BAR Balalaikaー恋はあせらずー

 夜の街が本番を迎える時間帯。

 ここはオーセンティックバー。

 一歩店内に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のようにゆったりとした時間が流れている。
 さっから1枚の扉を隔てた店の外からくぐもった声が聞こえているが、一向に店に入ってくる気配がない。

 お客様じゃないのか?
 
 とりあえず出迎える準備をして、おれは背を伸ばし扉が開くのを待った。

 ようやくドアベルとともに大きく開いた扉から、甘ったるい香水をまとった女性が姿を現した。
 クリーム色のトップスに同色の大きな花柄の黒のロングフレアスカート。グレーピンクのコートを羽織っている。
 胸にかかる巻き髪が上品さを語ろうとするが、すでに泥酔してるらしくその目尻はとろりとだらしなく垂れ下がっている。

「いらっしゃいませ」

 夜の街では珍しくない。おれは気にせずいつもの笑顔を向けた。

「危ない!」

 突如前に転びそうになる彼女の腰に手を回し、引き寄せる男の声がした。
 おれもあわててカウンターから少し身を乗り出す。

「大丈夫ですか?」

 高いヒールにたたらを踏む女と甲斐甲斐しく寄り添う男。
 一瞬で店内の雰囲気が一変する。
 おれはあくまでも冷静に声をかけながらカウンターから出ようとしたが、男が掌を向けてそれを止めた。

「お騒がせしてすまない——田安さん、帰りましょう」

 田安と呼ばれた女は、その悪趣味なほどゴテゴテとしたネイルで男の腕を掴んだ。

「帰りたくないです」

 男に向き合い体を密着させようと、くゆりながら男をとろりと見上げる。

「それと……綾乃と呼んでって……言ってるじゃないですかぁ」

 男はにっこりと女に微笑み返し、俺に向かって軽く会釈をすると扉から身を引いて外へ出ていった。

 あーはいはい。
 どうぞそのまま、ふたりきりになれる場所へ行ってください。

 また静けさが戻ってきた。
 いや。
 まだ外でくぐもった声が続いている。
 営業妨害だけしてくれなきゃそれでいい。
 気にせず、またグラスを洗い始めたが、再び鳴り響くドアベルの音に顔を上げた。

「1杯だけいいだろうか?」

 さっきの男が顔だけ覗かせ訊いてきた。

「もちろん、どうぞ」

 濡れた手を拭きながら笑顔でうなずき、まだ湿った手を返して壁際の席をさした。

 結局戻ってくるのかよ。

 男は、満足気にしな垂れる女の腰に腕を添えて、素直にその席に向かう。
 その様子をさり気なく目で追う。

 よたよたの女と正反対に、男はお酒を飲んでないのかエスコートに乱れがない。
 ふたりで食事をしたとして、男が飲まなかったなんてあるだろうか?
 飲めないとしても、それを無視して女が泥酔するまで飲むか?
 たぶん、男はザルだな。

 ふと男と目が合う。
 右の口角がクイッと上がり、目だけで挨拶された。
 おれも僅かに頬を上げてそれに応える。

 男がどういう意図で笑ったのか。
 
 この女いいだろ? って自慢されたか?

 残念だがおれは女に興味が無いんだよな。
 それよりも、この後に期待して泥酔女を甲斐甲斐しく介抱してる姿に、男のサガを見て哀れに思うよ。

 それとも——おれを見て浮気心に火がついた?

 それなら大歓迎だ。
 女を前にして、つかの間のスリリングな関係に浸るのもいいね。

 いつもとは違う趣向に目が冴える。

 『今日の恋人』になってもらおう。

 ひとときの恋人となった男からゆっくり意味深に視線を逸らせ、女にウェットタオルを渡す。

「お水を用意しましょうね」

 女に気を利かせるフリをして、男にタオルを差し出した。

「ありがとう」

 触れるか触れないか微妙な指先がジンと痺れる。
 おれが邪な思いで接客してるなんて思いもしないだろうな。
 ちょっと楽しくなってきた。
 水を差し出すと、男は礼を言って女を覗き込んだ。

「飲めそう?」

 返事を待たずに女の手をグラスに絡ませると、女は首をすくめて上目遣いで男をみた。
 水が零れないよう肩を寄せてグラスに手を添えて飲ませる。

 まるで介護だな。

 イチャつきには程遠い男女を生温かく見ていた。
 案の定、水がこぼれ女の顔が濡れてしまった。
 急いで新しいタオルを出すより早く、男はハンカチを女の頬に当て「拭いておいで」と女性の口元を指で撫でた。

