晩夏
痛みだけが、僕の唯一の友だった。
「輝実ぃ、酒どこだよ!」
「ここだよ、父さん」
酒瓶と引き換えに帰ってきたのは舌打ちだった。そのすぐ後に、空になったチューハイのアルミ缶が飛んでくる。それは僕の額にぶつかると、情けない音を立てて床に落ちた。
僕の足元に転がるアルミ缶は、どうしようもないものを見るように僕を見上げていて、ため息すらも聞こえてきそうだった。僕は何も気にしていないそぶりをしながら缶を拾い上げて、部屋の隅に置かれたゴミ袋に放りこんだ。金属同士がぶつかる悲鳴が聞こえた。それは連鎖的にくりかえしていって、缶が袋の底にたどりついてから、ようやく止んだ。これでいったい何個目の空き缶が生まれたのだろう。
父は窓際を陣取って、酒瓶を逆さまにして仰いでいた。窓の向こうから入る風が彼のタンクトップをゆらす。そのせいでこちらにただよってくる匂いは、汗とアルコールが混ざったひどい匂いをしていた。僕は眉をひそめて、半分息を止めながら自室につながる襖を開けて、閉じた。ようやく呼吸ができる。僕は襖を背に崩れ落ちて、目の前に平べったく広げられた煎餅布団に身を投げた。布団が薄っぺらいせいで、身体に走った衝撃は思ったよりも大きかった。
狭く息苦しい家の中で、辛うじて息をできるのがこの部屋だった。よほどのことがなければ、家族はここには入ってこない。
そう、本当に、よほどのことがなければだけど。
やがて、父が机に酒瓶を叩きつける音とともに、何かががちゃがちゃと忙しなく動く音が聞こえた。少し耳をすませて、それが玄関扉の鍵を開ける音だと気がついた。
おそらく、母が帰宅したのだろう。何週間かぶりに。
諦念じみた感情が荒波のように押し寄せる。これは、その「よほどのこと」が起こりそうだ。
僕のその予感は案の定当たることとなる。
「おい、お前。家事放り出して何日もどこ行ってたんだよ」
「は? 別にどこでもいいでしょ」
襖に近づかないように、僕は部屋の隅にうずくまった。極限まで息を殺す。彼らに存在が気づかれないように。
「ふざけんなよ、それでも母親か!?」
「なにそれ、いまさら父親面? ならまずはその空き缶掃除から始めなさいよ」
「てめえ……!」
灰皿がひっくり返る音。絹を裂くような女の叫び声。また始まった、と思いながら、僕は部屋の中央に鎮座する布団の、その上にかけられた毛布を手持ち無沙汰にたぐりよせた。それをまとえば、少しだけ自分が身を隠せたような気分になれる。
襖の向こうでは、床に何かが散らばったようだ。母が好んで身につけているパールのネックレスがちぎれたのかもしれない。もっとも、パールといっても、あれは明らかにつかまされた偽物だろうけど。
このまま全てを放棄して眠ってしまいたかった。けれどこの騒音の中ではとても熟睡はできないだろうし、もういっそのこと窓から外に抜け出してしまおうかとすら思う。そうして部屋の一面にはめられたガラスを見上げるが、よくよく考えたら靴がなかったな、なんて思ってしまって、抱いていた期待も淡く消えた。
そんなことを呆けた頭で考えていた時だった。突然大きな音を立てて襖が開かれた。同時に向こうからの腐った空気が傾れこんでくる。僕は思わず肩を跳ねさせて目を剥いた。
「そこまで言うならこいつに判断させればいいじゃないの」
視界の先に立っていたのは、人の形をした悪魔だった。
くたびれたワンピースを身体に貼りつけて、ちぎれかけのネックレスを首に垂れ下げた女型のそれは、意地悪く口の端を上げながら僕を見下ろしていた。
その背後から、もう一人の悪魔が現れる。それは大人の男の形をしていた。染みまみれのタンクトップをなびかせながら、それは言った。
「はは、確かにそれがいい。俺たちの『息子』だもんなあ?」
彼らは次第に僕の方へと近寄ってくる。身を乗り出して、不快な笑い声をあげて、そしてやがて、僕の胸ぐらをつかんだ。
「どっちがお前の『理想の親』だ?」
それからのことはよく覚えていない。気がついたら僕は、ささくれた畳を見つめて床に伏せていた。
襖は閉ざされている。その向こうからはかしましいテレビの音と、スナックか何かを齧りながら笑い声をあげる両親の声が聞こえてきた。
身体を起こして、自分の肌を確認する。あちこちが青く、紫になっていた。その場所を押さずとも、内側から広がっていくような鈍い痛みを感じた。
どうやら二人は僕をサンドバッグにしたことで気が済んだようだ。人はよく、協力して一人を追いつめることで連帯感が生まれるという。
僕は肌のところどころについていたイグサのかすを払った。
『どちらが理想の親か』
確か、そんな質問を最後にされた気がする。
現在の惨状を見るに、僕はその質問にうまく答えられなかったのだろう。実際、目を覚ました今でもきちんと答えられる自信はない。
