大きな会場の控室に大量の人が群がっている。いよいよ今日は関東大会の日だ。ここを乗り越えると、次は全国大会が待っている。支部大会、県大会では、全国大会出場のための標準タイムを突破できなかったから、全国大会に出場するには今日、これよりも速く泳がなければならない。
あたりを見回すと、様々な高校のジャージを着た生徒が見えて、中には強豪と呼ばれる高校の名前もあった。急に周りの人たちが強そうに見えて、緊張が激しく私の心臓を揺らす。
ぎゅっと手を握り翔くんの顔を思い出す。関東大会も出場を決めたとき、自分のことのように喜んでくれた。きっと私が全国に出場したら、また翔くんはたくさん私をほめて、喜んでくれるに違いない。それに友達も、表彰されてる私を見たら、凄さを認めてくれるだろう。そしたら、皆の人気者になって、翔君に見合った彼女に一歩近づけるかもしれない。その為にも、ここで負けるわけにはいかない。
私は絶対、全国大会に行くんだ。
(見ててね翔くん、私頑張るから)
「雪葉じゃん」
集中のために控室でイヤホンで曲を聴いていると、聞き覚えのある声が私の耳を貫いた。
「山下?」
つい咎めるような口調になってしまう。私の前に現れたのは、山下幸喜。私の中学の時の元カレだ。彼はいつも、低音で、穏やかそうにしゃべるけれど、その裏にある邪悪な本性を私は知っている。幸喜とは同じ水泳部だったことから付き合い始めたので、彼もこの大会に出場するのだろう。その時の記憶を思い出しそうになって、とっさに首を振った。
「久しぶりに見つけたから話しかけちゃった」
相変わらずにこにことした笑顔を向けてくる。私の心はどうしてもこの笑顔を受け付けない。
「それだけなら私もうすぐ出番だから行くね」
そう言って立ち上がると、ポケットに入っていたスマホが振動した。翔くんからの通知だ。見ると、渡したいものがあるから余裕があったら観客席に来てほしいとのことだった。
私は思わず微笑む。たった一つの言葉でこんなに幸せな気持ちになれるのはなぜだろう。スマホを軽く握りしめると、それを遮るように穏やかな声が私に向けられる。
「なに、彼氏?」
「ち、違うから」
私はとっさにスマホを隠し、幸喜をにらむ。
「あんたには関係ないでしょ。もう話しかけないで」
それだけを言い残して、足早にその場を去った。できるだけ幸喜のことは忘れるようにして、そのまま翔くんがいる観客席へと向かう。
しばらくして、目先にすらっとした背の高い後姿を見つけた。
「翔くん!」
私の声を聴くなり、翔くんが振り返って、私に駆け寄ってくる。その姿がいとおしくてたまらない。
「雪葉。ごめんねここまで来てもらっちゃって。選手以外は控室に行けなくて」
「大丈夫だよ。翔くんこそ今日来てくれてありがとね」
「俺雪葉が頑張ってるとこ好きだからさ」
「んふふ。嬉しい」
本当にうれしくて、だらしない笑顔をさらしてしまう。恥ずかしいはずなのに、つい翔くんにだけはこの顔を見せてしまう。
「そういえばこれ。大したものじゃないけど」
そう言ってビニール袋を手渡される。中をのぞくとスポーツドリンクやゼリーなどが入っていた。
「運動前に摂取するといいもの買ってきた。俺も試合前よく食べてるからさ」
「ありがと……」
言いかけたところで、いきなりぐっと頭を引き寄せられる。斜め上を見ると目の前に翔くんの顔があって、私と翔くんのおでこがくっつけられていた。
「雪葉なら大丈夫。いつも頑張ってたのは俺が知ってるから、全力出してこい」
瞬間、ぶわっと胸が熱くなって、慌てて唇を結ぶ。翔くんが私をほめてくれた。頑張ってるって言ってくれた。ただそのことがたまらなくうれしかった。
けれど、甘えるのは今じゃない。翔くんの期待に応えるためにも、私は結果を出さなきゃいけない。
「うん!行ってきます」
力強く言って、翔くんの顔から頭を離す。ほんのり残ったぬくもりを手にプール会場へと向かった。
「菊坂雪葉さん」
「はい!」
名前の確認を済ませた後、役員さんの指示に従って、飛び込み台へと足を運ぶ。心を落ち着かせようと少し目を閉じると、観客席から私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
私は、大丈夫。
ゆっくりと笛の合図が鳴り、飛び込み台にのぼる。
「take your mark」
体の力がすとんと抜け落ちた気がした。プールから観客席に戻って、私の結果を一番に伝えに来たのは顧問の中谷先生だった。自分のことでもないのに、言う前から、顔が歪んでいた。
「その、さっきのレース。フライングだった」
