冬
小窓の向こうに白雪が舞っている。まるで気に食わないもの全てを、凍てつかせるように。
「はじめまして。颯汰くんのお母様ですか?」
数週の時が経ち、僕は再び颯汰の家に招かれていた。今回はあえて、彼の母がいる日を選んだ。無難な笑顔をたたえてみせる僕の前で、彼女は困惑したように立ち尽くしていた。
「えっと、どうもはじめまして。颯汰の母です。その、あなたは……?」
母を名乗った彼女は、ゆるやかに巻きのかかった赤みのある髪を長く下ろしていた。わざと髪を巻いているのかと思ったが、様子を見るに天然もののようだ。颯汰と同じ髪質なのか、と胸中でひとりごちた。
それでも僕は笑顔を忘れず、愛嬌のある声音で答えた。
「輝実です。颯汰くんとは親しくさせてもらってます」
彼女はおどおどと颯汰の方を見やった。彼はおだやかに笑顔を見せる。
「そうだよ、母さん。輝実は俺のクラスメイトなんだ。今日はうちに遊びに来てくれたんだよ」
「そう……うちには何もないけど、ゆっくりしていってくださいね」
思いの外臆病そうな人だな、と思った。おっとりと頬に手を当てるその姿は、颯汰から聞いていた人物像とは重ならない。
彼女は時折こちらに視線をやりつつ、そのままその場を去っていった。まるで突如侵入してきた化け物から、今すぐにでも身を隠したいとばかりに。そのよそよそしい態度だけは、あまり良い心象を残さなかった。
「それで、作戦っていうのは?」
「地道に進めていくから、颯汰は気にしなくていいよ」
「そ、そう?」
颯汰の部屋に入ってすぐ、彼は興味深げに話を振ってきたが、僕はあいまいに笑ってごまかした。
「ねえ、それよりもっと二人で遊ぶ日を増やそうよ。君のおかげで成績も悪くないからさ。息抜きできる日を多くしたいんだ」
てっきり彼は喜ぶかと思っていたが、僕の予想に反して、颯汰は眉根を寄せると、いぶかしげな顔をした。
「俺は嬉しいけど……本当に大丈夫? 無理してないか? 受験も近づいてきてるんだし、もっと自分のことに集中した方が……」
「無理なんてしてないよ。颯汰のことは実質僕のことみたいなものなんだから、心配しないで」
そう、これは我が子を慮る母のような感情なのだ。受験の判定だって良好だったし、これ以上それを不安視する必要もない。僕に取って今一番大切なのは、目の前の颯汰のことだった。
母からの洗脳を解き、彼を連れ出す。それが今の僕に課された役目なのだ。
「なら、お言葉に甘えるけど……」
「もちろん! 今度は映画でも観ない? おすすめの作品があるんだよ」
スマホの画面を開いて、検索結果を彼に見せる。彼は僕が示したいくつかの映画に興味を持ったようで、僕の隣で映画のあらすじを調べたりしていた。
はしゃぐ彼の姿はどこまでも愛らしい。僕は腕を伸ばして、そっと彼の頭をなでた。
「輝実?」
颯汰は不思議そうにこちらを見つめている。僕は彼の髪を何度もすきながら、その丸い毛先を指で遊んだ。
「ふふ……」
くすぐったそうに、彼は笑い続けている。僕はその愛おしい様子を観察し続けた。
やっぱり、彼に本当の笑顔を与えられるのは僕だけだ。
視界の端で、部屋の扉が薄く開いている様を垣間見た。その向こうに立ちつくす人間に見せつけるように、僕は颯汰を抱き寄せる。
心の中で、僕は小さく舌を出した。
それからというもの、僕はそれらしい理由をつけて、颯汰を家から連れ出したり、時には逆に僕が彼の家に行ったりして、よく遊ぶようになった。
元々颯汰の方が僕にべったりだったのに、今はその関係がすっかり逆転している。僕の方が、彼にしつこく構うことが増えた。子供の躾をするように。
今更、僕たちの間に挟まりに来るような人間は現れなくなった。教室の真ん中には別の誰かが立つようになったし、図書室の一角は、もう別の人間が占領していた。
僕と颯汰の居場所は、彼の居室が基本になっていた。
それを好ましく思わない人間が唯一存在するのも、もちろん織りこみ済みだ。
むしろ、それを狙ってやっていたのだから。
「……最近、息子とずいぶん仲良くしてくれているのですね」
颯汰の家に遊びに来ていた時だった。手洗いから彼の部屋へ戻っていると、ふらりと彼の母が現れた。
どこか冴えない顔をした彼女は、虚ろな視線を真正面に向けている。
それは品定めをするような、天敵を忌避するような目だった。
どうやら思っていたよりも早く、僕は彼女の警戒範囲に入ることができたようだ。
「はい。颯汰くんと一緒にいられる時間は、何よりも楽しいので」
「そうですか。それは結構ですが、受験も近いのでしょう? ほどほどになさった方が良いかと思いますよ」
「ご忠告、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
彼女は苦々しい顔をした。「左様ですか」そうとだけ残して、彼女は踵を返した。今にも立ち去ろうとするその背中に、僕は鷹揚に声をかけた。
「そういえば、颯汰くんは受験をしないそうですね。あんなに頭がいいのに。なぜです?」
階段を降りようとしていた彼女は、その足を止めた。長い髪の隙間から、鋭い視線がのぞく。
「……あの子は世間知らずなところがありますから。下手に大学に送り出すより、私のもとでしつけておいた方がいいと思っただけですよ」
