気がつくと、朝の学校にいた。日にちは、九月一日。夏休みが終わって、初めて登校した日だ。念の為ほっぺたを思いっきりつねってみる。
「いででで」
「雪葉一人で何しとん?」
その一部始終を教室に入ってきた奏に目撃されてしまい、訝しげな目を向けられる。
「奏、私たちって高校二年生だよね?今日は九月一日であってるよね?」
私の勢いにしり込みしながら、奏が質問に答える。
「う、うん。そうだけど。どうしたん?休みボケでもしとる?」
「いやなんか今日変な夢見ちゃって、頭がこんがらがってるみたい」
「ふーん」
奏は私の弁解を聞いてもあまり納得しない様子のまま荷物を机の横に置いた。
本当に時間が戻ってるんだ。上手く納得がいかないまま自分の手を見つめる。
「おはよー!今日も奏はかわいいねえ」
前と変わらず心美と実波が教室に入ってきた。それからも時間が戻る前と変わらずに予定は進んでいった。英語の発表があって、部長の勤めを果たして、文化祭実行委員を決めた。けれど、私は全てのお願いを断った。英語の発表はじゃんけんで決めて男の子にやってもらったし、部長は友達に譲った。文化祭実行委員は私を推薦した心美がそのまま引き受ける形になって、ぶつぶつと文句を言っていた。鞄をみても、どんぐり猿のキーホルダーは付いていない。
もう、あんなふうに全てを抱え込んで、頑張ることはしないと決めた。あの時の苦しさを思い出すと胸がきゅっと締まる。
私はもっと自由に行きたい。もしかしたら、こうして時間が戻ったのも、翔くんからのメッセージだったのではないかとさえ思ってしまう。
「翔くん帰ろ」
部活を終えて、いつもの場所に行くと先に翔くんが待っていた。今回は翔くんと距離をとるなんて提案はしていなくて、前と同じように一緒に下校している。
「よう」
校門を出たところで、幸喜が待ち構えていた。私に声をかけた後、隣にいる翔くんの存在に気がついて、口ごもった。なんとなく予測はしていたので、あまり驚きはしなかった。
翔くんが警戒した顔で私に目配せをしてくる。
「中学の時の元カレ。この前の大会でも話しかけてきて。なんで今ここにいるのかは私もわかんない」
怪しまれないよう怖がる様子をしながら、小声で翔くんに打ち明ける。あまり良くなさそうな雰囲気を悟った翔くんが一歩私の前へ出て、幸喜に話しかけた。
「雪葉の知り合いですか?」
「ま、まあそんなところです。たまたま見つけたから声をかけようと思っただけで別にたいした意味はありません。彼氏さんいるなら俺はもうお暇するので」
しどろもどろになりながら何とか受け答えをしている様子の幸喜。それだけを言い残すと、直ぐにその場を去っていった。
少女漫画とかで主人公をイケメンがナンパ師みたいな輩を撃退するシーンはよくみるけれど、現実でそれを真近にすると、惚れてしまう理由がわかった気がした。翔くんが元々かっこいいのは人間が息をすることくらい当たり前だけど、それだけじゃなくて、普段見せない強さを私のために見せてくれたことが、瞬間的に心を揺する。むき出しの心臓をそのまま鷲掴みにされてしまったような感覚だ。
「ありがとう。今の翔くんかっこよかった」
「他はかっこよくないみたいな
「そういう意味じゃないし!」
静かにすくすくと笑う。何も言わずにそっと手を伸ばして、翔くんの指と手のひらをつなぎ止めた。きっと、私はずっとこうして生きていくのが幸せなんだと思う。もう余計なことはしないで、自由に生きる方がずっと楽しい人生になる気がしていた。
「そうなんだよー。奏音響やってくれる?吹奏楽部なら本業っしょ。実波は何気にヒロイン似合うと思うんだよね。ラストシーンのヒロイン役まだ決まってなくてさ」
休み時間中、少し遠くから、心美達の会話が耳に入ってきた。私もあんなふうに器用に人に頼み事ができたら良かったのかななんて考えてしまうけど、もう今は私は実行委員じゃないし、関係のないことだと思ってネガティブな思考を振り払う。あれから心美たちと喋る頻度は減って、休み時間は前よりも一人で過ごすことが増えていた。本を読むことも勉強することも嫌いな私は、翔くんが友達と話しているとやることがなくて暇で仕方がなかった。
そういう時はぼうっと空想をするか、こっそり翔くんを目で追っている。突如友達の輪から抜けて翔くんがこちらに向かって歩いて来るのがわかった。それが嬉しくて、張り切って翔くんの方に顔を向ける。
「雪葉。今日の帰りちょっと話したいことあるからさ、部活終わったらいつもの場所じゃなくて中央公園で待っててもらってもいい?」
「いいよ!大体翔くんの方が早いから逆に待っててもらうことになるかもしれないけど」
「それは大丈夫。じゃあまた放課後ね」
「うん!」
