――――得体のしれない何かが迫る。
「我は禍神」
「ひ……っ」
その名に身体中の血の気が引くのが分かった。
何故……何故、私なの。
「お前が18歳になった時……我はお前を迎えに行く」
禍神はそう言うと私の右手の甲を指差す。
「それがお前の印だよ」
手の甲に恐ろしい刻印が刻まれていく。
嫌だ……そんなの嫌だ。
じりじりと激しい痛みが広がっていく。
「イヤアァァァァ――――ッ」
※※※
――――最悪の夢見である。
最後に春の色を見たのは何年前だろうか。
春の色の一ミリもない殺風景な座敷。のそりと身体を起こせば、鉄格子の向こうからドタバタと足音が響いてくる。
「いつまで寝ているんだ!この厄病神!」
使用人が乱暴に鉄格子を開け、ガシャンと乱暴に朝食を差し出す。米と漬物だけの質素と言うにはあまりにも粗末な食事。
「5分以内に食べな!こっちも忙しいんだよ!」
そう言ってプンスカと去っていく。
しかしながら食べなくては生きていけない。
素早く米と漬物を食べれば、布団を上げ身支度を整える。……とは言え私はずっと座敷牢の中だが。
「あらお義姉さま。今日もみすぼらしいのね」
使用人が食器を片付ける中、当てつけのようにやって来た美少女。義妹の美ノ葉である。その衣は満開の春の花々で溢れており、自分の方が春よりも美しいという傲慢だろうか。
「お義姉さまったら本当に醜くて……ふふっ。それじゃぁ厄病神に魅入られても仕方がないわね」
私は厄病神でも構わないが……この刻印を刻んだ禍神はそう吐き捨てるにはとてもじゃないが強大な力を持つ神である。
それも災厄や穢れを招き、人々の平穏を脅かす恐ろしい神。
「アンタみたいな厄病神、野原に放り投げたらあやかしたちのご飯なのよ?養ってやってるこっちにも感謝してほしいものね」
「……」
この災厄の刻印を持つお陰で退魔師によって何度かあやかしたちの釣り餌にされかけた。
今生きていられるのは、偶然それに釣られるあやかしがいなかったからだ。
幸運なのか、あやかしからも嫌煙されているのか。退魔師たちも遂に諦めたのか、今ではひたすら牢生活だ。
美ノ葉の下品な笑い声が響く中、またひとり座敷牢にやって来た青年を見る。
「無様なものだな、伊吹」
「……お兄さま」
この院斎家の退魔師で、次期当主である。
「お前のような厄病神が妹だなんて嘆かわしい。それに比べて美ノ葉は美しく気立てもいい。最高の妹だ」
「まぁ、お兄さまったら」
美ノ葉がクスクスと笑う。
「そう言えばお義姉さま、昔御形家と婚約したってマジなの?」
「……っ」
まだ私が刻印を刻まれる前、確かにあったのだ。御形家の次期当主……今は当主の神月さまとの婚約だ。
「我が院斎家と並ぶ二大退魔師家の間に結ばれた婚約……しかし当の婚約を結んだ娘が霊力にも目覚めず呪いまで受けるとは」
この刻印は時に呪いと揶揄される。さらには退魔師家に生まれながらに私には霊力がなく、目覚めることもない。
「でもそれも昔の話。お義姉さまは無能な上に呪いまで受けた。さすがにあちらも婚約は破棄でしょうね」
「……」
元々は私が18歳になったら娶ると言うものだった。18歳になる初夏まで間近とは言え、あの恐ろしい神がやって来る期限でもある。
こんな私を妻に迎えるはずがない。
「きっと代わりに私を選んでくださるのだわ!」
美ノ葉が顔を輝かせる。
もう何年も会っていない神月さま。きっと彼も私を見放しているに違いない。
「近々御形家のご当主さまが我が院斎家を訪問されるのですって!ふふっ、お義姉さまが無様に捨てられる姿、楽しみだわぁ」
美ノ葉の笑いにお兄さまがクスクスと苦笑する。
ああ……厄災の神よりもあやかしよりも人間の方がよっぽど醜悪だ。
そもそも霊力を持たない私が院斎家の娘だからと早急に婚約してしまったのが誤りだったのだ。
今まで散々そのことで責められた。
「神月さま……きっと神月さまも私を呪われたと見限るのだわ」
ひとりになった座敷牢で、ポツリとそう呟いた。
私だって幸せになりたかった。
※※※
呪いを持つからこそあやかしの餌になる。
しかしそれも不発に終わったとなれば退魔師の鬱憤に虐げられるしかない。
霊力を持たずに生まれたことで、幼い頃からお父さまとお兄さまからは罵倒される日々。
そんな中でもお母さまだけは優しかった。しかし私が12歳の時にお母さまはお星さまになってしまった。
お父さまはお母さまの死後、愛妾と義妹の美ノ葉を迎え溺愛した。
「私、この簪ほしーい!」
そう言って美ノ葉は私からたくさんのものを奪った。
「それはお母さまが買ってくれたもので……」
これ以上奪われたらお母さまとの思い出がなくなってしまう!
