月曜日。
またいつも通りの一週間が始まる。
けれど、僕の心だけは、「いつも通り」とはほど遠かった。
「おはよう」
翔が僕に声をかける。
登校した翔が、僕に挨拶をしてくれるのはいつものことだ。
しかしこの日の僕は、どうしても「おはよう」の返事がぎこちなくなってしまった。
僕は、翔のことが好きになってしまったらしい。
もちろん、元から好きではあるのだが、今まで抱いていた「好き」とは、もうまるで別物だった。
恥ずかしながら、僕は生まれてこのかた恋というものをしたことがない。
しかし、僕はこの感情が恋であると自信をもって断定することができた。
翔が属していたNexe1のオリジナル曲で、「ビターチョコレート」という曲がある。
好きな人を独占したい。そんな気持ちを歌ったラブソングだ。
その曲の歌詞で「僕のすべてを君にあげるから どうか僕だけの君でいて」というフレーズがある。
以前は少し大げさな歌詞だと思っていた。けれど今なら、その意味が痛いほど分かる。
だからだろうか。
クラスメートたちに笑顔で挨拶を交わす翔を見ているだけで、胸の奥がざわつく。
翔は誰にでも優しいだけなのに、その笑顔を自分だけのものにしたいと願ってしまう自分がいた。
「佐々山のこと、気になる?」
「え!?」
いきなり隣の席の関口に話しかけられ、僕は素っ頓狂な声を出してしまう。
「いや、ずっと見てるからさ」
「いや……別に、かけ……佐々山くん、誰とでも仲良くて凄いなーと思って」
「ふーん」
関口には、僕がアイドルを好きだという話はしたことがない。だから当然、Nexe1のことも翔のことも、話題に出したことはないし、関口もまさか翔が僕の推しだとは考えもしないだろう。
この日の一時間目は化学の授業だった。
僕は関口と理科室へ移動する。
翔はバスケ部の加藤くん、西田くんと仲良くなったらしく、学校ではこの二人と一緒にいる時間が多いようだった。
そんな三人が横並びに歩く少し後ろを、僕は関口と共に歩いて理科室へ向かう。
その際、三人の会話の内容が聞こえてきた。
「西田、彼女と最近どうなん?」
「えー別に普通だけど」
「濁すなよ~。あ、佐々山、西田の彼女のこと聞いた?」
「いや、聞いてない」
「こいつ、電車の中で彼女に一目惚れしてナンパして、付き合うことになったんよ」
「いいって、言わなくて!」
「へ~すごいね」
へ~西田くんすげ~。
……なんて僕がぼんやり考えていると、話題が予想外の方向に転がっていく。
「佐々山は?彼女いる?」
「え?いないよ」
「えー!!意外!!」
僕は思わずドキッとする。
アイドルに対し恋愛の質問はご法度だ。実際、アイドルとして活動していた頃、翔の口から恋愛の話題が出ることは一度もなかった。
それに、ファンとしても「あまり聞きたくない」という人は多いだろう。
僕はアイドル=恋愛禁止というルールに賛成しているわけでも、反対しているわけでもないが、それでも、アイドルが自身の恋愛話をするということについては、何か生々しい印象があり少し苦手意識があった。
そのため僕は三人の会話から意識をそらそうと、隣の関口に話しかける。
……が、気付けば関口は僕たちの後ろを歩く別の生徒と話をしているようだった。
関口は僕と二人で行動をすることが多いものの、他のクラスメートとも分け隔てなく仲良くする奴なのだ。
僕は「関口との会話」という逃げ場を失う。
そのせいで、前を歩く三人の会話が嫌でも耳に入ってきた。
「でも彼女いたことはあるだろ?」
「うーん……と」
翔が一瞬、後ろを気にするそぶりを見せる。
(もしかして、僕に気を遣っている?)