翔くんから話なんてなんだろうと考えながら心を踊らせる。デートの誘い、初めてのちゅー?婚約、はまだ早いか。などと思い当たることを必死に探る。これ以降の授業はこのことで頭がいっぱいになってしまって、ほとんど何も話を聞いていなかった。
文化祭準備はそれなりに参加して、部活はそつなく練習内容をこなした。今回は先に心美に怪盗山田マン役を与えられてしまって、ラストのヒロイン役は実波に決定した。本当は悔しいけれど、今からはどうしようもないため、私にできるのは翔くんと実波がどうキスシーンを乗り越えるかを見張るだけだ。
部活終わりの湿った髪を秋風に当てながら、中央公園へと歩いていく。九月になるともう日がだいぶ短くなって、学校から出ると辺りはほとんど真っ暗だ。わずかな街灯とスマホのライトを頼りにして、目的地にたどり着いた。私の予想通り、園内には先に翔くんがベンチに座って、待ってくれていた。
「翔くん!」
私の声に気がつくと、翔くんが手招きをして、ベンチの空いたところに座るよう促してくれる。
「急にこんなとこに呼んでごめんね」
「ううん!大丈夫だよ。それで話ってなあに?」
左右の足をぷらぷらとさせながら、翔くんの方に顔を傾ける。翔くんの喉から、ごくりと唾を飲む音が響いた。
「雪葉、俺たち、別れよう」
「」
あまりにも突然のことで、何も言葉が出なかった。頭の中が真っ白になって、視界がぐにゃりと曲がっている。次第に全身が震え、歯がカタカタと音を鳴らし始めた。脳が拒絶反応を起こしたみたいに上手く息が吸えなくて、その場に座り込む。
翔くんのゆっくりと暖かな手が私の背中を撫でた。撫で続けた。
「な、んで」
なんで、優しくするの。私のこと振ったのに。私のこと好きって言ったのに。愛してるって言ったのに。それならずっと愛してよ、嘘つき。でも、そんな翔くんのことが今も大好きで、大好きでたまらない。
私が落ち着くまで、翔くんは文句一つ垂れず、ずっと隣にいてくれた。ずっと眺めていた公園の床が、目の慣れによって、はっきりと砂の粒に見えてきたころ、私はゆっくりと立ち上がる。
千鳥足の状態で、翔くんに付き添ってもらいながら家路をたどった。どちらも、何も話さなかった。何も、話してくれなかった。朦朧とした意識で、何とか自分の家にたどり着き、玄関扉を開けた。中にはいると、ドタドタという足音と共に、お母さんが駆け寄ってきた。
「心配したじゃない。どうしたのこんな遅くまで」
確かに時間を見ると、友達と話していたと言い訳するには無理がある程の遅い時間だった。
ぎゅっと口を一文字に結んで、必死に涙を飲んだけれど、私の胃袋では抱えきれなくて、全てが目から溢れ出してしまった。
あれ程お母さんに翔くんのことを話すのが恥ずかしかったのに、もう今となってはそれどころではなかった。誰でもいいから、世界で一番の苦しみを知って欲しかった。
何とか言葉にしようとしたけれど、全て自分の泣き声にかき消されてしまって、何を伝えたかはよく覚えていない。ただひたすら、思ったことをその場で放ち続けた。小一時間涙を出しっぱなしにして、ようやく落ち着いてきた頃に、隣で話を聞いてくれていたお母さんが私を抱きしめた。これまでだったら、きっと寒気がして、それこそ拒絶反応を示していたかもしれない。でも、不思議なことに、今は酷く安心してしまう。泣き疲れてそのまま目を瞑ると、まるで幼稚園の頃に戻ったかのように、お母さんに甘えた日の記憶が鮮明に蘇った。
次の日は、学校に行けなかった。お母さんに言ったら、明日からはまた学校に行くという約束で休みの許可をもらった。学校に行って、翔くんの顔を見るのがきつかった。もうこの笑顔は私のものではないと思うと、楽しそうにする翔くんがもう私にとって特別なものじゃなくなるのだと思うと、とてもじゃないけど耐えられそうになかった。
それでも、ついスマホで翔くんの写真を開いてしまう。辛くなるだけだから消そうと思っても、そんな勇気が出なくて、そのうち涙が頬を伝ってしまう。
一日中ご飯も食べられなくて、ようやくお風呂の時間になってから初めてベッドをでた。リビングに行くと私の様子を心配したお父さんがプリンを買ってきてくれていた。その優しさに触れて、また涙がせりあげてくる。本当に自分がおかしくなってしまったみたいに、普段だと有り得ないことで、感傷的になってしまう。
ぐしゃぐしゃになった顔を隠すため、先にお風呂に入って、体を流す。
髪も乾かさずに、冷蔵庫からプリンを取り出して、口にした。
その瞬間、ああ、と思う。口内で広がったプリンには、卵の風味も、糖類の甘さも何も感じなかった。
急いでお風呂場に行くと、目が酷く充血していた。きっとこの後視界がぼんやりして、耳の聞こえも悪くなるだろうと思う。