ルール上、スタートの合図があってから、0.四秒以内に動いてはいけない。それより早く飛び込みを開始すると、フライングとみなされて失格になってしまう。
「リアクションタイムは、0.三八秒」
頼りない声だった。けれどもうこの際、どれくらいの違反だったかなんてどうでもよかった。私は無意識にへたりとその場に崩れる。そのままぼうっとして、天井を眺めていると、先生が続けて何か言っているが、うまく耳に入ってこない。ずっと心臓がバクバクと音を鳴らして、物事をうまく考えられない。恥ずかしいのに、涙がぽろぽろとこぼれて止まらない。
「ゆきは、雪葉!!」
名前を呼ばれ、強くゆすられた私ははっと我に返る。飛んでいた焦点を合わせて前を見ると、翔くんに肩をつかまれていた。いつの間に来たのだろう。すぐ隣では心配そうに先生がこちらをのぞき込んでいる。
「菊坂、親御さんは来てない?この調子のまま返すのはちょっと心配だぞ連絡したほうがいいんじゃないか」
先生に促されるが、すぐに首を振る。
「今日親は来てなくて。でももう大丈夫なので、ありがとうございます。来年の大会に向けて、また練習頑張ります」
そういいながら立ち上がって、頭を下げる。
「そうか分かった。今日はよく頑張ったからゆっくり休めよ。あと落ち込んでもいいけどあんまり思いつめすぎるんじゃないぞ。いつもの悪い癖だからな」
「はい、ありがとうございます」
中谷先生は私に励ましの言葉をかけた後で、そのまま私のとなりに視線を移動させて、翔くんに話しかけた。
「藤崎くんであってたかな?菊坂のことよろしくな。あと、その……頑張れよ!」
「何がですか!でもまあ雪葉のことは、俺がついてるので大丈夫です。しっかり家まで送り届けます」
私と翔君は同時に中谷先生に会釈をして会場を後にした。
駅までの道も、帰りの電車の中でも翔くんは何も言わなかった。ただずっと、私の肩を抱き寄せて、隣にいてくれた。その翔くんの優しさを感じるたび、車窓から見る夕焼けがやけに痛かった。
一時間ほどかけた帰り道の中で、初めて口を割ったのは私の家の前についた時だった。
「帰りたく、ない」
翔くんの袖をぎゅっとつかむ私を見ると、何かを理解したように納得してくれた。
「そっか、ちょうど俺も帰りたくなかったんだよね。雪葉ともっと一緒にいたいから。」
翔くんは本当にやさしい。時々自分が嫌になるくらい。
「ちょっと、悪いことしちゃおっか」
聞こえてきた言葉にふっと見上げると、翔くんには見合わないいたずらな笑みを浮かべていた。
「あ、でも帰り遅くなるのと彼氏と一緒にいるってこと、後でお父さんかお母さんに連絡して」
「え?」
あまりにも急なことで戸惑っていると、翔くんにいきなり腕を引っ張られた。体が傾いて、バランスをとるために仕方なく足を前に出す。
「ほら!はやく!行くよ!」
「行くって、ど、どこに?」
「俺もわかんない!」
見ると、翔くんは少しわくわくした顔をして小走りに私を連れていた。こんな小悪魔みたいな翔くんを見るのは初めてだった。いつも落ち着いていて、こんな突拍子もないことをするなんて、今までなかったから。
「ちょ、ちょっと翔くんどうしちゃったの!?」
帰りたくなかった気持ちなんて忘れて、とりあえず必死に翔くんの後についていく。
結局翔くんは混乱する私のことなんて気にも留めずに連れまわした。バスに乗って、電車に乗って、少し歩いた記憶はある。だからそれなりに遠いところに来たのだとは思うけれど、目の前には見たこともない景色が広がっていた。もう既に太陽は落ちていて、ネオンの光が、辺りを昼と変わらないほど明るく照らしていた。
「ど、どこここ」
「俺もわかんない」
「え?」
「え?」
予想していた答えからあまりにもかけ離れたもので、つい腑抜けた声が出てしまった。
「翔くんはここを知っててきたんじゃないの?」
「俺はただ夜も明るい場所って調べて出てきたからここに来ただけ」
「ふ、ふははっ」
驚きすぎて、もう笑うしかなかった。笑ってしまいたかった。きっと翔くんは、私を気遣って、できるだけ私が今日の出来事から気をそらそうとしてくれているのではないかと思う。さすがに無計画すぎる気がしたけれど、それもまた翔くんの不器用なやさしさなのだろう。
「翔くんってこんなおかしなことするんだ」
「俺は雪葉のためならなんにでもなれるしなんだってできるよ」
「奇遇だね。私も翔くんのためなら、空だって飛んでいけるよ」
「噓つき」
顔を見合わせて笑いあう。くしゃりと崩れる顔が、かわいらしい。普段はクールな顔をしているから、両方をあわせ持っているなんて少しずるいななんて思ってしまう。
