目を開けると、辺り一面真っ白な部屋に寝かされていた。
体を起こすと同時、背後にバサバサと羽を上下させる音が響く。そちらに目をやると、見たこともない化け物が悠然と佇んでいた。歯は鋭く、目は異常に赤い。背中には真っ黒な翼が生えていて、耳が鋭く尖っていた。私は瞬間に身の危険を感じて、どこかも分からないまま走り出した。
「待って雪葉」
「へ?」
本能が、走る足を止めた。翔くんの声だった。何度も聞いた確かな声が、目の前の化け物から発せられていた。
「雪葉、信じられないかもしれないけど」
そういいながら、化け物が私に一歩、足を進める。
「うん」
「俺、悪魔なんだ」
何を言われているのかは、分からなかった。けれど、私の心が直感で、これに正解を出していた。
「どういう、こと」
掠れそうな声を何とか絞り出す。
「そのままの意味。俺は、人間じゃない。悪魔なんだ。嘘つきの悪魔」
「嘘つきの、悪魔……」
無意識に彼の言葉を繰り返してしまう。
「そう、自分の心に嘘をつき続けると、人間は悪魔になってしまうんだ。俺は自分に嘘をつき続けた。そして、雪葉も」
言われた瞬間、バッと手を顔に当てる。泣きそうだった。耳は尖っていて、歯は鋭く、噛み合わせがいつもと違う。肩甲骨に力を入れると、風を切る音がした。きっと、目も赤色に変わっているはずだ。
「そういうこと、だったんだ。翔くんはいつから悪魔だったの」
今までの出来事を理解して、へたりと座り込んだ。悪魔の姿をした翔くんが、すっとしゃがんで私と目線を合わせる。
「俺が悪魔になったのがいつかだったかは、もう覚えていない。悪魔は、人間を手なずけて、魂を抜き取る。そのために、俺は人間の姿で雪葉に近づいた」
それを聞いて、はっと目を見開く。
「う、嘘だよね?翔くんは私のことを愛してくれてたから一緒にいてくれたんだよね!?だって、そうじゃなきゃ巻き戻った世界で私を振ったりするわけないじゃん。魂を取りたいなら私と付き合ってた方がいいに決まってるのに。今は悪魔の姿になって混乱してるだけだよね」
翔くんが顔をひきつらせる。そしてそのまま首を横に振った。
「ちがう!俺は、雪葉の魂を抜き取るために雪葉と付き合った。それは紛れもない事実だ」
思わず自虐気味に、ふっと笑ってしまう。
「そりゃあそっか。翔くんみたいなかっこよくて、優しい子が、私のこと好きでいてくれるわけないよね」
私自身、この答えに酷く納得してしまった。翔くんにたくさんの言葉と愛情をもらって、何も無くても、こんな私でも愛してもらえるんだって、思い込んでいた。でも、やっぱりそうじゃなかった。
大会の日、カラオケで翔くんが私にかけてくれた言葉を思い出す。
――俺は、ただ雪葉が好き。目の前にいる、雪葉が好き。
あの言葉が嘘だったのだと思うと途端気力がなくなって、ぽかんと口を開けたまま天を仰いだ。
「翔くんなんて、大嫌い。みんな、みんな大嫌い。私の味方なんて、この世界にいない」
喋る度、パキパキっと心が割れる音がした。それを見た翔くんが、必死に私の肩を揺する。
「雪葉、これ以上、自分の心に嘘をついちゃだめだ。元に戻れなくなっちゃう。今の雪葉ならまだ本当の自分を見つけることができれば、元の姿に戻れる。だから、行こう。心の世界に。そこで本当の自分をみつけよう」
いきなり心の世界とか本当の自分とか言われても、何を言っているのか理解できなかった。けれど、今の私にとっては、もう正直、そんなことはどうでも良かった。
「でも、私が人間に戻ったら、翔くんは私の魂を狙うんでしょ」
思ったことをそのままぽつりとこぼす。翔くんが何かを決心したように、こくりと頷いた。
「雪葉がそう思うならそれでいい。でも……」
その続きは何と言ったか、分からなかった。意識がしっかりしていなかったからかもしれないし、翔くんが羽をはばたいたからかもしれない。ぼうっとしながら一点を見つめ続ける私の手を握って、翔くんが上空に飛び上がった。
真っ白な空間を抜けると、辺りが青色に変わっていく。
「ほら、みて雪葉、俺たち空を泳いでるみたい」
「うん」
「雪葉は毎日こんな感覚で泳いでるの?」
「うん」
「じゃあ帰ったらさ、今度は海に行こうよ。俺泳げないから今まで誘ってなかったんだけど、雪葉に泳ぎ方教えてもらって、一緒に泳げたら楽しいだろうな」
もう、やめてよ。
翔くんが、なんで今そんな話をするのか、分からなかった。魂を抜き取ると宣言した相手に、デートの誘いなんて、とち狂っている。悪魔だから、弱る私をみて、楽しんでいるのだろうか。
しばらく翔くんに連れられていると、見たこともない世界にたどり着いた。着地して、周囲を見回すと、ハート型や、雫型などの形をした像が至る所に置かれていた。
「ここは、心の世界。人に宿る様々な感情が、ここに集まってくる。そして、ここの道なりに沿って真っ直ぐ進んだところに、心の扉がある。そこに行くと、自分の心を振り返ることができる。嬉しかった心、我慢した心、愛されたい心、嫌われたくない心。その中から、少しずつ掻い摘んで、本当の自分を見つけるんだ。そうしたら自分らしく生きれるようになって、元の姿に戻れる」
珍しく翔くんの話が抽象的すぎて、上手く理解できない。
「ちょっと、よく分からない」
納得したように、頷く翔くん。
「これだけ聞いても、すぐには理解できないと思う。でも、これ以上の説明は難しい。だから、とりあえず行こう。俺は雪葉に悪魔になんてなって欲しくない」
