もとの世界に戻ると、前と同じように、九月一日、始業式の日から日常が始まった。もう、頬を引っ張って現実であることを確認する必要はなかった。
私は、翔くんと距離を置くことはせずに、水泳部部長と、文化祭実行委員を引き受けた。英語の発表は、私に発表をお願いしてきた男子にやってもらうことになった。半泣きだった。
「いよいよ明日だな」
体育館の外で、翔くんを待っていると、たまたま鉢合わせた岩田くんがいつになく力強い声で話しかけてきた。先程体育館内で劇の最後のリハーサルが終わった。明日からは、後夜祭を含めた二日間の文化祭が始まる。私たちの劇は明日の午前十一時から開幕する予定だ。
「うん。ほんとに、みんなと一緒に文化祭準備できてよかった。文化祭実行委員として関われてよかった」
「なにちょっとしんみりした感じ出してんだよ。それやっていいのは文化祭が全部終わってからだろ?」
岩田くんがにかっと笑って、歯を光らせた。なんだか、他に見たことがないような、輝かしい笑顔だと思った。
そこに最後の片付けを終えたらしい翔くんが担任の先生と共に顔を出した。
「おい岩田、俺の雪葉口説いてんじゃないだろうな」
冗談めいた口調で、岩田くんを咎める翔くん。それに岩田くんがかぶりを振った。
「バカか。誰が親友の彼女狙うかよ。そんなことしたらお前に呪い殺されそうだしな」
がははっと岩田くんが豪快に笑い声をあげる。体育館の鍵を閉め終えた担任の先生が、振り返って私たちに口を挟んだ。
「お前らいちゃついてもいいけど学校出てからにしとけよ。他の先生に見つかると指導対象だからな」
「は、はい」
翔くんと私は揃って、弱々しく返事をする。
「ま、でもいいもんだよな。大人になると、そんな心のままに出来る恋愛は少なくなっちゃうから、大事にするんだぞ」
ふと先生が口にして、思わず顔を見上げる。
教室で生徒の前に立っている時の先生と全く異なった雰囲気に、少し驚いてしまう。普段は注意事項ばかりを述べていて、絶対にこんなことは言わない。
「あ、ありがとうございます?」
不思議に思いながら、お礼を述べると先生は少し可笑しそうに笑った。
「ほら、明日劇やるんだから、帰った帰った。今日の夜はゆっくり休めよ」
先生が手を上げたので、私たちは軽く会釈をして、学校を後にした。
「最後に円陣組まね?」
「いいね」
校門を出たあと、岩田くんが提案したので、それに賛成する。早速彼が拳を突き出し、それに倣う形で翔くんと私が手を突き合わせた。
「絶対最高の劇にするぞー!」
「おー!!」
掛け声とともに天に掲げられた三つの拳は、月明かりに照らされて、大きく輝く。私の心は、珍しく澄み切っていて、今なら本当に何でもできてしまうような気がした。
翌日学校に着くと、校内の装飾や生徒達の様子からすごい活気が感じられた。教室ではそれぞれが自分の仕事の最終確認を行っていた。音響の確認、背景美術の確認、セリフの確認。そこに混ざって、私は衣装係からヒロイン役の衣装を受け取る。
私はヒロイン役に立候補して、その意見が通った。主人公役はもちろん翔くんだ。
彼らにありがとうと謝辞を述べて、更衣室へと向かった。まだ本番までは二時間ほどあるけれど、心臓が緊張でばくばくして、手汗が酷い。着替えとメイクを終えて、教室に戻ると、他の生徒たちも、ほとんどそれぞれの衣装に着替えて戻ってきていた。
瞬間、バチンっと翔くんと両目が合った。それに対して、にこっと笑顔を返しておく。翔くんも主人公役の衣装に着替えていて、思わず心がどきっとした。なんだかいつもよりも凛々しく見えてしまう。
「か、かわい」
翔くんが私に何かを言いかけたところで、目を開いたまま、動きが止まってしまった。ここが教室だということを咄嗟に思い出して言いとどまったのかもしれない。
「おい、しっかりしろよ。お前の彼女だぞ」
言いながら、横では岩田くんが翔くんの肩をとんとんと叩いている。
「きゃー!かわいいいい」
突如、後ろから歓声が飛んできて、振り返ると、心美、実波、奏が何やら興奮気味にこちらを見つめていた。
「青スカートにお花着いてる!」
「頭のリボンもかわいい」
「私たちの衣装ももうちょい可愛くできんかったんか」
各々が私の服装に対して感想を述べた。三人の身体を見ると、怪盗山田マン役の実波はサングラスにマントと緑の仮面をつけ、通行人A、Bの心美と奏は素朴な私服姿をしていた。ちなみに心美は美術、奏は音響の係も兼任している。
「ありがとう」
ぎこちなくお礼を返すと、三人が、ぎゅっと私の手を握ってきた。ふるふると小刻みに震える私の手の振動が、皆に伝わっていく。
「雪葉めっちゃ緊張しとる」
「大丈夫!リハーサルの時めっちゃ上手かったから」
「へにゃへにゃしてると怪盗山田マンが翔くんのこと奪っちゃうぞ」
励ましの言葉をもらって、ぎゅっと目を細める。
「うん、絶対いい劇にしようね」
私の言葉を聞いて、三人が安心したように微笑みを返してくれた。
「じゃあそろそろ時間だからみんな体育館に移動して」
その時、岩田くんが教室全体に声を響かせた。時計のほうに目をやると、針は十時十五分を過ぎたところだった。本番まであと四十五分。その指示に従い、揃って体育館の方へ向かっていった。
舞台袖で、そわそわとしながら、時計を何度も何度も見直していた。前の組の劇が終わり、一度舞台の暗幕が降りる。その間に舞台背景の設置を終えると、美術係が合図を出し、ナレーションがマイクを持った。その声が、体育館全体に響き渡る。