翔はもうアイドルではないが、それでも、元ファンだった僕にとっては、あまり聞きたくない話題だと思ったのだろう。
「いや……ないよ」
翔は加藤くんの問いに、そう答えた。
「えー!?まじ?その顔で?なんで?」
「その顔なら女の子の方から寄ってくるだろ」
加藤くんと西田くんの反応に、翔は笑って返す。
(良かった……)
そう思ってしまう自分がいた。
この安堵は、アイドルだった翔を応援してきたファンとしての気持ちなのか。それとも、二日前に自覚した恋心から生まれたものなのか。
……たぶん、そのどちらもなのだろう。
この日も普段通り六時間目までの授業を終え、僕は帰る準備をする。
隣で関口が「帰りファミレス寄らね?あ、待って俺今金欠だった。ごめん、今日行けないわ」と、勝手に会話を完結させているのを横目に、僕は翔が教室から出ていくのをチラ見した。この日、翔は日直だったため、日誌を職員室へ持っていくのだろう。
するとその時、加藤くんと西田くんの会話が聞こえてきた。
「なんで付き合わなかったんだろうな」
「あー、佐々山?」
「そう。両片思いってやつ?」
「何それ」
「お互い好きだけど、思いを伝えないままでいる的な。佐々山もそういう感じだったんじゃね」
……待ってくれ。何の話をしているんだ?
翔には、付き合うには至らなかったが、思い合う相手がいたということ?
心臓が、ぎゅっとわしづかみされたように痛んだ。
一体、いつの間にそんな話をしていたんだ。
僕は「翔に恋人はいなかった」という話まで聞いて安心してしまっていた。でもその後、どこかのタイミングできっとそのような話をしていたのだろう。
その相手とは一体どんな人物なのか。そもそも、それはいつの話だ?確か、翔がアイドル活動を始めたのは中学三年の頃。活動期間中?それともその前?
「ねぇねぇ、それ佐々山の話?なに、恋バナ?気になるんだけどー」
関口の弾んだ声に、僕ははっと我に返った。
気づけば関口は、いつの間にか加藤くんと西田くんの会話へ加わっていた。
「え?ああ、そう、佐々山の話」
「へー相手どんな人なん?」
「なんか先輩って言ってた。あんま詳しくは聞いてないけど」
「そうなんだ。最近の話?」
「いや、中学の時って言ってたわ。中2だっけな」
「へー。でも付き合ってはなかったんだ」
「そう言ってた。写真ないの?って聞いたら、消したって言ってた。だからなんか、色々あったんじゃない?」
「そっかー。あーごめん、急に割り込んで。部活がんばって~」
「おう、じゃあな。基村も」
「え、あ、うん。また明日」
加藤くんと西田くんが教室を出ていく。
「凛空、気になってたんだろ。あいつらの会話」
「え……」
「え?違う?」
関口は、僕が二人の会話を気にしていることに気づき、わざと話に割って入ってくれたのだろう。
こいつは、そういうところがある。一見するとちゃらんぽらんで何も考えていないように見えるくせに、人の心を読むのが上手い。
それか、僕の顔に心配や不安の色が出すぎていたのだろうか。
「……いや、気になってた。サンキュ……」
「いいって。お前、陽キャの会話に入る勇気ないだろうし?」
「うるせぇ」
それから僕たちは学校を後にし、帰路につく。
関口は先程の会話について、一切話題には出さなかった。
こいつは人の心を読むことに加え、意外と空気を読む奴だ。きっと僕が話題に出してほしくない、と思っているのを察し、あえて何も言わないでいてくれているのだろう。
関口が友達で本当に良かったと思う。もし話題に出されていたら、僕はきっと顔を真っ赤にして動揺することしかできなかっただろうから。
その後、丁字路で関口と別れた僕は駅前を通り過ぎ、ほどなくして家へとたどり着いた。
帰宅した僕に対し、リビングから母親が「おかえりー」と声をかける。
しかし僕が「ただいま」と返すより先に、「あ、いけない!卵買うの忘れてた!」と母親が声を上げた。
結局、僕は「ただいま」を言い終える間もなく、お使いを頼まれ、帰宅から十秒も経たないうちに再び家を出る羽目になった。
卵1パックのために、僕は駅の近くにある馴染みのスーパーへ向かった。