あの親が理想でもなんでもないことは、僕が一番よく分かっていた。
世の中には、僕よりひどい環境に身を置いている人間は、きっともっとたくさんいるだろう。それと比較すれば自分はずっと幸せだ——そう、思うことができればよかったのだが。
けれどあいにくなことに、僕は中途半端に常識を持ち合わせてしまっていた。僕より辛い目にあっている人が何人いようと、現状が悲惨であることに変わりはないのだ。だから、僕もまた一つの「不幸」のくくりに入る。
不幸は比較するものではない。そういう「常識」を知識として知ってしまっていたことが、まずかった。
かといって、脱却できる気もしない。学校は見て見ぬふりをしているし、救いあげてくれる親戚もいない。僕に残された道はただ一つ。耐え忍ぶことだけだった。
「いたい……」
際限まで小さくして発した声は、もはや僕以外に意味を理解できないであろう程度にはむなしくかすれていた。
黄、緑、赤、青、紫。さまざまな色にまみれた腕を抱きながら、僕は天井を見上げた。
年季の入った天井は湿気っているようで色が暗い。年輪の模様が、かっと目を開いて僕を見下ろしていた。深淵を見ているようで、僕は自らの背が震えるのを感じた。
僕はおもむろに立ち上がった。子供机に置きっぱなしになっていたペン立てと向かい合う。
手を伸ばして、黄色と黒の塗装が施された道具をつかんだ。遠い昔に、図工の時間で使った子供用カッターだ。
錆が入り始めている。あまり身体に良くなさそうだな、なんて他人事のように思いながら、僕はカッターの刃を押し出した。
音を立てて剥き出しになった刃は、鈍色の光を持って僕を見つめる。きらめくほどの艶もないそれは、虚無に包まれていた。
僕は数センチ長さが伸びたカッターを右手に握る。
左手の服の袖をはがして、思い切り刃を突き立てた。
これがどういう仕組みなのかは分からない。こんなことをしても、身体に悪いだけだということも知っていた。そんなことを考えながら、僕は赤色の液体に紛れこむ焦げをじっと見つめていた。
痛いのは嫌だ。だって、痛いから。そう思うのに、痛みだけが僕の友人で、僕を安心させてくれた。実に不思議な感覚だった。矛盾する何かが、僕を生にしがみつかせている。
そんなことをくりかえしていたら、やがて痛みらしい痛みも、そこまで感じなくなってきた。父も母も、自傷する僕を気味悪がるばかりで、何かをしようとする様子もなかった。
やがて二人は僕を認識しなくなった。向こうの方から僕を避けるようになったのだ。
唯一の友人であった「痛み」にすら、僕は見捨てられた。僕は正真正銘、孤独になったのだ。
たった一人の世界で、僕は今日も死んだように生きていく。
それから、僕がカッターを握ることはなくなった。
「そう……輝実は、そんな思いをしたんだね」
短く面白みもない、ただひたすらに重いだけの僕の話を聞いてなお、颯汰は僕のそばから離れなかった。
唯一の友であったはずの「痛み」はなくなり、新たに手に入れた友は「颯汰」だった。彼は僕を恐れるでも、気味悪がるでも、かといって同情するようなそぶりも見せず、ただ淡々と僕の話を聞いていた。その瞳は探究心に満ちていて、僕はフラスコの中のホムンクルスか何かになったような気分だった。
「面白くないでしょ、こんな話」
「そう? 俺は嬉しいよ」
「僕の話を聞けて?」
颯汰は破顔した。幼い子供のように無邪気な笑みを浮かべた彼は、けれど惜しいとでも言いたげに首を横に振る。「もちろん、君のことを知れたのは嬉しいけど……」
「やっぱり俺の見立て通りだ。君と俺は、確かに『同類』だった」
颯汰は何かに納得したように、うなずきながらそう語る。けれど僕の中には一つの違和感があった。
「同類って言っても、僕たちは全部が一緒ってわけではないよ? 僕は君みたいにお母さんから溺愛されてはいないし、君は両親に暴力は振るわれてない」
僕の言葉に、颯汰はいたずらめいた様子で歯を見せた。
「同類っていうのは、あくまで性質が同じってだけだ。何もかもが同じってわけじゃない。りんごもみかんも、違う果物だけど、果物という一つのくくりでは同類だろ。分かる? 俺たちはさ、違う形の、同じ場所に生まれたんだよ」
そこまで聞いてようやく、僕は彼の真意が分かった気がした。
僕たちは、「親」という存在に、全てを壊された。その壊し方はそれぞれ異なっている。けれど「壊されたという事実」だけは変わらなかった。
りんごとみかん。果物という性質。彼が言いたいのは、そういうことだろう。
「さっきも言ったけどさ、俺、嬉しいんだよ。君という同類を、分かり合える存在を手に入れられたことが」