気付かないふりをしていたけれど、突然出るこの症状は、たぶんただごとじゃない。一度深呼吸をして、少し、勇気を出して、言ってみる。もしかしたら、同時に明日も学校を休みたいという目論見が心のどこかであったかもしれない。
「ねえ、お母さん」
「ちょっと病名が特定できないですね。大学病院の紹介状を書くので、こちらで診療を受けてください」
翌日、お医者さんにそう告げられ、とぼとぼと診療所を後にした。お母さんがすごく心配そうに私の方を見て、色々質問を繰り返してくる。
「いつからなの?痛い?全く見えないの?少しは見える?」
マシンガンみたいに連続して飛んでくる言葉に、私はうん、とか大丈夫といった言葉で単調に返していった。
できるだけ早い方がいいというお母さんの意向のもと、最も近日で空きがあった、来週の水曜日に大学病院の診療予約を入れた。診療所の帰り道にお母さんにアイスなら食べれそう?と聞かれて買ってもらったいちごミルクアイスを口に運びながら、部屋でぼうっとしていると、スマホが通知音を鳴らした。
画面上部には幸喜と書かれた通知が表示されていた。開くと、なんとも読みにくい長文が現れた。このメッセージも一度読んでいるから、最初ほど驚きはしなかった。けれど、時間をもどっても同じように私に執着する幸喜には少し感心すら覚えてしまう。
念の為もう一度読んでみても、内容は変わらず、よりを戻したいから彼氏と別れて欲しいこと、そうしないとストーカーをするという宣言がされていた。当然幸喜は私が翔くんに振られたことなど知る由もない。
恐る恐るスマホのキーボードをフリックする。
『別に喋るだけならいいよ』
『じゃあ明日いける?』
幸喜は付き合っていた当時と変わらず即レスだった。そのままいくつかやり取りが続いて、明日の放課後にショッピングモールで会うことに決まる。最初は中央公園を提案されたけど、振られた時のことを思い出すのが嫌で、私がショッピングモールにして欲しいとお願いした。
その翌日から、二日ぶりの学校が始まった。行ってしまえば意外と何ともなくて、時間は着々と進んでいった。それでもやはり、翔くんの顔が目に入った時だけは、心がぎゅっと掴まれて、全身が痛い。極力翔くんを避けるように意識しながら、一日をやり過ごす。
校門をでて、いつもの帰りと反対の方への進んで行って、大きな建物を目指した。心臓が苦しそうにドンドンと暴れていた。罪悪感と不安、それから少しの期待があった。
「まさかほんとに来てくれると思ってなかったわ」
「呼び出したのそっちなのに」
「雪葉の性格的にこんな誘いに乗るのは珍しいなって思ったんだよ。彼氏はいいのか」
集合場所にしていた、ショッピングモール一階のベンチから離れ、行くあてもなく二人で歩いていく。
「別れた」
一瞬、少し驚いた様子をした後で、獲物を見つけたような目で私に向かって笑んだ。
「どうせ振られたんだろ」
プライドが邪魔して、本当は認めたくなかったけど、この状況で、逃げられるわけもなかった。
「そうだけど……」
「やっぱりな。あんな明るそうで爽やかなイケメン合わないって」
私はその言葉に、幸喜の目を睨めつけた。
「いやいや悪口じゃなくてさ、やっぱ波長みたいなのはあるじゃん。俺みたいながいいって雪葉は」
幸喜のその言葉から、言わんとすることを察した。けれど、まだ葛藤が強くて、 自分からは言い出したくなかった。何も応えずにいると、ぼそっと、幸喜が音を漏らした。
「俺ら、もう一回付き合わね?」
覚悟していた言葉だったけれど、いざ直接聞くと、心がびくっと跳ねた。どうするか決めあぐねて、罪悪感とともにぎゅっと唇を噛む。
「だって、今も強がってるけど、本当はもう立ち直れそうにないだろ。彼氏だって、別れたなら、いいじゃん。わかってるだろ、俺もすげえ重いタイプだから、寂しくはさせねえよ」
この言葉に靡いてしまっている自分が嫌だった。あんなふうに、翔くんと将来を添い遂げるつもりで毎日一緒にいたのに、もう好きでもない相手と、心の寂しさを埋める為だけに、付き合うなんて。
「……わかった」
頭の片隅ではやめといた方がいいと思いながら、結局、目の前の寂しい心に従ってしまった。一瞬だけ付き合ってみて、だめだったらまた別れればいい。そう自分に言い聞かせながら。
「じゃあ、また、よろしくな」
幸喜が少し照れくさそうな顔をして、頬を掻く。自分で応じといてなんだけれど、恋愛特有のドキドキする感じを出すのはやめて欲しかった。私はそういうつもりで幸喜と付き合った訳じゃない。普通の恋愛とは違う。その自身で作った線引きが、私を甘えさせてしまっていた。
「じゃあ、今日はもう帰るか。アカウントのブロックくらい解除しとけよ」
幸喜は本当に私とまた付き合いたくてここに来ただけなんだ。まだ話し始めて、二十分程しかたっていない上、ショッピングモールの通路をひたすら歩いただけで、何もしていないのに。
