母の虚像

 秋

 ここ最近は、クラスメイトの女子から声をかけられることも減ったように思う。
 颯汰も僕とばかりつるむようになったから、次第に僕たちの周りからは人が離れ、残ったのは好奇に満ちた探るような周囲の視線だけだった。
 颯汰は不快ではないのだろうか。心地の良い視線ではないことだけは確かだろうに。
 こちらを観察したくなる気持ちは分からないでもない。学校の人気者が中心から離れ、地味で陰気な男のそばにばかりいるようになった。それどころか、その二人の空間に誰かを招くことすら許さない。どういう関係値なのか、気になってしまうのは当然だろう。
 もっとも、昔の僕もその意図は分かっていなかった。けれどここ最近なら、分かるような気がする。
 だって、僕たちは同類なのだから。互い以外に、僕たちを理解できる存在なんていない。理解してもらいたいとも思わなかった。
 言ってしまえば、傷の舐めあいなのかもしれない。親という毒に侵されてしまった二人の末路。身体の全てが毒になってしまった以上、誰かが僕らに触れることはできない。
 今でこそ奇妙な視線が集まってはいるが、これも次第になくなっていくだろう。クラスメイトが話しかけてこなくなったように。
 探るだけ探って、何も分からなければ飽きて立ち去る。人間の好奇心なんて、その程度のものだ。それでもなお知りたがる者がいるのなら、それは僕らのどちらかに、よほどの執着を抱いている存在くらいだろう。
 それでも少なくとも僕は、この現状に満足していた。同じ場所に同じ傷を抱えている人間と、ただ二人、誰にも触れられない世界で気ままに過ごせるというのは、僕の心を満たす何かがあった。僕は今まで自分の置かれた環境に違和感なんて覚えていなかったけれど、颯汰と出会って初めて、自分が思いの外さみしい人間であったことに気づいたのだ。
 彼と出会えたことは、これ以上ない幸運だっただろう。自分が変わるきっかけになれたのだから。
 颯汰も、同じことを思ってくれているだろうか?
「どうかした? 輝実」
「あ、いや」
 ふと、声をかけられて沈みかけていた意識が浮上した。
「集中力切れてきちゃったかな」
 言われて思い出した。そうだ、僕は今、颯汰に勉強を教わっているところだった。どうやらその途中で物思いに耽ってしまったらしい。手元のノートには、中途半端に展開されたままの数式が記されていた。
「……ごめん。ちょっと眠くなってきちゃったかも」
「はは、大丈夫だよ。今日はこの辺にするか。ここ最近、根を詰めすぎてたからね」
「ありがとう。そうしようか」
 落ちてくるまぶたをこすっていると、苦笑した颯汰が僕の目元を親指でなでた。僕よりもやや高い位置にある彼を見上げれば、彼は目を細めてこちらを見つめていた。ほほえむ彼の目元には、涙袋がぷっくりと浮かんでいる。降ってくる視線は、まるでお気に入りの人形でもながめているような、そんな遠いものをしていた。
 なんとなく、僕も手をのばして、彼の目元をさすった。放課後の夕日に照らされて、彼の頬は橙色に染まっている。日差しを浴びているはずなのに、その肌は妙に冷えていて、なんだかものかなしくなった。
「なぁに。俺の顔にも何かついてる?」
 くすぐったそうに、彼は笑う。どうして彼は、こんな顔をしていられるのだろう。
「……ついてるよ。西日でも分かるくらい、はっきりした隈がね」
「ほんと?」
 颯汰は僕から手を離した。その動きがスローモーションに見えるくらいには、僕はそれを名残惜しく感じた。
 彼は不思議そうに自らの目元に触れている。
「寝れてないの?」
「全く眠れてないわけではないけど。でも、そうだな。ぐっすりかと聞かれると、そうではないかもね。でもそれ自体はもうずっと前からだよ。たぶんこの隈も今更できたものじゃない。……でも、そっかあ。目立つくらいになってるなら、コンシーラーとか使って隠した方がいいのかもしれないなあ」
 表情を苦くしながら、彼は頭をかいている。コンシーラーとは、確か肌の細かな隠したい部分に塗る化粧道具だったか。
 化粧道具、と言われると、彼が渋る理由が少し分かった。もし彼の母に知られれば、あらぬ誤解をされてしまうかもしれない。こればかりは、彼が不憫に思えた。きっと、その隈の原因だって。彼の母にあるだろうに。
「そうなるレベルまで眠れてないなら、どこかで仮眠できたらいいんだろうけど……」
 つぶやくと、颯汰はおおげさに両手を振った。
「ああ、それくらい大丈夫だよ。あまりしんどければ、保健室のベッドとか借りられるし」
「保健室でなら眠れるの?」
 彼は何も答えず、代わりに困ったように小首をかしげるだけだった。僕は細くため息を吐く。
「それじゃあダメじゃないか。きちんと休まなきゃ」
「あっはは。輝実って本当に心配性だなあ。大丈夫って言ってるのに」
 僕はむくれてしまった。彼のためを思っての言葉だというのに。
 けれどだからといって、あまりにしつこく食い下がるのも迷惑だろうか。そう思って引き下がろうとはしたものの、けれどやはり心配に思う気持ちはぬぐえない。どうやら僕は本当に、彼の言うように心配性なのかもしれない。
 僕の不満げな顔を見てか、颯汰は眉を下げると、小さくうなりながら両手を組んだ。彼は窓の向こう側に視線を向けている。彼の整ったフェイスラインに、一筋の髪が流れた。
 それきり彼は黙ってしまった。少しばかり気まずくなって、僕は彼の視線を追ってみる。
 その先では、陸上部か何かの生徒が、校庭をかけずりまわっていた。けれど中にはサボっている生徒もいるようで、木陰にかくれて眠りこけている人間が二人いた。あいにくだが、この位置からでは丸見えだ。それは他の人も同じだったようで、すっかりカンカンになった様子の教師が、彼らのもとにすっとんでいった。二人は跳ね起きると、ごまかすようにへらへら笑って、別の部員たちに混ざっていった。
「あの子たち、何してるんだか」
 一部始終を見ていた僕は、思わず失笑してしまった。仲がいいのは良いことだが、部活をサボるのは良くないだろう。
