BAR Balalaikaー恋はあせらずー

 今日、目の前に座ったのは彼ではなかった。
 
「朔さん、いつものです」
「お、ありがとう」

 朔さんの前にモスコミュールを置いた。

「モスコミュールお好きですよね」
(たすく)との思い出のカクテルだからな」
「そうなんですか——」

 丞は父の名。
 朔さんは父の高校からの友人で、昔からおれを可愛がってくれた。
 店を継いだときも、誰よりも支えてくれた恩人だ。

 カランと扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 皆勤賞の彼が来た。
 今日は先客がいるから、座れなくて残念だったな。
 貴也はちらりと朔さんを見て、ひとつ開けた椅子に座った。
 
「ハイボールを」
「かしこまりました」

 マッカランを注ぎ、同量のソーダを入れた。
 貴也ならこのくらいの濃いさが好みだろう。

「どうぞ」
「ありがとう」

 そう言ってグラスを取る際、またちらりと朔さんを見た気がした。

 気づかないフリをしておれも朔さんを見ると、すでにグラスが空になっている。

「気づかなくてすみません。なにか作りましょうか?」
「いいよ、いいよ。気にしないで」

 頼まれたラフロイグのショットを出しながら、もう一度軽く謝ると、朔さんがぽつりとつぶやいた。

「モスコミュール、丞が初めて僕に作ってくれたカクテルなんだ」
「え、そうだったんですか」
「丞はカクテルの勉強を始めたばかりでね」

 懐かしそうな視線の先には、数十年前の景色が広がってるんだろう。

「とても水っぽくて不味かったよ」

 ケラケラと笑った。
 今、朔さんの目の前に父がいるんだろうな。

「実は丞とケンカをしててさ。それなのに黙って出してきて『飲め』って言うんだよ」
「父がですか?」

 朔さんがおもしろそうに頷く。

「意味がわからないだろ? それもかなり不味い」

 ふたりしてまた笑う。

「聞いたんだよ、なんでこれ?って。理都くん、わかる?」

 おれは答えがわかった気がしてうなずいた。

「さすがだな」
「いえ、ケンカしてたって言われたので」
「そうそう、正解。『仲直りしよう』って。キザだよなぁ」

 朔さんは寂しげに笑った——

 朔さんが店を出ると、すかさず貴也が席を移動しながら聞いてきた。

「さっきの方は?」
「朔さん……ですか?」
「ここに座ってた人」
「父の友人です」
「ああ、なるほど」

 ちらちらと視線を感じていてが、朔さんのことが気になってたのか。

「すまないが、話を聞いてしまっていた」
「内緒話ではないですし、お気にならさずに」

 朔さんの近くに座った時点で、話を聞く気満々だったんだろ?
 貴也らしくなく、なんか余裕なさげだな。

「ケンカとか、仲直りとか、あれってカクテル言葉ってやつだよね?」
「よくご存知ですね」

 花言葉はよく聞くけど、それでも調べないとわからないのに、カクテル言葉を知ってるってだけでもすごいよ。
 あ——
 モテそうな要素は全部把握済みなのか。なるほど。

「もしかして、女性を口説くときに使われたりとかされました?」
「あぁ……そうだなぁ……」

 珍しく言葉を濁すとは。
 もう実践済みか。それも何度も。

「朔さんも言われてましたが、キザだからやめた方がよさそうですね」
「やっぱりキザか」
「キザですね」
「……わかったよ」

 あれ? 思った以上に落ち込んでる?
 まさかとは思うが、今実践中なのか?
 それなら、即やめた方がいいよ。
 相手も絶対に引くわぁ。

 おれは冷めた目で貴也を見つめた。