二か月前の僕よ、聞いているか。
僕は今、推しと学校の非常階段にて、二人きりで会話をしています。
会話を始めてもうすぐ15分が経過します。
会話と言っても、翔が一方的に喋ってくれているだけで、僕は相槌を打つので精一杯なのだが。
きっと二か月前の僕がそれを聞いたら、「学校で特典会なんてするわけないだろ。というか、15分って、一体何枚特典券を買ったんだ。あとせっかくの特典会なんだからお前の方から喋れよ!」などと怒涛の突っ込みを入れてくることだろう。
だが二か月前の僕よ、まずこれは特典会ではない。
そもそも、目の前にいる推しは既にアイドルを辞めている。
今の僕と推しの関係は、“ただのクラスメート”なのだ。
「お弁当、お母さんが作ってくれてるの?」
翔の質問に対し、僕は「うん」とモスキート音より小さな声で返事をする。
「そっか。凛空くんはさ」
「あの」
翔が何かを言おうとしたタイミングで言葉をかぶせるという、最悪なKY行為をしてしまったが、翔は特に気にする様子もなく、「ん?」と話を促してくれた。
きっと今までも、そうやってファンの話を丁寧に聞いてきたのだろう。
「翔くん……その、名前」
「ん?名前?」
手に持っていた総菜パンの袋を開けながら、翔が聞き返してくる。
翔が僕と昼飯を食べるつもりでここにやって来たのだということに、今更ながら気付いた。
「えっと、最初、誰だか分からなくて」
「ああ。佐々山翔平って、俺の本名。アイドルっぽくないでしょ?」
「え?」
「他のメンバーがさ、かっこいい名前ばっかだから、合わせようってなって。まぁ、理由はそれだけじゃないけど。事務所の人と相談して、翔平の翔をとって『翔』にしたの。アイドルっぽくてかっこいいでしょ?」
「そうなんだ……」
誕生日や身長、好きな食べ物など、翔の基本情報はファンとして把握しているつもりだった。しかし、本名と活動名が違うというのは初耳であり、こんな極秘情報を1ファンである僕が知っていいのだろうかという罪悪感に苛まれる。
「……あのさ」
僕が口を開いたのとほぼ同時に、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「あ、もう時間だ。戻らないと」
そう言って翔が立ち上がる。
僕は、口に出そうと思っていた言葉を飲み込みながら、急いで弁当箱の蓋をしめた。
結局緊張のせいで、お弁当は半分以上残してしまった。
――どうしてアイドルを辞めたの?
そう聞こうと思った。
しかし、前を歩く翔の背中を見つめながら、「聞かなくて良かった」と思う。
その答えを聞く勇気がない。
本当はアイドルなんてやりたくなかった?
我慢して活動していた?
辞められて良かった、とか思ってる?
翔のことは、よく分かっているつもりだった。
翔はアイドルとしての活動に、いつだって全力を注いでいた。
ファン思いで、メンバー思いな翔は、少なくとも僕の目からは活動を楽しんでいるように見えた。
だから、「アイドルをやりたくなかった」なんてことはないはず。そう思っていた。
……けれど、僕は翔のことを何でも知っているつもりでいたのに、翔の本名が佐々山翔平だということすら知らなかった。
もしかしたら翔の胸の内には、ファンである僕には想像もつかないような思いが隠れているのかもしれない。
きっと、僕が知っている翔は、ほんの一部なのだ。
翔と二人きりの昼休みを経て、僕は翔から話しかけられる機会が増えると思っていた。
しかし現実は、そう思い通りにはいかない。
翔のかっこよさは、アイドル衣装を脱ぎ、量産型の制服に身を包んでいても全く変わらなかった。
そのせいで翔のまわりには常に人が群がっていた。
僕の学校は男子校だが、見た目がかっこいい男子は同性からもちやほやされるのだと初めて知った。
一方で、陰キャの部類に入る僕はその輪に入れるわけもなく、いつも通り隣の席の関口とくだらない雑談を交わしながら、遠巻きにその光景を眺めていた。
「すごいよなー転校生。イケメンで明るくて、キラキラしてて」
「そうだな」
「早速クラスのアイドルポジションじゃん」
「そうだなー……え!?いやいや、違う違う!アイドルじゃないよ!」
「いや分かってるよ。落ち着け凛空」