それから二人で少し街を歩いていると、入り組んだ細道にはいってしまった。歓楽街らしく、全体的に居酒屋が多い。高校生の私たちにとっては、何もないのと同じだ。
「ねえあれ」
途中、翔くんが道路右に向かって指をさす。その方向に目をやると、見覚えのある看板が飛び込んできた。カラオケアリアリと書かれた、今にも崩れそうな文字。私たちの高校の近くにも同じように廃れた看板を持つカラオケアリアリがあって、学生たちのたまり場になっている。
「カラオケでちょっと休んでかない?俺ストレスたまったときよく友達とカラオケ行くんだよね」
「ありよりのありだね。でも翔くんってストレスたまるんだ?」
話しながら、翔くんの後に続いてカラオケの自動ドアをくぐる。外見の割に内装はきれいに整っていて、清掃も行き届いている様子だった。
「俺のことなんだと思ってんだ。そりゃあ、小太郎は、好きな子に振られてすぐヘラるし、雪葉はかまってあげないと寂しくてすぐ鳴くし」
「待って待って小太郎ってだれ?」
「犬。ばあちゃんちの」
「え、馬鹿にしてる?」
「まさか。そんなわけないじゃん。かわいいって話だよ」
「今の話からどうやったらそうなるの!てかそれより小太郎の恋愛劇が気になる……」
「はい。二人で三時間お願いします」
私の話を遮り、翔くんが店員さんとカラオケルームの利用について会話を進め始めた。仕方なく一緒になって利用説明を聞き、階段に向かって歩き始める。
「二一四ルームだって」
「ちょっと!それよりさっきの小太郎のメンヘラ恋愛の詳細を」
「あ、ポッケから飴出てきた。あげる」
わざと聞こえないふりをして飴を差し出してくる翔くん。私にはわかる。これは何かを企んでいる時の顔だ。
「うわー!翔くんのいじわる」
拗ねた演技と同時に、私はせめてもの対抗として翔くんの片ほっぺを引っ張る。
「あいででで」
頬を引っ張られた翔くんは漫画のような反応をして、カラオケルームの扉を開けた。
「翔くんが無視するからだからね!」
「ごめんって。でもやっぱり雪葉は構ってあげないとすぐ鳴いちゃうね」
からかうように笑みながら部屋のソファーに座るも、となりへと手で促してくれる。さすが翔くん。私はすかさず翔くんのとなりにくっついて座る。
「小太郎と同列じゃん」
「まあそうとも言う」
「やっぱり馬鹿にしてた」
「まあ小太郎かわいいから」
「そういう問題じゃない!」
言い終わると同時、顔を見合せ、二人でくすくすと笑う。
「そういえば、翔くんが教えてくれた熱血loveって曲歌えるようにしたよ」
立てかけてある二本のマイクを手に取り、片方を翔くんに渡す。デンモクを操作して、熱血loveの文字を入力すると検索画面に表示された。それをすかさず予約する。
「君を生きる意味にしたいからーー」
歌っていると、翔くんが横からハモリを入れてくる。いつ聞いても優しい声だなあと思う。中低音で発されるメロディが聞いていて心地いい。
ラブソングだからか、翔くんと一緒にこうしていられることを強く実感すると、曲の良さも相まって、つい感極まってしまう。
こんな幸せを沢山貰ってるのに、私は……
「あう……あれ」
マイクを通して情けない私の声が部屋全体に響き渡る。私の異変に気づいた翔くんがこちらに振り向く。一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んで私の目元を拭った。
「そりゃ今日はすごい頑張ったもん。疲れてるよな」
「私のこと嫌いにならないで……」
ぽつりと翔くんに向かって本音を零す。
「え、なんで急にそんなこと、嫌いになんてなるわけ……」
私の言葉に、翔くんは面食らったようだった。きっと、今まで私が全国大会に行けなかったこと、失格してしまったことに落ち込んでいると思っていたのだろう。もちろん、こんな風に追いかけてきた目標が終わってしまって、悔しかった。すごくやるせなかった。けれど、それ以上に……
「私、絶対全国行くって言いながら、こんな情けない終わり方しちゃった。私は勉強はあんまり得意じゃないから、今日結果を出さなきゃいけなかったのに。翔くんは勉強も運動もできて今だって、私のわがままに付き合ってくれて、好きでいてもらうには私も何か自慢できるものがないと、つり合いが取れないよ。何もない私のことなんて、誰が好きなの」
自虐気味に言葉を漏らすと、流れ切っていなかった涙が勢いを増して再来した。両手を膝の上で強く握りしめる。ずっと抱えてきた悩み。翔くんは優しくてかっこよくて何でもできて、そんな彼のことが、私は好きでたまらない。でも、私は何で愛してもらえてるの?どうして私のことを好きでいてくれるの?
