推しとは仲良くできません

 『Nexe1(ネクセル)(かける)に関するご報告』

 そのタイトルを見た瞬間、僕の心臓はじわりと嫌な熱を帯びた。

 推しの幸せを常に願う僕が、「せめて、体調不良とかであってくれ……」などと不謹慎なことを願ったのはこの時が初めてだ。
 しかし、僕の願いは届かず、内容は予想していた通りのものだった。

 『このたび、メンバーの翔がグループを脱退することとなりました。
 今後の活動について、本人・メンバー・運営で慎重に話し合いを重ねた結果、このような決断に至りました。
 応援してくださっている皆さまへ突然のご報告となりましたことを、心よりお詫び申し上げます。
 なお、翔は6月30日をもちましてグループを脱退いたします。
 これに伴い、7月以降のライブ・イベントへの出演はございません。』

 この告知文を見ている今は、6月21日。
 6月30日まで、Nexe1のライブやイベントは予定されていない。
 つまり、僕が翔に会える機会は、もう残されていなかった。

 『翔からのメッセージ:
 突然の報告となり申し訳ありません。
 将来のことを考えた時、自分にはもっとやりたいことがあるのではないかと思い至り、このような決断をいたしました。
 今まで応援してくださったファンの皆さんには感謝してもしきれません。
 短い期間ではありましたが、僕のアイドル人生を幸せなものにしてくれてありがとう。』

 まるで定型文のような脱退理由。
 これで「ああ、そうですか」と納得することなどできない。
 そのくらい、僕の人生に、翔は必要不可欠な存在となっていた。

 無機質な告知文を見つめながら、僕は気付けば、翔と初めて出会った時のことを思い出していた――。


 僕がアイドルグループ「Nexe1」を初めて見たのは、地元のショッピングモールでのことだった。
 最初は「無名のアイドルがなんかライブをしてるな」くらいの感情しか抱かなかったが、お世辞にも多いとは言えない観客たちを前にライブをする彼らの姿に、僕はつい足を止めてしまった。

 そして6人いるメンバーの中で、僕の目を奪ったのが、翔だった。

 僕はダンスの上手い下手については全く分からない。それでも翔のダンスが1mmの乱れもない、完璧なものだということは容易に理解できた。
 歌についてもそうだ。一切音程が外れないその歌声から感じたのは、天性の才能というより、僕には想像もつかないほどの努力の積み重ねだった。
 そして何より、パフォーマンス中に見せる翔の笑顔に、僕は気付けば心を奪われていた。

 それから、僕が彼らのライブに足を運ぶようになるまでに、時間はかからなかった。
 翔のメンバーカラーであるオレンジ色のペンライトを振っている時が、人生で一番楽しいと思った。
 そのうち、僕はNexe1がライブとは別に「特典会」と呼ばれるイベントを行っていることを知った。
 特典会は簡単に言うと、グッズを購入し、特典会参加券を手に入れることで、推しと数十秒間対面で話せるイベントだ。
 Nexe1の場合は、「生写真セット」を一つ購入するごとに、一枚特典券がもらえる仕組みになっており、それを買ったぶんだけ長く推しと話すことが出来る。
 そのため強火なファンは何十セットも生写真を購入し、推しとの交流を楽しんでいた。
 僕は不幸にも、いや、幸いにもと言うべきか。
 高校生であり、お小遣いも限られているため、特典会のためにそこまでお金を積むことはできなかった。
 それでも、翔と話す数十秒間はとても充実したものだった。

 「いつもありがとう!」
 そう翔から言ってもらえたのは、僕が三度目の特典会に参加した時のことだ。
 推しから認知されるとは思わず、僕は昨晩二時間かけて考えた、“推しと話すことメモ”の内容が見事に頭から吹っ飛び、ただ推しの顔を見つめることしかできなかった。
 それでもかろうじて
 「名前は?」
 という翔からの問いに
 「凛空(りく)です」
 と、かすれた声で答えることが出来たのだった。