「次は二年三組による、"僕は君の生贄に"の演劇です。よろしくお願いします」
暗幕が再度上に上がって、舞台上に演出照明の光が差し込んだ。
――「おい!ここはどこだ!」
先程まで彼女の葉月と一緒にいた主人公の晴人は気がつくと見知らぬ部屋に閉じ込められていた。思わず声を荒らげると、一人の男が現れた。
「そう怒らないでくださいよ。ちゃんと私の言うことに従ってくれれば、全部元に戻してあげますから」
晴人は仕方なく男の話に耳を傾ける。
「この部屋の扉から、外に出ると、最先端技術で作られたリアル迷路があります。あなたのポケットにいくらかお金を入れておいたので、それを使ってゴールを目指してください」
言われ、ポケットの中に手を突っ込むと、確かに束になったお札が入っていた。けれど、表面はどれも見たことがない柄をしていて、思わず気を落とす。
「偽札じゃねえか」
「いやあ。それはこの迷路の中では通貨として働きますので、色々なことにご利用いただけますよ。ただし、そのお金は、あなたの大切なものを支払うことになるため、よく考えて使われた方が良いかと」
手に握った札束に再度目を落とすと、表面に薄っすらと見知った顔の写真がいくつも印刷されていた。一億円と書かれたお札には、葉月の顔が、十万と書かれたお札には、修学旅行の思い出写真が映っていた。どうやら、自分の大切なものがこの紙幣になって価値を示しているらしい。
「僕の葉月への愛は金なんかで表せねえよこの無礼者!」
これを見た瞬間、不意に怒りが湧いて、目の前の男を怒鳴りつけた。けれど、男は全く臆することなく、淡々と語る。
「確かに、無礼と言われれば無礼ですが、そういうルールなので素直に受け入れてください。先程も申した通り、ゴールしたら全て元通りにして返しますから。ゴールできなかった場合は、あなたが支払ったものを頂きますけど。それでは、ご検討を祈ります」
待ったをかける暇もなく、男がその場から姿を消した。晴人は不満に思いながらも、一箇所しかない部屋の扉を開けた。
扉の先の世界は男が言った通り、迷路になっていた。どちらが正解かも分からないまま、直感だけで道を進んでいく。しばらく歩いていると、目の前から見知らぬ人がこちらに向かって進んできた。この迷路に他の参加者もいるなんて驚きだ。
「すみません、あなたもこの迷路のゴールを探してるんですか?」
「ええ、急に連れてこられて、今必死にここを抜けようとしてるところです」
晴人は通行人のその言葉に少しの希望を抱いて、提案する。
「じゃあ、一緒に行きませんか。僕まだ何も分からなくて、誰かと一緒にいると安心ですし」
「そうしたい気持ちは山々なんですけど、どうやら人によってゴールの位置が違うみたいで、すみません」
そう言ってすれ違った通行人は、そそくさと晴人の前から立ち去ってしまった。再度ひとりぼっちになった晴人は仕方なく道を曲がる。すると、いきなりヤクザみたいな格好をした男に拳銃を突きつけられた。あまりに突然のことで、身体は凍りついたみたいにびたっと固まって動かなくなってしまった。
「一千万円出せば解放してやる」
ヤクザ男に耳打ちされ、必死にポケットを探る。札を選び、家族で遊園地に行った時の写真が描かれた一千万円を差し出す。すると男はそれ以上何も言わずその場から立ち去った。
「なんだよちくしょう」
ムカムカとした感情を抱えながら、床を蹴っていると、今度は上空から奇妙な声が降り掛かってきた。
「はははは!怪盗山田マン参上!」
「誰だよ。ヘンテコな格好しやがって。次から次へと」
イラついている晴人を目掛けて、前方から怪盗山田マンがさっと近づいてきた。思わず手をかざして目を瞑ると、背後からせせら嗤う声が耳をつんざいた。そちらに目をやると、怪盗山田マンがひらひらと僕の五千万円札を掲げていた。表面には、笑った顔をした晴人の写真。
「君の喜びの感情は頂いたよ」
「てめえ!誰が怪盗だ!ただの泥棒じゃねえか!」
叫びながら、怪盗山田マンに飛びかかる。しかし、怪盗山田マンは軽々しく身を翻し、迷路の塀の上に登った。
「こんな所で私と争っていていいのかな?君にとって、自分の喜びと彼女の存在、どっちが大事なんだい?私は早くゴールを目指した方がいいと思うけどねえ」
挑発だと分かっていても、その言葉に動きが止まってしまった。晴人は怪盗山田マンの言う通り、その場を諦めて、先を急ぐことにした。
けれど、どれだけ先に進んでも、ゴールらしき場所は見当たらなかった。何日も何日も自分の心を叱咤し、永遠にも思える迷路を進み続けた。その間にも、途中にある出店で食料を買ったり、通行人にいきなり殴られて治療費を払ったりしたせいで、僕の手持ちはほとんど無くなっていた。残るは葉月と両親の顔が載った一億円札くらいだ。
「ねえ、君一人?すごく疲れた顔してるよ。一人で頑張ってきたんだね」
疲れきった身体でふらふらと道を歩いていると、誰かに声をかけられた。ゆっくりと顔をあげると、優しそうに笑う女の子がいた。久しぶりに触れた人の優しさが心に染みて、晴人は思わず涙を流してしまった。しばらくその女の子と話していると、突然大きなお腹の音が鳴った。音のした方を見ると、恥ずかしそうに彼女がお腹をさすっていた。
「私さ、お金なくて、三日何も食べてないの。ちょっとだけ、分けてくれないかな晴人くん」