つい大げさに否定してしまったせいで、僕は関口になだめられてしまう。
翔はアイドルを引退し、今はただの高校生だ。元アイドルであることは知られたくないだろう。
僕はいましがたの自分の発言を思い返し、「これが『墓穴を掘る』っていうんだろうな」と反省した。
幸いなことにというべきか、寂しいことにというべきか、翔の所属していたNexe1はテレビに出るようなメジャーアイドルではない。
事務所自体はそこそこ大きいものの、いわゆる「研究生グループ」というものにあたる。そのため、メジャーデビューはしておらず、CDすら出していない。
主な活動は、全国のショッピングモールなどでのライブであり、そうした活動を通してファンを増やし、安定した人気が獲得できて初めて、メジャーデビューへの道が開かれる。
そのため、Nexe1や翔のことを知っている人は、少なくとも僕の身の回りには一人もいない。
ファンとしては複雑な気持ちだが、今の状況ではむしろその知名度のなさが翔の隠れ蓑になっているようだった。
放課後になり、翔はクラスの男子たちと共に教室を出て行った。
帰り際、目が合った翔は小さく僕に手を振った。
恐らく、僕があまり目立ちたくないのを察して、あえて声をかけないでくれたのだろう。
翔のそういうところが好きなんだよなぁ、と思い、僕はにやけそうになるのを必死にこらえた。
次の日。
僕が登校すると、既に翔は席におり、クラスの男子数名と話していた。
「絶対サッカーだろ」
「いや頼む!うちのバスケ部に入ってくれないか?」
どうやら昨日の放課後、翔は部活動の見学に連れていかれたらしい。
そして話を聞いた感じ、翔は各運動部からひっぱりだこのようだった。
それもそのはず。
翔は非常に運動神経がよく、以前グループで行った体力測定では堂々の1位を獲得していた。また、事務所の研究生たちで行われた運動会企画では、リレーで見事な走りを見せ、チームを優勝に導いていたほどだ。
しかし、僕は翔が球技をしているのは見たことがなかった。Nexe1のメンバーでいつか球技企画をやってほしいと常々思っていたのだが、結局それは叶わなかったからだ。
「うーん、ごめん!ちょっと考えさせて」
翔は困り眉を作りながら、運動部の生徒たちにそう告げる。翔が何部に入るのかは、僕としても気になるところだった。
その時、ふと翔がこちらを見た。
僕は慌てて目をそらす。
いけない、つい翔に見入ってしまっていた。気持ち悪いと思われただろうか?
「凛空くん」
気付いたら、翔の周りにいた男子生徒たちはいなくなっており、翔が一つ席を挟んだ僕の左隣から声をかけてきていた。
「え、な、なに?」
「凛空くんは何部入ってるの?」
「えっ……あ、僕は入ってなくて。帰宅部」
「へーそうなんだ。了解」
つまらない回答だと思われただろうか。
本当は、高校一年生の時に一か月だけ美術部に入っていたことを、伝えるべきだっただろうか。
頭の中を小さな不安がグルグルと渦巻くが、チャイムの音で、すぐに現実に戻された。
「今日の体育なんだっけ?」
二時間目が終わってすぐ、隣の席の関口が話しかけてくる。
「えーっと、あー、ごめん分からん」
「えー。何やるかによって俺のモチベーションが変わるのにー」
「知らんわ」
僕は体育が嫌いだった。何故なら運動神経が壊滅的だからだ。
ちなみに関口も僕とどっこいどっこいの運動神経なのだが、頭を使わなくていい体育の授業はわりと好きなのだと言う。
「今日の体育はバスケです。体育館に移動してくださーい」
体育委員が体育教師からの伝言をクラスメイトたちに伝える。
「よっしゃ!バスケ!!」
「……よっし」
バスケにテンションが上がる関口の隣で、僕はつい小さくガッツポーズをする。
そんな僕に、関口が不思議そうな目を向けた。
「お前バスケ好きなんだっけ?」
「いや、まぁ……ははは」
バスケは別に好きではない。
僕が喜んだのは、バスケをする推しを拝めるからだ。
バスケの授業はパス練習から始まり、その後、チームに分かれ試合が行われることになった。
「凛空!敵チームになったからには容赦しないからな!」
青いビブスを着た関口が、僕を指さし宣戦布告をする。