今の翔くんがかけてくれる優しい言葉は、やっぱり悪魔としての目的を果たすために言っているのだろうか。少しくらい、本心から言ってくれているのだろうか。期待して、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
「わかった……私、人間に戻るために、行くよ。でも、翔くんも一緒に来て」
私の言葉を耳にすると、翔くんがとびきりの笑顔を見せて、手を取った。
進んでいくと、突如として目の前にドアノブが現れた。それを力強くまわして開くと、だんだん目の前が明るく発光してきて、思わず目を閉じる。
「なに、これ……すごい」
まぶた越しに感じる強い光が消えて、目を開けると、あたりはどこまでもどこまでも広く先へ続いていた。前も後ろも上も横も見渡す限り星が散らばっていて、まるで宇宙の中心に立っているよう。
「これが、雪葉の心の中……」
ぼそっと翔くんが言葉を漏らした。
「私の心の中?どういうこと?」
「心の扉の先は、その扉を開けた者の心の中を映し出した空間になるんだ。この星は雪葉が経験してきた感情、心の全て」
「そうなんだ、私こんなにたくさん……ここでどうやって自分らしさを見つけるの?」
「この中から、自分で選ぶんだ。両手で持てる量は決まってるから、雪葉にとって大切なものを。ほら、よく見ると、光も大きさも形も色も全部違う」
そう言って翔くんが一際明るく光る星を指す。私の一等星とも言えるその星は、どこか翔くんに似ている気がした。
「ほんとだ。こんなに沢山あるのに、一つも同じものがない」
「そう。それでも、どちらを選択するか、迷う時もあると思う。そしたら、てんびん座にそれぞれの星を置いてみると、どっちが自分にとって大事か教えてくれるよ。これは、雪葉が今までの人生で培ってきた価値観によって作られた天秤だからね」
今度は、指した人差し指を足下に移動させる翔くん。下を向くと、私を中心に、てんびん座を構成する星々が広がっていた。
「ほら、行っておいで。俺はここで待ってるから」
「う、うん」
まだいまいちよく分からないまま、翔くんに促されてしまった。仕方なく、肩に力を入れ、羽を広げる。バサバサという音とともに、次第に体が宙に浮いて、上空に進んで行った。
何となく、近くにあった星に触れてみる。薄橙色に発光していて、丸っこい形をしていた。
瞬間、私の心がぶわっと暖かくなる。それとともに、小さい頃の記憶が蘇った。
『大丈夫。お母さんは雪葉の味方だからね』
幼稚園の頃、先生に理不尽な怒られ方をして、家で泣いていたらお母さんが抱きしめてくれた時のことを思い出す。
「これは……」
続けて、すぐ隣にあった星に触れる。先程とは違った温かみが、優しく私を包み込んだ。
『雪葉は本当に恋愛体質だよね。もしまた悪い恋人に誑かされたら私が殴り込みにいくから』
中学校でできた初めての親友が、振られた私を励ましてくれた時の記憶。隣、また隣りと次々に星々に触れていく。忘れてしまった心を、少しずつ順番に取り戻しているようだった。
「これも、これも大事」
大切な心が多すぎて、もはや両手で持てなくなった私は、服を風呂敷みたいにして、星を抱えていく。それでも溢れてしまいそうな量で、ふらふらと蛇行飛行をしながら、翔くんの元へ向かう。
そのせいで、いくつかの星がコロンと転がって、下に落ちていってしまった。微かに、パリンという音がして、辺りにガラスのようなものが散らばった。
「あ……」
慌ててそちらに向かって方向転換すると、服の中で転がっていた星たちもバランスを崩してぽろぽろと私の元から離れていってしまった。
取り返しのつかなくなった私は仕方なく翔くんのいる方角に体を向け直して、飛んでいく。何とかたどり着くと、翔くんが私の近くに寄ってきた。
「そんな量の星抱えられないよ。どれか置いていかないと。感情にはすごく心のエネルギーを消耗するから、雪葉が耐えられなくなっちゃう。それが、大人になるってことなんだよ」
私の持っている星の量を見て、翔くんが呟く。
「大丈夫。私なら大丈夫。全部もったまま生きていける」
星を捨てたくない一心で、根拠の無い自信を口にする。
「現に、雪葉は人に好かれることと、自分の心のままに生きることが出来てなかったでしょ」
相変わらず翔くんは冷静に私の状況を判断してアドバイスをくれた。けれど、わがままな私はどうしても納得することが出来なかった。
「でも、それでも、全部私にとって大事なものなの。全部私の一部なの。好きなものは全部抱きしめて生きていきたいの。もしそれがだめだって言うんなら、私はこの世界に従わない。悪魔のままでいい。そんな窮屈な社会クソ喰らえだ!」
話していたら、ふつふつと怒りが沸き立ってきて、心の底から思いっきり叫んだ。翔くんが目を大きく見開く。
「雪葉」
私の名前を呼び、そっと頭に手のひらを乗せる。
「俺もそう思う」
「翔くん……」
翔くんの頬に水滴が伝って、星明かりを反射していた。初めて見た翔くんの涙に驚いて、目を見張る。でも不思議と、その様子を見て、私の心はどこか安心しているような気がした。咄嗟に翔くん顔に手を伸ばし、目元を拭う。その後ろで、キラリと新しい星が光った。
「行こう翔くん。私は負けないよ。世界にちょっとした反抗をしてやるんだ」
「うん!」
そう言って微笑んだ翔くんの笑顔は、今まで見た中で一番穏やかだと思った。私の中で、もはや翔くんのことを、魂を狙う悪魔だと疑う余地は無くなっていた。