ここで他人にお金を使っている場合ではないと分かっていても、その時の晴人に、彼女を見捨てる勇気はなかった。
「どれくらいいるの?」
「二億くらい」
「に、におく……」
晴人は言われた通りに、ポケットから父と母の顔写真のついた一億円をそれぞれ一枚ずつ、合計二枚取り出した。
「ありがとう」
女の子はお礼と共に、にやりと薄気味悪い笑顔を宿した。
「じゃあ僕はゴールまで急ぐから、そろそろ行くね。僕に優しくしてくれて、ありがとう」
それを言い残して、晴人は彼女の元から離れた。すると、背後から馬鹿にするような声が聞こえてきた。背中に刺さる情弱だのカモだのという罵倒を受け止め、歯を食いしばりながら、歩を進めた。
さらにそれから数日経って、何度目か分からない角を曲がったところで、突然、道の先に強い光を視認した。
「まさか」
晴人は体の疲れも忘れて全力でその光に向かって走った。息切れしながら、そこに飛び込もうとした時、ぐいっと警察のような格好をした人に腕を掴まれた。
「なんだよ!」
掴む手を振り払おうとするが、力が強くてビクともしない。
「ここを通るなら通行料を支払え。一億円だ」
「わかったよ」
晴人は反対の手で葉月の笑顔が描かれた一億円札をポケットから取り出した。もう、晴人の心の中に迷いなど一つもなかった。それを受け取った彼は晴人の手を離す。
瞬時、晴人は野鳥の速さで目の前の光に飛び込んだ。
「ほら、雪葉行っておいで」
「うん!」
怪盗山田マン役を終えて舞台袖に戻って来ていた実波に応え、私は舞台に飛び出した。
「葉月?葉月なのか」
晴人役の翔くんが、私に向かって問いかける。
「おかえり、晴人。私のためにありがとう」
私のセリフとともに、晴人の両親、親友の岩田役も舞台に上がり、彼を囲む。
「父さん、母さん、岩田、葉月……。僕、何が大切なのか、わかったよ」
翔くんの迫真の泣き演技を合図に、私が彼の頬に両手を添えて、持ち上げる。
「んっっ」
翔くんが目を丸くして、驚きの声を上げた。その声の原因は、役としての演技だったのか、私の脚本から外れた行動によってだったのかは分からない。
そんな翔くんに、こっそりと心の中で話しかける。ねえ、翔くん。私も、見つけたよ大切なもの。人間って欲張りだから、全部大切なの。全部捨てたくないの。そのせいで、その均衡を図るのが難しい。
でも、私は、こうやって悩んで苦しんで生きていく中で、たまに現れる花火みたいな光が、その苦しみに理由をつけてくれるって。理不尽に与えられた命に、意味を後付けしてくれるんじゃないかって。
最後のキスシーンは脚本上、『鼻が触れるくらいまで顔を近づける』と書かれていた。けれど、私は翔くんの頬を持ったまま、思いっきりちゅーしてやった。
観客席の方から、悲鳴や歓喜に似た声が飛び上がった。
「えええ!あれ本当にキスしてない?」
「いや、流石に顔近づけてるだけでしょ」
嫌でも前方の観客席から、私と翔くんの状況について推測する声が聞こえてくる。
この後クラスのみんなに批判されることも、学校に不適切だと指導されることも覚悟していた。けれど、私は、ここで翔くんの唇を奪ってしまえるくらいの心の天秤を持って、生きたいと思う。
そのうち熱血Loveのイントロが流れ始め、そと同時に、クラスの皆が舞台に集まってくる。私たちもそれに合わせて立ち上がり、音に合わせて全員で終幕のダンスを踊った。やがて、曲が終わり、暗幕がゆっくりと垂れていく。この後は次のクラスの劇が控えているので、そわそわとしながら足早にその場を立ち去る。
「やったあああ!」
体育館の舞台から退場すると、泣いて喜ぶ声が聞こえてきた。クラスのみんなが固まって、演劇の成功を称えあっていた。翔くんも、沢山の友達に囲まれて、赤くなった目元を拭っていた。
私はそれを見て、思わず微笑んだ。誰かと力を合わせることのエネルギーの大きさを、すごく実感した。
「雪葉!よかったねええ」
「雪葉実行委員頑張っとったからほんとに無事に終わってよかった」
翔くんを眺めていると、心美たちが私の元に集まってきた。
「ほんとに。みんなのおかげだよ。ありがとう」
私一人じゃここまで来ることはできなかった。それを私は身に持って体感していた。そのことが嬉しくて、つい、目元を拭ってしまった。
「うわー!もう雪葉が泣いたらみんながしんみりしちゃうでしょ!」
「ほんとだよあんな堂々と旦那にキスして」
「ち、ちがっ」
「何が違うん?あそこの脚本、本当はキスしなかったの知っとるよ」
奏の反論に、現実を突きつけられて、思わず下を向く。
「どうしよう、私、翔くんとキスしちゃった……」
「今更恥ずかしがるんかい」
「だ、だってあの時は勢いでやっちゃったから、なんにも考えてなくて」
「まあ劇としての完成度は上がったんじゃない?原作は実際にキスしてるわけだしさ」
実波が緑の仮面の下からにやにやといたずらな笑みを送ってくる。
それは翔くんの周りでも話題に上がっているようで、所々会話が聞こえてきた。
「なんかしんみりしてるけど、翔ちゃっかり雪葉ちゃんとキスしてたよな。どう?わたあめの味した?」
「おま、何言って。雪葉も近くにいるんだから静かに」
「またまたスカしちゃって。本当はー?」
複数人の男子に囲まれて、糾弾されている翔くん。すごく恥ずかしいから、出来ればその会話は私のいない所でして欲しい。そう思うけれど、やっぱり気になってしまって、こっそりと聞き耳を立てる。