「しつけ?」
僕は片眉を上げた。
「彼はもう十八ですよ。しつけだなんて、そんなことをするような歳でもないでしょう。それに、彼はあなたが思っているよりも理性的な人ですよ。確かに、少し変わっているというか、飢えているところはありますが……」
僕はわざとらしく窓に向けていた目を、彼女に向き直した。僕よりもいくぶんか背の低い彼女を見下ろして、言う。
「それもこれも、あなたのしつけが行きすぎていたからでは?」
唇が自然に弧を描いていく。とたんに殺気立つ彼女を、僕は嘲った。
「あなた……何様のつもり?」
僕は小首をかしげて、愛嬌のある笑顔を浮かべた。颯太に何度も褒められた、あの表情を。
「それは僕の台詞ですね。あなた、ふさわしくないんですよ」
「……は?」
爪の先が手のひらに食いこむ。嫉妬の炎が燃え上がって、僕の心を灰燼にするほどに追い立てていた。
「あなたは、あくまで彼のことを……」
「あれ、輝実、と母さん? こんなところで何を話してるの?」
彼女と無言でいがみあっていた時だった。颯汰が部屋を出てこちらに声をかけてきた。僕の戻りが遅いから、心配して様子を見にきてくれたのかもしれない。
「なんでもないよ。映画の続き、観ようか」
「そうしよ!」
背後から恨めしげな視線が突き刺さってくる。僕にはそれすら、心地よいものに感じた。
あくる日のことだった。いつものように、二人で昼食を取っている時、彼が視線をさまよわせながら言った。
「なあ、輝実……」
「なに?」
そろそろか、と胸中でつぶやいた。颯汰は眉根を寄せては、口を開けたり閉じたりしている。言ってしまってよいものかと、迷っている様子だ。
「どうかした? ゆっくりでいいよ」
「いや、あのさ」
やがて彼は意を決したのか、握っていた箸を弁当箱の上に置いた。
「母さんが、もう君を家に呼ばないでくれって言ってるんだよ。どうしたものかな……」
「ああ、なるほどね」
ここまでの流れは全て想定通りだった。しつこいくらいに颯太に関わっていれば、いくら男相手とはいえ、さすがに彼女も僕をノーマークにはしていられないだろうという予測があったからだ。
舞台は整った。あとは制御装置を外すだけだ。
「輝実が言ってた作戦って、まだ始まってないの? そろそろ限界が来そうで、俺心配なんだけど」
僕は不安がる彼を落ち着かせるように、意図的に猫なで声を発した。
「大丈夫。もうとっくに計画は進んでるよ」
「え、そうなの?」
颯汰は意外そうに瞬きをした。僕は両手で頬杖をつく。
「颯汰はさ。あの人よりも、僕を選ぶよね?」
彼はほんの一瞬、息を詰めた。かすかな動揺が、空気の乱れとなって僕に伝わってきた。
僕は目を細めて、彼をひたむきに見つめ続ける。彼は何やら考えこんでいるようだ。
「ねえ」
責め立てるように、僕はもう一度彼にささやいた。颯汰は一度だけ肩を跳ねさせると、すぐに「当たり前だろ」と笑顔を向けた。
「君の方が、あの人よりもずっと、母親に……」
「向いてるんだもんね。そうだよね」
颯汰の頬が、ごく僅かにひきつった。僕は頬杖をしていた両手を離して、彼の手にそっと触れる。
「君が僕を選んでくれたんだ。僕は彼女とは違うってこと、教えてあげる。だって、君……」
——僕のこと、お母さんと同じに見えてきたんでしょ。
颯汰はこぼれ落ちそうなほどに目を見開いた。
「僕が君のお母さんに似てきたって思っちゃったのかな。僕はもう、君を純粋に愛してあげられる、君の理想の母にはなってくれないのかもしれないって、焦っちゃったのかな」
「そ、そんなこと……」
「そんなことないなら、どうして僕の作戦を疑うの?」
彼は目に見えて憔悴していた。視線は露骨にそらされている。そのこめかみを、透明なしずくが伝っていった。冬の曇天がそれを光らせることはない。
僕はことさら優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。僕は彼女とは違うってこと、ちゃんと証明してあげる。……今日の放課後、君の家に行ってもいい?」
颯汰は自分の身体が無意識にこわばっていたことに気がついたのか、ふと小さく息を吐いた。自分を無理に落ち着かせるかのような所作だった。
けれど、僕が梃子でも彼の手を離さないと悟ったのか、彼は一つ目を閉じると、再び開いて、僕をまっすぐに見つめた。
「……分かった。もちろん、来ていいよ。君のことも信じるから」
僕は心の底からほほえんだ。
「いい子だね」
雛鳥のように歩く彼を連れて、僕はここ最近ですっかり見慣れてしまった道を進んだ。学校から颯汰の家へとつながる道だ。
「お母さんに何か言われないか、不安?」
「そう、だね。正直少しだけ」
僕に声をかけられて、颯汰は思い出したように顔を上げると、困ったように目尻を下げた。僕は振り向いて、そんな彼を少しでも安心させられるように、彼の手を取ってあやすようにゆらす。
「大丈夫。苦しかった日常は、今日で終わるよ」
颯汰は目を丸くした。僕の言葉の意味を彼なりに噛み砕こうとしているようだが、まだ分からないのだろう。それが当たり前だ。僕は握った両手に力をこめた。