しかし、スーパーからの帰り道。駅前を通りかかったところで、僕の足はぴたりと止まる。
駅前の噴水広場で、翔が他校の女子生徒と二人でいたのだ。
僕は見てはいけないものを見てしまった気がして、さっと血の気が引くのを感じた。
しかしよくよく見てみると、何やら様子がおかしい。
翔はやけによそよそしいというか、困惑しているように見える。
そして一方の女子生徒は、何やら翔に一方的に話しかけているようで、その表情からは必死さのようなものが見受けられた。
それからしばらく二人の様子を眺めていると、女子生徒が翔から離れ、駅の中へと消えていった。
翔はやっと解放されたと言わんばかりの表情でため息をつく。
その時、ふと翔と目が合ってしまった。
「あ!凛空くん!」
僕と翔との間には10メートルほど距離があったが、翔は僕の姿を認識するなり、大声で名前を呼んだ。それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあったため、僕は顔の前であわあわと手を振りながら、大急ぎで翔に駆け寄っていった。
「凛空くん今帰り?」
「いや、一回帰ったんだけど、お使い頼まれて」
「そうなんだ。偉いね」
「え、それよりさ、さっきの……」
「あ……見てた?」
翔は困り眉をつくりながら苦笑いをする。
「知り合い……?あ、もしかしてファンとか?」
「ううん、知らない子。ファンでもないよ。なんか声かけられて」
「それって、ナンパ?」
「いやーどうだろう。ナンパなのかな?分かんないや」
それは多分ナンパだよ、と僕は心の中でツッコミを入れる。
恐らく先ほどの女子は、翔に一目惚れしたか何かで、声をかけたのだろう。
「それで、なんて答えたの?」
「いやー、連絡先を聞かれたんだけど、断った」
「なんで?……付き合ったりとか、考えないの?」
我ながら思い切った質問だったと思う。アイドル時代の翔にだったら、死んでもできない質問だ。
もしあの頃の翔にその質問をしていたら、翔はきっと「俺にはファンのみんながいるからね」と笑って答えていただろう。
でも、今の翔が同じ答えを返してくれるとは限らない。なぜなら、彼はもうアイドルではないのだ。
それでも僕は、どうしてもその先の答えを聞いて安心したかった。
「ないない。ないよ、絶対」
きっぱりと言い切る翔の声を聞き、僕はほっと胸をなで下ろした。
だが、その安堵が気を緩ませてしまったのか。今まで胸の奥に押し込めていた疑問が、不意に口をついて出る。
「なんでないの?恋愛とか、興味ないの?」
「……うーん、答えづらいなぁ」
「それは僕が翔のファンだから?」
「……凛空くん、それほんとに知りたい?」
「……知りたい」
遠くから、午後五時を告げる音楽が聞こえてくる。
駅前には学生がまばらにいて、恐らくもう少し時間が経てば帰宅ラッシュのサラリーマンたちが駅を行き交うだろう。
僕たちの間に、しばしの沈黙が流れる。
沈黙に耐え切れず先に口を開いたのは僕だった。
「好きな子いるの?」
「……えっ」
翔が息をのむ。
返事はない。
ただ、まっすぐに僕を見つめ返してくる。
ほんの数秒。
それだけの沈黙なのに、永遠のように長く感じられた。
先程まで耳に入っていた噴水の水音さえ、今はひどく遠くに聞こえる。
お願いだから、「いない」と言ってほしい。
そうすれば、この恋を諦めなくて済む。
そう思っていたはずなのに。
……違う。
翔の瞳は、僕が予想していた答えとは、まるで違うものを映しているように見えた。
そんなはず、ない。
なのに、目を逸らせない。
夕焼けが、翔の顔を淡いオレンジ色に染め上げる。
そのせいだろうか。まるで翔の頬が、照れたように赤く染まって見えた。
そして、その視線は一度も僕から逸れない。
まるで。
本当に、まるで……。
「翔くん、僕……」
胸の奥で膨らみ続けていた想いが、もう抑えきれなくなる。
今なら、言える――。
そう思った、その瞬間だった。
突然、静寂を切り裂くように僕のスマホが鳴り響いた。
どうやらお使いが長引きすぎて、心配した母が電話をかけてきたらしい。
「あ、ごめん。母親から……」