だからといって、長居する理由もないのでそれに素直に応じた。
「そうだね」
そのまま近くの出口から外に出ると、一組のカップルが、楽しそうにちょっかいをかけあっていた。隣街にある高校の制服を着ている。それを見て、胸がズキっと痛んだ。楽しそうな声を聞きたくなくて、思わず耳を塞ぐ。
「大丈夫か?」
私の異変に気がついた幸喜が心配してくれた。
「うん、大丈夫。ちょっと車の音にびっくりしただけ」
「いや、そうじゃなくて。お前ほんとに雪葉か?」
突拍子もないことを言われ、口ごもってしまった。真意をつかめずにいると、幸喜が続けて喋り始めた。
「なんかさ、全然違うんだよな俺の知ってる雪葉と」
瞬間ドキッとした。もしかして、時をもどっていることがバレたのではないかと思って、慌ててそれっぽい理由をつけてみる。
「しばらくあってなかったからとかじゃなくて?」
「そういうのじゃなくて根拠もない俺の肌感みたいな」
「へ、へえ。さすがに気のせいじゃない?だって顔はそのままの私でしょ?」
「そう言われると、そんな気もするな。たぶん俺の気のせいだわ。変なこと聞いちまって悪いな。俺こっちだから、じゃあな」
「うん、じゃあ」
振られた手に無意識に振り返す。本当にこれで良かったのかはまだ分からないけれど、ひとまず心の穴を埋めるものが見つかって、安堵していた。
ポトフに入っているじゃがいもを、スプーンで救って口に運ぶ。
「雪葉あんまり体調良くなさそうだし、あんまり言いたくはなかったけど、一応将来のことだけは決めといた方がいいんじゃないかと思って」
そう告げられ差し出されたのは、前と同じ、模試の結果だった。成績を表わす六角形の図形は概ね綺麗だったけれど、どの教科も限界値は三十五を示していた。
「何か、やりたいこととか、行きたい学部とか決まってないの?」
私の体調を気遣ってか、母が前より優しく喋りかけてくる。責めるような目つきも無い。それに対して、私は一度深く息を吸って、口を開いた。
「私は、わかんない。自分が何をしたいのかも、どうなりたいのかも。できるだけ辛いこともしたくない。だから、これからそれを探していくことにする」
「そう」
小さな声で母が返事をした。意外にも怒られることも否定されることもなく、母は食事に戻った。その理由が落胆だったのか、私への歩み寄りだったのかは分からないけれど、とりあえず言い合いにならなかったことにほっとした。
もちろん、私にも何もやりたいことが決まらない焦りはある。でも本当に何も思いつかないのだから、仕方がない。もう、翔くんにアドバイスをもらう術もない。また自暴自棄に陥って、寝る前になってから、そっと枕の下の写真を机の引き出しにしまっておいた。
見覚えのある顔に、はっと顔をあげた。幸喜だった。真っ直ぐに下ろされた前髪が、目にかかり始めている。
「授業終わったから迎えに来た」
翌日の授業と部活を終えて、学校を出ようとしたら、私を待ち伏せしていた時と同じように、校門の横で、突っ立っていた。
「あんまり友達に見られたくないから、普段は別々で帰ろう」
「なんでだよ。照れんなよ」
照れていない。全くもって照れていない。でもそれを直接言うと、幸喜の機嫌を損ねる可能性があったので、直前のところで飲み込んだ。幸喜は普段は温厚かつ明るい性格をしているが、こと恋愛においては沸点が分かりずらい。付き合っていた時は、それで何回も怒られた。代わりに、まだ付き合ったことは誰にも言ってなくて内緒にしたいからという理由で説得した。
来てしまったものは仕方ないので、今日は渋々幸喜の隣に並んで帰り道を辿る。
「やめてっ」
反射的に、手を振り払ってしまった。自分で酷いとわかっていても、恋愛感情を持って、近づけてくる幸喜の手が、なぜか受け入れられなかった。
「なんでだよ。前は手繋いでくれたじゃん。しかも俺ら今付き合ってんだろ?」
「ごめん。急に触れられたからびっくりしただけ」
若干、怒りを滲ませている幸喜に気がついて、即座に謝罪した。それからは心を無にして、もう一度近づいてきた幸喜の手を受け入れた。
パキッと飴が割れたような音がした。私の心の音だった。
今までにない激痛が、胸の当たりを襲った。耐えられなくなった私は、そのまま行動に倒れ込む。
「おい!どうした」
繋がれていた幸喜の手が、バッと離される。
自分の脈拍が指先まで嫌という程に感じられた。近くにいた生徒や、通行人が集まってきて、自体を察知する。救急や警察を呼ぶよう指示する声もあった。
朦朧とする意識の中で、騒然とする辺りを眺めていると、やけにはっきりとした人影が私の目の前に現れた。
「翔……くん?」
「ごめん、雪葉」
紡がれた声は、酷く涙ぐんでいた。そのままゆっくりと手が差し伸ばされ、私の頭を覆った。