「これで十分かな?」
足元に広がるてんびん座の右皿の上に星々を集めて、山のように盛って行く。
「ううん。まだまだ。嬉しいことだけじゃない。嫌なことも辛かったことも全部必要なの」
やがて、あたりの星が全て無くなって、私たちは星にほとんど身体が埋もれてしまった。
「これで全部集めたよ翔くん!」
山から顔だけを出して翔くんを呼ぶと、翔くんが手を差し出してくれた。
私たちは手を繋いだまま、星の山から飛び立った。空中から見ると、天秤が右側に大きく傾いている。そうして、反対側の左皿を目掛けて、急降下して行った。
――バコンッ
私たちの頭がぶつかると同時、巨大な衝撃音とともに、天秤の左皿が下に傾き、右皿が上に押し上げられる。同時、そこに乗っていた星々が一気に飛び上がった。大量の星が、濁流のように流れ、辺りが大きく揺れる。
「できた!私の人生で作った天の川」
膨れ上がった頭のたんこぶを撫でながら、翔くんの方を向いた。
「ほんとに、綺麗だね。雪葉の心は」
心の部屋の上空に出来た天の川をみて、翔くんが感慨を漏らす。
「まだ感動するのは早いよ。ここからが本番なんだから」
私はそう言って、翔くんの手を引いて、宙に浮いた。そうして、流れる天の川の中に飛び込んでいく。
「翔くんは泳げないんだから私に着いててよ!」
「わかった。けど、雪葉は一体何をするつもりなの」
初めて、翔くんを先導して不思議な気持ちになりつつも、絶対的な自信を持ちながら、星を掻き、天の川を泳いでいく。
星を集めていく中で、私は一つ気づいたことがあった。たぶん、この心の扉の中の部屋は、世界と、私たちの関係を表しているのじゃないかということ。
翔くんが言った、悪魔に戻る方法は、自分らしさを見つけることだといいながら、実際には、自分の心の一部を捨てて、大人になれという話だった。
この社会は無制限に見えて、無限の可能性があるように見えて、実は、沢山の拘束がある。それは、時にルールだったり、自分の心だったりする。だから、宇宙のように延々と続く心の部屋の景色も、きっとハッタリだ。この仮説が合ってるとすれば、必ずどこかで壁にぶち当たるはず。
そうして私は、私の全部で、この世界の壁を突き破って、人間に戻ってやるんだ。
「ないしょ!」
翔くんにいたずらな顔を返して、着き進む。小一時間ほど天の川に流されながら泳ぎ続けていると、不意に、先頭を流れていた星々が滞り始めた。見ると、こつこつと透明の壁にぶつかって、そこにひび割れができ始めている。
「あそこが、心の部屋の端!」
「翔くん、もう一回頭から突撃する準備はいい?」
「え、え、何も聞いてないけど、もう一回頭突きするの?」
「そう!帰ったらたんこぶ二つ分の焼肉奢るから!」
「しょうがないなあ」
笑いながら、了承してくれた。悪魔になったって、変わらない。翔くんは優しくて、私に甘い。
「いくよ!目瞑って!」
さっきよりも強く翔くんの手を握り、思いっきり力を入れて、二人で壁にぶつかった。
バキバキッという鈍い音と共に、透明の壁に穴が空いた。そこに、沢山の星々が流れ込んでいく。それに身を任せたまま、私たちは心の部屋の外へ放り出された。
「うわああああ」
穴の先は、最初にいた真っ白な部屋の中だった。右斜め上の壁を見ると、ぽっかりと穴が空いていて、そこから沢山の星が流れ込んできている。
「三つ目のたんこぶできたんだけど」
羽が付いてるくせに着地に失敗したらしい翔くんは頭を撫でながら、「たんこぶ三つ分の焼肉」とぼやいている。
「ふはははっ」
あまりにもその様子が可笑しくて、つい笑ってしまった。それにつられて翔くんもクスッと笑う。
「やっぱり、人間の雪葉の笑顔がいいなあ。人の心を動かす魅力がある」
翔くんに言われて、慌てて顔を触ると、耳は丸く、歯はすり鉢状に戻っていた。後ろを見ても、羽が付いていない。
「え、人間に、戻ってる!」
歓喜しながら、自分の全身を身回していると、翔くんが星を掻き分けて私に密着した。
「ほんとに、雪葉はすごいよ。あんな方法で人間に戻るなんて、俺には思いつかなかった」
「一つのことで他人と比べる必要なんてないよ。雪葉にはいい所が沢山あるんだから。世界には、確かに敵も多い、けど、思ったよりも雪葉の味方も多いから、大丈夫。困った時はちゃんと誰かを頼って生きていくんだよ」
翔くんが、少し俯いて、前髪で顔を陰らせた。
「待って、なんでそんなお別れみたいなこというの?私は困ったことがあったら翔くんを頼るよ。だから、翔くんも私を頼って。翔くんは人間界に戻ってまた暮らすんでしょ?私の魂を奪うためにね。翔くんになら魂だってなんだってあげるよ」
強ばる顔を何とか引き伸ばして、翔くんに笑顔を向けた。すると、翔くんがふるふると首を横に振った。
「そうだけど、俺はもう雪葉とは関わらない方がいい。もうあの街からも離れて、別の場所に行くよ」
「どうして……」
「俺は、最初、人にできるだけ優しくなろうと思ったんだ。そうしたら、毎日喧嘩してるお父さんとお母さんが仲良くなると思って。俺にも優しくしてくれると思って。もう、殴られなくなると思って。でも、気づいたらいつの間にか、五感が無くなっていって、息ができなくなった。それで、悪魔になった俺は魂を抜き取るために、雪葉仲良くした。それが悪魔の本能だから」
一度翔くんが言葉を止めて、深呼吸をした。呼吸を整えた後、再び口を開き、力のこもった声を絞り出した。