 颯汰も、この一連の出来事を目撃していたはずだ。彼なら何と言うだろうか。
 そんなことを考えていたが、彼から何の反応もないことが気になって、僕は視線を彼の方に戻した。
 彼が口を開くことはなかった。ただじっと、校庭の一点を見つめている。そこにはつい先ほどまで、あの二人の生徒がいたはずだが。不思議に思っていると、彼が唐突に僕へと顔を向けた。
「ねえ、輝実。今度、俺の家に来てくれない?」
「え?」
 予想外の要求だった。半ば命令じみた彼の言葉は、僕の目を白黒とさせるには十分なものだった。
「君がそばにいてくれたら、ぐっすり眠れるかも」
「……本当に? そばに人がいる方が寝苦しいと思うけど」
 いぶかしむ僕の向かいで、彼はたおやかに笑った。その声音はとろけるように甘く、それでいて真摯な響きを持っていた。
「本当だよ。確かに近くに人がいると寝づらくはあるけど……でも、輝実は別だ」
「どうして?」
 彼は丸い瞳を細めた。スターサファイアが、まっすぐに僕を貫いた。
「……ほら、子供はさ。隣に母親がいると安心して寝られるだろ?」
 何を言い出すかと思えば、まさかそんなこととは。僕は呆れてしまって、けれどどこかおかしくて、眉を寄せて吹き出した。
「なにそれ。僕、君のお母さんじゃないけど。それに」
 遠い日を思い返す。今まで僕のそばに、母親が寄り添ってくれたことはあるだろうか。
「僕、お母さんっていうのがどういうものなのか、よく分からないんだ。僕は君が言ったみたいな、隣に母親がいることで安心して眠れる子供じゃなかったからね」
 広げられたノートの罫線をあいまいになぞりながら、僕はひとりごちるように言った。
 僕はきっと、誰の父親にも、母親にもなれない。僕という存在は、誰かを愛することに向いていない。
 そんなことをつぶやいた時、突然颯汰が声を張り上げた。「そんなわけない!」
「え、な、なに?」
「あ、ごめん。つい」
 颯汰は自らの毛先をすくと、ごまかすように笑った。けれど彼の指先は依然として震えている。
 尋常ではない様子だった。
 ふいに、彼が遊んでいた髪の先に、力をこめた。せっかくの美しく巻かれたブロンドヘアが、ぐしゃりとゆがむ。
「あのさ、輝実は気づいてないのかもしれないけど、君は誰よりも、『母親』に向いてるんだよ。そう、他の誰よりも……」
 彼の言葉の意味が分からなくて、僕は呆けてしまった。
 母親に向いてる、だなんて。そんなことは初めて言われた。というか、そもそも性別が違う。僕は男だし、子供なんて産んだ試しがないし、産ませた試しもない。実の母親も父親もろくでなしで、お世辞にも僕が家族の形を知っているとは言い難かった。
「颯汰、君は僕の何を見てきたの? 悪いけど、僕は君が期待するような人間じゃない。母親に向いてるなんて……そんなの、おかしいよ。颯汰、どうしちゃったの?」
 だというのに、彼は未だに納得していないようだった。僕の話を聞いてなお、彼は気に食わないとでも言いたげに、自らの髪をひっぱっていた。
「……きれいな髪が乱れちゃうよ。もったいない」
 自傷じみた彼の行為をやめさせたくて、僕は彼の手を取った。その手はかわいそうなくらいに震えていて、温度がない。手の甲をさすって、少しでも彼に自分の温度を移そうとした。
 ふいに、彼の手が、僕の両手から抜けていった。それを追いかけようとした時、彼の袖の隙間から無数の傷跡が見えて、僕は戦慄した。
 明らかに、あの日見た傷より増えている。
「は、あは……なんで、俺のお母さんになってくれないなら、なんでそんなに俺に優しくするんだよ……」
「そ、颯汰……?」
 彼は僕の手から逃れると、今度は逆に、僕の片手を取った。長い指を使って、彼は僕の指先に絡ませたり、くりかえし撫でたりして、僕で遊んでいるようだった。まるで、幼い子供が母の身体でごっこ遊びをするように。
「なれないなら、なってよ。早く、さあ。ねえ」
「ちょ、ちょっと」
 突然、彼に強く手を引かれた。ちぎれる、と叫びたくなるような痛みとともに、指先が何か温かいものに包まれて、僕はぎょっとした。
 颯汰が、僕の指先を食んでいたのだ。厚い舌先で僕の人差し指と中指をたどって、唇を使ってはさんだ。そしてひとしきり吸いついたあと、彼は離れていった。
 僕の指先から、無色透明な液体が、粘性を持ってしたたる。
 それはまるで、赤子が母乳でも望むかのようなうごめきだった。
 呆然とする僕をよそに、彼は僕のもう片方の手をたぐりよせて、自らの頬に這わせた。両手にしがみつかれて、僕は離れることすらできない。
「輝実、言っただろ? 君は俺の理想なんだ。君だけが……俺の理想の『母親』になれる」
 不思議と、僕は恐怖らしい恐怖を感じていなかった。この状態はまさしく異常だと分かってはいたが、どういうわけか逃げようという心地にはならなかったのだ。
 なぜだろう? 頬を紅潮させて何事か語り続ける彼をぼんやりと見つめながら、僕は考えた。
 かわいそうな颯汰。きっとおかしな母親を持ってしまったせいで、颯汰自身もおかしくなってしまったのだろう。
 母という檻に囚われ、自分を母の望む形の子供に作り変えた。でも彼は成長して、今の檻では大きさが足りなくなってしまった。だから、彼はより大きな檻を望んだ。より自分に相応しくて、自由に動けて、そして檻の鍵を預けられる、信頼できる人間を求めた。
 そしてそのお眼鏡にかなったのが、僕なのだろう。でも、彼は僕のどこに、何を見出したのか。
 かわいそうに。かわいそうに。
 頭の中で、そんな言葉だけがずっとくりかえされていた。髪をかきむしる彼も、そんな彼からのぞき見える左手の傷跡も、僕がもっと早くに彼と出会えていたら、きっと今はもう、その痕も癒えていただろうに。
 僕が彼と関わり続けたのはなぜか? 彼がしつこく僕に関わってきたからだ。
 でも、その気になれば振り払えたじゃないか。どうして振り払わなかった? 彼が、彼と僕は同類だと言ったから。親という存在に狂わされ、執着した人間だからと。
 じゃあ、自分は親の何に執着していた?