「なんか甘くて、意味わからんくらい柔らかくて、頭おかしくなりそうだった……」
口元に手を当てながら、ぼそっとこぼした言葉を、私の耳は聞き逃さなかった。翔くんの周りで、野次や口笛が飛ぶ。私の方こそ、恥ずかしさと嬉しさで、どうにかなってしまいそうだった。でも、見つめた先の翔くんの顔は、私よりも遥かにぐちゃぐちゃだった。感動で流した涙、羞恥で赤らめたほほ、緊張に引き攣る目元。
「はああ?お前文化祭誘ってないの?ほら!今ささっさと行ってこいよ」
突然、岩田くんが翔くんに向かって声を上げた。それを聞いた周りの男子たちもそれに賛同するように頷く。
「いや、だって雪葉の事情もあるし」
「そんなん誘われるの待ってるに決まってんだろ!」
岩田くんの声が大きすぎて、会話の全てが筒抜けなことに思わず笑ってしまう。私は何も知らないふりをして翔くんと目を合わせ、首をかしげた。
「お前らほんとに付き合ってんだよな?」
見かねた岩田くんが、がしっと翔くんの肩を掴んで、私のいる方向に突き飛ばした。
その時、私の背中が、思いっきり後ろから押された。その力で前方に進んでいく直前、目の端で微かに、笑いながら私に触れる三人の顔が見えた。
よろけた私を、翔くんが受け止める。顔が、翔くんの胸の辺りに、勢いよくぶつかって、思わず彼の裾をぎゅっと掴んだ。翔くんが私の体を支えると同時、頭の上から穏やかな声が降り注いだ。
「俺、文化祭雪葉と一緒に回りたい」
「うん、私も。翔くんと一緒がいい」
耳元で、どくどくと翔くんの心音が直に伝わってくる。それに呼応するように、私の心臓も早鐘を打った。
「大袈裟だなあ。世界滅亡する直前のカップルかよ」
私たちの様子を見て、呆れたように笑って近づいてくる岩田くん。
そこへ観客席から私たちの劇を見ていたであろう担任の先生が現れた。
「みんな本当によく頑張ったな。先生感動したぞ。まあ、最後は不慮の事故があったりもしたみたいだが」
わざとらしくそう言って、私と翔くんの方に目を向ける。
「なんにせよ、もう劇は終わったんだから、みんなこれからの文化祭めいいっぱい楽しめよ」
それだけを言い残すと、先生はまたすぐにどこかへ行ってしまった。たぶん担当の仕事があって忙しいのだろう。
その後は衣装を着たまま、みんなで写真を撮って、各々自由時間となった。一日目はもう既に心美たちと文化祭を回ることに決めていたので、翔くんに断りを入れ、着替えを済ませてからみんなと一緒に色々な出し物を見ていった。四人でくだらない話をして、カフェやらカジノやらに参加していると、あっという間に、一日目の文化祭が終わってしまった。あれだけ待ち望んだ演劇の日も、過ぎてしまうとなんということはなくて、帰り道の風景もいつもと変わらない住宅街だった。
家に着いて、玄関を開けると、お母さんがすごい勢いで抱きつこうとしてきた。驚いて、思わず振り払ってしまう。
「な、なに」
「劇凄かったね!なんでヒロインやるって教えてくれなかったの」
「え、見に来てたの?」
不意に嫌な予感が背中を伝う。
「そりゃお父さんと一緒に雪葉の活躍見に行ったわよ。あんな大胆にキスするなんてやるじゃない。さすが私の娘ね」
かああっと体全身が熱くなって、毛穴から汗が吹き出した。
「うわああああ!忘れて!今すぐその記憶消して!お父さんも!」
靴を脱ぎ捨ててリビングまで向かうと、床に落ちていたクッションでお父さんの頭に八つ当たりをした。ぽんぽんと奇妙な音がした。
「ちょ、お父さんの大事な髪の毛が」
そのまましばらくして、ようやく私の羞恥心が落ち着いて来た頃に、私は今日決意した大切なことを思い出す。お父さんの頭を叩いている場合ではない。
「ねえ、お母さん、お父さん」
私の改まった言い方に、二人がふっと顔を向ける。それを待って、私は続けて口を開いた。
「私、やりたいこと決まったの。演劇、やってみたい。だから、そのための学校に行きたい」
それを聞いたお母さんは一度口を開きかけて、閉じた後、少し考えてから、再度言葉を口にした。
「演劇の道で生きていくのは、すごく難しいんだよ?ほんのひと握りの人しか、仕事になんてできないんだよ?それでも、頑張れる?」
私は、お母さんの言葉に、こくりと頷いた。
「やりたいことが見つかったなら、いいじゃないか。まだ確定したわけでもないんだ。こっからどんな道にでも、何者にでもなれるんだから」
しばらく黙っていたお父さんが、不意に声を上げた。みると、カシュッとビールの感を開けている。昔は嫌いだったこの音も、今ではお父さんの存在を表す音みたいに思えてしまう。
「私、今回クラスで劇やって、すごく、楽しかった。でも、楽しかっただけじゃない。みんなと悩んで、試行錯誤して、時にはぶつかって。それでも、少しずつ力を合わせて完成させた。配役なんて関係なく、誰もが輝いてた。誰もが主人公で誰もが脇役なんだって思った。だから、やり切った時、泣きたくなるくらいみんなで感動できた。そんなふうにまた誰かの心を動かせる作品を作りたいの」
いきなり語った情熱を、お母さんは最後まで聞いてくれた。
「まあ、雪葉らしいかもね。無邪気に人を元気づけられるところ。ほんとに、名前に込めた願いそのままに育ってくれたよね。雪葉の名前の意味は……」
「知ってるよ、雪の中で生える葉っぱみたいに、暖かい人になって欲しいでしょ?何回も聞いたもん」
私の言葉を聞くと、お母さんは何も言わずに、優しくその場で微笑んだ。