私も何か認めてもらえるものがないと、愛される資格がないと、翔くんが離れて行っちゃうんじゃないかって。本当は、隣にいるべきなのは私じゃないんじゃないかって思ってしまって、たまらなく怖い。
言い終えて、下を向いたまま口をつぐんでいると、突如、思いっきり体が引き寄せられた。今まで感じたことのない力の強さで抱きしめられて、心の中心から温度が上昇していくのを感じた。
「そんなん……関係ないって。目に見える何かがなくても、俺は雪葉のすごいところいっぱい知ってる。俺は、ただ雪葉が好き。目の前にいる、雪葉が好き。じゃあもし俺が例えば人間じゃなかったとして、雪葉は俺のこと嫌いになるの?」
咄嗟に首を振る。少し声が荒れていた。感情的になっている翔くんを見るのは、なんだか新鮮だった。同時に、私はこんなにも愛してもらっていたんだと、久しぶりに実感した。生きた心地がした。
いつぶりだろう、こんな感情になったのは。遠い昔、お母さんに抱きしめてもらった瞬間を思い出す。そうか、と思う。私はずっと、無条件に手渡してもらえる愛を、安心していられる場所を探していたのかもしれない。
それからカラオケルームを出て、来た道をたどる。まだ家に帰るのは怖かったけれど、夜の月明りは、ひどく優しく私たちを包み込んでくれている気がした。
「すみません大会終わったあと、僕が雪葉さんを連れ回してました」
家に着くと、心配したお母さんとお父さんが玄関先で待っていた。スマホを見ると時刻は補導時間ギリギリの二十三時直前だった。
それを見るなり、翔くんは頭を下げて謝罪し始めたのだ。
「ちがっ私が」
翔くんの言葉を否定しようと声をあげるとそれをかき消す大きさの声で次の言葉が継がれる。
「だから、雪葉さんのことは叱らないであげてください」
みると、翔くんは腰を直角に曲げて、お父さんとお母さんに向かって頭を下げている。
「そう?あなたが彼氏の翔くんね。こんな時間まで彼女を連れ回すなんてありえない」
お母さんの責める言葉を聞いて、ドキッと心臓が跳ねた。翔くんの言葉を訂正できない自分が怖い。本当は私がわがままを言ったんだって、それを今ここで言うだけなのに、結局保身に走ってしまって言い出せない。最低だ。私の都合で翔くんを付き合わせた上に、こんな風に謝らせるなんて。
「でも、ありがとね。たぶん雪葉すごい落ち込んでたでしょ。そのためにしてくれたんじゃない?」
「え、」
驚いてお母さんの方を向く。一瞬、目が合ったけれど、恥ずかしくて目を逸らしてしまう。翔くんはゆっくり顔を上げ、黙ったままお母さんの顔を見つめている。
「彼氏だから雪葉のことよく知ってるかもしれないけど、親の私たちだって負けてないんだから。大会の結果はスマホでみれちゃうしね。だから余計帰ってこないのが心配で」
「すみません」
もう一度翔くんが謝罪の言葉を口にする。
「ごめんね。雪葉と付き合うの大変でしょ。ただ、次はもうちょっとはやく帰ってきてね」
「いや、そんなことは。はい、気をつけます」
しばし黙って様子を見ていたお父さんがいきなり口を挟んでくる。
「まあ確かにこの時間になったのはちょっとあれだが、彼女のためにここまでできるなんてかっこいい人間じゃないか。がははは」
よく見ると、玄関のあかりに照らされたお父さんの顔がほんのり赤くなっているのが分かった。たぶん、お酒を飲んでいる。
「あ、ありがとうございます」
「こりゃ今から結婚式と孫の顔が楽しみだな」
「ちょ、お父さん」
「け、けっこん……ま、まご」
しどろもどろになってお父さんの言葉を復唱する翔くん。ちらりと翔くんの方を見ると、顔がお父さんと同じくらい赤くなっていた。たぶん私の顔も同じくらいの色をしている。
先程まで申し訳なさと怒られる恐怖で潰されそうだった私の心は、急に羞恥に覆われてしまって、咄嗟にお父さんを家の方向に押し込む。
あたりを見回すと、様々な高校のジャージを着た生徒が見えて、中には強豪と呼ばれる高校の名前もあった。急に周りの人たちが強そうに見えて、緊張が激しく私の心臓を揺らす。
ぎゅっと手を握り翔くんの顔を思い出す。関東大会も出場を決めたとき、自分のことのように喜んでくれた。きっと私が全国に出場したら、また翔くんはたくさん私をほめて、喜んでくれるに違いない。それに友達も、表彰されてる私を見たら、凄さを認めてくれるだろう。そしたら、皆の人気者になって、翔君に見合った彼女に一歩近づけるかもしれない。その為にも、ここで負けるわけにはいかない。