 頭の隅から、言い聞かせるような声が聞こえる。口の端がひくついて、震えるのを感じた。
 颯汰は頭を抱えて机に伏せてしまっていた。まるで駄々をこねる子供のように。親の注目を必死に求める子供のように。
 ——「どっちがお前の『理想の親』だ?」
 なつかしい、あの日父と母に与えられた問いが頭をよぎった。
 あの時、僕は彼らの質問に答えられなかった。
 なぜか? そんなの、当たり前だろう。
 僕は、僕の方がずっと、「理想の親」になれると思ったからだ。
「お願い、お願いだよ輝実……俺の、俺だけの『お母さん』になって……」
 彼は愛に飢えているのではない。庇護に飢えているのだ。母が子に与える、無垢であたたかい、優しいまなざしを。
 僕も、彼に与えられるのだろうか。そんな庇護を。「無償の愛」というものを。
 彼が求めるのは父ではなく母だ。遠い昔に姿形も消え去った知りもしない父よりも。手元にある気に食わない形をした母の人形の方を入れ替えたがっている。
 そして僕は、自分という原型を彼の望む形に削ろうとしていた。
 本当にそれでいいのか? いや、いいに決まっている。
 彼の「理想の母」になることこそが、僕の「父と母」にできる——
 唯一の復讐だ。


「それじゃあ、今週末に颯汰の家に行くね」
「ありがとう。その日なら日中は母さんも仕事に出てるから、心配することはないよ」
 そう言って、僕たちは手を振って別れた。彼との束の間の休息のあとに残されたのは、夕日を背後にたたずむ僕だけ。
 颯汰の背を見守ってから、僕は踵をかえした。自宅のある方へと、淡々と進んでいく。
 しばらく歩き続ければ、見慣れた建物が視界に入った。
 ボロの外壁と屋根が張りつけられたアパートの一室。きっと父親が投げ捨てたのだろう、チューハイの缶が玄関前に数本放置されていた。
 僕はそれを拾い上げながら、ポストの中身も覗き込んだ。何枚か、どこかの保険屋の営業チラシが入りこんでいる。放置するわけにもいかないので、僕はそれら全てをポストから回収した。
「事故……死亡保険……」
 なんとなく、本当になんとなく読み上げただけの言葉だった。けれどそれは奇妙で不穏な響きを持って、僕の脳裏を走っていった。
「あの人たちが死んだら……」
 チラシをぼうっと見つめながら、僕はつぶやいた。「いや、何を考えてるんだ」自分の思考の危うさに気がついて、とっさに首を横に振った。簡単に人の死を考えるなんて、そんなことはあってはならない。
 でも、彼らが自分にどれだけの金額をかけているのかは分からないけれど、死んでくれたら、一人で生きていくくらいのお金は入るのかななんて、そんな物騒なことをぼんやりと思ってしまう側面はあった。
 僕は深く息を吐いて、ごまかすように目を閉じた。邪念は吹き飛ばしてしまおう。そのまま玄関の扉に手をかけた。
 特にただいまの挨拶をすることもない。返事がかえってくるであろう期待をしていなかったからだ。僕はさっさと靴を脱いで、玄関の端に追いやった。そのまま音を立てないように居間を通過し、自室へと滑りこむ。どうにか事を荒立たせずに帰宅できた。僕は安堵から、もう一度ため息を吐いた。
 隣室からは、微かに誰かが動く気配がする。おそらく父がいつものように酒でも飲んでいるのだろう。いびきは聞こえてこないから、眠ってはいないようだ。
 そんなくだらない詮索をしてから、僕は荷物を床に置いた。今日はもう、早く風呂に入って眠ってしまおう。ここ最近は長く学校にいることが多かったから、疲労も溜まっている。かといって、家にいれば落ち着くわけでもなかったけれど。
 颯汰も、僕と同じなのかもしれない。いっそのこと、二人で住むことができたらお互い楽になるのだろうかとも思った。
 そうしたら、いったいどれだけ幸せだろう。悪夢から逃れて、親友と二人だけの世界で生きることができる。僕は彼だけの母でいられる。彼を、僕だけのやり方で愛することができる。
 本物の母の愛なんて、そんなものは知らない。僕の実母はもう長いことこの家に帰っていない。外で遊びに耽っている時に、新しく彼氏でも作って出ていったのだろう。もしかしたら僕が知らないだけで、両親はとっくに離婚している可能性だってあった。けれど今更そんなことはどうでもいい。少なくとも彼らの存在が僕らの邪魔にならないのなら、あとは何だってよかった。
 それに、彼らには感謝できることもある。彼らのおかげで、僕は正しくない親の形を知った。いわば、反面教師というものができるのだ。
 正解は分からないが、不正解は分かる。それは大きなアドバンテージだろう。僕は僕なりのやり方で、颯汰を愛し、守ってみせるのだ。非力で無学な自分でも、できることがそこにある。これがいったい、どれだけ素晴らしいことか。
 鼻歌すら歌ってしまいたくなるような気分だったが、今はどうにか我慢した。歌い出せば、あの男が騒ぎ立てるかもしれないからだ。今は気配を殺して風呂に入るべきだろう。
 僕は襖を開けて、部屋からするりと抜け出した。居間の奥、カーテンで仕切られた場所に、風呂場に続く扉がある。僕は父がそこにいない事を確認してから、服を脱いで風呂に入った。
 シャワーの持ち手を握り、蛇口を回せばすぐに水があふれ出てきた。始めこそ冷たいものの、放置していればだんだんと温かいものに変わっていく。