今日は、久しぶりに、枕の下に翔くんの写真を入れなくても、幸せな夢を見られる気がした。
私は、翔くんと距離を置くことはせずに、水泳部部長と、文化祭実行委員を引き受けた。英語の発表は、私に発表をお願いしてきた男子にやってもらうことになった。半泣きだった。
「いよいよ明日だな」
体育館の外で、翔くんを待っていると、たまたま鉢合わせた岩田くんがいつになく力強い声で話しかけてきた。先程体育館内で劇の最後のリハーサルが終わった。明日からは、後夜祭を含めた二日間の文化祭が始まる。私たちの劇は明日の午前十一時から開幕する予定だ。
「うん。ほんとに、みんなと一緒に文化祭準備できてよかった。文化祭実行委員として関われてよかった」
「なにちょっとしんみりした感じ出してんだよ。それやっていいのは文化祭が全部終わってからだろ?」
岩田くんがにかっと笑って、歯を光らせた。なんだか、他に見たことがないような、輝かしい笑顔だと思った。
そこに最後の片付けを終えたらしい翔くんが担任の先生と共に顔を出した。
「おい岩田、俺の雪葉口説いてんじゃないだろうな」
冗談めいた口調で、岩田くんを咎める翔くん。それに岩田くんがかぶりを振った。
「バカか。誰が親友の彼女狙うかよ。そんなことしたらお前に呪い殺されそうだしな」
がははっと岩田くんが豪快に笑い声をあげる。体育館の鍵を閉め終えた担任の先生が、振り返って私たちに口を挟んだ。
「お前らいちゃついてもいいけど学校出てからにしとけよ。他の先生に見つかると指導対象だからな」
「は、はい」
翔くんと私は揃って、弱々しく返事をする。
「ま、でもいいもんだよな。大人になると、そんな心のままに出来る恋愛は少なくなっちゃうから、大事にするんだぞ」
ふと先生が口にして、思わず顔を見上げる。
教室で生徒の前に立っている時の先生と全く異なった雰囲気に、少し驚いてしまう。普段は注意事項ばかりを述べていて、絶対にこんなことは言わない。
「あ、ありがとうございます?」
不思議に思いながら、お礼を述べると先生は少し可笑しそうに笑った。
「ほら、明日劇やるんだから、帰った帰った。今日の夜はゆっくり休めよ」
先生が手を上げたので、私たちは軽く会釈をして、学校を後にした。
「最後に円陣組まね?」
「いいね」
校門を出たあと、岩田くんが提案したので、それに賛成する。早速彼が拳を突き出し、それに倣う形で翔くんと私が手を突き合わせた。
「絶対最高の劇にするぞー!」
「おー!!」
掛け声とともに天に掲げられた三つの拳は、月明かりに照らされて、大きく輝く。私の心は、珍しく澄み切っていて、今なら本当に何でもできてしまうような気がした。
翌日学校に着くと、校内の装飾や生徒達の様子からすごい活気が感じられた。教室ではそれぞれが自分の仕事の最終確認を行っていた。音響の確認、背景美術の確認、セリフの確認。そこに混ざって、私は衣装係からヒロイン役の衣装を受け取る。
私はヒロイン役に立候補して、その意見が通った。主人公役はもちろん翔くんだ。
彼らにありがとうと謝辞を述べて、更衣室へと向かった。まだ本番までは二時間ほどあるけれど、心臓が緊張でばくばくして、手汗が酷い。着替えとメイクを終えて、教室に戻ると、他の生徒たちも、ほとんどそれぞれの衣装に着替えて戻ってきていた。
瞬間、バチンっと翔くんと両目が合った。それに対して、にこっと笑顔を返しておく。翔くんも主人公役の衣装に着替えていて、思わず心がどきっとした。なんだかいつもよりも凛々しく見えてしまう。
「か、かわい」
翔くんが私に何かを言いかけたところで、目を開いたまま、動きが止まってしまった。ここが教室だということを咄嗟に思い出して言いとどまったのかもしれない。
「おい、しっかりしろよ。お前の彼女だぞ」
言いながら、横では岩田くんが翔くんの肩をとんとんと叩いている。
「きゃー!かわいいいい」
突如、後ろから歓声が飛んできて、振り返ると、心美、実波、奏が何やら興奮気味にこちらを見つめていた。
「青スカートにお花着いてる!」
「頭のリボンもかわいい」
「私たちの衣装ももうちょい可愛くできんかったんか」
各々が私の服装に対して感想を述べた。三人の身体を見ると、怪盗山田マン役の実波はサングラスにマントと緑の仮面をつけ、通行人A、Bの心美と奏は素朴な私服姿をしていた。ちなみに心美は美術、奏は音響の係も兼任している。
「ありがとう」
ぎこちなくお礼を返すと、三人が、ぎゅっと私の手を握ってきた。ふるふると小刻みに震える私の手の振動が、皆に伝わっていく。
「雪葉めっちゃ緊張しとる」
「大丈夫!リハーサルの時めっちゃ上手かったから」
「へにゃへにゃしてると怪盗山田マンが翔くんのこと奪っちゃうぞ」
励ましの言葉をもらって、ぎゅっと目を細める。
「うん、絶対いい劇にしようね」
私の言葉を聞いて、三人が安心したように微笑みを返してくれた。
「じゃあそろそろ時間だからみんな体育館に移動して」
その時、岩田くんが教室全体に声を響かせた。時計のほうに目をやると、針は十時十五分を過ぎたところだった。本番まであと四十五分。その指示に従い、揃って体育館の方へ向かっていった。
舞台袖で、そわそわとしながら、時計を何度も何度も見直していた。前の組の劇が終わり、一度舞台の暗幕が降りる。その間に舞台背景の設置を終えると、美術係が合図を出し、ナレーションがマイクを持った。その声が、体育館全体に響き渡る。