私は絶対、全国大会に行くんだ。
(見ててね翔くん、私頑張るから)
「雪葉じゃん」
集中のために控室でイヤホンで曲を聴いていると、聞き覚えのある声が私の耳を貫いた。
「山下?」
つい咎めるような口調になってしまう。私の前に現れたのは、山下幸喜。私の中学の時の元カレだ。彼はいつも、低音で、穏やかそうにしゃべるけれど、その裏にある邪悪な本性を私は知っている。幸喜とは同じ水泳部だったことから付き合い始めたので、彼もこの大会に出場するのだろう。その時の記憶を思い出しそうになって、とっさに首を振った。
「久しぶりに見つけたから話しかけちゃった」
相変わらずにこにことした笑顔を向けてくる。私の心はどうしてもこの笑顔を受け付けない。
「それだけなら私もうすぐ出番だから行くね」
そう言って立ち上がると、ポケットに入っていたスマホが振動した。翔くんからの通知だ。見ると、渡したいものがあるから余裕があったら観客席に来てほしいとのことだった。
私は思わず微笑む。たった一つの言葉でこんなに幸せな気持ちになれるのはなぜだろう。スマホを軽く握りしめると、それを遮るように穏やかな声が私に向けられる。
「なに、彼氏?」
「ち、違うから」
私はとっさにスマホを隠し、幸喜をにらむ。
「あんたには関係ないでしょ。もう話しかけないで」
それだけを言い残して、足早にその場を去った。できるだけ幸喜のことは忘れるようにして、そのまま翔くんがいる観客席へと向かう。
しばらくして、目先にすらっとした背の高い後姿を見つけた。
「翔くん!」
私の声を聴くなり、翔くんが振り返って、私に駆け寄ってくる。その姿がいとおしくてたまらない。
「雪葉。ごめんねここまで来てもらっちゃって。選手以外は控室に行けなくて」
「大丈夫だよ。翔くんこそ今日来てくれてありがとね」
「俺雪葉が頑張ってるとこ好きだからさ」
「んふふ。嬉しい」
本当にうれしくて、だらしない笑顔をさらしてしまう。恥ずかしいはずなのに、つい翔くんにだけはこの顔を見せてしまう。
「そういえばこれ。大したものじゃないけど」
そう言ってビニール袋を手渡される。中をのぞくとスポーツドリンクやゼリーなどが入っていた。
「運動前に摂取するといいもの買ってきた。俺も試合前よく食べてるからさ」
「ありがと……」
言いかけたところで、いきなりぐっと頭を引き寄せられる。斜め上を見ると目の前に翔くんの顔があって、私と翔くんのおでこがくっつけられていた。
「雪葉なら大丈夫。いつも頑張ってたのは俺が知ってるから、全力出してこい」
瞬間、ぶわっと胸が熱くなって、慌てて唇を結ぶ。翔くんが私をほめてくれた。頑張ってるって言ってくれた。ただそのことがたまらなくうれしかった。
けれど、甘えるのは今じゃない。翔くんの期待に応えるためにも、私は結果を出さなきゃいけない。
「うん!行ってきます」
力強く言って、翔くんの顔から頭を離す。ほんのり残ったぬくもりを手にプール会場へと向かった。
「菊坂雪葉さん」
「はい!」
名前の確認を済ませた後、役員さんの指示に従って、飛び込み台へと足を運ぶ。心を落ち着かせようと少し目を閉じると、観客席から私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
私は、大丈夫。
ゆっくりと笛の合図が鳴り、飛び込み台にのぼる。
「take your mark」
体の力がすとんと抜け落ちた気がした。プールから観客席に戻って、私の結果を一番に伝えに来たのは顧問の中谷先生だった。自分のことでもないのに、言う前から、顔が歪んでいた。
「その、さっきのレース。フライングだった」
ルール上、スタートの合図があってから、0.四秒以内に動いてはいけない。それより早く飛び込みを開始すると、フライングとみなされて失格になってしまう。
「リアクションタイムは、0.三八秒」
頼りない声だった。けれどもうこの際、どれくらいの違反だったかなんてどうでもよかった。私は無意識にへたりとその場に崩れる。そのままぼうっとして、天井を眺めていると、先生が続けて何か言っているが、うまく耳に入ってこない。ずっと心臓がバクバクと音を鳴らして、物事をうまく考えられない。恥ずかしいのに、涙がぽろぽろとこぼれて止まらない。