「……颯汰。私の話、聞いてなかったのかしら?」
家に到着して早々、一応は迎え入れてくれた彼の母に、僕は全力で睨まれていた。怒鳴り散らして追い出される覚悟もしていたが、彼女は存外理性的に戦おうという意志があるらしい。渋い顔をしながら、彼女は僕を居間のソファへと上げた。
それでもなおぶつぶつと嫌味を垂れてくる彼女に、颯汰はどうしたものかと言わんばかりに言葉をくりかえしどもらせていた。
彼が再び口を開く前に、僕はすばやく先手を打った。
「ごめんなさい。僕からお母さんに大切な話があって、彼に無理を言って連れてきてもらったんです」
「……あなたが、私に?」
彼女は不快な羽虫を見るように眉を顰めた。膝の上で丁寧に組まれた彼女の両手は、白くなるほどに強く握られている。かすかな震えてさえもいた。
「単刀直入に申し上げますと、僕、彼と一緒に別の場所で暮らしたいんです」
「……はあ!?」
彼女はとうとう大声を上げた。目を剥いて、信じられないものを見たような顔をしている。
「え、ちょっと、輝実」
「大丈夫だよ、颯汰」
颯汰も動揺しているようだ。一番最初に直接交渉するのは無理だという結論になっていたから、僕の取った行動が理解できないのだろう。
けれど、今ならこの手段は意味をなす。彼女に僕を敵と見なさせた今なら。
「二人で暮らすって、ここを出ていくってことですか? 信じられないです! あなたたち、まだ学生でしょう!?」
僕は吹き出しそうになるのをこらえながら、片手を広げて口元に添えた。
「お金のことなら心配いらないですよ。最近運良く臨時収入があったんです」
「そういう話じゃ……第一、私は颯汰にここまで尽くしてあげてきたんですよ!? この子が今更、私以外と生きていけるはずがないじゃない!」
颯汰が苦い顔をしてつぶやく。「母さん……」
彼女はすっかりムキになったようで、皺のなかった自らのスカートに思い切り爪を立てている。颯汰が一人では生きていけないと熱弁するその姿は、鬼のように必死の形相だった。
「一人で生きていけないのは、颯汰ではなくあなたの方ですよね?」
「な……」
髪を振り乱した彼女は、四方に毛先を飛ばして呆気にとられていた。山姥のように醜い姿をさらして。
「颯汰はあなたが思っているほど子供じゃないですよ。頭も回るし、体力もある。家事や仕事だってきっとできるでしょう。あなたはその事実に目を伏せてまでして、彼を自分の手元に置こうとしている」
テーブルに手をついて、僕は彼女をのぞきこんだ。光のない瞳と視線がかちあう。目を細めて、笑顔を返した。
「ねえ、あなたは颯汰のこと、本当は自分の子供だなんて思ってないですよね」
「は……なに、言って」
「待って、輝実、それってどういう」
本当の母親とは、子の成長を喜ぶものではないのか。唯一無二の存在である子を熱心に注視し続け、慈しむ。
それが、偽物の母親を観察し続けた僕が得た、真実の母の姿の一つだった。
「颯汰は気づいてないもんね。いや、気づきたくなかったのかな。自分が誰かの代わりにされてるかもしれないなんて。颯汰を颯汰として見て愛していると語る存在を、手放したくなかったのかな」
僕の周りで、二人の人間が言葉を失っている。僕はこれまでの人生の中で、今までに感じたことがないほどの愉悦を感じていた。
ああ、自分の手のひらの上に人間が転がっている様とは、こんなにも面白いものなのか。
僕はひどく気が昂って、今度こそ吹き出してしまった。
ひとしきり笑い終えて、僕は仰いでいた手を下ろす。そして、呆然と俯いていた彼女の頬に手を添えた。
顔を上げた彼女に、僕は真実を突きつける。
「ねえ、あなたは。颯汰のこと、自分の子供としてではなく、自分の夫として愛していましたね? 正確には、『夫の代わり』として」
賽は投げられた。彼らが気づきたくなかってあろう事実が、淡々と突きつけられていく。
「どういう、こと……母さん」
颯汰が発した声は、かわいそうなくらいに震えていた。それは緊張から来るものか、それとも図星の焦りから来るものか。
無理やり僕と目を合わせられていた彼女は、逃げるように視線をそらした。
ゆれる瞳孔は、颯汰とは異なる色をしている。赤みを帯びた黒の瞳は、お世辞にも息子と似ているとは思えなかった。
颯汰の特徴的な容姿は、父譲りのものだったのだろう。
「だって……だって、あの人が私を裏切ったから」
うなだれていた彼女は、ふとうわごとを上げるようにつぶやいた。しばらく意味のない喃語をくりかえしたあと、彼女は突然大声を上げた。布を切り裂くような悲鳴だった。鋭い爪を振りかざして、僕の腕を叩こうとする。その前に僕は手を引いた。彼女の細腕は、宙をかき切っただけだった。
「何よ、あなた、輝実って言ったわよね? あなたも私から彼を奪うの? 私の夫を奪いにきたの!? 渡さない! 渡さないわよ! ようやく私の『理想の彼』ができあがったのに!」
皮肉なことに、二人はこういうところでは親子らしい。自分の「理想」を作り上げるためなら、相手を洗脳さえしてみせる。そんな狂気じみた考えを実践してしまうのだ、彼らは。
理想の夫を得られなかった彼女は、理想の夫を息子に求めた。
理想の母を得られなかった颯汰は、理想の母を僕に求めた。