「負けるな、雪葉」
「いででで」
「雪葉一人で何しとん?」
その一部始終を教室に入ってきた奏に目撃されてしまい、訝しげな目を向けられる。
「奏、私たちって高校二年生だよね?今日は九月一日であってるよね?」
私の勢いにしり込みしながら、奏が質問に答える。
「う、うん。そうだけど。どうしたん?休みボケでもしとる?」
「いやなんか今日変な夢見ちゃって、頭がこんがらがってるみたい」
「ふーん」
奏は私の弁解を聞いてもあまり納得しない様子のまま荷物を机の横に置いた。
本当に時間が戻ってるんだ。上手く納得がいかないまま自分の手を見つめる。
「おはよー!今日も奏はかわいいねえ」
前と変わらず心美と実波が教室に入ってきた。それからも時間が戻る前と変わらずに予定は進んでいった。英語の発表があって、部長の勤めを果たして、文化祭実行委員を決めた。けれど、私は全てのお願いを断った。英語の発表はじゃんけんで決めて男の子にやってもらったし、部長は友達に譲った。文化祭実行委員は私を推薦した心美がそのまま引き受ける形になって、ぶつぶつと文句を言っていた。鞄をみても、どんぐり猿のキーホルダーは付いていない。
もう、あんなふうに全てを抱え込んで、頑張ることはしないと決めた。あの時の苦しさを思い出すと胸がきゅっと締まる。
私はもっと自由に行きたい。もしかしたら、こうして時間が戻ったのも、翔くんからのメッセージだったのではないかとさえ思ってしまう。
「翔くん帰ろ」
部活を終えて、いつもの場所に行くと先に翔くんが待っていた。今回は翔くんと距離をとるなんて提案はしていなくて、前と同じように一緒に下校している。
「よう」
校門を出たところで、幸喜が待ち構えていた。私に声をかけた後、隣にいる翔くんの存在に気がついて、口ごもった。なんとなく予測はしていたので、あまり驚きはしなかった。
翔くんが警戒した顔で私に目配せをしてくる。
「中学の時の元カレ。この前の大会でも話しかけてきて。なんで今ここにいるのかは私もわかんない」
怪しまれないよう怖がる様子をしながら、小声で翔くんに打ち明ける。あまり良くなさそうな雰囲気を悟った翔くんが一歩私の前へ出て、幸喜に話しかけた。
「雪葉の知り合いですか?」
「ま、まあそんなところです。たまたま見つけたから声をかけようと思っただけで別にたいした意味はありません。彼氏さんいるなら俺はもうお暇するので」
しどろもどろになりながら何とか受け答えをしている様子の幸喜。それだけを言い残すと、直ぐにその場を去っていった。
少女漫画とかで主人公をイケメンがナンパ師みたいな輩を撃退するシーンはよくみるけれど、現実でそれを真近にすると、惚れてしまう理由がわかった気がした。翔くんが元々かっこいいのは人間が息をすることくらい当たり前だけど、それだけじゃなくて、普段見せない強さを私のために見せてくれたことが、瞬間的に心を揺する。むき出しの心臓をそのまま鷲掴みにされてしまったような感覚だ。
「ありがとう。今の翔くんかっこよかった」
「他はかっこよくないみたいな
「そういう意味じゃないし!」
静かにすくすくと笑う。何も言わずにそっと手を伸ばして、翔くんの指と手のひらをつなぎ止めた。きっと、私はずっとこうして生きていくのが幸せなんだと思う。もう余計なことはしないで、自由に生きる方がずっと楽しい人生になる気がしていた。
「そうなんだよー。奏音響やってくれる?吹奏楽部なら本業っしょ。実波は何気にヒロイン似合うと思うんだよね。ラストシーンのヒロイン役まだ決まってなくてさ」
休み時間中、少し遠くから、心美達の会話が耳に入ってきた。私もあんなふうに器用に人に頼み事ができたら良かったのかななんて考えてしまうけど、もう今は私は実行委員じゃないし、関係のないことだと思ってネガティブな思考を振り払う。あれから心美たちと喋る頻度は減って、休み時間は前よりも一人で過ごすことが増えていた。本を読むことも勉強することも嫌いな私は、翔くんが友達と話しているとやることがなくて暇で仕方がなかった。
そういう時はぼうっと空想をするか、こっそり翔くんを目で追っている。突如友達の輪から抜けて翔くんがこちらに向かって歩いて来るのがわかった。それが嬉しくて、張り切って翔くんの方に顔を向ける。
「雪葉。今日の帰りちょっと話したいことあるからさ、部活終わったらいつもの場所じゃなくて中央公園で待っててもらってもいい?」
「いいよ!大体翔くんの方が早いから逆に待っててもらうことになるかもしれないけど」
「それは大丈夫。じゃあまた放課後ね」
「うん!」
翔くんから話なんてなんだろうと考えながら心を踊らせる。デートの誘い、初めてのちゅー?婚約、はまだ早いか。などと思い当たることを必死に探る。これ以降の授業はこのことで頭がいっぱいになってしまって、ほとんど何も話を聞いていなかった。