 なんだか、今までの僕の人生のようだと思った。冷たい水のように、温度も何もない始まりの時期。けれど今はどうだろう。僕は颯汰という温もりに出会って、温度を知った。温水を身体にかければ、水蒸気が湯気となって宙にゆれた。全身を包む温もりは、まるで颯汰に抱きしめられているのではないかと僕に錯覚させた。ああそうだ、確かにこの世には、子供体温というものがあったか。
 僕は頭の中でメロディーを流しながらリンスインシャンプーを手ですくった。安いからずっとこれを使っているけれど、颯汰のような人なら、もっと高価で、きちんとトリートメントとシャンプーで分けられたものを使っているのだろうか。いつか彼と暮らせる日が来るのなら、僕も彼と同じものを使いたいと思った。
 ボディーソープも泡を立てて身体に擦りつける。温水をかけて洗い流せば、今日の汚れは一通り流すことができた。冷えていた身体も温まって、小さな至福のようなものを感じた。
 そのまま全身をタオルでぬぐって、風呂場の扉を開ける。外に出て、カーテンの仕切り越しに寝間着へと着替えた。一つ大きなあくびをする。目元が重くなった。時間は少し早いが、今日はさっさと髪を乾かして眠ってしまおう。
 自室でドライヤーを操作しながら、僕は鏡に映る自分の眠たげな顔をながめた。不細工な顔だな、なんて吹き出しそうになる。いつだって顔が整っている颯汰とは大違いだ。
 そんなことを考えていたら、少し長めな僕の髪でも乾ききっていた。薄っぺらい布団を整えて、あとは眠るだけ。そうして毛布をめくった瞬間だった。
 ——ガタン。
 背後からかすかに音がした、ような気がした。気のせいかとも思ったが、僕の胸のうちに、形容しがたい違和感がよぎった。父がアルコールの缶か瓶でも投げたのかと思ったが、そのどれもとは違う音に聞こえたからだ。
 何かが、起きている。そんな予感がした。
 父の部屋に入るべきだろうか。迷えば迷うほど、僕の心臓はうるさいくらいに跳ねた。
 もしこれが僕の勘違いで何ともなかったら、父は不法侵入してきた僕を厳しく折檻するだろう。せっかく殴られる回数は減ってきたというのに、自滅するようなことは避けたい。なにより傷なんて作ってきたら、颯汰を心配させてしまう。
 けれど、でも。本当に何か危険なことが起きていたらまずい。——まずい、はずだ。でも、いったい何が?
 僕は激しく首を横に振った。何がまずかろうと、現状確認は必要だ。僕は中途半端につかんだままだった毛布から手を離して、立ち上がった。慎重に襖を開けて、隣の部屋の前に向かい合う。
 少し悩んでから、僕は一度ノックをしてみることにした。薄い襖に何度か手の甲をぶつける。
「あの……父さん?」
 返事はない。心拍数は急上昇し、僕の全身に火をつける。それは決して、湯上がりのせいではない。
「何かあった?」
 それでもなお、返事はなかった。いよいよ何かが起きているという直感が事実めいてきた。
 僕は深呼吸をしてから、情けなく震える手を襖にかけた。意を決して、腕に力を込める。横に流したと同時に、僕は漂ってきた匂いに顔をしかめた。
「なんだ、この匂い……」
 部屋は薄暗い。端の方でテレビがかしましく騒いでいて、そこから漏れる光だけが頼りだった。
 僕は手探りに壁をたどって、ようやく電気のスイッチに触れた。迷わずそれを押して——そして、見えた景色に戦慄する。
「っ……父さん!」
 目の前で、父が倒れ伏していた。無数のアルコール缶や瓶を供物にして、彼は仰向けに倒れていたのだ。
 そしてその顔は、吐瀉物にまみれている。
「匂いの原因はこれか……」
 アルコールと吐瀉物の混ざり合った匂いだろう。通りで甘酸っぱい、気色悪い匂いがすると思った。
 こんな事態だというのに、僕の頭は不可思議なほどに冴えていた。冷めていた、とも言えるのかもしれない。
 なんにせよ、僕は実の父の危険を前にして、わずかな驚き以外に何も感じなかったのだ。
 普通、早く助けなければとか、あのまま仰向けにしていたら窒息して死んでしまうとか、焦りを感じるものだろう。だというのに、こんなにも何も感じないだなんて。僕は人ではなかったのだろうか。
 そんなことを堂々巡りになりながら考えていた時だった。ふいに僕の頭の中で、数時間前に見たものを思い出した。
「……いや、いや。さすがにそれは……」
 脳裏にこびりついていたのは、帰り際に見たあのチラシだった。
「死亡、保険……」
 拍動はもはや跳ね上がりすぎて、感じることすらできないほどだった。
 目の前に、チャンスがある。薄汚い液体に埋もれた穢らわしい「これ」こそが、僕にとっての千載一遇のチャンスだった。
「場合によっては、これで、僕は……」
 自由を、手にすることができる。でも、これを見捨てるということは。
 人の道理を捨てるべきか否か。究極の二択を前にして、僕もまた吐き気が込み上げてくるのを感じた。
 呼吸が浅くなる。安い蛍光灯のチープな光の下で、僕の希望が転がっている。
 こんな、こんな悪魔のような提案をするだなんて。神という存在に慈悲なんて、本当はありやしないのではないかと思った。
 迷う僕の頭に浮かぶのは、結局彼の姿だった。無邪気な子供のようにはしゃいで、無垢な笑顔を浮かべる彼の姿。
 奥歯を噛みしめる。あの光景を思い出して、何もできない者が存在するだろうか。
「そう、だ……これは、あの子のため。あの子と新しい世界に踏み出すため……」
 僕は自分に言い聞かせるように、何度も何度も言葉をくりかえした。目の前に転がる肉体は、薄く膨らんだり縮んだりしている。
 僕は目を閉じた。
「僕は帰ってすぐに、風呂に入って眠ったんだ」