僕は深くため息をついた。結局僕は、彼らの遺伝子に振り回されただけだったのか。
けれど、今更呆れて放り出す気にはならない。それくらいには、僕は颯汰のことを深く愛してしまっていたし、彼の母になってみせようと思っていた。
「颯汰、これで分かったでしょ? この人には、母として何も期待しちゃいけないんだ。この人は君が想像していたような、母という存在が持っていて当たり前なはずの、『君自身』を愛するという感情はないんだよ」
颯汰は自らの母を前にして、果てしない暗黒の絶望を抱いていた。彼は、始めから母が自分を愛していなかったことに気づいていたのだろうか。聡い彼なら気づいていたかもしれないと思ったが、けれど同時に彼は純粋無垢な子供でもあった。洗脳されきった頭では、気づけていなかった可能性だって十分にあっただろう。
真相を前にして、彼はどのような行動にでるのだろうか。僕はフラスコの中身の反応をながめるように、彼の動きを待った。
「……母さん」
長い長い間ののちに、彼がつぶやいた。
「俺さ、ずっと我慢してたんだよ。母さんが俺にやることなすこと全部、俺のためにやってくれることだと思って。母さんに身体を触られる時だって、耐えてた。でも、それは全部、夫のいない自分のためにやってたことだったんだね」
訥々と肩られる彼の言葉は、母を糾弾するというよりかは、自分自身を納得させるために反芻しているように聞こえた。彼の頬を透明な液体がしたたっていく。
僕は波打っていた心の水面が、次第に凪いでいくのを感じていた。
この真相を暴くためには、僕は颯汰の母にとっての「間女」になる必要があった。作り上げた理想の夫を奪う不埒な女。そう思わせるために、僕はわざと彼女の前でしつこいくらいに颯汰にからみついた。
もっとも、僕は間女なんて気色の悪いものになるつもりは微塵もなかったけれど。僕はあくまで、この子の本物の母の形をとると決めていたのだ。
彼と出会った時は、彼のことを異常だと思った。母に応えることだけを生きがいにしておきながら、その実理想の母に飢え、自らの身を傷つける彼を、異常以外の何で表現すれば良いというのか。
けれど今はどうだろう。
僕は一人自嘲した。彼の実母に成り代わろうとしている今の僕の方が、よっぽど異常なのだろうか。
腹の底から哄笑がこみあげてきた。だが、今は失笑は控えるべきだろう。僕はひくつく頬の内側を噛んだ。
今更自分が異常だと言われようと、なんだっていい。だって僕は、颯汰の理想にも、自分の理想にもたどりついたのだ。
僕にとっての実の父も、実の母も、二人とも良い親なんてお世辞にも言える人間ではなかった。
彼らに否定され続ける生活の中、密かに胸の内にいぶっていた「親」という存在に対する羨望と復讐心は、今こうして僕が彼の望んだ母となったことによって大成された。
僕は真の勝者となったのだ。
「ねえ颯汰? 君は彼女の「理想の夫」になる? それとも「理想の母」である僕の息子になる?」
確定した未来に少しばかり僕が酔いしれていた間、颯汰は軽いパニックを起こしてしまっていたようだった。美しいブロンドをくしゃくしゃにして、うなりながらうつむいている。彼のスラックスには、いくつもの色濃くなった染みがついていた。
かわいそうに。今更自分が本当に欲しかったものは何だったのかに気づいてしまったのだろう。
今更、実の母に、実の息子として愛されたかったなんて、気づいたところでもう遅い。
彼が得られるのは代用品だけだ。僕はその代用品にされたって良かった。それくらい、僕は彼を愛していた。
希少な「同類」になってくれた、彼のことを。
「僕はね、颯汰。君がお母さんにしてほしかったこと、全部あげられるよ」
嘆く彼を抱き寄せて、その耳にささやく。
「抱きしめてあげる。愛してるって何度も言ってあげる。ご飯も作ってあげる。一緒にお風呂にも入ってあげる。毎日一緒に眠ってあげる。何度だって、君の頭をなでてあげる」
どうしたい? 甘ったるい問いかけを、颯汰に投げかけた。
返事なんて、分かりきっていたけれど。
颯汰はひきずるようにして身を起こすと、涙にまみれた腕を僕の首にからめた。そしてよくなついた子供のように、僕にすがりつく。
「頭、なでて」
「いいよ」
言われた通り、彼の頭をなでる。細く柔らかな髪の間に指を通して、小さな鼻歌を歌った。
「……おでこ、キスして」
「……いいよ」
彼の額をくすぐって、僕は自らの唇を寄せる。それに合わせるように、彼の昏い瞳が閉ざされた。
そんな僕たちの様子を見て、破滅に身を投げた女が一人。
彼女は二つ分の穴が開いた頭をこちらに向けていた。
「理想の母って、なによ。あなたたちが求めてるのは、男から見たステレオタイプの幸せじゃない。ただの母性神話じゃないの。彼が私に求めたものと、同じ……」
恨みがましく、彼女は怨嗟の念を吐き出し続ける。けれどその言葉のどれしもは、今の僕には負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。
冷え切った部屋の真ん中。勝ち取った彼を腕に抱きしめながら、僕は今度こそ彼女に向けて舌を出す。
「さようなら。『元』お母さん」