 それ以来、僕はライブ中、度々翔と目があっているような感覚を覚えるようになった。
 とはいえ、僕は常にライブを後方から見ている。そんな僕に翔が気づくなんて、天地がひっくり返ってもありえない。
 まして、推しと目が合ったなんて、そんな都合のいい話があるわけがないので、どうやらライブ中の僕の頭の中には一面のお花畑が広がっているらしい。
 ちなみにいつも後方から見ていたのは、女性ファンたちの中で、身長が170cmある僕が前の方で見るのは申し訳ないと思ったからだ。
 そのため、早い整理番号を引き当てた時でも、僕は気を遣って後方の目立たない位置でライブを楽しんでいた。
 また、翔が僕を認知してくれたのも、きっと僕が男だからだ。
 男性アイドルの現場において、男性ファンは珍しい。
 加えてNexe1はまだ駆け出しのアイドルグループで、そもそもファンの母数が少ない。
 だからこそ、希少種である僕を覚えていただけなのだ。
 だが、そんな切ない理由でも、かまわない。
 翔から幸せをもらっていることに、変わりはないのだから。
 だから僕はもらった以上の幸せを返すつもりで、この先もずっと、翔を推し続けるつもりだった。


 ―――ピピピピ、ピピピピ

 目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。
 長いはずの夏休みがあっという間に終わり、今日から二学期が始まる。
 起きてすぐ、僕はスマホを開いた。
 ロック画面には、いつかの放課後に撮影した夕焼け空の写真が設定されている。
 前までは翔の写真を設定していた。

 顔を洗い歯を磨いたあと、リビングへ向かい母と父に「おはよう」と言う。
 そのまま台所へ行き、冷蔵庫を開けてヨーグルトを取り出した。
 「朝ごはん、それだけでいいの?トースト焼こうか?」
 「いい」
 翔の脱退が発表されて以降、僕はNexe1から距離を置いた。
 何を楽しみに生きているのかも分からず、食欲もなくなっていた。
 「行ってきます」
 そう言って家を出た僕は、いつも通り歩いて学校へ向かう。
 翔と出会う前の僕は、一体どのように生きていたのだろう?

 そんなことを考えていた時、突然、目に強い違和感を覚えた。
 どうやら砂埃が目に入ったらしい。
 僕は反射的に目をこする。
 その時だった。
 歩道にあったわずかな段差に足を取られ、僕の体は勢いよく前方に倒れ込んだ。
 咄嗟に両手を出したおかげで、大きなケガは免れた……が。
「……あれ?」
 片方の視界がぼやけている。どうやら、目をこすった時に片目のコンタクトが外れてしまったらしかった。
 僕は慌てて地面に目をやるが、半分視界がぼやけた状態で見つけるのは至難の技だ。
 地面に這いつくばって探すという手段もあったが、朝のこの時間、通学や通勤で道には人の姿が多い。そんな中、四足歩行で地面を凝視する僕は間違いなく不審者だ。
 結局、コンタクトを探すことは諦め、僕は視界不良のまま、普段よりもゆっくり、慎重に、学校までの残りの道を歩くことにした。

 「はぁ……はぁ……間に合った」
 「おはよ。凛空が遅刻ギリギリなんて珍しいな。あはは、寝ぐせすごー。って、うわ!制服土ついてんぞ!」
 「一気に色々言わないでくれ……」
 隣の席の関口が脊髄反射で次から次へと話しかけてくるのを横目に、僕は呼吸を整えつつ席に着く。
 友人が多くない僕にとって、関口は僕が唯一気兼ねなく話せる友人だ。
 「なぁ、それより今日、転校生来るらしいぜ」
 「え?あぁそうなんだ」
 「どんな奴だろ。俺よりイケメンかな?なんつって」
 楽しそうに話す関口を見て、少し気分が安らぐ。
 そうだ、僕には推し以外にも心の拠り所がある。
 だから大丈夫、これから先、翔がいない人生も生きていける。