「そんなの知らない!私が欲しいと言ってるの!能無しは黙っていてちょうだい!」
バンッと突き飛ばされて尻もちをつく。
「きゃっ」
「もーらいっ!」
「そんな!返して!」
思わず手を伸ばそうとするが。
「伊吹!」
怒号が響く。
「……お兄さま」
4歳も年上のお兄さまに力でかなうはずもなく、突き飛ばされる。
「美ノ葉が欲しがっているんだ。渡しなさい」
「そんな……っ」
さすがに美ノ葉よりは実の妹の味方をしてくれると思っていたのに。
「能無しのお前には必要のないものだ」
「……」
だたただ、俯くしかできない。
「お前は私の苦労も知らない」
「お兄さま……?」
「無能のお前だけがお母さまにのうのうと愛され、私は退魔師の修行ばかり……っ」
それでも女の私には能無しだろうと霊力があろうと何もできないはずだ。
「お前が少しは役に立つのならいざ知らず!」
お兄さまの手が襟元を締め付ける。
「うう……」
「お前が能無しだったからだ!」
だから……気に入らないの。
私にはお母さましかいなかったのに。
お兄さまは退魔師の腕に恵まれ、必要とされた。だけど私は……。
「それに比べて美ノ葉は」
「お兄さまぁ」
お兄さまま無能の私より霊力のある美ノ葉が大切なのだろう。
お父さまはお母さまがいながら平気で愛妾を囲い、美ノ葉を溺愛してきた。それは政略結婚だったお母さまとは裏腹に、愛した妾の美ノ葉が霊力を持ったからと言うのも大きいのだろう。
お父さまはますます愛妾と美ノ葉に夢中になった。
女は退魔師にはなれないが、次代に優秀な霊力を受け継ぐ退魔師を生むから。
お兄さまも所詮はお父さまの血。
「それは今日から美ノ葉のものだよ」
「わーいわーい!やったぁっ!私ね、お兄さまみたいなお兄さまがほしかったのよ」
「ああ、私も美ノ葉のような霊力を持つ優秀な妹がほしかったんだ」
お兄さまがこうなったのは……私が生まれたせいだ。私が無能だったからこんなにも歪んでしまった。私の沈痛な気持ちとは裏腹に、キャッキャと愉快そうな声が響く。
そして美ノ葉はその簪を自慢して歩くようになった。しかしある日を境にパッタリとつけるのをやめてしまった。
「あれ、私飽きちゃったの」
「そうなのか?ならお兄さまが新しいのを買ってあげよう」
待って……そんなの待って!
「お母さまの簪は……っ」
「ああ、お義姉さま?もしかしてあんなのにまだ未練があったの?」
「あ、当たり前じゃない!」
声を張り上げれば。
バシン。頬に鋭い痛みが走る。
「生意気」
美ノ葉が嘲笑する。
「そんなに欲しいのなら探しに行けば?適当に外の往来に放り投げたから今ごろ踏みつぶされてボロボロかも!」
そんな……!慌てて外に飛び出す。しかし眩い光を浴びて立ち止まる。
「夕暮れ……まずい、逢魔が刻だっ」
逢魔が刻はあやかしに遭遇しやすい。遭遇したら襲われるか、餌にされるか!
「早く見つけないと!」
焦る心が押し寄せるように簪は見つからない。
「ゴオオオォッ」
恐ろしい咆哮が響く。
「あやかしっ」
思わず蹲る。しかしあやかしは悲鳴を上げて逃げていく。退魔師が助けてくれた?お兄さま?まさかそんなはずは……。
顔を上げて、血の気が引く。全身の汗が吹き出る。
ひとじゃない。
ひとならざる、何か。
あやかしはもっと恐ろしいものが来たから逃げたのだ。
「だ……れ」
「我は禍神」
「まが……っ」
その名を呼ぶことすら恐ろしい、厄災を招く神。
「逢魔が刻に出歩くとは」
「その……わ、たし」
「ふむ、度胸のある娘だ」
「ひ……っ」
「だが、危なっかしいものだな」
禍神が尖った爪を向けて来る。
「お前が18歳になった時……我はお前を迎えに行く」
禍神は右手の甲を指差す。
「それがお前の印だよ」
右手の甲に恐ろしい刻印が刻まれていく。
嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!
そして手の甲に激しい痛みが走る。
「あぁぁぁぁっ!」
その日のうちに私は座敷牢に閉じ込められた。
「このバカ娘が!」
鈍い痛みが頬を穿つ。般若の顔のお父さまは……あれ以来私に会ってくれなくなった。
※※※
――――そして、現在。
禍神の刻印は未だに私を苦しめている。
ズキリ。また刻印が痛む。
「禍神はどうして私なんかを」
こんな醜態……縁談が破談になっていないこと自体が変なのだ。
その時、また座敷牢に誰かがやって来るのが分かった。複数いる。使用人か、美ノ葉とお兄さまか。
しかしやって来たのは意外な人物だった。
成長しているが分かる。彼は。
「神月さま……?」
少しだけ昔の面影のある青年。その手には杖……?脚をお怪我されているのだろうか。そしてその後ろから現れたそっくりな青年に驚く。双子……?