「ゆきは、雪葉!!」
名前を呼ばれ、強くゆすられた私ははっと我に返る。飛んでいた焦点を合わせて前を見ると、翔くんに肩をつかまれていた。いつの間に来たのだろう。すぐ隣では心配そうに先生がこちらをのぞき込んでいる。
「菊坂、親御さんは来てない?この調子のまま返すのはちょっと心配だぞ連絡したほうがいいんじゃないか」
先生に促されるが、すぐに首を振る。
「今日親は来てなくて。でももう大丈夫なので、ありがとうございます。来年の大会に向けて、また練習頑張ります」
そういいながら立ち上がって、頭を下げる。
「そうか分かった。今日はよく頑張ったからゆっくり休めよ。あと落ち込んでもいいけどあんまり思いつめすぎるんじゃないぞ。いつもの悪い癖だからな」
「はい、ありがとうございます」
中谷先生は私に励ましの言葉をかけた後で、そのまま私のとなりに視線を移動させて、翔くんに話しかけた。
「藤崎くんであってたかな?菊坂のことよろしくな。あと、その……頑張れよ!」
「何がですか!でもまあ雪葉のことは、俺がついてるので大丈夫です。しっかり家まで送り届けます」
私と翔君は同時に中谷先生に会釈をして会場を後にした。
駅までの道も、帰りの電車の中でも翔くんは何も言わなかった。ただずっと、私の肩を抱き寄せて、隣にいてくれた。その翔くんの優しさを感じるたび、車窓から見る夕焼けがやけに痛かった。
一時間ほどかけた帰り道の中で、初めて口を割ったのは私の家の前についた時だった。
「帰りたく、ない」
翔くんの袖をぎゅっとつかむ私を見ると、何かを理解したように納得してくれた。
「そっか、ちょうど俺も帰りたくなかったんだよね。雪葉ともっと一緒にいたいから。」
翔くんは本当にやさしい。時々自分が嫌になるくらい。
「ちょっと、悪いことしちゃおっか」
聞こえてきた言葉にふっと見上げると、翔くんには見合わないいたずらな笑みを浮かべていた。
「あ、でも帰り遅くなるのと彼氏と一緒にいるってこと、後でお父さんかお母さんに連絡して」
「え?」
あまりにも急なことで戸惑っていると、翔くんにいきなり腕を引っ張られた。体が傾いて、バランスをとるために仕方なく足を前に出す。
「ほら!はやく!行くよ!」
「行くって、ど、どこに?」
「俺もわかんない!」
見ると、翔くんは少しわくわくした顔をして小走りに私を連れていた。こんな小悪魔みたいな翔くんを見るのは初めてだった。いつも落ち着いていて、こんな突拍子もないことをするなんて、今までなかったから。
「ちょ、ちょっと翔くんどうしちゃったの!?」
帰りたくなかった気持ちなんて忘れて、とりあえず必死に翔くんの後についていく。
結局翔くんは混乱する私のことなんて気にも留めずに連れまわした。バスに乗って、電車に乗って、少し歩いた記憶はある。だからそれなりに遠いところに来たのだとは思うけれど、目の前には見たこともない景色が広がっていた。もう既に太陽は落ちていて、ネオンの光が、辺りを昼と変わらないほど明るく照らしていた。
「ど、どこここ」
「俺もわかんない」
「え?」
「え?」
予想していた答えからあまりにもかけ離れたもので、つい腑抜けた声が出てしまった。
「翔くんはここを知っててきたんじゃないの?」
「俺はただ夜も明るい場所って調べて出てきたからここに来ただけ」
「ふ、ふははっ」
驚きすぎて、もう笑うしかなかった。笑ってしまいたかった。きっと翔くんは、私を気遣って、できるだけ私が今日の出来事から気をそらそうとしてくれているのではないかと思う。さすがに無計画すぎる気がしたけれど、それもまた翔くんの不器用なやさしさなのだろう。
「翔くんってこんなおかしなことするんだ」
「俺は雪葉のためならなんにでもなれるしなんだってできるよ」
「奇遇だね。私も翔くんのためなら、空だって飛んでいけるよ」
「噓つき」
顔を見合わせて笑いあう。くしゃりと崩れる顔が、かわいらしい。普段はクールな顔をしているから、両方をあわせ持っているなんて少しずるいななんて思ってしまう。
それから二人で少し街を歩いていると、入り組んだ細道にはいってしまった。歓楽街らしく、全体的に居酒屋が多い。高校生の私たちにとっては、何もないのと同じだ。
「ねえあれ」