「でも、そうしてるうちに、好きになっちゃったんだ雪葉のこと。こんなに誰かのことを好きになったのは初めてで、こんなに幸せな世界があるんだって知った。だからこの先ずっと雪葉には幸せでいて欲しいって思う。それで、あの時、俺は雪葉に別れようって言ったんだ。苦しむ雪葉を見て、もしかしたら俺が近くにいるからだめなんじゃないかって。騙して雪葉と付き合ったのに、俺が一緒にいていいはずないって」
翔くんの方から、パキパキっと心が割れる音がした。ハッとして、両手を彼の方にめいいっぱい伸ばす。
「ほら、そうやって自分に嘘つくから悪魔になっちゃったんでしょ。私の前でくらい、本当の翔くんをみせてよ」
いつも翔くんがしてくれていたように、そっと頭を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。あんなに大きく感じていた身体が、今はなんだかすごく小さな子供のように感じられた。
「それにさ、翔くんが言ってくれたんでしょ。そんなん関係ない。ただ私のことが好きなんだって。私だって同じだよ。翔くんの正体が、悪魔でも化け物でもたぬきでも、目の前にいる翔くんが好きなの。あの時私を助けてくれたのは、愛してくれたのは、嘘だったって言うの?」
翔くんが首を横に振った。頬に張り付いていた涙が飛び散って、私の腕に、乗っかった。ダイヤのように輝き、 わたあめのように柔らかい涙だった。
「たぬきは、絶対ばかにしてるって」
泣き笑いをしながら、反論をしてくる翔くん。
「そんな泣きながら言ってくるのそこなんだ。たぬきに失礼だよ」
私もふふっと笑い返して、彼の後頭部に回していた手を、背中にすり下ろす。また、全ての力で、抱きしめ直した。
「人にはあんな優しいこと言えるのに、どうして自分のことになるとこうも不器用なのかなあ。まあ、だから人はこうやって支え合って生きるのかもしれないけどね」
しばらくの沈黙を挟み、翔くんの涙が、乾き始めた。ようやく、両腕から力を抜いて、体を離す。
「翔くんが、人間に戻る方法は、もう本当にないの?さっきの心の部屋みたいな抜け穴とかも」
一番の理想をダメ元で聞いてみる。
「残念だけど、無いよ。他に悪魔になった人たちを見てきたけど、そんな先例は聞いたことがない。奇跡でも起きないと無理だよ」
はっきりとした翔くんの物言いに、それが確定事項なのだと理解する。沈む心を、極力出さないようにして、彼に顔を向けた。
「そっか。そこまでいうなら、私たちじゃどうにも出来ないんだね。でも、そのお陰で翔くんが生きててくれたかもしれないって思うと、恨むことばっかりじゃないかも」
「どういうこと?」
「もしかしたら、だけど悪魔にならなかったら、翔くん耐えられなくて、生きるの諦めちゃってたかもしれないし。なんて言うか、心のセーブ装置みたいな?悪魔でも何でも生きててくれて、良かったって。私は、翔くんがこの世に居てくれるだけでいいよ。辛かったのに、生きててくれてありがとね」
できるだけ元気づける言葉を伝えたくて、柄でもないことを言ってしまった。けれど、これが私の本心であることには変わりはない。そのまま溢れる想いを繋ぐ。
「それに、悪魔って時間に支配されないんでしょ?老いないし、死なないし、時間を巻き戻したり、進めたりできるって、小学生の時に読んだ図鑑に書いてあったようななかったような。それなら、私たちずっと一緒にいれるってことだよ。永遠の時を共にするってすごくロマンチックじゃない?」
私の意見を聞いて、翔くんが少し、口角を上げた。
「まあ、考え方によってはそうかも。物は言いようだけどね」
「ええー?私とずっと一緒にいれるの嬉しくないってことー?」
「そういうわけじゃなくて、ほら、なんていうか。そりゃできるなら人間として居れるほうがいいっていうか」
「顔赤いよ。焦ってるのバレバレ。翔くんって意外と分かりやすいよね」
からかうように、にっと笑って、歯を見せる。
「そろそろ元の世界に帰ろっか。まあ嫌だって言われても翔くんが頷くまで私はくっつき続けるけど」
「雪葉が駄々こね始めたら大変だから帰ろ」
「わ、私のことなんだと!」
翔くんが可笑しそうに笑う。同時、辺りに散らばっていた数々の星達が、色白く光ながら、宙に浮いた。それから私の胸を目掛けて飛んでくる。
「うっ…」
思わず目を背けて、手をかざしたけれど、それらを貫通して、私の内部に吸い込まれていった。どこか、詰まりが取れて、すっきりとした気持ちになっていた。
「ほら、もう雪葉は大丈夫って、星さん達も言ってる」
「え?そんなこといつ言ってた?私聞こえなかったけど」
「比喩だよ比喩」
翔くんはそう言うと、ふひひっとらしい笑顔をつくって、後ろの羽を広げた。そのまま私をだき抱えると、軽々しく空を飛んでいってしまった。来た時と同じように、白い部分を抜け、真っ青な風景の中を進んでいく。
「とりあえず帰ったら焼肉いこう!たんこぶ三つ分。あと、海はもう寒いからどっかのプールとかで」
羽の音に負けないよう腹から出した声で、翔くんに話しかけた。
「よく考えたらたんこぶ三つ分っていくつよ」
「たんこぶ三つ分はたんこぶ三つ分だよ!そういや悪魔になってもご飯は美味しいの?」
「美味しいよ。そこは変わらない。悪魔になる直前は五感がなくなっていくけど、なりきったら、元に戻る」
「へえ。なら良かった。じゃあ一緒にご飯食べて元気だそうね」
私の言葉を聞いた翔くんは、どこか飄々とした顔で、空を飛び続けていた。それを見て、不思議と微笑みが漏れた。
