BAR Balalaikaー恋はあせらずー

 5日振りに店を開けた。
 2日前には熱も下がったんだけど、万全な状態でカウンターに立ちたくてきのうもお休みした。
 洗いたてのベストに腕を通し、ソムリエエプロンを着けるとキュッと気が引き締まる。

 数日のホコリを丁寧に拭きあげ、ボトルも1本1本磨いていく。
 1時間くらい早く来たけど、ちょっと時間足りなかったかも。
 開店の時間になってたのに気づいて、慌ててネオンに火を灯した。
 ——といってもすぐにお客様が来られるなんてことはないから、のんびりと果物や氷の下準備をする。

 休みってすごいと思う。
 日頃そんなにストレスとか感じてないけど、休むと頭がすっきりするんだよ。
 いろいろ考えてたことの答えや選択肢がポッとわいてきて、自分のこと天才かよって思ったわ。
 この間まで胸に引っかかってたのとか、すっと消えた感じ。
 なんか生まれ変わったっていうの?

 久しぶりに家を出て陽を浴びると、いつもの風景が別世界に見えたんだ。
 
 だからかな。
 今の心境は初めてひとりでカウンターに入ったときに似た、ワクワクドキドキな気分。
 早くお客様に会いたいという気持ちで満たされてる。

「いらっしゃいませ」

 お客様から休みの理由を聞かれるたび、こんなにも心配してくれる人がいるんだとうれしくなる。
 もっと居心地のいい場所とお酒を提供しなきゃなって気合いが入る。

「初めてのご来店ですね。ありがとうございます」

 少しそわそわしている男性に声をかけた。

「なんか、場違いじゃない?」
 
 男性は恥ずかしそうに上着に手をかけた。
 Tシャツにブレザーとパンツのセットアップ。カジュアルコーデだけど、品があるのはその落ち着いた深い色合いのせいだろうか。

「全然。とても素敵ですよ。お気軽にごゆっくりされてください」

 あ——。今日の恋人にしてしまうか。
 久しぶりな感覚にうずうずした。

 ベンチャー企業のやり手社長って感じ。
 おっきな黒縁のメガネのせいか、どことなく愛嬌があるんだけど、よく見ると長いまつ毛にキリッとした切れ長の目だ。
 メガネを外すと、印象がガラリと変わるタイプかも。かなりの美形だ。

「なにかお作りしましょうか?」
「いつもビールばかりで、よく知らないんだ」
「ビールもございますよ」
「いや、せっかくだから、なにか——おすすめは?」

 普段飲むといえば居酒屋って人が多いから、バーでオーダーなんて慣れてないと難しいんだよな。

「強い、軽め、フルーティー、甘め、すっきり。あとは雰囲気とかでも。お好みのお酒のイメージを教えていただけますか?」
「雰囲気か……なら、余裕のある出来る大人なものを」
「かしこまりました」

 これは絶対これでしょ。
 ウッドフォードリザーブを取り出した。
 彼の見た目からマティーニと迷ったけど、たぶん彼の目指す理想の姿はオールドファッションドが似合う男だろう。
 気に入ってくれるかな。
 渾身の1杯を作っていると、ひとりの男性が店に現れた。

「いらっしゃいませ」

 営業スマイルを向けて声をかけた。
 そしてわざと忙しそうに手を動かしオールドファッションドを完成させる。

「お待たせいたしました。オールドファッションドです」
「ありがとう」
 初々しい今日の恋人が宝物を見つけたようにキラキラと笑顔になる。

 おお。眩しい。
——あ……っと、近くで刺さるような視線を感じるけど——別にいい。

「お口に合えばいいんですが」

 今日の恋人はグラスに口をつける。
 ゴクリと喉仏が上下する。
 う……色っぽい。

 またチクチクとトゲが飛んでくるが気にしない。

「うまい。お酒ってこんなにおいしいんですね」
「ありがとうございます」

 にっこりと笑いかけ、さっきからトゲを飛ばしてくる男性へと近づいた。

「お待たせいたしました」

 ウェットタオルを差し出した。

「久しぶりだな」

 貴也が横目でオールドファッションドを見て、少し怪訝に、そして心配そうに眉をひそめる。

「そうですね。ちょっと体調を崩しまして、お休みいただきました」

 なにか聞きたげな貴也を先回りして、伝えてみた。
 
「え? 病気だったのか?」
「単なる風邪です。すみません、ご心配おかけしました」

 軽く頭を下げた。
 重ねてなにか言い出しそうな貴也を遮り、またすぐに問いかけた。

「今日はおひとりですか?」
「今日『も』だろ? 誰か連れてきたのは最初だけだ」
「てっきり彼女とご一緒されるかと思ってました」
「彼女?」

 おもしろくなさそうに胡乱な目で見てくる。

「マスター、オーダーいい?」

 別のお客様に声をかけられ、その場を離れる間際、貴也に笑いかけた。

「オーダー決まりましたら、お声掛けくださいね」

 あの熱から冷めて、貴也がお客様のひとりに戻っていた。

 もうおれは現実で恋愛する気はないんだからさ。
 また貴也を今日の恋人候補に入れてもいいけど、ちょっと知りすぎた。
 常連のお客様。それ以上ではないな。
 貴也が誰を好きで、誰といようが知ったこっちゃない。

 熱を出して、お休みして、ほんとよかったよ。
 またこうして今日の恋人とのひとときのときめきにドキドキできるんだから——

「またぜひお越しくださいね」

 最高の笑顔で今日の恋人をお見送りする。
 店内に戻ると貴也が帰り支度を始めていた。

「お帰りですか?」
「ああ、すまない——」
「あ、そうでした」

 貴也が言い訳しそうなのをまた無視して、バックヤードに急いだ。
 手にしたのは茶色の紙袋。

「香ヶ崎さん、これ」

 一瞬貴也がうれしそうに顔を上げたが、袋を開いてまた落胆した。

「お忘れ物です。お返しが遅くなり申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ。ありがとう……」
「では、お気をつけて」

 手のひらを返して出口へ促す。
 後ろからついていき、扉が開いた瞬間「ありがとうございました」と、深々と頭を下げた。