「そっか、じゃあ俺はここで。また明日」
「あっ……」
呼び止めるより早く、翔はくるりと背を向け、駅へ向かって歩き出した。
その背中は、どこか逃げるようにも見えた。
鳴り続ける着信音の中、僕はただ立ち尽くすことしかできない。
さっきの視線は、何だったんだろう。
『好きだよ』
言葉なんて、一つも交わしていない。
それなのに、翔の瞳が、確かにそう伝えていた気がした。
……いや。
そうあってほしいという僕の願いが、勝手にそんな幻覚を見てしまっただけなのかもしれない。
またいつも通りの一週間が始まる。
けれど、僕の心だけは、「いつも通り」とはほど遠かった。
「おはよう」
翔が僕に声をかける。
登校した翔が、僕に挨拶をしてくれるのはいつものことだ。
しかしこの日の僕は、どうしても「おはよう」の返事がぎこちなくなってしまった。
僕は、翔のことが好きになってしまったらしい。
もちろん、元から好きではあるのだが、今まで抱いていた「好き」とは、もうまるで別物だった。
恥ずかしながら、僕は生まれてこのかた恋というものをしたことがない。
しかし、僕はこの感情が恋であると自信をもって断定することができた。
翔が属していたNexe1のオリジナル曲で、「ビターチョコレート」という曲がある。
好きな人を独占したい。そんな気持ちを歌ったラブソングだ。
その曲の歌詞で「僕のすべてを君にあげるから どうか僕だけの君でいて」というフレーズがある。
以前は少し大げさな歌詞だと思っていた。けれど今なら、その意味が痛いほど分かる。
だからだろうか。
クラスメートたちに笑顔で挨拶を交わす翔を見ているだけで、胸の奥がざわつく。
翔は誰にでも優しいだけなのに、その笑顔を自分だけのものにしたいと願ってしまう自分がいた。
「佐々山のこと、気になる?」
「え!?」
いきなり隣の席の関口に話しかけられ、僕は素っ頓狂な声を出してしまう。
「いや、ずっと見てるからさ」
「いや……別に、かけ……佐々山くん、誰とでも仲良くて凄いなーと思って」
「ふーん」
関口には、僕がアイドルを好きだという話はしたことがない。だから当然、Nexe1のことも翔のことも、話題に出したことはないし、関口もまさか翔が僕の推しだとは考えもしないだろう。
この日の一時間目は化学の授業だった。
僕は関口と理科室へ移動する。
翔はバスケ部の加藤くん、西田くんと仲良くなったらしく、学校ではこの二人と一緒にいる時間が多いようだった。
そんな三人が横並びに歩く少し後ろを、僕は関口と共に歩いて理科室へ向かう。
その際、三人の会話の内容が聞こえてきた。
「西田、彼女と最近どうなん?」
「えー別に普通だけど」
「濁すなよ~。あ、佐々山、西田の彼女のこと聞いた?」
「いや、聞いてない」
「こいつ、電車の中で彼女に一目惚れしてナンパして、付き合うことになったんよ」
「いいって、言わなくて!」
「へ~すごいね」
へ~西田くんすげ~。
……なんて僕がぼんやり考えていると、話題が予想外の方向に転がっていく。
「佐々山は?彼女いる?」
「え?いないよ」
「えー!!意外!!」
僕は思わずドキッとする。
アイドルに対し恋愛の質問はご法度だ。実際、アイドルとして活動していた頃、翔の口から恋愛の話題が出ることは一度もなかった。
それに、ファンとしても「あまり聞きたくない」という人は多いだろう。
僕はアイドル=恋愛禁止というルールに賛成しているわけでも、反対しているわけでもないが、それでも、アイドルが自身の恋愛話をするということについては、何か生々しい印象があり少し苦手意識があった。
そのため僕は三人の会話から意識をそらそうと、隣の関口に話しかける。
……が、気付けば関口は僕たちの後ろを歩く別の生徒と話をしているようだった。
関口は僕と二人で行動をすることが多いものの、他のクラスメートとも分け隔てなく仲良くする奴なのだ。
僕は「関口との会話」という逃げ場を失う。
そのせいで、前を歩く三人の会話が嫌でも耳に入ってきた。
「でも彼女いたことはあるだろ?」
「うーん……と」
翔が一瞬、後ろを気にするそぶりを見せる。
(もしかして、僕に気を遣っている?)