体を起こすと同時、背後にバサバサと羽を上下させる音が響く。そちらに目をやると、見たこともない化け物が悠然と佇んでいた。歯は鋭く、目は異常に赤い。背中には真っ黒な翼が生えていて、耳が鋭く尖っていた。私は瞬間に身の危険を感じて、どこかも分からないまま走り出した。
「待って雪葉」
「へ?」
本能が、走る足を止めた。翔くんの声だった。何度も聞いた確かな声が、目の前の化け物から発せられていた。
「雪葉、信じられないかもしれないけど」
そういいながら、化け物が私に一歩、足を進める。
「うん」
「俺、悪魔なんだ」
何を言われているのかは、分からなかった。けれど、私の心が直感で、これに正解を出していた。
「どういう、こと」
掠れそうな声を何とか絞り出す。
「そのままの意味。俺は、人間じゃない。悪魔なんだ。嘘つきの悪魔」
「嘘つきの、悪魔……」
無意識に彼の言葉を繰り返してしまう。
「そう、自分の心に嘘をつき続けると、人間は悪魔になってしまうんだ。俺は自分に嘘をつき続けた。そして、雪葉も」
言われた瞬間、バッと手を顔に当てる。泣きそうだった。耳は尖っていて、歯は鋭く、噛み合わせがいつもと違う。肩甲骨に力を入れると、風を切る音がした。きっと、目も赤色に変わっているはずだ。
「そういうこと、だったんだ。翔くんはいつから悪魔だったの」
今までの出来事を理解して、へたりと座り込んだ。悪魔の姿をした翔くんが、すっとしゃがんで私と目線を合わせる。
「俺が悪魔になったのがいつかだったかは、もう覚えていない。悪魔は、人間を手なずけて、魂を抜き取る。そのために、俺は人間の姿で雪葉に近づいた」
それを聞いて、はっと目を見開く。
「う、嘘だよね?翔くんは私のことを愛してくれてたから一緒にいてくれたんだよね!?だって、そうじゃなきゃ巻き戻った世界で私を振ったりするわけないじゃん。魂を取りたいなら私と付き合ってた方がいいに決まってるのに。今は悪魔の姿になって混乱してるだけだよね」
翔くんが顔をひきつらせる。そしてそのまま首を横に振った。
「ちがう!俺は、雪葉の魂を抜き取るために雪葉と付き合った。それは紛れもない事実だ」
思わず自虐気味に、ふっと笑ってしまう。
「そりゃあそっか。翔くんみたいなかっこよくて、優しい子が、私のこと好きでいてくれるわけないよね」
私自身、この答えに酷く納得してしまった。翔くんにたくさんの言葉と愛情をもらって、何も無くても、こんな私でも愛してもらえるんだって、思い込んでいた。でも、やっぱりそうじゃなかった。
大会の日、カラオケで翔くんが私にかけてくれた言葉を思い出す。
――俺は、ただ雪葉が好き。目の前にいる、雪葉が好き。
あの言葉が嘘だったのだと思うと途端気力がなくなって、ぽかんと口を開けたまま天を仰いだ。
「翔くんなんて、大嫌い。みんな、みんな大嫌い。私の味方なんて、この世界にいない」
喋る度、パキパキっと心が割れる音がした。それを見た翔くんが、必死に私の肩を揺する。
「雪葉、これ以上、自分の心に嘘をついちゃだめだ。元に戻れなくなっちゃう。今の雪葉ならまだ本当の自分を見つけることができれば、元の姿に戻れる。だから、行こう。心の世界に。そこで本当の自分をみつけよう」
いきなり心の世界とか本当の自分とか言われても、何を言っているのか理解できなかった。けれど、今の私にとっては、もう正直、そんなことはどうでも良かった。
「でも、私が人間に戻ったら、翔くんは私の魂を狙うんでしょ」
思ったことをそのままぽつりとこぼす。翔くんが何かを決心したように、こくりと頷いた。
「雪葉がそう思うならそれでいい。でも……」
その続きは何と言ったか、分からなかった。意識がしっかりしていなかったからかもしれないし、翔くんが羽をはばたいたからかもしれない。ぼうっとしながら一点を見つめ続ける私の手を握って、翔くんが上空に飛び上がった。
真っ白な空間を抜けると、辺りが青色に変わっていく。
「ほら、みて雪葉、俺たち空を泳いでるみたい」
「うん」
「雪葉は毎日こんな感覚で泳いでるの?」
「うん」
「じゃあ帰ったらさ、今度は海に行こうよ。俺泳げないから今まで誘ってなかったんだけど、雪葉に泳ぎ方教えてもらって、一緒に泳げたら楽しいだろうな」
もう、やめてよ。
翔くんが、なんで今そんな話をするのか、分からなかった。魂を抜き取ると宣言した相手に、デートの誘いなんて、とち狂っている。悪魔だから、弱る私をみて、楽しんでいるのだろうか。
しばらく翔くんに連れられていると、見たこともない世界にたどり着いた。着地して、周囲を見回すと、ハート型や、雫型などの形をした像が至る所に置かれていた。
「ここは、心の世界。人に宿る様々な感情が、ここに集まってくる。そして、ここの道なりに沿って真っ直ぐ進んだところに、心の扉がある。そこに行くと、自分の心を振り返ることができる。嬉しかった心、我慢した心、愛されたい心、嫌われたくない心。その中から、少しずつ掻い摘んで、本当の自分を見つけるんだ。そうしたら自分らしく生きれるようになって、元の姿に戻れる」
珍しく翔くんの話が抽象的すぎて、上手く理解できない。
「ちょっと、よく分からない」
納得したように、頷く翔くん。
「これだけ聞いても、すぐには理解できないと思う。でも、これ以上の説明は難しい。だから、とりあえず行こう。俺は雪葉に悪魔になんてなって欲しくない」