「次は二年三組による、"僕は君の生贄に"の演劇です。よろしくお願いします」
暗幕が再度上に上がって、舞台上に演出照明の光が差し込んだ。
――「おい!ここはどこだ!」
先程まで彼女の葉月と一緒にいた主人公の晴人は気がつくと見知らぬ部屋に閉じ込められていた。思わず声を荒らげると、一人の男が現れた。
「そう怒らないでくださいよ。ちゃんと私の言うことに従ってくれれば、全部元に戻してあげますから」
晴人は仕方なく男の話に耳を傾ける。
「この部屋の扉から、外に出ると、最先端技術で作られたリアル迷路があります。あなたのポケットにいくらかお金を入れておいたので、それを使ってゴールを目指してください」
言われ、ポケットの中に手を突っ込むと、確かに束になったお札が入っていた。けれど、表面はどれも見たことがない柄をしていて、思わず気を落とす。
「偽札じゃねえか」
「いやあ。それはこの迷路の中では通貨として働きますので、色々なことにご利用いただけますよ。ただし、そのお金は、あなたの大切なものを支払うことになるため、よく考えて使われた方が良いかと」
手に握った札束に再度目を落とすと、表面に薄っすらと見知った顔の写真がいくつも印刷されていた。一億円と書かれたお札には、葉月の顔が、十万と書かれたお札には、修学旅行の思い出写真が映っていた。どうやら、自分の大切なものがこの紙幣になって価値を示しているらしい。
「僕の葉月への愛は金なんかで表せねえよこの無礼者!」
これを見た瞬間、不意に怒りが湧いて、目の前の男を怒鳴りつけた。けれど、男は全く臆することなく、淡々と語る。
「確かに、無礼と言われれば無礼ですが、そういうルールなので素直に受け入れてください。先程も申した通り、ゴールしたら全て元通りにして返しますから。ゴールできなかった場合は、あなたが支払ったものを頂きますけど。それでは、ご検討を祈ります」
待ったをかける暇もなく、男がその場から姿を消した。晴人は不満に思いながらも、一箇所しかない部屋の扉を開けた。
扉の先の世界は男が言った通り、迷路になっていた。どちらが正解かも分からないまま、直感だけで道を進んでいく。しばらく歩いていると、目の前から見知らぬ人がこちらに向かって進んできた。この迷路に他の参加者もいるなんて驚きだ。
「すみません、あなたもこの迷路のゴールを探してるんですか?」
「ええ、急に連れてこられて、今必死にここを抜けようとしてるところです」
晴人は通行人のその言葉に少しの希望を抱いて、提案する。
「じゃあ、一緒に行きませんか。僕まだ何も分からなくて、誰かと一緒にいると安心ですし」
「そうしたい気持ちは山々なんですけど、どうやら人によってゴールの位置が違うみたいで、すみません」
そう言ってすれ違った通行人は、そそくさと晴人の前から立ち去ってしまった。再度ひとりぼっちになった晴人は仕方なく道を曲がる。すると、いきなりヤクザみたいな格好をした男に拳銃を突きつけられた。あまりに突然のことで、身体は凍りついたみたいにびたっと固まって動かなくなってしまった。
「一千万円出せば解放してやる」
ヤクザ男に耳打ちされ、必死にポケットを探る。札を選び、家族で遊園地に行った時の写真が描かれた一千万円を差し出す。すると男はそれ以上何も言わずその場から立ち去った。
「なんだよちくしょう」
ムカムカとした感情を抱えながら、床を蹴っていると、今度は上空から奇妙な声が降り掛かってきた。
「はははは!怪盗山田マン参上!」
「誰だよ。ヘンテコな格好しやがって。次から次へと」
イラついている晴人を目掛けて、前方から怪盗山田マンがさっと近づいてきた。思わず手をかざして目を瞑ると、背後からせせら嗤う声が耳をつんざいた。そちらに目をやると、怪盗山田マンがひらひらと僕の五千万円札を掲げていた。表面には、笑った顔をした晴人の写真。
「君の喜びの感情は頂いたよ」
「てめえ!誰が怪盗だ!ただの泥棒じゃねえか!」
叫びながら、怪盗山田マンに飛びかかる。しかし、怪盗山田マンは軽々しく身を翻し、迷路の塀の上に登った。
「こんな所で私と争っていていいのかな?君にとって、自分の喜びと彼女の存在、どっちが大事なんだい?私は早くゴールを目指した方がいいと思うけどねえ」
挑発だと分かっていても、その言葉に動きが止まってしまった。晴人は怪盗山田マンの言う通り、その場を諦めて、先を急ぐことにした。
けれど、どれだけ先に進んでも、ゴールらしき場所は見当たらなかった。何日も何日も自分の心を叱咤し、永遠にも思える迷路を進み続けた。その間にも、途中にある出店で食料を買ったり、通行人にいきなり殴られて治療費を払ったりしたせいで、僕の手持ちはほとんど無くなっていた。残るは葉月と両親の顔が載った一億円札くらいだ。
「ねえ、君一人?すごく疲れた顔してるよ。一人で頑張ってきたんだね」
疲れきった身体でふらふらと道を歩いていると、誰かに声をかけられた。ゆっくりと顔をあげると、優しそうに笑う女の子がいた。久しぶりに触れた人の優しさが心に染みて、晴人は思わず涙を流してしまった。しばらくその女の子と話していると、突然大きなお腹の音が鳴った。音のした方を見ると、恥ずかしそうに彼女がお腹をさすっていた。
「私さ、お金なくて、三日何も食べてないの。ちょっとだけ、分けてくれないかな晴人くん」
ここで他人にお金を使っている場合ではないと分かっていても、その時の晴人に、彼女を見捨てる勇気はなかった。