途中、翔くんが道路右に向かって指をさす。その方向に目をやると、見覚えのある看板が飛び込んできた。カラオケアリアリと書かれた、今にも崩れそうな文字。私たちの高校の近くにも同じように廃れた看板を持つカラオケアリアリがあって、学生たちのたまり場になっている。
「カラオケでちょっと休んでかない?俺ストレスたまったときよく友達とカラオケ行くんだよね」
「ありよりのありだね。でも翔くんってストレスたまるんだ?」
話しながら、翔くんの後に続いてカラオケの自動ドアをくぐる。外見の割に内装はきれいに整っていて、清掃も行き届いている様子だった。
「俺のことなんだと思ってんだ。そりゃあ、小太郎は、好きな子に振られてすぐヘラるし、雪葉はかまってあげないと寂しくてすぐ鳴くし」
「待って待って小太郎ってだれ?」
「犬。ばあちゃんちの」
「え、馬鹿にしてる?」
「まさか。そんなわけないじゃん。かわいいって話だよ」
「今の話からどうやったらそうなるの!てかそれより小太郎の恋愛劇が気になる……」
「はい。二人で三時間お願いします」
私の話を遮り、翔くんが店員さんとカラオケルームの利用について会話を進め始めた。仕方なく一緒になって利用説明を聞き、階段に向かって歩き始める。
「二一四ルームだって」
「ちょっと!それよりさっきの小太郎のメンヘラ恋愛の詳細を」
「あ、ポッケから飴出てきた。あげる」
わざと聞こえないふりをして飴を差し出してくる翔くん。私にはわかる。これは何かを企んでいる時の顔だ。
「うわー!翔くんのいじわる」
拗ねた演技と同時に、私はせめてもの対抗として翔くんの片ほっぺを引っ張る。
「あいででで」
頬を引っ張られた翔くんは漫画のような反応をして、カラオケルームの扉を開けた。
「翔くんが無視するからだからね!」
「ごめんって。でもやっぱり雪葉は構ってあげないとすぐ鳴いちゃうね」
からかうように笑みながら部屋のソファーに座るも、となりへと手で促してくれる。さすが翔くん。私はすかさず翔くんのとなりにくっついて座る。
「小太郎と同列じゃん」
「まあそうとも言う」
「やっぱり馬鹿にしてた」
「まあ小太郎かわいいから」
「そういう問題じゃない!」
言い終わると同時、顔を見合せ、二人でくすくすと笑う。
「そういえば、翔くんが教えてくれた熱血loveって曲歌えるようにしたよ」
立てかけてある二本のマイクを手に取り、片方を翔くんに渡す。デンモクを操作して、熱血loveの文字を入力すると検索画面に表示された。それをすかさず予約する。
「君を生きる意味にしたいからーー」
歌っていると、翔くんが横からハモリを入れてくる。いつ聞いても優しい声だなあと思う。中低音で発されるメロディが聞いていて心地いい。
ラブソングだからか、翔くんと一緒にこうしていられることを強く実感すると、曲の良さも相まって、つい感極まってしまう。
こんな幸せを沢山貰ってるのに、私は……
「あう……あれ」
マイクを通して情けない私の声が部屋全体に響き渡る。私の異変に気づいた翔くんがこちらに振り向く。一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んで私の目元を拭った。
「そりゃ今日はすごい頑張ったもん。疲れてるよな」
「私のこと嫌いにならないで……」
ぽつりと翔くんに向かって本音を零す。
「え、なんで急にそんなこと、嫌いになんてなるわけ……」
私の言葉に、翔くんは面食らったようだった。きっと、今まで私が全国大会に行けなかったこと、失格してしまったことに落ち込んでいると思っていたのだろう。もちろん、こんな風に追いかけてきた目標が終わってしまって、悔しかった。すごくやるせなかった。けれど、それ以上に……
「私、絶対全国行くって言いながら、こんな情けない終わり方しちゃった。私は勉強はあんまり得意じゃないから、今日結果を出さなきゃいけなかったのに。翔くんは勉強も運動もできて今だって、私のわがままに付き合ってくれて、好きでいてもらうには私も何か自慢できるものがないと、つり合いが取れないよ。何もない私のことなんて、誰が好きなの」
自虐気味に言葉を漏らすと、流れ切っていなかった涙が勢いを増して再来した。両手を膝の上で強く握りしめる。ずっと抱えてきた悩み。翔くんは優しくてかっこよくて何でもできて、そんな彼のことが、私は好きでたまらない。でも、私は何で愛してもらえてるの?どうして私のことを好きでいてくれるの?
