母の虚像

 春は再び訪れる

「颯汰! 起きて! お仕事遅刻するよ!」
「んー、あと五分……」
「ダメったらダメ!」
 この期に及んでまだベッドから出ようとしない彼を、僕は無理やりひきずりだした。くるんでいた毛布を剥ぐ。
「僕、今日は三限からで時間あるから、三食分作っておいたよ。ちゃんと食べてね」
「本当!? ありがとう、輝実! 大好きだ!」
「おおげさだなあ」
 叩き起こされたせいでまだ眠そうにしている彼を、どうにかこうにか椅子に座らせる。朝食用に作っていた焼きたてのホットケーキを皿に乗せて、カットしたフルーツも添えた。
「いつもありがたいけど、俺もちゃんと手伝いたいからさ、大変な時はいつでも言ってよ?」
「朝から授業が入ってる時は君が家事を担当してくれてるじゃないか。負担にはなってないから大丈夫だよ」
 颯汰はどこか不服げに「ならいいけど」とつぶやいて、イチゴのひとかけらを口に含んだ。僕もそれを真似るように、一粒かじる。ちょうど旬だから、実はみずみずしく甘い。
 窓辺から差しこむ日差しは僕らの小さな食卓を照らしていて、春の陽気を知らせていた。
 あの街を出た僕たちは、今、同じ場所に寄り添いあいながら暮らしている。
 僕は無事に心理学系の大学に進学することができて、颯汰もまた、僕の大学の近くで働き口を見つけられた。
 誰かさんが遺してくれた多額の貯金と、颯汰の稼ぎのおかげで、今は不自由なく暮らすことができている。夢に描いた通りの日々だった。
「やべ、本当にそろそろ時間じゃん。行ってくる!」
「はいはい。気をつけてね」
 仕事鞄を手に駆け出していった彼の背をながめてから、しばらくやることがなくなってしまった僕は、近くのソファにだらしなく転がる。適当に持っていたスマホの画面をスワイプした。
 GPSアプリを開けば、颯汰が駅に向かって全力疾走しているのであろう様子が見てとれた。思わず笑いがこぼれてしまう。
 手持ち無沙汰に画面をいじっていると、ふいにスマホが通知を鳴らした。チャットアプリから送られてきたようだ。
 僕は身体を起こしてチャットを開く。その中身を読んで、げんなりとした。
『ごめん、お弁当忘れた!』
 愛らしい猫が謝り倒しているスタンプと一緒に送られてきた情けないメッセージ。顔を上げれば、机の上に今朝作っておいた弁当箱が置き去りにされていることに気がついた。
『あとで大学に行くついでに届けるよ』
 怒る猫のスタンプを送りつければ、もう一度猫が謝ってきた。さすがに面白くなってきて、なんだか気分もどうでもよくなってきた。
 これで弁当を忘れるのは何度目だろうか。そろそろお仕置きに何かしてやってもいいかもしれない。例えば逆日の丸弁当とか。前にインターネットで見たことがある。梅干しと米の量を逆にしたやつだ。梅干しがあまり好きではない彼が発狂する様が想像にたやすい。次はこれでいこうと心に決めた。
 少しばかり窓を開けば、その隙間から吹いた風がカーテンを不規則にゆらす。ふくらんで、閉じて。そしてまたふくらんで。その不安定な動きが、なぜだか僕の心を落ち着かせた。
 のんびり春の陽気を味わっていた時だった。僕はふいに気がついた。
「……これじゃあ母親っていうより妻じゃないか?」
 そういえば颯汰の職場では、よく僕が作った弁当が愛妻弁当だ何だと言われてからかわれているらしいと聞いた。全くもって不本意だと、僕は鼻息を荒くする。
 キスをして、抱きしめて。一緒にお風呂に入って、一緒に眠る。確かに絵面だけなら、仲睦まじい恋人同士のそれなのかもしれない。
 けれど、その言葉は僕たちを示すには何かが違う気がした。
 僕は彼を確かに愛していたし、彼の望む全てには応えられるだろう。彼が求めるなら、キスのその先だって。
 けれどそれ以上に、僕は彼を愛しているのだ。それは単なる性愛で片付けられるものではない。母が子を愛すように、子が母に温もりを求めるように。
 僕たちは実の母子ではないし、そもそも僕に至っては男だから、母を体現するには妙なものがある。
 けれど、彼の実母と僕だったら、僕の方がよっぽど彼を愛せていると思った。母にふさわしいと思った。母のあるべき形なんて、まともな母を見てこなかったから僕には分からなかったけれど、きっと純真無垢に尽くして、無償の愛を捧ぐ姿こそが「そう」なのだろうと考えている自分がいた。その点、あの女は有償の愛を望んだのだから、母失格だ。
 僕は自分の全てをなげうったって、彼を愛することができる。やっぱり、僕の方こそが彼の母にふさわしい!
 例え凡庸な人間から、僕という存在が母の虚像であると揶揄されようと構わない。
 虚像であったとしても、目に映りさえしていれば、それは真実なのだ。