翔はもうアイドルではないが、それでも、元ファンだった僕にとっては、あまり聞きたくない話題だと思ったのだろう。
「いや……ないよ」
翔は加藤くんの問いに、そう答えた。
「えー!?まじ?その顔で?なんで?」
「その顔なら女の子の方から寄ってくるだろ」
加藤くんと西田くんの反応に、翔は笑って返す。
(良かった……)
そう思ってしまう自分がいた。
この安堵は、アイドルだった翔を応援してきたファンとしての気持ちなのか。それとも、二日前に自覚した恋心から生まれたものなのか。
……たぶん、そのどちらもなのだろう。
この日も普段通り六時間目までの授業を終え、僕は帰る準備をする。
隣で関口が「帰りファミレス寄らね?あ、待って俺今金欠だった。ごめん、今日行けないわ」と、勝手に会話を完結させているのを横目に、僕は翔が教室から出ていくのをチラ見した。この日、翔は日直だったため、日誌を職員室へ持っていくのだろう。
するとその時、加藤くんと西田くんの会話が聞こえてきた。
「なんで付き合わなかったんだろうな」
「あー、佐々山?」
「そう。両片思いってやつ?」
「何それ」
「お互い好きだけど、思いを伝えないままでいる的な。佐々山もそういう感じだったんじゃね」
……待ってくれ。何の話をしているんだ?
翔には、付き合うには至らなかったが、思い合う相手がいたということ?
心臓が、ぎゅっとわしづかみされたように痛んだ。
一体、いつの間にそんな話をしていたんだ。
僕は「翔に恋人はいなかった」という話まで聞いて安心してしまっていた。でもその後、どこかのタイミングできっとそのような話をしていたのだろう。
その相手とは一体どんな人物なのか。そもそも、それはいつの話だ?確か、翔がアイドル活動を始めたのは中学三年の頃。活動期間中?それともその前?
「ねぇねぇ、それ佐々山の話?なに、恋バナ?気になるんだけどー」
関口の弾んだ声に、僕ははっと我に返った。
気づけば関口は、いつの間にか加藤くんと西田くんの会話へ加わっていた。
「え?ああ、そう、佐々山の話」
「へー相手どんな人なん?」
「なんか先輩って言ってた。あんま詳しくは聞いてないけど」
「そうなんだ。最近の話?」
「いや、中学の時って言ってたわ。中2だっけな」
「へー。でも付き合ってはなかったんだ」
「そう言ってた。写真ないの?って聞いたら、消したって言ってた。だからなんか、色々あったんじゃない?」
「そっかー。あーごめん、急に割り込んで。部活がんばって~」
「おう、じゃあな。基村も」
「え、あ、うん。また明日」
加藤くんと西田くんが教室を出ていく。
「凛空、気になってたんだろ。あいつらの会話」
「え……」
「え?違う?」
関口は、僕が二人の会話を気にしていることに気づき、わざと話に割って入ってくれたのだろう。
こいつは、そういうところがある。一見するとちゃらんぽらんで何も考えていないように見えるくせに、人の心を読むのが上手い。
それか、僕の顔に心配や不安の色が出すぎていたのだろうか。
「……いや、気になってた。サンキュ……」
「いいって。お前、陽キャの会話に入る勇気ないだろうし?」
「うるせぇ」
それから僕たちは学校を後にし、帰路につく。
関口は先程の会話について、一切話題には出さなかった。
こいつは人の心を読むことに加え、意外と空気を読む奴だ。きっと僕が話題に出してほしくない、と思っているのを察し、あえて何も言わないでいてくれているのだろう。
関口が友達で本当に良かったと思う。もし話題に出されていたら、僕はきっと顔を真っ赤にして動揺することしかできなかっただろうから。
その後、丁字路で関口と別れた僕は駅前を通り過ぎ、ほどなくして家へとたどり着いた。
帰宅した僕に対し、リビングから母親が「おかえりー」と声をかける。
しかし僕が「ただいま」と返すより先に、「あ、いけない!卵買うの忘れてた!」と母親が声を上げた。
結局、僕は「ただいま」を言い終える間もなく、お使いを頼まれ、帰宅から十秒も経たないうちに再び家を出る羽目になった。
卵1パックのために、僕は駅の近くにある馴染みのスーパーへ向かった。
しかし、スーパーからの帰り道。駅前を通りかかったところで、僕の足はぴたりと止まる。
駅前の噴水広場で、翔が他校の女子生徒と二人でいたのだ。
僕は見てはいけないものを見てしまった気がして、さっと血の気が引くのを感じた。