僕はそんな関口に、「さっきのパス練習で散々なコントロールだったのはどこのどいつだ」と言い返しながら、オレンジ色のビブスに頭を通した。
「凛空くん、よろしく」
振り向くと、そこには同じ色のビブスを着た翔がいた。
(かっこいい……)
運動会企画の動画で翔のビブス姿は見たことがあるものの、肉眼で見るのは別格だった。
「凛空くん?」
「あ、あぁ、よ、よろしく!」
つい翔に見とれてしまっていたことに気づき、僕は慌てて言葉を返す。
そして翔も翔で、僕が見とれていたことに気付いていたようで、僕の反応を見て楽しそうに笑っていた。
途端に恥ずかしくなり、僕は顔をそらす。
「僕バスケ苦手だから、迷惑かけるかも」
「いいよ、その分俺頑張るし」
「やっぱ得意なんだ」
「うーん、あぁ、そっか。ファンの子たちの前でやったことないんだっけ」
翔は、僕にだけ聞こえるよう、小さな声で言う。その際、僕の耳元に翔が顔を近づけてきたため、僕は「近い近い!」と頭の中でプチパニックに陥りながら、つい反射的に一歩後ずさった。
そしてそのままの勢いで、僕は「い、いこっか!」と翔に声をかけ、チームの輪の中に向かっていった。
体育館にボールが弾む音が響く。
「佐々山!」
「いけいけいけ!」
チームメイトの声が飛び交う中、翔が颯爽とドリブルしながら、コート内を彷徨う僕の横を駆け抜けていく。そしてそのまま迷いなくゴールへ走り、一歩踏み切って放ったシュートは、リングに触れることなくネットを揺らした。
「すげぇ!佐々山また決めた」
「イケメンな上にスポーツ万能かよ」
ベンチにいる別チームの生徒たちまで、こちらの試合に釘付けになっているようで、翔を称賛する声が聞こえてくる。
当然、その言葉に下心がないことは分かっている。それでも僕は、僕だけが知っているはずの翔の魅力が皆の前で明かされていっている気がして、少し複雑な気持ちになった。
「ナイスー!」
チームメイトたちが翔に続々とハイタッチをしに行く。
この時、僕は試合の展開についていくことができず、皆の輪から少し離れたところにいた。
すると、そんな僕に向かって、翔が近づいてくる。そして僕に、両手の平を見せてきた。
最初は何のつもりか分からなかったが、すぐにそれがハイタッチであることに気づく。
僕は反射で同じように両手を出しかけるが、すぐにそれを下げた。
そんな僕を見て不思議そうな顔をする翔に、僕は内心で土下座する。
――推しに触れるわけにはいかない……!
というのも、Nexe1は、接触イベントのないグループだった。
接触イベントとは、握手会やハイタッチ会など、推しとファンが物理的に触れ合うイベントのことだ。
Nexe1が行っている特典会は、ポストカードのお渡し会や、2ショット撮影会が主であり、接触は固く禁じられているのだ。
勿論、今の翔はもうアイドルではない。それでも、「推しとの接触はNG」という決まりは僕の脳内に固くこびりついており、それがハイタッチの邪魔をした。
その後も翔は何度もシュートを決め、試合は僕のチームが圧勝。
そしてすぐに、今度は別のチームとの試合が始まった。
僕のチームは先程の試合を経て、すっかり翔頼みの雰囲気が出来上がっていた。
「たのむぞ佐々山」
「3ポイント決めてくれよ!」
チームメイトからの期待の声に翔は「任せて」と笑顔で返す。
すっかり皆と仲良くなっている様子の翔の姿を見て、胸にチクリと何かが刺さるような痛みを覚えた。
「頑張ろうね」
試合が始まる直前、翔が僕に声をかけてくる。
さっき、チームメイトと話していた時の口調より、少し優しい声。
特典会で、翔が僕の話に優しく相槌を打ってくれている時と、同じ温度を持った声――。
翔が、僕を特別扱いしてくれているような気がして、思わず顔が熱くなる。
僕は、上手く言葉を返すことすらままならず、「うん」と小さく返事をした。
二試合目がスタートする。
試合開始の合図と同時に、皆が一斉に動き出した。
僕は先程の試合と同じく、なるべく皆の邪魔にならない場所に立ち、試合に参加している風を装う。
すると早速、翔が相手チームのボールを奪った。
そのままドリブルをして、ゴールまで向かうのかと思ったが、翔はボールを持ったまま動きを止め、僕の方を見た。
僕の方を……見た……?