 つぶやいて、僕は肺に溜まった汚らしい空気を吐き出した。
 そして、一切の迷うそぶりを見せず、まっすぐに、襖を閉ざした。


「輝実、大丈夫だった?」
「え? 何が」
 時は過ぎ去り、週末。僕はいつものように、学校で颯汰と駄弁りあっていた。そんな中、颯汰が唐突に、慎重そうに声をかけてきたのだ。
「輝実のお父さん、亡くなっちゃったんだろ」
「ああ……」
 吐き出された言葉は、僕の内側からこぼれおちるような、抜け出していったかのような頼りなさだった。
 だって、本当にどうでも良かったのだ。あの人が死んでくれたのはたまたまで。そう、運が良かった。それだけだった。
「急アルで嘔吐、喉に吐瀉物を詰まらせて窒息死。情けない終わり方だよね」
 思わず鼻で笑ってしまった。でも、笑わずにいる方が無理だ。あれだけ横暴だった人間が、最期は吐瀉物にまみれてゴミの山の中。これほどおかしく、それでいてふさわしい終わり方はない。僕は嫌味たらしく口の端を吊り上げた。むしろ邪魔が一人減ってありがたいまである。
「そうじゃなくて」
 けれど颯汰は何かが気に食わないようで、彼は不満げに言葉を続けてみせた。
「輝実の身体に何かがなかったかだけが心配なんだよ。あいつが死ぬ前に暴力を振るわれたりはしてない?」
 僕は想像していなかった角度からの質問に拍子抜けしてしまった。そのことなら、心配はいらない。
「ああ、それなら大丈夫だよ。僕はあの時、家に帰ってすぐにお風呂に入って寝ちゃったから、あいつが死んでたことに気づかなかったんだ。たぶん、僕が寝てる間に潰れたんだろうね。何かされたりはしてないよ」
「そっか。ならよかった!」
 颯汰は心底安堵したのか、胸に手を当てていた。きっと彼なりに心配していたのだろう。僕が以前、父に暴行されていた話をしていたから。けれど、今はもう案ずる必要はなかった。
「むしろ、僕としては保険金を残してくれたことの方がありがたかったよ。大きな額ではなかったけど、これでしばらくは一人でもやっていけそうだから」
 颯汰は意外そうに瞬きをした。その所作には、まだわずかながらに不安が宿っていた。
「本当に? もしお金に困ったら俺がいつでも出すから、ちゃんと相談してよ」
「あはは、颯汰は頼りがいがあるね」
 もっとも、彼にそんな負担を強いるつもりはない。自分のことは一人でこなさなければ。それに。
「なんなら、いつか颯汰と二人で暮らすことだってできると思うよ。僕、あんな埃とカビで汚れた場所に一人で住みたくはないなあ」
 これは本心だった。そんなことをささやいてみせれば、颯汰は案の定目を輝かせた。
「えっ、いいの!? そんなに嬉しいことってない!」
 颯汰は身を乗り出して、身振り手振りをして喜んでいた。その子供じみた喜び方がどうにもかわいらしくて、僕は目を細める。
「ねえ颯汰、君のお母さんの件をどうにかできたらさ、卒業したら一緒に住まない?」
 颯汰は目を見開いた。こぼれおちてしまいそうなくらいに、彼は僕を見つめていた。
 そうしてすぐに眉根を寄せると、我慢ならないとばかりに僕に飛びついた。
「わっ」
「ああ、輝実! 俺、今人生で一番幸せだよ!」
「ふふ。これからもっと楽しいことが待ってるのに?」
 教室の端の席には、もう誰も目を向けることはない。二人だけの世界で、それでもなお、僕らは本当の居場所を求めている。これは少し傲慢だろうか? でも、これくらいはいいじゃないかと思った。
 だって僕らは、ずっと耐え忍んできたのだ。極寒の冬を。神々が下す、圧倒的な理不尽を。
「だとすれば、あとはやることは決まってるな。今日の放課後、早く俺の家に行こう。作戦会議ができる」
「君のお昼寝に付き合うんじゃなかったの?」
「ああ、まあ、それもあるけど……」
 すっかり当初の目的を忘れていたのか、颯汰はくすぐったそうに頭をかいた。僕は口元に手を当てて吹き出した。彼がゆっくり眠ることができたら、二人で作戦を立てよう。きっとその方が、彼の頭も回る。
 どうしようもないほどに、気分が舞い上がっていた。あと数メートルで、僕らの幸福に手が届く。
 窓の向こうでは、枯れかけの葉が今にも枝から落ちそうになっていた。


「……お邪魔しまーす」
「はい。輝実くん、ようこそ!」
 はりきった様子の颯汰とは裏腹に、僕はすっかり緊張しきってしまっていた。
 というのも、輝実の家はあまりにも豪邸すぎたのだ。彼のような華やかな人間なら、住まいも相応に華やかだろうとは思っていたが、まさかここまでだとは思わなかった。英国式の洋風建築は、日本式のボロアパートに慣れ切っていた僕を怯えさせるには十分なものだった。
「そんなに怯えるなよ。大丈夫、見かけほどすごくはないから。紅茶でも淹れてくるから、少し待ってて」
「う、うん」
 どれくらいのサイズなのか気になるほどの、見たことのない大きさをしたソファに僕は縮こまって収まる。生地もクッションも柔らかで、いつまでも座っていたくなってしまうような質だった。
「輝実はどの茶葉がいいとかはある?」
「えっと、よく分からないから任せるよ」
「了解!」
 紅茶に種類などあるのか。なんだか世界が違うなと思いながら、僕は部屋を適当にながめていた。
「俺の部屋は二階にあるから。先に入ってて」
「分かった」
 見上げれば、吹き抜けの天井越しにいくつかの扉が見えた。僕は立ち上がり、階段を登る。