文化祭準備はそれなりに参加して、部活はそつなく練習内容をこなした。今回は先に心美に怪盗山田マン役を与えられてしまって、ラストのヒロイン役は実波に決定した。本当は悔しいけれど、今からはどうしようもないため、私にできるのは翔くんと実波がどうキスシーンを乗り越えるかを見張るだけだ。
部活終わりの湿った髪を秋風に当てながら、中央公園へと歩いていく。九月になるともう日がだいぶ短くなって、学校から出ると辺りはほとんど真っ暗だ。わずかな街灯とスマホのライトを頼りにして、目的地にたどり着いた。私の予想通り、園内には先に翔くんがベンチに座って、待ってくれていた。
「翔くん!」
私の声に気がつくと、翔くんが手招きをして、ベンチの空いたところに座るよう促してくれる。
「急にこんなとこに呼んでごめんね」
「ううん!大丈夫だよ。それで話ってなあに?」
左右の足をぷらぷらとさせながら、翔くんの方に顔を傾ける。翔くんの喉から、ごくりと唾を飲む音が響いた。
「雪葉、俺たち、別れよう」
「」
あまりにも突然のことで、何も言葉が出なかった。頭の中が真っ白になって、視界がぐにゃりと曲がっている。次第に全身が震え、歯がカタカタと音を鳴らし始めた。脳が拒絶反応を起こしたみたいに上手く息が吸えなくて、その場に座り込む。
翔くんのゆっくりと暖かな手が私の背中を撫でた。撫で続けた。
「な、んで」
なんで、優しくするの。私のこと振ったのに。私のこと好きって言ったのに。愛してるって言ったのに。それならずっと愛してよ、嘘つき。でも、そんな翔くんのことが今も大好きで、大好きでたまらない。
私が落ち着くまで、翔くんは文句一つ垂れず、ずっと隣にいてくれた。ずっと眺めていた公園の床が、目の慣れによって、はっきりと砂の粒に見えてきたころ、私はゆっくりと立ち上がる。
千鳥足の状態で、翔くんに付き添ってもらいながら家路をたどった。どちらも、何も話さなかった。何も、話してくれなかった。朦朧とした意識で、何とか自分の家にたどり着き、玄関扉を開けた。中にはいると、ドタドタという足音と共に、お母さんが駆け寄ってきた。
「心配したじゃない。どうしたのこんな遅くまで」
確かに時間を見ると、友達と話していたと言い訳するには無理がある程の遅い時間だった。
ぎゅっと口を一文字に結んで、必死に涙を飲んだけれど、私の胃袋では抱えきれなくて、全てが目から溢れ出してしまった。
あれ程お母さんに翔くんのことを話すのが恥ずかしかったのに、もう今となってはそれどころではなかった。誰でもいいから、世界で一番の苦しみを知って欲しかった。
何とか言葉にしようとしたけれど、全て自分の泣き声にかき消されてしまって、何を伝えたかはよく覚えていない。ただひたすら、思ったことをその場で放ち続けた。小一時間涙を出しっぱなしにして、ようやく落ち着いてきた頃に、隣で話を聞いてくれていたお母さんが私を抱きしめた。これまでだったら、きっと寒気がして、それこそ拒絶反応を示していたかもしれない。でも、不思議なことに、今は酷く安心してしまう。泣き疲れてそのまま目を瞑ると、まるで幼稚園の頃に戻ったかのように、お母さんに甘えた日の記憶が鮮明に蘇った。
次の日は、学校に行けなかった。お母さんに言ったら、明日からはまた学校に行くという約束で休みの許可をもらった。学校に行って、翔くんの顔を見るのがきつかった。もうこの笑顔は私のものではないと思うと、楽しそうにする翔くんがもう私にとって特別なものじゃなくなるのだと思うと、とてもじゃないけど耐えられそうになかった。
それでも、ついスマホで翔くんの写真を開いてしまう。辛くなるだけだから消そうと思っても、そんな勇気が出なくて、そのうち涙が頬を伝ってしまう。
一日中ご飯も食べられなくて、ようやくお風呂の時間になってから初めてベッドをでた。リビングに行くと私の様子を心配したお父さんがプリンを買ってきてくれていた。その優しさに触れて、また涙がせりあげてくる。本当に自分がおかしくなってしまったみたいに、普段だと有り得ないことで、感傷的になってしまう。
ぐしゃぐしゃになった顔を隠すため、先にお風呂に入って、体を流す。
髪も乾かさずに、冷蔵庫からプリンを取り出して、口にした。
その瞬間、ああ、と思う。口内で広がったプリンには、卵の風味も、糖類の甘さも何も感じなかった。
急いでお風呂場に行くと、目が酷く充血していた。きっとこの後視界がぼんやりして、耳の聞こえも悪くなるだろうと思う。
気付かないふりをしていたけれど、突然出るこの症状は、たぶんただごとじゃない。一度深呼吸をして、少し、勇気を出して、言ってみる。もしかしたら、同時に明日も学校を休みたいという目論見が心のどこかであったかもしれない。
