらしく振る舞わなくては)
正直に言えばまだ不安は拭えない。むしろこの家を見て更に怖気付いたというのが本音だ。
車の中でもずっと押し黙る灰理を見兼ね、千輝がこういった。
『そんなに緊張しないでください。あくまで一時的に婚約者のふりをしていただくだけですから』
『婚約者のふりですか……?』
『髪色が異なる瑛人はとても珍しく、紫上院家でも滅多に生まれない存在です。現に叔父上以外にはいませんでした。だからあなたが隠し子だと早々にばれる可能性があります』
『そうですか』
やはりこの髪ではどこにいても目立つのだ。
『ひとまずは婚約者ということにして、後々のことはこれから考えていきましょう』
『はい』
つまりこれは偽装婚約というわけだ。
もしかしたら千輝は灰理を気遣ってくれたのかもしれない。突然結婚なんて言われても戸惑うと思い、偽装と言ってくれたのではないか。
なんて優しい方だと感激しながらも、だからこそ千輝の厚意に応えなければと奮い立つ思いである。
助けてくれる千輝のためにも、絶対にばれてはいけない。