今の翔くんがかけてくれる優しい言葉は、やっぱり悪魔としての目的を果たすために言っているのだろうか。少しくらい、本心から言ってくれているのだろうか。期待して、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
「わかった……私、人間に戻るために、行くよ。でも、翔くんも一緒に来て」
私の言葉を耳にすると、翔くんがとびきりの笑顔を見せて、手を取った。
進んでいくと、突如として目の前にドアノブが現れた。それを力強くまわして開くと、だんだん目の前が明るく発光してきて、思わず目を閉じる。
「なに、これ……すごい」
まぶた越しに感じる強い光が消えて、目を開けると、あたりはどこまでもどこまでも広く先へ続いていた。前も後ろも上も横も見渡す限り星が散らばっていて、まるで宇宙の中心に立っているよう。
「これが、雪葉の心の中……」
ぼそっと翔くんが言葉を漏らした。
「私の心の中?どういうこと?」
「心の扉の先は、その扉を開けた者の心の中を映し出した空間になるんだ。この星は雪葉が経験してきた感情、心の全て」
「そうなんだ、私こんなにたくさん……ここでどうやって自分らしさを見つけるの?」
「この中から、自分で選ぶんだ。両手で持てる量は決まってるから、雪葉にとって大切なものを。ほら、よく見ると、光も大きさも形も色も全部違う」
そう言って翔くんが一際明るく光る星を指す。私の一等星とも言えるその星は、どこか翔くんに似ている気がした。
「ほんとだ。こんなに沢山あるのに、一つも同じものがない」
「そう。それでも、どちらを選択するか、迷う時もあると思う。そしたら、てんびん座にそれぞれの星を置いてみると、どっちが自分にとって大事か教えてくれるよ。これは、雪葉が今までの人生で培ってきた価値観によって作られた天秤だからね」
今度は、指した人差し指を足下に移動させる翔くん。下を向くと、私を中心に、てんびん座を構成する星々が広がっていた。
「ほら、行っておいで。俺はここで待ってるから」
「う、うん」
まだいまいちよく分からないまま、翔くんに促されてしまった。仕方なく、肩に力を入れ、羽を広げる。バサバサという音とともに、次第に体が宙に浮いて、上空に進んで行った。
何となく、近くにあった星に触れてみる。薄橙色に発光していて、丸っこい形をしていた。
瞬間、私の心がぶわっと暖かくなる。それとともに、小さい頃の記憶が蘇った。
『大丈夫。お母さんは雪葉の味方だからね』
幼稚園の頃、先生に理不尽な怒られ方をして、家で泣いていたらお母さんが抱きしめてくれた時のことを思い出す。
「これは……」
続けて、すぐ隣にあった星に触れる。先程とは違った温かみが、優しく私を包み込んだ。
『雪葉は本当に恋愛体質だよね。もしまた悪い恋人に誑かされたら私が殴り込みにいくから』
中学校でできた初めての親友が、振られた私を励ましてくれた時の記憶。隣、また隣りと次々に星々に触れていく。忘れてしまった心を、少しずつ順番に取り戻しているようだった。
「これも、これも大事」
大切な心が多すぎて、もはや両手で持てなくなった私は、服を風呂敷みたいにして、星を抱えていく。それでも溢れてしまいそうな量で、ふらふらと蛇行飛行をしながら、翔くんの元へ向かう。
そのせいで、いくつかの星がコロンと転がって、下に落ちていってしまった。微かに、パリンという音がして、辺りにガラスのようなものが散らばった。
「あ……」
慌ててそちらに向かって方向転換すると、服の中で転がっていた星たちもバランスを崩してぽろぽろと私の元から離れていってしまった。
取り返しのつかなくなった私は仕方なく翔くんのいる方角に体を向け直して、飛んでいく。何とかたどり着くと、翔くんが私の近くに寄ってきた。
「そんな量の星抱えられないよ。どれか置いていかないと。感情にはすごく心のエネルギーを消耗するから、雪葉が耐えられなくなっちゃう。それが、大人になるってことなんだよ」
私の持っている星の量を見て、翔くんが呟く。
「大丈夫。私なら大丈夫。全部もったまま生きていける」
星を捨てたくない一心で、根拠の無い自信を口にする。
「現に、雪葉は人に好かれることと、自分の心のままに生きることが出来てなかったでしょ」
相変わらず翔くんは冷静に私の状況を判断してアドバイスをくれた。けれど、わがままな私はどうしても納得することが出来なかった。
「でも、それでも、全部私にとって大事なものなの。全部私の一部なの。好きなものは全部抱きしめて生きていきたいの。もしそれがだめだって言うんなら、私はこの世界に従わない。悪魔のままでいい。そんな窮屈な社会クソ喰らえだ!」
話していたら、ふつふつと怒りが沸き立ってきて、心の底から思いっきり叫んだ。翔くんが目を大きく見開く。
「雪葉」
私の名前を呼び、そっと頭に手のひらを乗せる。
「俺もそう思う」
「翔くん……」
翔くんの頬に水滴が伝って、星明かりを反射していた。初めて見た翔くんの涙に驚いて、目を見張る。でも不思議と、その様子を見て、私の心はどこか安心しているような気がした。咄嗟に翔くん顔に手を伸ばし、目元を拭う。その後ろで、キラリと新しい星が光った。
「行こう翔くん。私は負けないよ。世界にちょっとした反抗をしてやるんだ」
「うん!」
そう言って微笑んだ翔くんの笑顔は、今まで見た中で一番穏やかだと思った。私の中で、もはや翔くんのことを、魂を狙う悪魔だと疑う余地は無くなっていた。
「これで十分かな?」