「ねえ、お母さん」
「ちょっと病名が特定できないですね。大学病院の紹介状を書くので、こちらで診療を受けてください」
翌日、お医者さんにそう告げられ、とぼとぼと診療所を後にした。お母さんがすごく心配そうに私の方を見て、色々質問を繰り返してくる。
「いつからなの?痛い?全く見えないの?少しは見える?」
マシンガンみたいに連続して飛んでくる言葉に、私はうん、とか大丈夫といった言葉で単調に返していった。
できるだけ早い方がいいというお母さんの意向のもと、最も近日で空きがあった、来週の水曜日に大学病院の診療予約を入れた。診療所の帰り道にお母さんにアイスなら食べれそう?と聞かれて買ってもらったいちごミルクアイスを口に運びながら、部屋でぼうっとしていると、スマホが通知音を鳴らした。
画面上部には幸喜と書かれた通知が表示されていた。開くと、なんとも読みにくい長文が現れた。このメッセージも一度読んでいるから、最初ほど驚きはしなかった。けれど、時間をもどっても同じように私に執着する幸喜には少し感心すら覚えてしまう。
念の為もう一度読んでみても、内容は変わらず、よりを戻したいから彼氏と別れて欲しいこと、そうしないとストーカーをするという宣言がされていた。当然幸喜は私が翔くんに振られたことなど知る由もない。
恐る恐るスマホのキーボードをフリックする。
『別に喋るだけならいいよ』
『じゃあ明日いける?』
幸喜は付き合っていた当時と変わらず即レスだった。そのままいくつかやり取りが続いて、明日の放課後にショッピングモールで会うことに決まる。最初は中央公園を提案されたけど、振られた時のことを思い出すのが嫌で、私がショッピングモールにして欲しいとお願いした。
その翌日から、二日ぶりの学校が始まった。行ってしまえば意外と何ともなくて、時間は着々と進んでいった。それでもやはり、翔くんの顔が目に入った時だけは、心がぎゅっと掴まれて、全身が痛い。極力翔くんを避けるように意識しながら、一日をやり過ごす。
校門をでて、いつもの帰りと反対の方への進んで行って、大きな建物を目指した。心臓が苦しそうにドンドンと暴れていた。罪悪感と不安、それから少しの期待があった。
「まさかほんとに来てくれると思ってなかったわ」
「呼び出したのそっちなのに」
「雪葉の性格的にこんな誘いに乗るのは珍しいなって思ったんだよ。彼氏はいいのか」
集合場所にしていた、ショッピングモール一階のベンチから離れ、行くあてもなく二人で歩いていく。
「別れた」
一瞬、少し驚いた様子をした後で、獲物を見つけたような目で私に向かって笑んだ。
「どうせ振られたんだろ」
プライドが邪魔して、本当は認めたくなかったけど、この状況で、逃げられるわけもなかった。
「そうだけど……」
「やっぱりな。あんな明るそうで爽やかなイケメン合わないって」
私はその言葉に、幸喜の目を睨めつけた。
「いやいや悪口じゃなくてさ、やっぱ波長みたいなのはあるじゃん。俺みたいながいいって雪葉は」
幸喜のその言葉から、言わんとすることを察した。けれど、まだ葛藤が強くて、 自分からは言い出したくなかった。何も応えずにいると、ぼそっと、幸喜が音を漏らした。
「俺ら、もう一回付き合わね?」
覚悟していた言葉だったけれど、いざ直接聞くと、心がびくっと跳ねた。どうするか決めあぐねて、罪悪感とともにぎゅっと唇を噛む。
「だって、今も強がってるけど、本当はもう立ち直れそうにないだろ。彼氏だって、別れたなら、いいじゃん。わかってるだろ、俺もすげえ重いタイプだから、寂しくはさせねえよ」
この言葉に靡いてしまっている自分が嫌だった。あんなふうに、翔くんと将来を添い遂げるつもりで毎日一緒にいたのに、もう好きでもない相手と、心の寂しさを埋める為だけに、付き合うなんて。
「……わかった」
頭の片隅ではやめといた方がいいと思いながら、結局、目の前の寂しい心に従ってしまった。一瞬だけ付き合ってみて、だめだったらまた別れればいい。そう自分に言い聞かせながら。
「じゃあ、また、よろしくな」
幸喜が少し照れくさそうな顔をして、頬を掻く。自分で応じといてなんだけれど、恋愛特有のドキドキする感じを出すのはやめて欲しかった。私はそういうつもりで幸喜と付き合った訳じゃない。普通の恋愛とは違う。その自身で作った線引きが、私を甘えさせてしまっていた。
「じゃあ、今日はもう帰るか。アカウントのブロックくらい解除しとけよ」
幸喜は本当に私とまた付き合いたくてここに来ただけなんだ。まだ話し始めて、二十分程しかたっていない上、ショッピングモールの通路をひたすら歩いただけで、何もしていないのに。