「凛空!」
あ、呼び捨て――。
そう思ったのと同時に、目の前にすごい勢いでボールが飛んでくる。
そして、それがパスであると気付いた頃には、僕はコートに尻もちをついていた。
さらに遅れて、顔に痛みが広がる。
「いっ……」
どうやら、顔面にボールが直撃したらしかった。
「大丈夫!?」
「おい、まじかよ」
「保健室連れてった方が……」
翔やチームメイトたちが駆け寄ってくる。
「いや、大丈夫……」
僕はなんとかそう答え、立ち上がろうとするが、その時、「ポタ、ポタ」と水が床に落ちるような音が聞こえた。
「あ……」
そっと鼻のあたりをぬぐうと、手に真っ赤な液体がつく。
どうやら先程の衝撃で鼻血を出してしまったようだった。
「いや保健室行った方がいいって」
「先生呼ぶ?」
「保健委員が連れて行った方が……」
クラスメートたちの間に動揺が広がる中、僕は「一人で大丈夫」と言い、逃げるようにその場を離れた。
顔が燃えるように熱かった。それは、痛みによるものではない。
僕はよりによって、推しからのパスをまともに受けられなかった。
それどころか、推しの目の前で無様に転び、さらに鼻血を出すという失態をおかしたのだ。
恥ずかしくて仕方がない。
とにかく、鼻血をどうにかするのもそうだが、一旦落ち着きたいと思い、足早に保健室へと向かう。
「凛空くん!」
背後から呼びかけられ、僕はギクリと足を止める。
……最悪だ。
それは僕が大好きな声であり、今一番聞きたくない声だった。
「ごめんね、さっきは」
翔は僕に追いつくと、ハンカチを手渡してくる。
「これ使って」
「いや、大丈夫だから……」
「いいから」
そう言うと、翔は半ば強引にハンカチを僕の鼻に押し付けた。
フローラルの良い香りがする。翔は柔軟剤にも気を遣っているのだろう。
……などと呑気に考えている場合ではない。
「こ、こんな、だ、だめだよ」
「ん??」
翔は「何が?」とでも言いたげな顔で僕の方を見ている。
ちなみに、この時の僕の心情を翻訳すると、「推しの私物を僕ごときが汚してしまい、本当にごめんなさい。死んで詫びます」である。
そうこうしているうちに、僕たちは保健室に到着したが、どうやらちょうど保健室の先生が留守にしているようで、室内には誰もいなかった。
「先生いないのかな。とりあえず応急処置だけしよっか」
そう言うと翔はティッシュを手渡してくるが、気付いたら鼻血は止まっていた。
「ちょっと顔、ごめんね」
翔が濡れたコットンで僕の顔を拭く。どうやら鼻血で顔が汚れていたようだ。僕は恥ずかしさのあまり顔を真下に向ける。
「自分でできるんで……」
「そう?」
僕は翔からコットンを受け取る。コットンで顔を拭いている時、自分の顔が今どれだけ火照っているのかがよく分かった。
自分の情けなさ、そして推しが自分を心配してくれている状況、目の前にいる体操着姿の推し。
どこを切り取っても、僕が顔から火を吹いて爆発するには十分すぎる状況だった。
「あ、凛空くん」
「え?」
ふと名前を呼ばれ、僕はうつむいていた顔を少し上げる。
その瞬間、頬に翔の手が触れた。
「唇、切れてる」
今までで一番近い距離だった。
(あ、ニキビ跡)
もう、アイドルではない翔は、メイクなどしていない。
そのため、思春期特有のニキビの跡らしきものがその顔に見えた。
目の前にいる翔は、僕の推しだが、もうアイドルではない。
それを今やっと実感した気がした。
「……っ!!ご、ごめん!」
我に返った僕は慌てて後ずさる。その瞬間、翔の手が離れる。
「ん?何が?」
「その、えっと……せ、接触……して……」
「えぇ?……あー、またそういう」
翔は呆れたような顔で笑う。
恐らく僕が、「推しと接触するわけにはいかない」とマイルールを律儀に守っていることに気づいたのだろう。
「だからさっきハイタッチしてくれなかったんだ。結構ショックだったんだけど」
「う……ごめん……なさい」
「いや、ゆるさない」
「え?」
「まじでショックだった」
「それは、ごめん……」
「てことで、はい」
「ん?」
翔が両手を突き出す。どうやらハイタッチを求めているようだった。
「……ハイタッチ会って、やったことありましたっけ?」
「ないよ。うちの事務所そういうのやらない主義だったし。てか今関係なくない?」
「……はい」
僕は圧に負けて、そっと両手のひらを翔の方に向ける。
翔の手のひらが、僕の手のひらに触れた。