小窓の向こうに白雪が舞っている。まるで気に食わないもの全てを、凍てつかせるように。
「はじめまして。颯汰くんのお母様ですか?」
数週の時が経ち、僕は再び颯汰の家に招かれていた。今回はあえて、彼の母がいる日を選んだ。無難な笑顔をたたえてみせる僕の前で、彼女は困惑したように立ち尽くしていた。
「えっと、どうもはじめまして。颯汰の母です。その、あなたは……?」
母を名乗った彼女は、ゆるやかに巻きのかかった赤みのある髪を長く下ろしていた。わざと髪を巻いているのかと思ったが、様子を見るに天然もののようだ。颯汰と同じ髪質なのか、と胸中でひとりごちた。
それでも僕は笑顔を忘れず、愛嬌のある声音で答えた。
「輝実です。颯汰くんとは親しくさせてもらってます」
彼女はおどおどと颯汰の方を見やった。彼はおだやかに笑顔を見せる。
「そうだよ、母さん。輝実は俺のクラスメイトなんだ。今日はうちに遊びに来てくれたんだよ」
「そう……うちには何もないけど、ゆっくりしていってくださいね」
思いの外臆病そうな人だな、と思った。おっとりと頬に手を当てるその姿は、颯汰から聞いていた人物像とは重ならない。
彼女は時折こちらに視線をやりつつ、そのままその場を去っていった。まるで突如侵入してきた化け物から、今すぐにでも身を隠したいとばかりに。そのよそよそしい態度だけは、あまり良い心象を残さなかった。
「それで、作戦っていうのは?」
「地道に進めていくから、颯汰は気にしなくていいよ」
「そ、そう?」
颯汰の部屋に入ってすぐ、彼は興味深げに話を振ってきたが、僕はあいまいに笑ってごまかした。
「ねえ、それよりもっと二人で遊ぶ日を増やそうよ。君のおかげで成績も悪くないからさ。息抜きできる日を多くしたいんだ」
てっきり彼は喜ぶかと思っていたが、僕の予想に反して、颯汰は眉根を寄せると、いぶかしげな顔をした。
「俺は嬉しいけど……本当に大丈夫? 無理してないか? 受験も近づいてきてるんだし、もっと自分のことに集中した方が……」
「無理なんてしてないよ。颯汰のことは実質僕のことみたいなものなんだから、心配しないで」
そう、これは我が子を慮る母のような感情なのだ。受験の判定だって良好だったし、これ以上それを不安視する必要もない。僕に取って今一番大切なのは、目の前の颯汰のことだった。
母からの洗脳を解き、彼を連れ出す。それが今の僕に課された役目なのだ。
「なら、お言葉に甘えるけど……」
「もちろん! 今度は映画でも観ない? おすすめの作品があるんだよ」
スマホの画面を開いて、検索結果を彼に見せる。彼は僕が示したいくつかの映画に興味を持ったようで、僕の隣で映画のあらすじを調べたりしていた。
はしゃぐ彼の姿はどこまでも愛らしい。僕は腕を伸ばして、そっと彼の頭をなでた。
「輝実?」
颯汰は不思議そうにこちらを見つめている。僕は彼の髪を何度もすきながら、その丸い毛先を指で遊んだ。
「ふふ……」
くすぐったそうに、彼は笑い続けている。僕はその愛おしい様子を観察し続けた。
やっぱり、彼に本当の笑顔を与えられるのは僕だけだ。
視界の端で、部屋の扉が薄く開いている様を垣間見た。その向こうに立ちつくす人間に見せつけるように、僕は颯汰を抱き寄せる。
心の中で、僕は小さく舌を出した。
それからというもの、僕はそれらしい理由をつけて、颯汰を家から連れ出したり、時には逆に僕が彼の家に行ったりして、よく遊ぶようになった。
元々颯汰の方が僕にべったりだったのに、今はその関係がすっかり逆転している。僕の方が、彼にしつこく構うことが増えた。子供の躾をするように。
今更、僕たちの間に挟まりに来るような人間は現れなくなった。教室の真ん中には別の誰かが立つようになったし、図書室の一角は、もう別の人間が占領していた。
僕と颯汰の居場所は、彼の居室が基本になっていた。
それを好ましく思わない人間が唯一存在するのも、もちろん織りこみ済みだ。
むしろ、それを狙ってやっていたのだから。
「……最近、息子とずいぶん仲良くしてくれているのですね」
颯汰の家に遊びに来ていた時だった。手洗いから彼の部屋へ戻っていると、ふらりと彼の母が現れた。
どこか冴えない顔をした彼女は、虚ろな視線を真正面に向けている。
それは品定めをするような、天敵を忌避するような目だった。
どうやら思っていたよりも早く、僕は彼女の警戒範囲に入ることができたようだ。
「はい。颯汰くんと一緒にいられる時間は、何よりも楽しいので」
「そうですか。それは結構ですが、受験も近いのでしょう? ほどほどになさった方が良いかと思いますよ」
「ご忠告、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
彼女は苦々しい顔をした。「左様ですか」そうとだけ残して、彼女は踵を返した。今にも立ち去ろうとするその背中に、僕は鷹揚に声をかけた。
「そういえば、颯汰くんは受験をしないそうですね。あんなに頭がいいのに。なぜです?」
階段を降りようとしていた彼女は、その足を止めた。長い髪の隙間から、鋭い視線がのぞく。
「……あの子は世間知らずなところがありますから。下手に大学に送り出すより、私のもとでしつけておいた方がいいと思っただけですよ」