足元に広がるてんびん座の右皿の上に星々を集めて、山のように盛って行く。
「ううん。まだまだ。嬉しいことだけじゃない。嫌なことも辛かったことも全部必要なの」
やがて、あたりの星が全て無くなって、私たちは星にほとんど身体が埋もれてしまった。
「これで全部集めたよ翔くん!」
山から顔だけを出して翔くんを呼ぶと、翔くんが手を差し出してくれた。
私たちは手を繋いだまま、星の山から飛び立った。空中から見ると、天秤が右側に大きく傾いている。そうして、反対側の左皿を目掛けて、急降下して行った。
――バコンッ
私たちの頭がぶつかると同時、巨大な衝撃音とともに、天秤の左皿が下に傾き、右皿が上に押し上げられる。同時、そこに乗っていた星々が一気に飛び上がった。大量の星が、濁流のように流れ、辺りが大きく揺れる。
「できた!私の人生で作った天の川」
膨れ上がった頭のたんこぶを撫でながら、翔くんの方を向いた。
「ほんとに、綺麗だね。雪葉の心は」
心の部屋の上空に出来た天の川をみて、翔くんが感慨を漏らす。
「まだ感動するのは早いよ。ここからが本番なんだから」
私はそう言って、翔くんの手を引いて、宙に浮いた。そうして、流れる天の川の中に飛び込んでいく。
「翔くんは泳げないんだから私に着いててよ!」
「わかった。けど、雪葉は一体何をするつもりなの」
初めて、翔くんを先導して不思議な気持ちになりつつも、絶対的な自信を持ちながら、星を掻き、天の川を泳いでいく。
星を集めていく中で、私は一つ気づいたことがあった。たぶん、この心の扉の中の部屋は、世界と、私たちの関係を表しているのじゃないかということ。
翔くんが言った、悪魔に戻る方法は、自分らしさを見つけることだといいながら、実際には、自分の心の一部を捨てて、大人になれという話だった。
この社会は無制限に見えて、無限の可能性があるように見えて、実は、沢山の拘束がある。それは、時にルールだったり、自分の心だったりする。だから、宇宙のように延々と続く心の部屋の景色も、きっとハッタリだ。この仮説が合ってるとすれば、必ずどこかで壁にぶち当たるはず。
そうして私は、私の全部で、この世界の壁を突き破って、人間に戻ってやるんだ。
「ないしょ!」
翔くんにいたずらな顔を返して、着き進む。小一時間ほど天の川に流されながら泳ぎ続けていると、不意に、先頭を流れていた星々が滞り始めた。見ると、こつこつと透明の壁にぶつかって、そこにひび割れができ始めている。
「あそこが、心の部屋の端!」
「翔くん、もう一回頭から突撃する準備はいい?」
「え、え、何も聞いてないけど、もう一回頭突きするの?」
「そう!帰ったらたんこぶ二つ分の焼肉奢るから!」
「しょうがないなあ」
笑いながら、了承してくれた。悪魔になったって、変わらない。翔くんは優しくて、私に甘い。
「いくよ!目瞑って!」
さっきよりも強く翔くんの手を握り、思いっきり力を入れて、二人で壁にぶつかった。
バキバキッという鈍い音と共に、透明の壁に穴が空いた。そこに、沢山の星々が流れ込んでいく。それに身を任せたまま、私たちは心の部屋の外へ放り出された。
「うわああああ」
穴の先は、最初にいた真っ白な部屋の中だった。右斜め上の壁を見ると、ぽっかりと穴が空いていて、そこから沢山の星が流れ込んできている。
「三つ目のたんこぶできたんだけど」
羽が付いてるくせに着地に失敗したらしい翔くんは頭を撫でながら、「たんこぶ三つ分の焼肉」とぼやいている。
「ふはははっ」
あまりにもその様子が可笑しくて、つい笑ってしまった。それにつられて翔くんもクスッと笑う。
「やっぱり、人間の雪葉の笑顔がいいなあ。人の心を動かす魅力がある」
翔くんに言われて、慌てて顔を触ると、耳は丸く、歯はすり鉢状に戻っていた。後ろを見ても、羽が付いていない。
「え、人間に、戻ってる!」
歓喜しながら、自分の全身を身回していると、翔くんが星を掻き分けて私に密着した。
「ほんとに、雪葉はすごいよ。あんな方法で人間に戻るなんて、俺には思いつかなかった」
「一つのことで他人と比べる必要なんてないよ。雪葉にはいい所が沢山あるんだから。世界には、確かに敵も多い、けど、思ったよりも雪葉の味方も多いから、大丈夫。困った時はちゃんと誰かを頼って生きていくんだよ」
翔くんが、少し俯いて、前髪で顔を陰らせた。
「待って、なんでそんなお別れみたいなこというの?私は困ったことがあったら翔くんを頼るよ。だから、翔くんも私を頼って。翔くんは人間界に戻ってまた暮らすんでしょ?私の魂を奪うためにね。翔くんになら魂だってなんだってあげるよ」
強ばる顔を何とか引き伸ばして、翔くんに笑顔を向けた。すると、翔くんがふるふると首を横に振った。
「そうだけど、俺はもう雪葉とは関わらない方がいい。もうあの街からも離れて、別の場所に行くよ」
「どうして……」
「俺は、最初、人にできるだけ優しくなろうと思ったんだ。そうしたら、毎日喧嘩してるお父さんとお母さんが仲良くなると思って。俺にも優しくしてくれると思って。もう、殴られなくなると思って。でも、気づいたらいつの間にか、五感が無くなっていって、息ができなくなった。それで、悪魔になった俺は魂を抜き取るために、雪葉仲良くした。それが悪魔の本能だから」
一度翔くんが言葉を止めて、深呼吸をした。呼吸を整えた後、再び口を開き、力のこもった声を絞り出した。