 それから間もなく、チャイムの音とほぼ同時に担任が教室に入ってきた。
 「おはよう。もう知ってる人もいるかもしれないけど、このクラスに新しい仲間が入ることになりました」
 それから、先生より少し遅れて、1人の生徒が入ってくる。
 恐らく、僕と同じくらいの身長か、少し高いくらいだろう。
 何故「恐らく」なのかというと、僕の片目にコンタクトが入っておらず、かつ僕の席は一番後ろであるため、教卓の横に立つ転校生の背格好しか判別できないからだ。
 「転校生の佐々山翔平くんです」
 先生が転校生の名前を告げる。
 平凡な名前だな、と僕は思った。
 「佐々山翔平です。よろしくお願いします」
 「え?」
 思わず小さな声が漏れてしまった。
 隣の席の関口がちらっと僕を見る。
 「じゃあ、佐々山の席は一番後ろの窓際。あそこな」
 「はい」
 佐々山翔平が僕の方に近付いてくる。
 それと同時に、僕の鼓動はどんどんと速くなった。
 このまま心臓が破裂してしまうのではないかと思うくらいに。

 なぜなら、佐々山翔平の声が、まぎれもなく、翔の声だったからだ。

 僕は佐々山翔平のほうを見れなかった。
 恐らく……いや間違いない、彼は翔だ。
 今まで何度も彼の声を聞いてきた。僕は彼の容姿、人柄、パフォーマンスに加え、その声も大好きだった。
 だから分かる。絶対に翔で間違いないと。

 思えば、翔は僕と同い年だ。
 翔は元々、芸能コースがある高校に通っていたはずだが、芸能界を引退したのならば、普通の高校に転校すること自体は不思議ではない。
 東京出身の翔が、わざわざ埼玉の片田舎にある高校を選んだ理由は気になるものの、東京からさほど遠い場所でもないので、そこまでおかしくはないだろう。

 しかし、まだ信じられなかった。推しと同じ高校、まして同じクラス。
 そして今、僕の2つ隣の席に座っている。
 隣で関口が小声で「大丈夫そ?具合悪いんか?」と声をかけてきているが、今の僕にはそれに応じている余裕がなかった。

 その後、僕は一時間目から四時間目までを無事終え、昼休みを迎えた。
 いや、“無事”というのは嘘だ。全く無事ではなかった。
 何せすぐ近くの席に、推しがいるのだから。
 僕は視野を極限まで狭め、推しを視界に映さないよう努めた。
 勿論、人間そんな都合のいい能力はないので、隣の席の関口から「お前なんで斜め右をずっと見てんの」と突っ込まれたが。
 でも、そうするしか、左にいる推しを視界に収めない方法が思い浮かばなかったのだ。
 僕はどうしても、こんな近い距離にいる推しを、視界にとらえたくなかった。

 「俺、今日別のとこで昼飯食べる」
 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ってすぐ、僕は関口にそう告げた。
 僕の申し出に、普段一緒に机を並べて昼飯を食べている関口がポカンとした顔をする。
 「いやいや、お前俺以外に飯食う友達いないだろ」
 「う……」
 痛いところをつかれたのと、「今の、翔に聞かれたかな……!?」という心配で、僕は顔をしかめる。
 しかしなんとか適当な理由をでっちあげ、弁当片手に教室を出た。
 推しと同じ空間で呑気に弁当を食べられるほど、僕は図太くない。
 それに、授業の間の十分休みと違い、昼休みともなれば、推しが席を立ち、周りと交流するなどして、その結果僕の存在に気付かれてしまう恐れもある。
 それは避けたかった。
 推しと顔を合わせるわけにはいかなかった。