「やっとできた」
翔が嬉しそうに微笑む。
翔が現役だった頃に、ハイタッチ会のような接触イベントがなくて本当に良かったと改めて実感した。そんなイベントがあったら、僕はきっと自分のお財布事情などお構いなしに、全財産を注ぎ込んでいたと思う。
それから僕はしばらく保健室で休むことにし、翔は授業へと戻っていった。
その後、用事を終え戻ってきた保健室の先生が僕に声をかける。
「あれ、熱?大丈夫?」
僕の顔がよほど赤かったのだろう。
先生が心配のまなざしを向けてくるのに対し、僕は苦笑いすることしかできなかった。
僕は今、推しと学校の非常階段にて、二人きりで会話をしています。
会話を始めてもうすぐ15分が経過します。
会話と言っても、翔が一方的に喋ってくれているだけで、僕は相槌を打つので精一杯なのだが。
きっと二か月前の僕がそれを聞いたら、「学校で特典会なんてするわけないだろ。というか、15分って、一体何枚特典券を買ったんだ。あとせっかくの特典会なんだからお前の方から喋れよ!」などと怒涛の突っ込みを入れてくることだろう。
だが二か月前の僕よ、まずこれは特典会ではない。
そもそも、目の前にいる推しは既にアイドルを辞めている。
今の僕と推しの関係は、“ただのクラスメート”なのだ。
「お弁当、お母さんが作ってくれてるの?」
翔の質問に対し、僕は「うん」とモスキート音より小さな声で返事をする。
「そっか。凛空くんはさ」
「あの」
翔が何かを言おうとしたタイミングで言葉をかぶせるという、最悪なKY行為をしてしまったが、翔は特に気にする様子もなく、「ん?」と話を促してくれた。
きっと今までも、そうやってファンの話を丁寧に聞いてきたのだろう。
「翔くん……その、名前」
「ん?名前?」
手に持っていた総菜パンの袋を開けながら、翔が聞き返してくる。
翔が僕と昼飯を食べるつもりでここにやって来たのだということに、今更ながら気付いた。
「えっと、最初、誰だか分からなくて」
「ああ。佐々山翔平って、俺の本名。アイドルっぽくないでしょ?」
「え?」
「他のメンバーがさ、かっこいい名前ばっかだから、合わせようってなって。まぁ、理由はそれだけじゃないけど。事務所の人と相談して、翔平の翔をとって『翔』にしたの。アイドルっぽくてかっこいいでしょ?」
「そうなんだ……」
誕生日や身長、好きな食べ物など、翔の基本情報はファンとして把握しているつもりだった。しかし、本名と活動名が違うというのは初耳であり、こんな極秘情報を1ファンである僕が知っていいのだろうかという罪悪感に苛まれる。
「……あのさ」
僕が口を開いたのとほぼ同時に、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「あ、もう時間だ。戻らないと」
そう言って翔が立ち上がる。
僕は、口に出そうと思っていた言葉を飲み込みながら、急いで弁当箱の蓋をしめた。
結局緊張のせいで、お弁当は半分以上残してしまった。
――どうしてアイドルを辞めたの?
そう聞こうと思った。
しかし、前を歩く翔の背中を見つめながら、「聞かなくて良かった」と思う。
その答えを聞く勇気がない。
本当はアイドルなんてやりたくなかった?
我慢して活動していた?
辞められて良かった、とか思ってる?
翔のことは、よく分かっているつもりだった。
翔はアイドルとしての活動に、いつだって全力を注いでいた。
ファン思いで、メンバー思いな翔は、少なくとも僕の目からは活動を楽しんでいるように見えた。
だから、「アイドルをやりたくなかった」なんてことはないはず。そう思っていた。
……けれど、僕は翔のことを何でも知っているつもりでいたのに、翔の本名が佐々山翔平だということすら知らなかった。
もしかしたら翔の胸の内には、ファンである僕には想像もつかないような思いが隠れているのかもしれない。
きっと、僕が知っている翔は、ほんの一部なのだ。
翔と二人きりの昼休みを経て、僕は翔から話しかけられる機会が増えると思っていた。
しかし現実は、そう思い通りにはいかない。
翔のかっこよさは、アイドル衣装を脱ぎ、量産型の制服に身を包んでいても全く変わらなかった。
そのせいで翔のまわりには常に人が群がっていた。
僕の学校は男子校だが、見た目がかっこいい男子は同性からもちやほやされるのだと初めて知った。