「しつけ?」
僕は片眉を上げた。
「彼はもう十八ですよ。しつけだなんて、そんなことをするような歳でもないでしょう。それに、彼はあなたが思っているよりも理性的な人ですよ。確かに、少し変わっているというか、飢えているところはありますが……」
僕はわざとらしく窓に向けていた目を、彼女に向き直した。僕よりもいくぶんか背の低い彼女を見下ろして、言う。
「それもこれも、あなたのしつけが行きすぎていたからでは?」
唇が自然に弧を描いていく。とたんに殺気立つ彼女を、僕は嘲った。
「あなた……何様のつもり?」
僕は小首をかしげて、愛嬌のある笑顔を浮かべた。颯太に何度も褒められた、あの表情を。
「それは僕の台詞ですね。あなた、ふさわしくないんですよ」
「……は?」
爪の先が手のひらに食いこむ。嫉妬の炎が燃え上がって、僕の心を灰燼にするほどに追い立てていた。
「あなたは、あくまで彼のことを……」
「あれ、輝実、と母さん? こんなところで何を話してるの?」
彼女と無言でいがみあっていた時だった。颯汰が部屋を出てこちらに声をかけてきた。僕の戻りが遅いから、心配して様子を見にきてくれたのかもしれない。
「なんでもないよ。映画の続き、観ようか」
「そうしよ!」
背後から恨めしげな視線が突き刺さってくる。僕にはそれすら、心地よいものに感じた。
あくる日のことだった。いつものように、二人で昼食を取っている時、彼が視線をさまよわせながら言った。
「なあ、輝実……」
「なに?」
そろそろか、と胸中でつぶやいた。颯汰は眉根を寄せては、口を開けたり閉じたりしている。言ってしまってよいものかと、迷っている様子だ。
「どうかした? ゆっくりでいいよ」
「いや、あのさ」
やがて彼は意を決したのか、握っていた箸を弁当箱の上に置いた。
「母さんが、もう君を家に呼ばないでくれって言ってるんだよ。どうしたものかな……」
「ああ、なるほどね」
ここまでの流れは全て想定通りだった。しつこいくらいに颯太に関わっていれば、いくら男相手とはいえ、さすがに彼女も僕をノーマークにはしていられないだろうという予測があったからだ。
舞台は整った。あとは制御装置を外すだけだ。
「輝実が言ってた作戦って、まだ始まってないの? そろそろ限界が来そうで、俺心配なんだけど」
僕は不安がる彼を落ち着かせるように、意図的に猫なで声を発した。
「大丈夫。もうとっくに計画は進んでるよ」
「え、そうなの?」
颯汰は意外そうに瞬きをした。僕は両手で頬杖をつく。
「颯汰はさ。あの人よりも、僕を選ぶよね?」
彼はほんの一瞬、息を詰めた。かすかな動揺が、空気の乱れとなって僕に伝わってきた。
僕は目を細めて、彼をひたむきに見つめ続ける。彼は何やら考えこんでいるようだ。
「ねえ」
責め立てるように、僕はもう一度彼にささやいた。颯汰は一度だけ肩を跳ねさせると、すぐに「当たり前だろ」と笑顔を向けた。
「君の方が、あの人よりもずっと、母親に……」
「向いてるんだもんね。そうだよね」
颯汰の頬が、ごく僅かにひきつった。僕は頬杖をしていた両手を離して、彼の手にそっと触れる。
「君が僕を選んでくれたんだ。僕は彼女とは違うってこと、教えてあげる。だって、君……」
——僕のこと、お母さんと同じに見えてきたんでしょ。
颯汰はこぼれ落ちそうなほどに目を見開いた。
「僕が君のお母さんに似てきたって思っちゃったのかな。僕はもう、君を純粋に愛してあげられる、君の理想の母にはなってくれないのかもしれないって、焦っちゃったのかな」
「そ、そんなこと……」
「そんなことないなら、どうして僕の作戦を疑うの?」
彼は目に見えて憔悴していた。視線は露骨にそらされている。そのこめかみを、透明なしずくが伝っていった。冬の曇天がそれを光らせることはない。
僕はことさら優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。僕は彼女とは違うってこと、ちゃんと証明してあげる。……今日の放課後、君の家に行ってもいい?」
颯汰は自分の身体が無意識にこわばっていたことに気がついたのか、ふと小さく息を吐いた。自分を無理に落ち着かせるかのような所作だった。
けれど、僕が梃子でも彼の手を離さないと悟ったのか、彼は一つ目を閉じると、再び開いて、僕をまっすぐに見つめた。
「……分かった。もちろん、来ていいよ。君のことも信じるから」
僕は心の底からほほえんだ。
「いい子だね」
雛鳥のように歩く彼を連れて、僕はここ最近ですっかり見慣れてしまった道を進んだ。学校から颯汰の家へとつながる道だ。
「お母さんに何か言われないか、不安?」
「そう、だね。正直少しだけ」
僕に声をかけられて、颯汰は思い出したように顔を上げると、困ったように目尻を下げた。僕は振り向いて、そんな彼を少しでも安心させられるように、彼の手を取ってあやすようにゆらす。
「大丈夫。苦しかった日常は、今日で終わるよ」
颯汰は目を丸くした。僕の言葉の意味を彼なりに噛み砕こうとしているようだが、まだ分からないのだろう。それが当たり前だ。僕は握った両手に力をこめた。