 それから僕は悩んだ末に、非常階段で昼食をとることにした。
 高校一年生の初め頃、なかなか友達ができなかった僕が昼休みに愛用していた場所である。
 「誰も来ませんように……」
 ボッチ飯だと思われるのは流石に傷つくからだ。
 まぁボッチ飯であることに間違いはないのだが……。
 一息ついた僕は、弁当を開け、母の作った卵焼きを口に入れた。

 ――その時。

 「凛空くん」
 その声に驚きすぎて、僕は思わず卵焼きを丸呑みする。
 そのせいで盛大にせき込んでしまった。
 「大丈夫!?」
 だめだ、見ちゃだめだ、だめだ、だめ、だめ……!
 そう思えば思うほど心臓の鼓動が速くなり、そして僕は自分の意思に反して、顔を上げてしまう。
 半分ぼやけた視界に映ったのは紛れもない、僕の推し。――翔だった。
 僕はすぐ目をそらし、ひとまずペットボトルのお茶を飲む。手はかすかに震えていた。
 「ごめん、もしかしてって思って、声かけるタイミングうかがってたんだけど……凛空くんだよね?」
 「……」
 「えっと、わかる?俺……Nexe1の」
 「待って!」
 「え?」
 僕は思わず、翔の言葉を遮る。
 「誰かに聞かれてたらどうするの!『アイドルだ』って騒ぎ立てられるかも」
 「そんな、俺のこと知ってる人なんてこの学校にいないよ」
 「だからこそだよ。あることないこと騒がれて、そんなことになったら、僕……」
 「……心配してくれてるんだ、ありがとう」
 翔は少し驚いた顔をした後、優しい笑みを浮かべた。
 僕のクラスに入ってきた転校生、“佐々山翔平”の姿を、今初めて直視する。
 この距離ならはっきりと分かる。“佐々山翔平”は、間違いなく翔だった。
 アイドル時代と全く変わらない笑顔。その笑顔がこんな近くにある。
 「まさか凛空くんと同じ学校で、しかも同じクラスなんてびっくりした。せっかく同じクラスになったんだし、仲良く……」
 「しないよっ!」
 「え?」
 「仲良くは、できません……」
 「……なんで?」
 翔は悲しそうに呟く。
 「だって、僕と翔……くんは、アイドルとファンで……普通ならこんな近くで話しちゃいけないんです」
 「え……俺はもうアイドルじゃないよ?」
 「僕にとっては、翔くんはずっと僕の推しで……脱退とか関係なくて……今までだって、僕が特典券を買って、その買った枚数分だけ会話ができてた関係でしょ?それがアイドルとファンの距離感なんです。だから……」
 「ねえ凛空くん」
 「……何」
 翔が意味深に黙ったため、僕は下を向いていた目線を恐る恐る翔にうつす。
 すると、すぐそばに翔の顔があった。
 「っ!?」 
 「もうアイドルとファンの関係じゃないよ。だから、距離詰めてもいいってことだよね」
 僕は思わず、翔から飛びのいた。
 翔はアイドル時代から、ファンを喜ばせるのが上手かった。
 例えば、沼落ちするような言葉を投げかけ、ファンを夢中にさせるのなんて朝飯前だった。
 後々分かったのは、それがファンサービスのために作った台詞ではなく、翔の天然だったということだ。だからこそ余計たちが悪い。僕たちファンは成すすべなく、沼に沈んでいくしかなかったわけだ。
 そして今、制服姿の翔があの時と変わらぬ笑みを浮かべ、僕の心を惑わせている。
 この上なく不思議な光景だった。
 「せっかく同じクラスになったんだから、仲良くしようよ。これからよろしく」
 そう言って翔は手を差し出す。
 「えっ、握手?いや、接触は禁止でしょ!!」
 「だーかーらー!今はアイドルじゃないんだって!」
 そう言いながら翔は大笑いした。
 その笑顔に、僕は思わず見とれてしまう。

 この時間は、特典券で換算すると何枚分になるのだろうか。
 僕のお小遣いでは、到底足りなさそうだ。