だからといって、長居する理由もないのでそれに素直に応じた。
「そうだね」
そのまま近くの出口から外に出ると、一組のカップルが、楽しそうにちょっかいをかけあっていた。隣街にある高校の制服を着ている。それを見て、胸がズキっと痛んだ。楽しそうな声を聞きたくなくて、思わず耳を塞ぐ。
「大丈夫か?」
私の異変に気がついた幸喜が心配してくれた。
「うん、大丈夫。ちょっと車の音にびっくりしただけ」
「いや、そうじゃなくて。お前ほんとに雪葉か?」
突拍子もないことを言われ、口ごもってしまった。真意をつかめずにいると、幸喜が続けて喋り始めた。
「なんかさ、全然違うんだよな俺の知ってる雪葉と」
瞬間ドキッとした。もしかして、時をもどっていることがバレたのではないかと思って、慌ててそれっぽい理由をつけてみる。
「しばらくあってなかったからとかじゃなくて?」
「そういうのじゃなくて根拠もない俺の肌感みたいな」
「へ、へえ。さすがに気のせいじゃない?だって顔はそのままの私でしょ?」
「そう言われると、そんな気もするな。たぶん俺の気のせいだわ。変なこと聞いちまって悪いな。俺こっちだから、じゃあな」
「うん、じゃあ」
振られた手に無意識に振り返す。本当にこれで良かったのかはまだ分からないけれど、ひとまず心の穴を埋めるものが見つかって、安堵していた。
ポトフに入っているじゃがいもを、スプーンで救って口に運ぶ。
「雪葉あんまり体調良くなさそうだし、あんまり言いたくはなかったけど、一応将来のことだけは決めといた方がいいんじゃないかと思って」
そう告げられ差し出されたのは、前と同じ、模試の結果だった。成績を表わす六角形の図形は概ね綺麗だったけれど、どの教科も限界値は三十五を示していた。
「何か、やりたいこととか、行きたい学部とか決まってないの?」
私の体調を気遣ってか、母が前より優しく喋りかけてくる。責めるような目つきも無い。それに対して、私は一度深く息を吸って、口を開いた。
「私は、わかんない。自分が何をしたいのかも、どうなりたいのかも。できるだけ辛いこともしたくない。だから、これからそれを探していくことにする」
「そう」
小さな声で母が返事をした。意外にも怒られることも否定されることもなく、母は食事に戻った。その理由が落胆だったのか、私への歩み寄りだったのかは分からないけれど、とりあえず言い合いにならなかったことにほっとした。
もちろん、私にも何もやりたいことが決まらない焦りはある。でも本当に何も思いつかないのだから、仕方がない。もう、翔くんにアドバイスをもらう術もない。また自暴自棄に陥って、寝る前になってから、そっと枕の下の写真を机の引き出しにしまっておいた。
見覚えのある顔に、はっと顔をあげた。幸喜だった。真っ直ぐに下ろされた前髪が、目にかかり始めている。
「授業終わったから迎えに来た」
翌日の授業と部活を終えて、学校を出ようとしたら、私を待ち伏せしていた時と同じように、校門の横で、突っ立っていた。
「あんまり友達に見られたくないから、普段は別々で帰ろう」
「なんでだよ。照れんなよ」
照れていない。全くもって照れていない。でもそれを直接言うと、幸喜の機嫌を損ねる可能性があったので、直前のところで飲み込んだ。幸喜は普段は温厚かつ明るい性格をしているが、こと恋愛においては沸点が分かりずらい。付き合っていた時は、それで何回も怒られた。代わりに、まだ付き合ったことは誰にも言ってなくて内緒にしたいからという理由で説得した。
来てしまったものは仕方ないので、今日は渋々幸喜の隣に並んで帰り道を辿る。
「やめてっ」
反射的に、手を振り払ってしまった。自分で酷いとわかっていても、恋愛感情を持って、近づけてくる幸喜の手が、なぜか受け入れられなかった。
「なんでだよ。前は手繋いでくれたじゃん。しかも俺ら今付き合ってんだろ?」
「ごめん。急に触れられたからびっくりしただけ」
若干、怒りを滲ませている幸喜に気がついて、即座に謝罪した。それからは心を無にして、もう一度近づいてきた幸喜の手を受け入れた。
パキッと飴が割れたような音がした。私の心の音だった。
今までにない激痛が、胸の当たりを襲った。耐えられなくなった私は、そのまま行動に倒れ込む。
「おい!どうした」
繋がれていた幸喜の手が、バッと離される。
自分の脈拍が指先まで嫌という程に感じられた。近くにいた生徒や、通行人が集まってきて、自体を察知する。救急や警察を呼ぶよう指示する声もあった。
朦朧とする意識の中で、騒然とする辺りを眺めていると、やけにはっきりとした人影が私の目の前に現れた。
「翔……くん?」
「ごめん、雪葉」
紡がれた声は、酷く涙ぐんでいた。そのままゆっくりと手が差し伸ばされ、私の頭を覆った。
「負けるな、雪葉」