 二階の廊下にも、花やらなにやらが懇切丁寧に飾られていた。オルガンまでもが置いてあって、僕は思わず瞠目する。家の中にピアノがある家庭なんて実在したのか。
 僕はしばらく無数にある部屋の前を戸惑いながら歩いていたが、角部屋に颯汰の名前が英字で刻まれた木製の看板が吊り下げられているのを発見した。颯汰がまだ子供のころに作ったのだろうか。素材の木は乾燥していて、いくらか年季が入っているように見えた。けれど彫られている字体は美しく、よく手入れもされているようだ。もしかしたら、颯汰の母が作ったのかもしれない。
 僕はなんともいえない気分になった。颯汰から聞く限りでは、彼女の言動は明らかに常軌を逸していて、母の愛と呼ぶにはふさわしくないものだ。けれどその行動の一つ一つ、細部に渡るまでを見つめていると、彼女の中には、やはり確かな颯汰への純粋な愛があるのではないかと、そう思わざるを得なかった。
 颯汰が母のもとから離れようとしなかったのも、ひとえにそういう理由があったからだろうか。母の束縛もまた一つの愛の形であると、そう思えば思うほど、憎しみなんて湧かなくなってしまったのかもしれない。
 その気持ちも少しだけ分かるような気がしたが、それは本当にあくまで、少しだけだった。だって、まともな感性をしていれば、やはり彼女は異常で、颯汰と彼の母は共依存になっているだけだと分かる。
 僕は看板をなでていた手を離した。簡素な木製の板だというのに、そこに誰かの愛情が刻まれているのが気に食わない。
 僕の方が、よっぽど彼をうまく愛せるというのに。
 深く歯を嚙んで、僕は扉を開けた。何も見ていなかったと、自分に言い聞かせるように。
 扉を閉ざして、顔を上げる。
 颯汰の部屋は、いっそ神経質なほどに整えられていた。
 中央に絨毯と小さなローテーブル。端に本棚と大きめの机と椅子。壁に寄せられたベッド。それ以外は特に何も見当たらなかった。
 衣服に関してもウォークインクローゼットになっているようで、ぱっと見て目に入るものはない。まるで、誰にも内側を見られたくないとでも伝えているかのようだった。
 この部屋の整理整頓も、彼の母が行っているのだろうか。そう疑ってしまうくらいには、この部屋の雰囲気は異様だった。
 彼は、いったいどこまで彼女を彼自身に踏みこませているのだろう。
 苦痛ではないのだろうか。息苦しくはないのだろうか。
 いや、そう思っていて当然だろう。僕はすぐに思い直した。だって、そうでもなければ、彼は自傷なんてしないはずだ。
 いまだに、出会ったあの日の瞬間を思い出す。
 赤く染まった手首を抱える彼の、青白い顔。ただでさえ色白だというのに、あの時はさらに紙のようになってしまっていた。
 かわいそうな、颯汰。
 やはりどうにかして僕が彼を守らなければならない。両の拳を握りしめた。
 やがて、扉の向こうから颯汰が階段を登ってくる音が聞こえた。僕はようやく我にかえって、慌ててローテーブルの前に座る。どことなく落ち着かない心地のまま、僕は彼を待った。
「お待たせ、輝実」
「あ、うん。ありがとう、颯汰」
 ティーセットを盆に乗せた颯汰が部屋へと入ってきた。彼が紅茶を入れてくれたカップを受け取る。
 繊細な意匠の施されたティーカップだった。これ一つにいくらかかるのか、あまり想像したくはない。僕はなるべく余計なことは考えないようにしながら、カップに口を近づけた。
「いい匂い……」
「アールグレイにしたからね。香りは強いと思うよ」
 颯汰は柔らかく微笑んだ。手元からただようそれが何の香りかは分からないけれど、どこか柑橘のように感じるその香りは、彼の笑顔のようにたおやかで優しかった。
「どうする? 作戦会議、始めようか?」
「先にお昼寝した方がいいんじゃない? その方が頭も回ると思うよ」
「じゃ、そうするか。紅茶飲んでれば眠くなるだろうし」
 颯汰もティーカップに口をつけた。音も立てずに紅茶をたしなむ彼の姿は、本物の英国紳士のようだった。カップの取手を握るその指先の所作までもが美しい。
「ねえ、輝実。一緒にベッドに入ってくれない?」
「え?」
 予想外の要求に、僕は思わず口をつけていたティーカップを離した。
「あ、何も変なこととかはしないから!」
 颯汰は思い出したように両手を振った。どうやら、僕が彼に襲われるのではないかという心配でもしているのかと思ったようだ。僕は思わず小さな笑いをもらしてしまう。紅茶がこぼれてしまわないように、カップをソーサーに置いた。
「大丈夫だよ。友達なのに、何の心配をしてるんだか。単純に寝苦しくないかだけ気にかかっただけだよ。君のベッド、広くはあるけど、二人用ではないでしょ? だから僕は、ベッドの隣から君を見守る程度にしようかと思ってたんだけど」
「ああ、なるほどね」
 颯汰は一つ瞬きをした。彼は「それなら大丈夫だよ」とつけ加える。
「俺は君と一緒にいる分には問題ないから。むしろ君がそばにいてくれた方が嬉しいかも。ああでも、輝実が嫌なら無理はしないで」
 そういうものなのかと思いつつ、確かに、人肌さみしい時があるのなら、そばに誰かがいてくれた方が落ち着くこともあるかと思い直す。僕は熱が出た時も怪我をした時も、誰も寄り添ってくれたことがなかったから、そういう感覚が欠落していた。彼はきっと母からたくさん愛されていたからそういう経験も多くしていただろうし、ともなれば僕がその役割を引き継ぐべきだろう。
「僕も大丈夫だから、気にしないで。颯汰が深く眠れるなら、僕はどんなことだって手伝うよ」