私も何か認めてもらえるものがないと、愛される資格がないと、翔くんが離れて行っちゃうんじゃないかって。本当は、隣にいるべきなのは私じゃないんじゃないかって思ってしまって、たまらなく怖い。
言い終えて、下を向いたまま口をつぐんでいると、突如、思いっきり体が引き寄せられた。今まで感じたことのない力の強さで抱きしめられて、心の中心から温度が上昇していくのを感じた。
「そんなん……関係ないって。目に見える何かがなくても、俺は雪葉のすごいところいっぱい知ってる。俺は、ただ雪葉が好き。目の前にいる、雪葉が好き。じゃあもし俺が例えば人間じゃなかったとして、雪葉は俺のこと嫌いになるの?」
咄嗟に首を振る。少し声が荒れていた。感情的になっている翔くんを見るのは、なんだか新鮮だった。同時に、私はこんなにも愛してもらっていたんだと、久しぶりに実感した。生きた心地がした。
いつぶりだろう、こんな感情になったのは。遠い昔、お母さんに抱きしめてもらった瞬間を思い出す。そうか、と思う。私はずっと、無条件に手渡してもらえる愛を、安心していられる場所を探していたのかもしれない。
それからカラオケルームを出て、来た道をたどる。まだ家に帰るのは怖かったけれど、夜の月明りは、ひどく優しく私たちを包み込んでくれている気がした。
「すみません大会終わったあと、僕が雪葉さんを連れ回してました」
家に着くと、心配したお母さんとお父さんが玄関先で待っていた。スマホを見ると時刻は補導時間ギリギリの二十三時直前だった。
それを見るなり、翔くんは頭を下げて謝罪し始めたのだ。
「ちがっ私が」
翔くんの言葉を否定しようと声をあげるとそれをかき消す大きさの声で次の言葉が継がれる。
「だから、雪葉さんのことは叱らないであげてください」
みると、翔くんは腰を直角に曲げて、お父さんとお母さんに向かって頭を下げている。
「そう?あなたが彼氏の翔くんね。こんな時間まで彼女を連れ回すなんてありえない」
お母さんの責める言葉を聞いて、ドキッと心臓が跳ねた。翔くんの言葉を訂正できない自分が怖い。本当は私がわがままを言ったんだって、それを今ここで言うだけなのに、結局保身に走ってしまって言い出せない。最低だ。私の都合で翔くんを付き合わせた上に、こんな風に謝らせるなんて。
「でも、ありがとね。たぶん雪葉すごい落ち込んでたでしょ。そのためにしてくれたんじゃない?」
「え、」
驚いてお母さんの方を向く。一瞬、目が合ったけれど、恥ずかしくて目を逸らしてしまう。翔くんはゆっくり顔を上げ、黙ったままお母さんの顔を見つめている。
「彼氏だから雪葉のことよく知ってるかもしれないけど、親の私たちだって負けてないんだから。大会の結果はスマホでみれちゃうしね。だから余計帰ってこないのが心配で」
「すみません」
もう一度翔くんが謝罪の言葉を口にする。
「ごめんね。雪葉と付き合うの大変でしょ。ただ、次はもうちょっとはやく帰ってきてね」
「いや、そんなことは。はい、気をつけます」
しばし黙って様子を見ていたお父さんがいきなり口を挟んでくる。
「まあ確かにこの時間になったのはちょっとあれだが、彼女のためにここまでできるなんてかっこいい人間じゃないか。がははは」
よく見ると、玄関のあかりに照らされたお父さんの顔がほんのり赤くなっているのが分かった。たぶん、お酒を飲んでいる。
「あ、ありがとうございます」
「こりゃ今から結婚式と孫の顔が楽しみだな」
「ちょ、お父さん」
「け、けっこん……ま、まご」
しどろもどろになってお父さんの言葉を復唱する翔くん。ちらりと翔くんの方を見ると、顔がお父さんと同じくらい赤くなっていた。たぶん私の顔も同じくらいの色をしている。
先程まで申し訳なさと怒られる恐怖で潰されそうだった私の心は、急に羞恥に覆われてしまって、咄嗟にお父さんを家の方向に押し込む。