「……颯汰。私の話、聞いてなかったのかしら?」
家に到着して早々、一応は迎え入れてくれた彼の母に、僕は全力で睨まれていた。怒鳴り散らして追い出される覚悟もしていたが、彼女は存外理性的に戦おうという意志があるらしい。渋い顔をしながら、彼女は僕を居間のソファへと上げた。
それでもなおぶつぶつと嫌味を垂れてくる彼女に、颯汰はどうしたものかと言わんばかりに言葉をくりかえしどもらせていた。
彼が再び口を開く前に、僕はすばやく先手を打った。
「ごめんなさい。僕からお母さんに大切な話があって、彼に無理を言って連れてきてもらったんです」
「……あなたが、私に?」
彼女は不快な羽虫を見るように眉を顰めた。膝の上で丁寧に組まれた彼女の両手は、白くなるほどに強く握られている。かすかな震えてさえもいた。
「単刀直入に申し上げますと、僕、彼と一緒に別の場所で暮らしたいんです」
「……はあ!?」
彼女はとうとう大声を上げた。目を剥いて、信じられないものを見たような顔をしている。
「え、ちょっと、輝実」
「大丈夫だよ、颯汰」
颯汰も動揺しているようだ。一番最初に直接交渉するのは無理だという結論になっていたから、僕の取った行動が理解できないのだろう。
けれど、今ならこの手段は意味をなす。彼女に僕を敵と見なさせた今なら。
「二人で暮らすって、ここを出ていくってことですか? 信じられないです! あなたたち、まだ学生でしょう!?」
僕は吹き出しそうになるのをこらえながら、片手を広げて口元に添えた。
「お金のことなら心配いらないですよ。最近運良く臨時収入があったんです」
「そういう話じゃ……第一、私は颯汰にここまで尽くしてあげてきたんですよ!? この子が今更、私以外と生きていけるはずがないじゃない!」
颯汰が苦い顔をしてつぶやく。「母さん……」
彼女はすっかりムキになったようで、皺のなかった自らのスカートに思い切り爪を立てている。颯汰が一人では生きていけないと熱弁するその姿は、鬼のように必死の形相だった。
「一人で生きていけないのは、颯汰ではなくあなたの方ですよね?」
「な……」
髪を振り乱した彼女は、四方に毛先を飛ばして呆気にとられていた。山姥のように醜い姿をさらして。
「颯汰はあなたが思っているほど子供じゃないですよ。頭も回るし、体力もある。家事や仕事だってきっとできるでしょう。あなたはその事実に目を伏せてまでして、彼を自分の手元に置こうとしている」
テーブルに手をついて、僕は彼女をのぞきこんだ。光のない瞳と視線がかちあう。目を細めて、笑顔を返した。
「ねえ、あなたは颯汰のこと、本当は自分の子供だなんて思ってないですよね」
「は……なに、言って」
「待って、輝実、それってどういう」
本当の母親とは、子の成長を喜ぶものではないのか。唯一無二の存在である子を熱心に注視し続け、慈しむ。
それが、偽物の母親を観察し続けた僕が得た、真実の母の姿の一つだった。
「颯汰は気づいてないもんね。いや、気づきたくなかったのかな。自分が誰かの代わりにされてるかもしれないなんて。颯汰を颯汰として見て愛していると語る存在を、手放したくなかったのかな」
僕の周りで、二人の人間が言葉を失っている。僕はこれまでの人生の中で、今までに感じたことがないほどの愉悦を感じていた。
ああ、自分の手のひらの上に人間が転がっている様とは、こんなにも面白いものなのか。
僕はひどく気が昂って、今度こそ吹き出してしまった。
ひとしきり笑い終えて、僕は仰いでいた手を下ろす。そして、呆然と俯いていた彼女の頬に手を添えた。
顔を上げた彼女に、僕は真実を突きつける。
「ねえ、あなたは。颯汰のこと、自分の子供としてではなく、自分の夫として愛していましたね? 正確には、『夫の代わり』として」
賽は投げられた。彼らが気づきたくなかってあろう事実が、淡々と突きつけられていく。
「どういう、こと……母さん」
颯汰が発した声は、かわいそうなくらいに震えていた。それは緊張から来るものか、それとも図星の焦りから来るものか。
無理やり僕と目を合わせられていた彼女は、逃げるように視線をそらした。
ゆれる瞳孔は、颯汰とは異なる色をしている。赤みを帯びた黒の瞳は、お世辞にも息子と似ているとは思えなかった。
颯汰の特徴的な容姿は、父譲りのものだったのだろう。
「だって……だって、あの人が私を裏切ったから」
うなだれていた彼女は、ふとうわごとを上げるようにつぶやいた。しばらく意味のない喃語をくりかえしたあと、彼女は突然大声を上げた。布を切り裂くような悲鳴だった。鋭い爪を振りかざして、僕の腕を叩こうとする。その前に僕は手を引いた。彼女の細腕は、宙をかき切っただけだった。
「何よ、あなた、輝実って言ったわよね? あなたも私から彼を奪うの? 私の夫を奪いにきたの!? 渡さない! 渡さないわよ! ようやく私の『理想の彼』ができあがったのに!」
皮肉なことに、二人はこういうところでは親子らしい。自分の「理想」を作り上げるためなら、相手を洗脳さえしてみせる。そんな狂気じみた考えを実践してしまうのだ、彼らは。
理想の夫を得られなかった彼女は、理想の夫を息子に求めた。
理想の母を得られなかった颯汰は、理想の母を僕に求めた。