「どれくらいいるの?」
「二億くらい」
「に、におく……」
晴人は言われた通りに、ポケットから父と母の顔写真のついた一億円をそれぞれ一枚ずつ、合計二枚取り出した。
「ありがとう」
女の子はお礼と共に、にやりと薄気味悪い笑顔を宿した。
「じゃあ僕はゴールまで急ぐから、そろそろ行くね。僕に優しくしてくれて、ありがとう」
それを言い残して、晴人は彼女の元から離れた。すると、背後から馬鹿にするような声が聞こえてきた。背中に刺さる情弱だのカモだのという罵倒を受け止め、歯を食いしばりながら、歩を進めた。
さらにそれから数日経って、何度目か分からない角を曲がったところで、突然、道の先に強い光を視認した。
「まさか」
晴人は体の疲れも忘れて全力でその光に向かって走った。息切れしながら、そこに飛び込もうとした時、ぐいっと警察のような格好をした人に腕を掴まれた。
「なんだよ!」
掴む手を振り払おうとするが、力が強くてビクともしない。
「ここを通るなら通行料を支払え。一億円だ」
「わかったよ」
晴人は反対の手で葉月の笑顔が描かれた一億円札をポケットから取り出した。もう、晴人の心の中に迷いなど一つもなかった。それを受け取った彼は晴人の手を離す。
瞬時、晴人は野鳥の速さで目の前の光に飛び込んだ。
「ほら、雪葉行っておいで」
「うん!」
怪盗山田マン役を終えて舞台袖に戻って来ていた実波に応え、私は舞台に飛び出した。
「葉月?葉月なのか」
晴人役の翔くんが、私に向かって問いかける。
「おかえり、晴人。私のためにありがとう」
私のセリフとともに、晴人の両親、親友の岩田役も舞台に上がり、彼を囲む。
「父さん、母さん、岩田、葉月……。僕、何が大切なのか、わかったよ」
翔くんの迫真の泣き演技を合図に、私が彼の頬に両手を添えて、持ち上げる。
「んっっ」
翔くんが目を丸くして、驚きの声を上げた。その声の原因は、役としての演技だったのか、私の脚本から外れた行動によってだったのかは分からない。
そんな翔くんに、こっそりと心の中で話しかける。ねえ、翔くん。私も、見つけたよ大切なもの。人間って欲張りだから、全部大切なの。全部捨てたくないの。そのせいで、その均衡を図るのが難しい。
でも、私は、こうやって悩んで苦しんで生きていく中で、たまに現れる花火みたいな光が、その苦しみに理由をつけてくれるって。理不尽に与えられた命に、意味を後付けしてくれるんじゃないかって。
最後のキスシーンは脚本上、『鼻が触れるくらいまで顔を近づける』と書かれていた。けれど、私は翔くんの頬を持ったまま、思いっきりちゅーしてやった。
観客席の方から、悲鳴や歓喜に似た声が飛び上がった。
「えええ!あれ本当にキスしてない?」
「いや、流石に顔近づけてるだけでしょ」
嫌でも前方の観客席から、私と翔くんの状況について推測する声が聞こえてくる。
この後クラスのみんなに批判されることも、学校に不適切だと指導されることも覚悟していた。けれど、私は、ここで翔くんの唇を奪ってしまえるくらいの心の天秤を持って、生きたいと思う。
そのうち熱血Loveのイントロが流れ始め、そと同時に、クラスの皆が舞台に集まってくる。私たちもそれに合わせて立ち上がり、音に合わせて全員で終幕のダンスを踊った。やがて、曲が終わり、暗幕がゆっくりと垂れていく。この後は次のクラスの劇が控えているので、そわそわとしながら足早にその場を立ち去る。
「やったあああ!」
体育館の舞台から退場すると、泣いて喜ぶ声が聞こえてきた。クラスのみんなが固まって、演劇の成功を称えあっていた。翔くんも、沢山の友達に囲まれて、赤くなった目元を拭っていた。
私はそれを見て、思わず微笑んだ。誰かと力を合わせることのエネルギーの大きさを、すごく実感した。
「雪葉!よかったねええ」
「雪葉実行委員頑張っとったからほんとに無事に終わってよかった」
翔くんを眺めていると、心美たちが私の元に集まってきた。
「ほんとに。みんなのおかげだよ。ありがとう」
私一人じゃここまで来ることはできなかった。それを私は身に持って体感していた。そのことが嬉しくて、つい、目元を拭ってしまった。
「うわー!もう雪葉が泣いたらみんながしんみりしちゃうでしょ!」
「ほんとだよあんな堂々と旦那にキスして」
「ち、ちがっ」
「何が違うん?あそこの脚本、本当はキスしなかったの知っとるよ」
奏の反論に、現実を突きつけられて、思わず下を向く。
「どうしよう、私、翔くんとキスしちゃった……」
「今更恥ずかしがるんかい」
「だ、だってあの時は勢いでやっちゃったから、なんにも考えてなくて」
「まあ劇としての完成度は上がったんじゃない?原作は実際にキスしてるわけだしさ」
実波が緑の仮面の下からにやにやといたずらな笑みを送ってくる。
それは翔くんの周りでも話題に上がっているようで、所々会話が聞こえてきた。
「なんかしんみりしてるけど、翔ちゃっかり雪葉ちゃんとキスしてたよな。どう?わたあめの味した?」
「おま、何言って。雪葉も近くにいるんだから静かに」
「またまたスカしちゃって。本当はー?」
複数人の男子に囲まれて、糾弾されている翔くん。すごく恥ずかしいから、出来ればその会話は私のいない所でして欲しい。そう思うけれど、やっぱり気になってしまって、こっそりと聞き耳を立てる。
「なんか甘くて、意味わからんくらい柔らかくて、頭おかしくなりそうだった……」