 ほほえみ返せば、颯汰は分かりやすく目を輝かせた。彼はすぐさま立ち上がり、ベッドを整え始める。
「ありがとう、輝実。俺って本当に幸せ者だな」
「これくらいのことで、ずいぶんおおげさだね」
 僕は思わず呆れ半分に笑ってしまった。颯汰に手を引かれるまま、彼とともにベッドに入りこむ。
 僕より一回り背の高い彼も、ベッドに入ってしまえば背丈は同じくらいになった。足のそろえる位置が違うだけで、顔が向かいあうと不思議な心地になる。
 彼の青い瞳とかちあった。丸い瞳を薄めて、彼は至福の表情を浮かべる。
「それじゃ、おやすみ。輝実」
「はい、おやすみ。颯汰……」
 僕はそっと彼の頭を抱き寄せた。胸元に抱えこんで、そっと背中をさする。彼が少しでも、安心して夢の世界へと旅立てるように。
 僕は彼と同じ眠りの国に行くことはできないが、途中まで見送るくらいならできる。腕の中で規則正しく呼吸する彼をじっと見つめて、その吐息が深くなってきたころ、僕もまた目をつむった。

 眠っている間、どんな夢を見たのか、そもそも夢を見たのかは分からない。起きてしまえば頭の中の全てはなかったことになるからだ。もしかしたら夢の中でもう一人の颯汰と出会って踊っていたかもしれないのにな、なんて思うと、夢を忘れるというのはずいぶんともったいないことのように思えた。
 僕はただ、深いまどろみの中にいた。颯汰もまた、それは同じだろう。彼は僕の腕の中でうなされるような様子も、途中で目覚めるような動きも見せず、黙々と眠っていた。僕は眠りの淵でそれを感じ取るだけで、不思議なことに安堵を感じていた。睡眠に恐怖なんて感じたことはここ最近はなかった。けれど、安心というものも知らなかった。
 ただ、僕はこの日、初めて知った。愛しい我が子のような人を胸に抱いて眠った時、それは母側である僕も安心感を感じるものなのだと。

 次に僕が目を覚ましたのは、それから二時間近くが経ったころだった。起きてスマホの時計を見た時、さすがに僕は仰天した。昼寝に二時間も費やしたことは今までに一度もない。むしろよくここまで眠れたな、ということに驚く。
 幸い颯汰の母はまだ帰宅していないようだ。彼の話なら、今日の彼女の帰りは夜遅くになるらしい。仕事に忙殺されているのだとか。
 今ばかりはそれに感謝した。時刻は十六時。起きて作戦会議を始めるにはちょうどいい時間だろう。
「ん……」
「あ、起きた?」
 颯汰を起こすべきだろうかと悩んでいると、おもむろに腕の中にいた金色の塊がうごめいた。顔を上げた少年は、僕をぼんやりと見つめている。まだ微妙に眠りの向こう側にいるのかもしれない。焦点の合わない瞳をこちらに向けたまま、彼は数回瞬きをした。
「あ、輝実」
「うん。輝実だよ。よく寝られた?」
 数分経って、ようやく彼は意識が浮上したらしい。僕を見て、彼は碧眼を大きく開いた。そして、自らの顔にぺたぺたと触れる。
「お、はよう……うわ、すごいな……」
「え? 何か変なところでもあった?」
 颯汰は前のめりに言う。「いや、そうじゃなくて」
「びっくりするほど頭が冴えてるんだ! こんなに意識がはっきりしたのなんて、初めてかも!」
 彼は瞳を輝かせて僕の両手をつかんだ。彼にとってはよほどの革命だったようで、「うわあ」だとか「すごい」だとかぶつぶつとつぶやいては、彼はあちこちに視線を動かしていた。
「二時間くらい寝てたみたいだよ、僕たち。さすがに僕も昼寝でここまで寝たのはいつぶりか分からないや」
 苦く笑うと、颯汰は驚きをあらわにしながら枕元の時計を手に取った。
「本当に二時間経ってる……」
 彼の衝撃が如実に伝わってくる。なんだか面白くなってきてしまって、僕は軽く笑った。
 けれど颯太には重要な事件だったようだ。彼は僕の両手をつかんだまま、はりきった様子で言った。
「輝実、ありがとう! ねえ、また今度俺と一緒に寝てよ。やっぱり俺にとって、君は精神安定剤になるみたいだ」
「ふふ。僕でよかったらいつでも」
 なぜだろうか。奇妙な勝利感が、今の僕を覆っていた。僕の方が、僕の方がずっと彼を。そんな言葉が頭の中を延々と走り続けている。
とはいえ、そんなことを考えているほどの時間の余裕はない。僕はまず飛びつく彼をなだめて、ベッドを降りた。
「さあ、作戦会議ってやつを始めよう」
「ああ、そうだな」
 颯汰も飛び降りて、僕の隣に寄り添う。彼の温度を間近に感じながら、僕は「作戦会議」における議題を記憶からたどった。
「これから二人で暮らしていくためには、やっぱり颯汰のお母さんをどうにかしないといけないよね」
「うん、そうなると思う。俺がここを出ていくなんて、母さんは絶対に許さないだろうから」
 僕たちは二人そろって腕を組んだ。考えれば考えるほど、この問題を解決する難易度は上がっていく。
「真正面に頼みこむのは……」
「まあ、無駄だろうね」
 颯汰は呆れ声で言った。僕もさすがに苦笑せざるを得ない。
 僕はしばらく紅茶の水面をながめた末、ふいに浮かんだ疑問を口にした。
「颯汰はさ、お母さんのこと、憎くはないの?」
 予想外の質問だったのか、颯汰は驚いた風に眉を上げると、視線をそらしながら何事か考え始めた。
「うーん……母さんには色々な思いをさせられたけど、だからといって憎んでる、とまではいかないかな。少なくともあれは彼女なりの愛なんだろうし、俺が今この日まで生きてこられたのも、彼女のおかげだから」
「……そう」