一方で、陰キャの部類に入る僕はその輪に入れるわけもなく、いつも通り隣の席の関口とくだらない雑談を交わしながら、遠巻きにその光景を眺めていた。
「すごいよなー転校生。イケメンで明るくて、キラキラしてて」
「そうだな」
「早速クラスのアイドルポジションじゃん」
「そうだなー……え!?いやいや、違う違う!アイドルじゃないよ!」
「いや分かってるよ。落ち着け凛空」
つい大げさに否定してしまったせいで、僕は関口になだめられてしまう。
翔はアイドルを引退し、今はただの高校生だ。元アイドルであることは知られたくないだろう。
僕はいましがたの自分の発言を思い返し、「これが『墓穴を掘る』っていうんだろうな」と反省した。
幸いなことにというべきか、寂しいことにというべきか、翔の所属していたNexe1はテレビに出るようなメジャーアイドルではない。
事務所自体はそこそこ大きいものの、いわゆる「研究生グループ」というものにあたる。そのため、メジャーデビューはしておらず、CDすら出していない。
主な活動は、全国のショッピングモールなどでのライブであり、そうした活動を通してファンを増やし、安定した人気が獲得できて初めて、メジャーデビューへの道が開かれる。
そのため、Nexe1や翔のことを知っている人は、少なくとも僕の身の回りには一人もいない。
ファンとしては複雑な気持ちだが、今の状況ではむしろその知名度のなさが翔の隠れ蓑になっているようだった。
放課後になり、翔はクラスの男子たちと共に教室を出て行った。
帰り際、目が合った翔は小さく僕に手を振った。
恐らく、僕があまり目立ちたくないのを察して、あえて声をかけないでくれたのだろう。
翔のそういうところが好きなんだよなぁ、と思い、僕はにやけそうになるのを必死にこらえた。
次の日。
僕が登校すると、既に翔は席におり、クラスの男子数名と話していた。
「絶対サッカーだろ」
「いや頼む!うちのバスケ部に入ってくれないか?」
どうやら昨日の放課後、翔は部活動の見学に連れていかれたらしい。
そして話を聞いた感じ、翔は各運動部からひっぱりだこのようだった。
それもそのはず。
翔は非常に運動神経がよく、以前グループで行った体力測定では堂々の1位を獲得していた。また、事務所の研究生たちで行われた運動会企画では、リレーで見事な走りを見せ、チームを優勝に導いていたほどだ。
しかし、僕は翔が球技をしているのは見たことがなかった。Nexe1のメンバーでいつか球技企画をやってほしいと常々思っていたのだが、結局それは叶わなかったからだ。
「うーん、ごめん!ちょっと考えさせて」
翔は困り眉を作りながら、運動部の生徒たちにそう告げる。翔が何部に入るのかは、僕としても気になるところだった。
その時、ふと翔がこちらを見た。
僕は慌てて目をそらす。
いけない、つい翔に見入ってしまっていた。気持ち悪いと思われただろうか?
「凛空くん」
気付いたら、翔の周りにいた男子生徒たちはいなくなっており、翔が一つ席を挟んだ僕の左隣から声をかけてきていた。
「え、な、なに?」
「凛空くんは何部入ってるの?」
「えっ……あ、僕は入ってなくて。帰宅部」
「へーそうなんだ。了解」
つまらない回答だと思われただろうか。
本当は、高校一年生の時に一か月だけ美術部に入っていたことを、伝えるべきだっただろうか。
頭の中を小さな不安がグルグルと渦巻くが、チャイムの音で、すぐに現実に戻された。
「今日の体育なんだっけ?」
二時間目が終わってすぐ、隣の席の関口が話しかけてくる。
「えーっと、あー、ごめん分からん」
「えー。何やるかによって俺のモチベーションが変わるのにー」
「知らんわ」
僕は体育が嫌いだった。何故なら運動神経が壊滅的だからだ。
ちなみに関口も僕とどっこいどっこいの運動神経なのだが、頭を使わなくていい体育の授業はわりと好きなのだと言う。
「今日の体育はバスケです。体育館に移動してくださーい」
体育委員が体育教師からの伝言をクラスメイトたちに伝える。
「よっしゃ!バスケ!!」
「……よっし」
バスケにテンションが上がる関口の隣で、僕はつい小さくガッツポーズをする。
そんな僕に、関口が不思議そうな目を向けた。
「お前バスケ好きなんだっけ?」
「いや、まぁ……ははは」
バスケは別に好きではない。
僕が喜んだのは、バスケをする推しを拝めるからだ。
バスケの授業はパス練習から始まり、その後、チームに分かれ試合が行われることになった。