「でも、そうしてるうちに、好きになっちゃったんだ雪葉のこと。こんなに誰かのことを好きになったのは初めてで、こんなに幸せな世界があるんだって知った。だからこの先ずっと雪葉には幸せでいて欲しいって思う。それで、あの時、俺は雪葉に別れようって言ったんだ。苦しむ雪葉を見て、もしかしたら俺が近くにいるからだめなんじゃないかって。騙して雪葉と付き合ったのに、俺が一緒にいていいはずないって」
翔くんの方から、パキパキっと心が割れる音がした。ハッとして、両手を彼の方にめいいっぱい伸ばす。
「ほら、そうやって自分に嘘つくから悪魔になっちゃったんでしょ。私の前でくらい、本当の翔くんをみせてよ」
いつも翔くんがしてくれていたように、そっと頭を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。あんなに大きく感じていた身体が、今はなんだかすごく小さな子供のように感じられた。
「それにさ、翔くんが言ってくれたんでしょ。そんなん関係ない。ただ私のことが好きなんだって。私だって同じだよ。翔くんの正体が、悪魔でも化け物でもたぬきでも、目の前にいる翔くんが好きなの。あの時私を助けてくれたのは、愛してくれたのは、嘘だったって言うの?」
翔くんが首を横に振った。頬に張り付いていた涙が飛び散って、私の腕に、乗っかった。ダイヤのように輝き、 わたあめのように柔らかい涙だった。
「たぬきは、絶対ばかにしてるって」
泣き笑いをしながら、反論をしてくる翔くん。
「そんな泣きながら言ってくるのそこなんだ。たぬきに失礼だよ」
私もふふっと笑い返して、彼の後頭部に回していた手を、背中にすり下ろす。また、全ての力で、抱きしめ直した。
「人にはあんな優しいこと言えるのに、どうして自分のことになるとこうも不器用なのかなあ。まあ、だから人はこうやって支え合って生きるのかもしれないけどね」
しばらくの沈黙を挟み、翔くんの涙が、乾き始めた。ようやく、両腕から力を抜いて、体を離す。
「翔くんが、人間に戻る方法は、もう本当にないの?さっきの心の部屋みたいな抜け穴とかも」
一番の理想をダメ元で聞いてみる。
「残念だけど、無いよ。他に悪魔になった人たちを見てきたけど、そんな先例は聞いたことがない。奇跡でも起きないと無理だよ」
はっきりとした翔くんの物言いに、それが確定事項なのだと理解する。沈む心を、極力出さないようにして、彼に顔を向けた。
「そっか。そこまでいうなら、私たちじゃどうにも出来ないんだね。でも、そのお陰で翔くんが生きててくれたかもしれないって思うと、恨むことばっかりじゃないかも」
「どういうこと?」
「もしかしたら、だけど悪魔にならなかったら、翔くん耐えられなくて、生きるの諦めちゃってたかもしれないし。なんて言うか、心のセーブ装置みたいな?悪魔でも何でも生きててくれて、良かったって。私は、翔くんがこの世に居てくれるだけでいいよ。辛かったのに、生きててくれてありがとね」
できるだけ元気づける言葉を伝えたくて、柄でもないことを言ってしまった。けれど、これが私の本心であることには変わりはない。そのまま溢れる想いを繋ぐ。
「それに、悪魔って時間に支配されないんでしょ?老いないし、死なないし、時間を巻き戻したり、進めたりできるって、小学生の時に読んだ図鑑に書いてあったようななかったような。それなら、私たちずっと一緒にいれるってことだよ。永遠の時を共にするってすごくロマンチックじゃない?」
私の意見を聞いて、翔くんが少し、口角を上げた。
「まあ、考え方によってはそうかも。物は言いようだけどね」
「ええー?私とずっと一緒にいれるの嬉しくないってことー?」
「そういうわけじゃなくて、ほら、なんていうか。そりゃできるなら人間として居れるほうがいいっていうか」
「顔赤いよ。焦ってるのバレバレ。翔くんって意外と分かりやすいよね」
からかうように、にっと笑って、歯を見せる。
「そろそろ元の世界に帰ろっか。まあ嫌だって言われても翔くんが頷くまで私はくっつき続けるけど」
「雪葉が駄々こね始めたら大変だから帰ろ」
「わ、私のことなんだと!」
翔くんが可笑しそうに笑う。同時、辺りに散らばっていた数々の星達が、色白く光ながら、宙に浮いた。それから私の胸を目掛けて飛んでくる。
「うっ…」
思わず目を背けて、手をかざしたけれど、それらを貫通して、私の内部に吸い込まれていった。どこか、詰まりが取れて、すっきりとした気持ちになっていた。
「ほら、もう雪葉は大丈夫って、星さん達も言ってる」
「え?そんなこといつ言ってた?私聞こえなかったけど」
「比喩だよ比喩」
翔くんはそう言うと、ふひひっとらしい笑顔をつくって、後ろの羽を広げた。そのまま私をだき抱えると、軽々しく空を飛んでいってしまった。来た時と同じように、白い部分を抜け、真っ青な風景の中を進んでいく。
「とりあえず帰ったら焼肉いこう!たんこぶ三つ分。あと、海はもう寒いからどっかのプールとかで」
羽の音に負けないよう腹から出した声で、翔くんに話しかけた。
「よく考えたらたんこぶ三つ分っていくつよ」
「たんこぶ三つ分はたんこぶ三つ分だよ!そういや悪魔になってもご飯は美味しいの?」
「美味しいよ。そこは変わらない。悪魔になる直前は五感がなくなっていくけど、なりきったら、元に戻る」
「へえ。なら良かった。じゃあ一緒にご飯食べて元気だそうね」
私の言葉を聞いた翔くんは、どこか飄々とした顔で、空を飛び続けていた。それを見て、不思議と微笑みが漏れた。