口元に手を当てながら、ぼそっとこぼした言葉を、私の耳は聞き逃さなかった。翔くんの周りで、野次や口笛が飛ぶ。私の方こそ、恥ずかしさと嬉しさで、どうにかなってしまいそうだった。でも、見つめた先の翔くんの顔は、私よりも遥かにぐちゃぐちゃだった。感動で流した涙、羞恥で赤らめたほほ、緊張に引き攣る目元。
「はああ?お前文化祭誘ってないの?ほら!今ささっさと行ってこいよ」
突然、岩田くんが翔くんに向かって声を上げた。それを聞いた周りの男子たちもそれに賛同するように頷く。
「いや、だって雪葉の事情もあるし」
「そんなん誘われるの待ってるに決まってんだろ!」
岩田くんの声が大きすぎて、会話の全てが筒抜けなことに思わず笑ってしまう。私は何も知らないふりをして翔くんと目を合わせ、首をかしげた。
「お前らほんとに付き合ってんだよな?」
見かねた岩田くんが、がしっと翔くんの肩を掴んで、私のいる方向に突き飛ばした。
その時、私の背中が、思いっきり後ろから押された。その力で前方に進んでいく直前、目の端で微かに、笑いながら私に触れる三人の顔が見えた。
よろけた私を、翔くんが受け止める。顔が、翔くんの胸の辺りに、勢いよくぶつかって、思わず彼の裾をぎゅっと掴んだ。翔くんが私の体を支えると同時、頭の上から穏やかな声が降り注いだ。
「俺、文化祭雪葉と一緒に回りたい」
「うん、私も。翔くんと一緒がいい」
耳元で、どくどくと翔くんの心音が直に伝わってくる。それに呼応するように、私の心臓も早鐘を打った。
「大袈裟だなあ。世界滅亡する直前のカップルかよ」
私たちの様子を見て、呆れたように笑って近づいてくる岩田くん。
そこへ観客席から私たちの劇を見ていたであろう担任の先生が現れた。
「みんな本当によく頑張ったな。先生感動したぞ。まあ、最後は不慮の事故があったりもしたみたいだが」
わざとらしくそう言って、私と翔くんの方に目を向ける。
「なんにせよ、もう劇は終わったんだから、みんなこれからの文化祭めいいっぱい楽しめよ」
それだけを言い残すと、先生はまたすぐにどこかへ行ってしまった。たぶん担当の仕事があって忙しいのだろう。
その後は衣装を着たまま、みんなで写真を撮って、各々自由時間となった。一日目はもう既に心美たちと文化祭を回ることに決めていたので、翔くんに断りを入れ、着替えを済ませてからみんなと一緒に色々な出し物を見ていった。四人でくだらない話をして、カフェやらカジノやらに参加していると、あっという間に、一日目の文化祭が終わってしまった。あれだけ待ち望んだ演劇の日も、過ぎてしまうとなんということはなくて、帰り道の風景もいつもと変わらない住宅街だった。
家に着いて、玄関を開けると、お母さんがすごい勢いで抱きつこうとしてきた。驚いて、思わず振り払ってしまう。
「な、なに」
「劇凄かったね!なんでヒロインやるって教えてくれなかったの」
「え、見に来てたの?」
不意に嫌な予感が背中を伝う。
「そりゃお父さんと一緒に雪葉の活躍見に行ったわよ。あんな大胆にキスするなんてやるじゃない。さすが私の娘ね」
かああっと体全身が熱くなって、毛穴から汗が吹き出した。
「うわああああ!忘れて!今すぐその記憶消して!お父さんも!」
靴を脱ぎ捨ててリビングまで向かうと、床に落ちていたクッションでお父さんの頭に八つ当たりをした。ぽんぽんと奇妙な音がした。
「ちょ、お父さんの大事な髪の毛が」
そのまましばらくして、ようやく私の羞恥心が落ち着いて来た頃に、私は今日決意した大切なことを思い出す。お父さんの頭を叩いている場合ではない。
「ねえ、お母さん、お父さん」
私の改まった言い方に、二人がふっと顔を向ける。それを待って、私は続けて口を開いた。
「私、やりたいこと決まったの。演劇、やってみたい。だから、そのための学校に行きたい」
それを聞いたお母さんは一度口を開きかけて、閉じた後、少し考えてから、再度言葉を口にした。
「演劇の道で生きていくのは、すごく難しいんだよ?ほんのひと握りの人しか、仕事になんてできないんだよ?それでも、頑張れる?」
私は、お母さんの言葉に、こくりと頷いた。
「やりたいことが見つかったなら、いいじゃないか。まだ確定したわけでもないんだ。こっからどんな道にでも、何者にでもなれるんだから」
しばらく黙っていたお父さんが、不意に声を上げた。みると、カシュッとビールの感を開けている。昔は嫌いだったこの音も、今ではお父さんの存在を表す音みたいに思えてしまう。
「私、今回クラスで劇やって、すごく、楽しかった。でも、楽しかっただけじゃない。みんなと悩んで、試行錯誤して、時にはぶつかって。それでも、少しずつ力を合わせて完成させた。配役なんて関係なく、誰もが輝いてた。誰もが主人公で誰もが脇役なんだって思った。だから、やり切った時、泣きたくなるくらいみんなで感動できた。そんなふうにまた誰かの心を動かせる作品を作りたいの」
いきなり語った情熱を、お母さんは最後まで聞いてくれた。
「まあ、雪葉らしいかもね。無邪気に人を元気づけられるところ。ほんとに、名前に込めた願いそのままに育ってくれたよね。雪葉の名前の意味は……」
「知ってるよ、雪の中で生える葉っぱみたいに、暖かい人になって欲しいでしょ?何回も聞いたもん」
私の言葉を聞くと、お母さんは何も言わずに、優しくその場で微笑んだ。
今日は、久しぶりに、枕の下に翔くんの写真を入れなくても、幸せな夢を見られる気がした。