 このときのおれが思ったことをどう言葉にすればいいかな。
 端的に言えば「やば……」
 冗長して言えば「めんどくさい女に鼻を伸ばす痛い男」——だな。

 今日の恋人はハズレだわ。

 やっぱり、この後の展開にだらしなく期待している方だったか。
 一気に興ざめしたおれの落胆など知る由もなく、女は酔いが覚めたのか、目を煌めかせてレストルームにかけていく。
 その姿を目で追い、心の片隅でため息をついた。

「本当にすまない」

 おれにかけられた言葉だと気づき、男へと向き直る。

「いえ」

 静寂な雰囲気に自分たちは似つかわしくないと感じたんだろう。
 その通りだよ。
 でも、気にしなくていいという言葉の代わりに、おれは精一杯の笑顔で接客した。

「彼女さん、これ以上飲まれない方がよろしそうですね」

 暗に追い出しにかかる。
 正直ふたりから滲み出る空気が店内を濁してるようで、今すぐどうにかしたい。
 数分前の「今日の恋人」とか、浮かれた自分を殴りたい気分だ。

「そうだな……」

 男は視線を逸らすと、内ポケットからスマホを取りだしカウンターに置いた。 

「タカヤさん」

 女が戻ってきた。
 さっきよりはしっかりしてそうだが、ここで追加の酒を飲ませたら、最悪な未来が簡単に想像できる。
 タカヤと呼ばれた男は立って女に手を差し伸べた。

「ちょっと失礼」

 おれにそういうと、タカヤは女を連れて出て行ってしまった。
 椅子にはブリーフケース、カウンターにはスマホが置かれたままだ。

「これは……」

 また戻ってくるってことか。
 お水を出しただけだから支払いはないし、チャージだって、ボランティアで酔っぱらいの面倒をみたと思えば別にいらない。
 できればこのままお引き取り願いたいんだけどな。

 5分経っても戻らず、タカヤの荷物をどうしようかと思案していると、その本人がようやく戻ってきた。

「抜け出して申し訳なかった」
「彼女さんは?」

 タカヤの後方に目をやったが、付いて入ってくる人はいない。

「ああ、タクシーで帰らせたよ」

 再び腰を下ろすと、タカヤは大きくため息をついた。
 おれはウェットタオルを差し出して、何事もなかったかのように振舞った。

「本当にすまなかった」
「いえ、こちらはなにも……」
「香水。きつかっただろ?」
「——ああ」

 バーというのはお酒を楽しむ場所だ。
味だけでなく、色や香り、舌触り、のど越し——雰囲気もいれて、五感でお酒を味わう。
 そこにあの香水はちょっとありえない。
 それを気にしていたのだと思うと、このタカヤという男、単なる女たらしではなさそう。

「それに——彼女じゃないよ」
「あ……そうでしたか。失礼いたしました」

 あの距離感、気があるふうにしか見えなかったけど——彼女じゃないだと?
 本当に女たらしじゃない? あまりにも女性の扱いが、まさにソレなんだが。
 
 ああ、そうか。付き合う前のお試しデートなのか。
 この男の琴線には触れなかったのかな。
 それでもあの女なら、簡単にヤレただろうに。
 がつがつした女性に嫌気がさしたか、腰が引けたか……

「1杯もらえるかな」」
「なににしましょう」

 今日の恋人役を降板させた男性に、なんの感情もなくひとりのバーテンダーとして接する。

「強いのがいいな」
「十分飲まれているようですが、大丈夫ですか?」

 タカヤは目を見開いて大仰に驚く。

「飲んでるように見える?」
「すみません、違いましたか?」
「いや、かなり飲んだ」

 突然タカヤの目に色が帯びたのを感じて、ぐっと身を引き締めた。
 この仕事を始めてから、感情を含んだ気配がわずかでも、それとなくわかるようになった。
 それが、怒り、喜び、悲しみ、そして欲であっても。
 それにしてもこの男、なにに反応したんだ?

「よくわかったな」
「仕事ですので」

 油断することなく、営業スマイルというやつを投げつける。

「彼女に合わせて飲んだんだけど……飲んだ気がしなくてね」

 付き合うとか付き合わないとか、そんな関係ではなかったのか。
 そもそも付き合うの意味合いが違っているみたいだ。
 それなら尚更、女へのあの態度は——ないな。彼女の意思のすれ違いに同情してしまう。

「帰って満足して眠りたいから、強いのを」
「かしこまりました」

 彼女との食事も、この男にすれば仕事だったんだろう。
 すべてを忘れるためなら、とモルトウイスキーの瓶の中から1本を抜き取った。
 ショットグラスをタカヤの前に置いて、ウイスキーを注ぐ。
 カウンターを滑らせてコースターに置いた。

「アードベッグ、コリーヴレッカンです」

 チェイサーを出しながら、グラスに口をつけるタカヤを見た。

「——つよ」
「これでよく眠れると思いますよ」

 扉が開き、常連客がやってきた。

「いらっしゃいませ」

 おれはタカヤから離れ、常連客を笑顔で出迎えた。