「凛空!敵チームになったからには容赦しないからな!」
青いビブスを着た関口が、僕を指さし宣戦布告をする。
僕はそんな関口に、「さっきのパス練習で散々なコントロールだったのはどこのどいつだ」と言い返しながら、オレンジ色のビブスに頭を通した。
「凛空くん、よろしく」
振り向くと、そこには同じ色のビブスを着た翔がいた。
(かっこいい……)
運動会企画の動画で翔のビブス姿は見たことがあるものの、肉眼で見るのは別格だった。
「凛空くん?」
「あ、あぁ、よ、よろしく!」
つい翔に見とれてしまっていたことに気づき、僕は慌てて言葉を返す。
そして翔も翔で、僕が見とれていたことに気付いていたようで、僕の反応を見て楽しそうに笑っていた。
途端に恥ずかしくなり、僕は顔をそらす。
「僕バスケ苦手だから、迷惑かけるかも」
「いいよ、その分俺頑張るし」
「やっぱ得意なんだ」
「うーん、あぁ、そっか。ファンの子たちの前でやったことないんだっけ」
翔は、僕にだけ聞こえるよう、小さな声で言う。その際、僕の耳元に翔が顔を近づけてきたため、僕は「近い近い!」と頭の中でプチパニックに陥りながら、つい反射的に一歩後ずさった。
そしてそのままの勢いで、僕は「い、いこっか!」と翔に声をかけ、チームの輪の中に向かっていった。
体育館にボールが弾む音が響く。
「佐々山!」
「いけいけいけ!」
チームメイトの声が飛び交う中、翔が颯爽とドリブルしながら、コート内を彷徨う僕の横を駆け抜けていく。そしてそのまま迷いなくゴールへ走り、一歩踏み切って放ったシュートは、リングに触れることなくネットを揺らした。
「すげぇ!佐々山また決めた」
「イケメンな上にスポーツ万能かよ」
ベンチにいる別チームの生徒たちまで、こちらの試合に釘付けになっているようで、翔を称賛する声が聞こえてくる。
当然、その言葉に下心がないことは分かっている。それでも僕は、僕だけが知っているはずの翔の魅力が皆の前で明かされていっている気がして、少し複雑な気持ちになった。
「ナイスー!」
チームメイトたちが翔に続々とハイタッチをしに行く。
この時、僕は試合の展開についていくことができず、皆の輪から少し離れたところにいた。
すると、そんな僕に向かって、翔が近づいてくる。そして僕に、両手の平を見せてきた。
最初は何のつもりか分からなかったが、すぐにそれがハイタッチであることに気づく。
僕は反射で同じように両手を出しかけるが、すぐにそれを下げた。
そんな僕を見て不思議そうな顔をする翔に、僕は内心で土下座する。
――推しに触れるわけにはいかない……!
というのも、Nexe1は、接触イベントのないグループだった。
接触イベントとは、握手会やハイタッチ会など、推しとファンが物理的に触れ合うイベントのことだ。
Nexe1が行っている特典会は、ポストカードのお渡し会や、2ショット撮影会が主であり、接触は固く禁じられているのだ。
勿論、今の翔はもうアイドルではない。それでも、「推しとの接触はNG」という決まりは僕の脳内に固くこびりついており、それがハイタッチの邪魔をした。
その後も翔は何度もシュートを決め、試合は僕のチームが圧勝。
そしてすぐに、今度は別のチームとの試合が始まった。
僕のチームは先程の試合を経て、すっかり翔頼みの雰囲気が出来上がっていた。
「たのむぞ佐々山」
「3ポイント決めてくれよ!」
チームメイトからの期待の声に翔は「任せて」と笑顔で返す。
すっかり皆と仲良くなっている様子の翔の姿を見て、胸にチクリと何かが刺さるような痛みを覚えた。
「頑張ろうね」
試合が始まる直前、翔が僕に声をかけてくる。
さっき、チームメイトと話していた時の口調より、少し優しい声。
特典会で、翔が僕の話に優しく相槌を打ってくれている時と、同じ温度を持った声――。
翔が、僕を特別扱いしてくれているような気がして、思わず顔が熱くなる。
僕は、上手く言葉を返すことすらままならず、「うん」と小さく返事をした。
二試合目がスタートする。
試合開始の合図と同時に、皆が一斉に動き出した。
僕は先程の試合と同じく、なるべく皆の邪魔にならない場所に立ち、試合に参加している風を装う。
すると早速、翔が相手チームのボールを奪った。
そのままドリブルをして、ゴールまで向かうのかと思ったが、翔はボールを持ったまま動きを止め、僕の方を見た。
僕の方を……見た……?