しかしよくよく見てみると、何やら様子がおかしい。
翔はやけによそよそしいというか、困惑しているように見える。
そして一方の女子生徒は、何やら翔に一方的に話しかけているようで、その表情からは必死さのようなものが見受けられた。
それからしばらく二人の様子を眺めていると、女子生徒が翔から離れ、駅の中へと消えていった。
翔はやっと解放されたと言わんばかりの表情でため息をつく。
その時、ふと翔と目が合ってしまった。
「あ!凛空くん!」
僕と翔との間には10メートルほど距離があったが、翔は僕の姿を認識するなり、大声で名前を呼んだ。それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあったため、僕は顔の前であわあわと手を振りながら、大急ぎで翔に駆け寄っていった。
「凛空くん今帰り?」
「いや、一回帰ったんだけど、お使い頼まれて」
「そうなんだ。偉いね」
「え、それよりさ、さっきの……」
「あ……見てた?」
翔は困り眉をつくりながら苦笑いをする。
「知り合い……?あ、もしかしてファンとか?」
「ううん、知らない子。ファンでもないよ。なんか声かけられて」
「それって、ナンパ?」
「いやーどうだろう。ナンパなのかな?分かんないや」
それは多分ナンパだよ、と僕は心の中でツッコミを入れる。
恐らく先ほどの女子は、翔に一目惚れしたか何かで、声をかけたのだろう。
「それで、なんて答えたの?」
「いやー、連絡先を聞かれたんだけど、断った」
「なんで?……付き合ったりとか、考えないの?」
我ながら思い切った質問だったと思う。アイドル時代の翔にだったら、死んでもできない質問だ。
もしあの頃の翔にその質問をしていたら、翔はきっと「俺にはファンのみんながいるからね」と笑って答えていただろう。
でも、今の翔が同じ答えを返してくれるとは限らない。なぜなら、彼はもうアイドルではないのだ。
それでも僕は、どうしてもその先の答えを聞いて安心したかった。
「ないない。ないよ、絶対」
きっぱりと言い切る翔の声を聞き、僕はほっと胸をなで下ろした。
だが、その安堵が気を緩ませてしまったのか。今まで胸の奥に押し込めていた疑問が、不意に口をついて出る。
「なんでないの?恋愛とか、興味ないの?」
「……うーん、答えづらいなぁ」
「それは僕が翔のファンだから?」
「……凛空くん、それほんとに知りたい?」
「……知りたい」
遠くから、午後五時を告げる音楽が聞こえてくる。
駅前には学生がまばらにいて、恐らくもう少し時間が経てば帰宅ラッシュのサラリーマンたちが駅を行き交うだろう。
僕たちの間に、しばしの沈黙が流れる。
沈黙に耐え切れず先に口を開いたのは僕だった。
「好きな子いるの?」
「……えっ」
翔が息をのむ。
返事はない。
ただ、まっすぐに僕を見つめ返してくる。
ほんの数秒。
それだけの沈黙なのに、永遠のように長く感じられた。
先程まで耳に入っていた噴水の水音さえ、今はひどく遠くに聞こえる。
お願いだから、「いない」と言ってほしい。
そうすれば、この恋を諦めなくて済む。
そう思っていたはずなのに。
……違う。
翔の瞳は、僕が予想していた答えとは、まるで違うものを映しているように見えた。
そんなはず、ない。
なのに、目を逸らせない。
夕焼けが、翔の顔を淡いオレンジ色に染め上げる。
そのせいだろうか。まるで翔の頬が、照れたように赤く染まって見えた。
そして、その視線は一度も僕から逸れない。
まるで。
本当に、まるで……。
「翔くん、僕……」
胸の奥で膨らみ続けていた想いが、もう抑えきれなくなる。
今なら、言える――。
そう思った、その瞬間だった。
突然、静寂を切り裂くように僕のスマホが鳴り響いた。
どうやらお使いが長引きすぎて、心配した母が電話をかけてきたらしい。
「あ、ごめん。母親から……」
「そっか、じゃあ俺はここで。また明日」
「あっ……」
呼び止めるより早く、翔はくるりと背を向け、駅へ向かって歩き出した。
その背中は、どこか逃げるようにも見えた。
鳴り続ける着信音の中、僕はただ立ち尽くすことしかできない。
さっきの視線は、何だったんだろう。
『好きだよ』
言葉なんて、一つも交わしていない。
それなのに、翔の瞳が、確かにそう伝えていた気がした。
……いや。
そうあってほしいという僕の願いが、勝手にそんな幻覚を見てしまっただけなのかもしれない。