僕は深くため息をついた。結局僕は、彼らの遺伝子に振り回されただけだったのか。
けれど、今更呆れて放り出す気にはならない。それくらいには、僕は颯汰のことを深く愛してしまっていたし、彼の母になってみせようと思っていた。
「颯汰、これで分かったでしょ? この人には、母として何も期待しちゃいけないんだ。この人は君が想像していたような、母という存在が持っていて当たり前なはずの、『君自身』を愛するという感情はないんだよ」
颯汰は自らの母を前にして、果てしない暗黒の絶望を抱いていた。彼は、始めから母が自分を愛していなかったことに気づいていたのだろうか。聡い彼なら気づいていたかもしれないと思ったが、けれど同時に彼は純粋無垢な子供でもあった。洗脳されきった頭では、気づけていなかった可能性だって十分にあっただろう。
真相を前にして、彼はどのような行動にでるのだろうか。僕はフラスコの中身の反応をながめるように、彼の動きを待った。
「……母さん」
長い長い間ののちに、彼がつぶやいた。
「俺さ、ずっと我慢してたんだよ。母さんが俺にやることなすこと全部、俺のためにやってくれることだと思って。母さんに身体を触られる時だって、耐えてた。でも、それは全部、夫のいない自分のためにやってたことだったんだね」
訥々と肩られる彼の言葉は、母を糾弾するというよりかは、自分自身を納得させるために反芻しているように聞こえた。彼の頬を透明な液体がしたたっていく。
僕は波打っていた心の水面が、次第に凪いでいくのを感じていた。
この真相を暴くためには、僕は颯汰の母にとっての「間女」になる必要があった。作り上げた理想の夫を奪う不埒な女。そう思わせるために、僕はわざと彼女の前でしつこいくらいに颯汰にからみついた。
もっとも、僕は間女なんて気色の悪いものになるつもりは微塵もなかったけれど。僕はあくまで、この子の本物の母の形をとると決めていたのだ。
彼と出会った時は、彼のことを異常だと思った。母に応えることだけを生きがいにしておきながら、その実理想の母に飢え、自らの身を傷つける彼を、異常以外の何で表現すれば良いというのか。
けれど今はどうだろう。
僕は一人自嘲した。彼の実母に成り代わろうとしている今の僕の方が、よっぽど異常なのだろうか。
腹の底から哄笑がこみあげてきた。だが、今は失笑は控えるべきだろう。僕はひくつく頬の内側を噛んだ。
今更自分が異常だと言われようと、なんだっていい。だって僕は、颯汰の理想にも、自分の理想にもたどりついたのだ。
僕にとっての実の父も、実の母も、二人とも良い親なんてお世辞にも言える人間ではなかった。
彼らに否定され続ける生活の中、密かに胸の内にいぶっていた「親」という存在に対する羨望と復讐心は、今こうして僕が彼の望んだ母となったことによって大成された。
僕は真の勝者となったのだ。
「ねえ颯汰? 君は彼女の「理想の夫」になる? それとも「理想の母」である僕の息子になる?」
確定した未来に少しばかり僕が酔いしれていた間、颯汰は軽いパニックを起こしてしまっていたようだった。美しいブロンドをくしゃくしゃにして、うなりながらうつむいている。彼のスラックスには、いくつもの色濃くなった染みがついていた。
かわいそうに。今更自分が本当に欲しかったものは何だったのかに気づいてしまったのだろう。
今更、実の母に、実の息子として愛されたかったなんて、気づいたところでもう遅い。
彼が得られるのは代用品だけだ。僕はその代用品にされたって良かった。それくらい、僕は彼を愛していた。
希少な「同類」になってくれた、彼のことを。
「僕はね、颯汰。君がお母さんにしてほしかったこと、全部あげられるよ」
嘆く彼を抱き寄せて、その耳にささやく。
「抱きしめてあげる。愛してるって何度も言ってあげる。ご飯も作ってあげる。一緒にお風呂にも入ってあげる。毎日一緒に眠ってあげる。何度だって、君の頭をなでてあげる」
どうしたい? 甘ったるい問いかけを、颯汰に投げかけた。
返事なんて、分かりきっていたけれど。
颯汰はひきずるようにして身を起こすと、涙にまみれた腕を僕の首にからめた。そしてよくなついた子供のように、僕にすがりつく。
「頭、なでて」
「いいよ」
言われた通り、彼の頭をなでる。細く柔らかな髪の間に指を通して、小さな鼻歌を歌った。
「……おでこ、キスして」
「……いいよ」
彼の額をくすぐって、僕は自らの唇を寄せる。それに合わせるように、彼の昏い瞳が閉ざされた。
そんな僕たちの様子を見て、破滅に身を投げた女が一人。
彼女は二つ分の穴が開いた頭をこちらに向けていた。
「理想の母って、なによ。あなたたちが求めてるのは、男から見たステレオタイプの幸せじゃない。ただの母性神話じゃないの。彼が私に求めたものと、同じ……」
恨みがましく、彼女は怨嗟の念を吐き出し続ける。けれどその言葉のどれしもは、今の僕には負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。
冷え切った部屋の真ん中。勝ち取った彼を腕に抱きしめながら、僕は今度こそ彼女に向けて舌を出す。
「さようなら。『元』お母さん」