「凛空!」
あ、呼び捨て――。
そう思ったのと同時に、目の前にすごい勢いでボールが飛んでくる。
そして、それがパスであると気付いた頃には、僕はコートに尻もちをついていた。
さらに遅れて、顔に痛みが広がる。
「いっ……」
どうやら、顔面にボールが直撃したらしかった。
「大丈夫!?」
「おい、まじかよ」
「保健室連れてった方が……」
翔やチームメイトたちが駆け寄ってくる。
「いや、大丈夫……」
僕はなんとかそう答え、立ち上がろうとするが、その時、「ポタ、ポタ」と水が床に落ちるような音が聞こえた。
「あ……」
そっと鼻のあたりをぬぐうと、手に真っ赤な液体がつく。
どうやら先程の衝撃で鼻血を出してしまったようだった。
「いや保健室行った方がいいって」
「先生呼ぶ?」
「保健委員が連れて行った方が……」
クラスメートたちの間に動揺が広がる中、僕は「一人で大丈夫」と言い、逃げるようにその場を離れた。
顔が燃えるように熱かった。それは、痛みによるものではない。
僕はよりによって、推しからのパスをまともに受けられなかった。
それどころか、推しの目の前で無様に転び、さらに鼻血を出すという失態をおかしたのだ。
恥ずかしくて仕方がない。
とにかく、鼻血をどうにかするのもそうだが、一旦落ち着きたいと思い、足早に保健室へと向かう。
「凛空くん!」
背後から呼びかけられ、僕はギクリと足を止める。
……最悪だ。
それは僕が大好きな声であり、今一番聞きたくない声だった。
「ごめんね、さっきは」
翔は僕に追いつくと、ハンカチを手渡してくる。
「これ使って」
「いや、大丈夫だから……」
「いいから」
そう言うと、翔は半ば強引にハンカチを僕の鼻に押し付けた。
フローラルの良い香りがする。翔は柔軟剤にも気を遣っているのだろう。
……などと呑気に考えている場合ではない。
「こ、こんな、だ、だめだよ」
「ん??」
翔は「何が?」とでも言いたげな顔で僕の方を見ている。
ちなみに、この時の僕の心情を翻訳すると、「推しの私物を僕ごときが汚してしまい、本当にごめんなさい。死んで詫びます」である。
そうこうしているうちに、僕たちは保健室に到着したが、どうやらちょうど保健室の先生が留守にしているようで、室内には誰もいなかった。
「先生いないのかな。とりあえず応急処置だけしよっか」
そう言うと翔はティッシュを手渡してくるが、気付いたら鼻血は止まっていた。
「ちょっと顔、ごめんね」
翔が濡れたコットンで僕の顔を拭く。どうやら鼻血で顔が汚れていたようだ。僕は恥ずかしさのあまり顔を真下に向ける。
「自分でできるんで……」
「そう?」
僕は翔からコットンを受け取る。コットンで顔を拭いている時、自分の顔が今どれだけ火照っているのかがよく分かった。
自分の情けなさ、そして推しが自分を心配してくれている状況、目の前にいる体操着姿の推し。
どこを切り取っても、僕が顔から火を吹いて爆発するには十分すぎる状況だった。
「あ、凛空くん」
「え?」
ふと名前を呼ばれ、僕はうつむいていた顔を少し上げる。
その瞬間、頬に翔の手が触れた。
「唇、切れてる」
今までで一番近い距離だった。
(あ、ニキビ跡)
もう、アイドルではない翔は、メイクなどしていない。
そのため、思春期特有のニキビの跡らしきものがその顔に見えた。
目の前にいる翔は、僕の推しだが、もうアイドルではない。
それを今やっと実感した気がした。
「……っ!!ご、ごめん!」
我に返った僕は慌てて後ずさる。その瞬間、翔の手が離れる。
「ん?何が?」
「その、えっと……せ、接触……して……」
「えぇ?……あー、またそういう」
翔は呆れたような顔で笑う。
恐らく僕が、「推しと接触するわけにはいかない」とマイルールを律儀に守っていることに気づいたのだろう。
「だからさっきハイタッチしてくれなかったんだ。結構ショックだったんだけど」
「う……ごめん……なさい」
「いや、ゆるさない」
「え?」
「まじでショックだった」
「それは、ごめん……」
「てことで、はい」
「ん?」
翔が両手を突き出す。どうやらハイタッチを求めているようだった。
「……ハイタッチ会って、やったことありましたっけ?」
「ないよ。うちの事務所そういうのやらない主義だったし。てか今関係なくない?」
「……はい」
僕は圧に負けて、そっと両手のひらを翔の方に向ける。
翔の手のひらが、僕の手のひらに触れた。
「やっとできた」
翔が嬉しそうに微笑む。
翔が現役だった頃に、ハイタッチ会のような接触イベントがなくて本当に良かったと改めて実感した。そんなイベントがあったら、僕はきっと自分のお財布事情などお構いなしに、全財産を注ぎ込んでいたと思う。
それから僕はしばらく保健室で休むことにし、翔は授業へと戻っていった。
その後、用事を終え戻ってきた保健室の先生が僕に声をかける。
「あれ、熱?大丈夫?」
僕の顔がよほど赤かったのだろう。
先生が心配のまなざしを向けてくるのに対し、僕は苦笑いすることしかできなかった。