 僕はわずかばかり下唇を噛んだ。胸中によぎった感情は、嫉妬か否か。僕の方が彼のことを上手に愛することができる、という傲慢じみた感情は、やはり僕の中からはそう簡単には消えなかった。だって、傲慢だろうと何だろうと言われようと、やはりそれは僕の中ではゆるぎない事実だったから。
「颯汰は、もう少し自分のお母さんに対して怒ってもいいと思うよ」
「え?」
 彼は大きく瞬きをした。そんなことを言われたのは初めてだと、そう言わんばかりの表情だった。
「君はお母さんの行いに慣れているから、感覚が麻痺しているように僕は思う。君は君が思うよりも、もっとわがままに、自由に生きていいんだよ」
 僕は独り言のように、うわごとを吐くように言った。颯汰はそんな様子の僕を見てか、困ったように笑った。
「そっか。輝実にはそう見えるんだな。気を遣ってくれてありがとう。でも、そのことなら大丈夫だよ。だってこれから、俺は人生最大の反抗期を迎えるわけだから」
 彼はいたずらっぽく笑った。無邪気な彼の笑顔を見て、僕はどこか胸中が凪いでいくのを感じた。逆立っていた心が、彼の言葉の一つ一つで落ち着き始める。彼なりの反抗期という言葉は、僕を安堵させるには十分なものだった。
「なら、僕も手伝わなきゃだね。君の反抗期、世界で一番大きいものにしよう」
「もちろん」
 颯汰と拳をぶつけあう。やるからには、徹底的に。まずは、彼の母について、もっと詳しくなりたかった。
「颯汰のお母さんはさ、どんな感じの人なの? 君を溺愛してるのはよく伝わってくるけど……例えば、僕みたいな『男』が君のそばに長くいたら、どう考える人なのかな」
 颯汰は口元に手を添えて、じっと考えこんだ。今までの経験を思い出しているようだ。「優しくもあり、厳しくもある。全ては俺のためにやっていること。そういう考えの人だよ、彼女は。人間関係については……今のところ、男の人と親しくしていた時に、女性といる時ほど睨まれたことはないけど……でも、俺がどれくらい輝実を大切に思っているかを知られたら、きっとヒステリックになるだろうな。俺を誰かに奪われるかもしれないっていう感情が、彼女の中での地雷みたいなものだから」
「なるほどね……」
 その話を聞く限りでは、彼と僕がどういう関係なのかはなるべく知られない方がいいのかもしれないと思った。穏便に済むなら、それに越したことはないだろう。
「母さんはいつだって、自分が世界で一番の、理想の母親だって思ってるみたいなんだ。……俺もなるべく、彼女のそういう熱心な想いは否定したくないんだけど、な」
「……ふぅん」
 落ち着いたはずの心に、またもう一つ、ささくれだつものができた気がした。
 理性では分かっていた。彼女と颯汰の間を上手く取り持ちつつ二人を離れさせるには、なるべく揉めごとを起こさず、穏やかに交渉を試みた方が良いのだろうと。
 けれど、胸の内に隠れるもう一人の僕が叫んでいた。「そんな生温いやり方でいいのか?」
 颯汰が彼女をかばうような言葉を吐くたびに、僕の心に潜む母性の獣が牙をむいた。腹の底がふつふつと茹って、あの邪魔者を狩れと騒ぐのだ。彼を傷つける全てから、彼を守れと。
「……」
 両の手を強く握りしめた。指の先が白くなるほど、強く、強く。この激情は、今は抑えておくべきものだ。僕は必死にそう自分に言い聞かせた。
「輝実……?」
 黙りこくってしまった僕を不審に思ったのか、颯汰が心配そうにこちらをのぞきこんできた。いけない、彼を守る側である僕が、彼を不安にさせてしまうなんて、そんなことは。
「なんでもないよ。ごめん、少し考えごとをしてて。ねえ、颯汰はお母さんをあまり傷つけたくはないんだよね?」
「そう、だね。あの人も、別に悪い人ってわけじゃないから。やり方は少しずれてはいたけれど、彼女はきっと、俺を見て、俺のためにやろうとしてくれてたんだろうと思うよ」
 彼の優しさは、時に残酷だと思った。それとも、少しでもすがりたくなってしまう思いが、彼の中にはあるのだろうか。手首を切ってしまうのも、僕に「理想」を求めたのも、全ては自分という存在を相手に刻みつけて、注目させるため。
 それはひどく、子供らしい行いだと思った。
「君のお母さんは、あくまで……」
「ん? 何か言った?」
「……いや、何も」
 母ならば、時には叱りつける必要もあるだろうか。真相にいまだ気がついていない彼を。
 きっと気づいていないのは、彼の子供らしさゆえだろう。母に囲われて、愛情に対する認知が未熟なまま身体だけ成長してしまった彼は、相手が向けてくる感情の裏側に気づけないようだ。
 僕の中で、一つの決心がついた。やはりあの女は、彼の母にふさわしくない。
「うーん、やっぱりいい策が浮かばないな。どうすればいいんだろう」
「策なら、あるよ」
「え? 本当?」
 僕が一言ささやくと、颯汰は身を乗り出した。星を散りばめた瞳が、嬉しそうに僕を見つめている。
 口の端がひきつるのを感じた。喉の奥がひりついて、後頭部にしびれが走る。
「詳しいやり方は僕に任せてよ。君は僕に合わせてくれるだけでいい」
「どういうこと……? 俺と母さんとのことなのに、俺だけ詳細を知らなくていいなんてことある?」
「あるんだよ」
 僕は彼の額を小突いた。颯汰は小さく「いてっ」とつぶやいて目を閉じる。愛らしい反応に、頬がゆるんだ。
「僕を君の母にしたのは、君なんだ。ちゃんと責任、取ってくれるよね?」
 僕がいるというのに、僕を選んだというのに、今更昔の人形が恋しくなっただなんて。
 ——そんなことは言わせない。