僕はなんとなく不服な気分になった。彼の言葉は、少しばかり都合がいいように聞こえてしまったのだ。
「それって、虐待を受けている人なら僕以外でもよかったってこと?」
子供じみた言動だと分かってはいたが、僕はむくれるのをやめられなかった。でも、誰だってそうなると思いたい。人に必要とされて、喜ばれて、けれどそれが誰でもよかったと言われてしまえば、拍子抜けしてしまうのは誰しも同じなはずだ。
「そうじゃない! そんなわけないだろ!」
僕の予想とは裏腹に、颯汰は眉を上げて叫んだ。
彼は口を開いた。けれどその口は数度開いたり閉じたりをくりかえすばかりで、言葉を発することはなかった。最後に、彼はやっぱりやめたとばかりに、視線を泳がせながら閉口してしまった。僕はそれが気に食わなくて、顔を外方に向けた。
「なんだ。やっぱりそういうことなんだね」
全てを放り出したいような気持ちだった。僕は床に手をついて、足に力をこめた。もうこのまま立ち去ってしまいたい。
けれどそんな思いを引き止めたのは、するりと伸ばされた颯汰の腕だった。
「ま、待って」
颯汰は僕の手首を強くつかんでいた。骨がきしんで、音でも鳴ってしまうのではないかと思うほどに。「痛い……」そうつぶやいても、彼にはまるで聞こえていないようだった。僕は久々に、彼に対して恐怖というものを感じた。
「お願い、今度、今度ちゃんと話すから」
彼は追いすがるように、僕の腕を引いた。僕は思わず情けない声をあげて転げてしまう。その先で僕を受け止めたのは、彼の薄い胸だった。
「ごめん、不安にさせて。でもこれだけは言わせて。俺には、君しかいなかったんだ。君だけが……俺の理想だった」
いつか聞いた言葉だ、と漠然と思った。
彼の真意はいつまで経っても分からない。一つ分かるたびに、またもう一つ分からなくなる。
僕は彼の胸元に埋まりながら、静かに呼吸した。浅くも深くもない、普段の呼吸だ。
彼の拍動は、いくばくか速い気がした。僕にすがりつくような、彼のあの瞳を思い出す。背に回された腕も、僕を逃したくないとでも言わんばかりの力がこめられていた。視界の端に金色の糸がすべり落ちる。それは曇天の下でも透き通るように輝いていて、異国人の遺伝子とはすさまじいものだと思った。
颯汰の父も、似たような容姿を持っていたのだろうか。颯汰の母は、自らの夫の容姿をどう思っていたのだろう。彼女が颯汰に執着している時点で、その答えは出ているような気はした。
「颯汰は、きれいだね」
「え?」
彼は目を丸くして、僕を見た。彼のような姿形なら、きっと褒められることは何度もあっただろうに。それでもなお彼は、まるで人生で初めて誰かに褒められたかのような、そんな顔をしていた。
彼の腕の中から見上げて、僕はそのまろい頬に触れる。
「君はもう、こんな月並みな言葉、聞き飽きてるだろうと思うけど……でもやっぱり僕は、君のその星みたいなきらめきが好きだよ」
颯汰の紺碧の瞳に光が灯った。彼は苦しげに目を細めると、下唇を噛んだ。
「俺を星に例えた人なんて、君が初めてだよ。輝実」
「そうなの? 僕は、君には星が一番似合うと思うよ」
彼の瞳の端から、色をなくした雫が溢れていく。「意外と泣き虫だね、君」僕は思わず笑いを吹き出してしまった。瑠璃からあふれつづける涙を拭い続けて、僕は唱えるように言った。
「月は誰かの力を借りなければ光れない。君は自分の力で光り輝いているから、月は違うね。でも、太陽かと言われるとそれも少し違う。だって、太陽はまぶしすぎる。彼は周りの全てを焼きつくしてしまうけど、優しい君は、そんなことしないでしょ? だから僕は、君は星だと思うんだ」
人々を見守り、優しく照らす星。彼の白にすら近く見えるブロンドの髪は、まさしく星で例えるにふさわしいと思った。
「叶うなら、僕も星になりたいな」
「……どうして?」
かわいそうなくらいに涙声の彼の背をさすりながら、僕は幼子に寝物語を語る母親のようにささやいた。
「だってそうすれば、僕はずっと君のそばにいられるから」
僕は彼の胸元から身体を起こした。彼の広い手のひらに自らの手のひらも重ねる。
「僕、君の言う『理想』が何なのかはよく知らないけど……君が本当に僕だけを求めてくれているなら、僕はそれに応えるよ。君が僕の星でいてくれる限り、僕は君のそばにあり続ける」
颯汰は手を浮かせると、僕の片手を包んだ。僕たちが出会った時の、あの瞬間のように。
痛みだけが、僕の唯一の友だった。
「輝実ぃ、酒どこだよ!」
「ここだよ、父さん」
酒瓶と引き換えに帰ってきたのは舌打ちだった。そのすぐ後に、空になったチューハイのアルミ缶が飛んでくる。それは僕の額にぶつかると、情けない音を立てて床に落ちた。
僕の足元に転がるアルミ缶は、どうしようもないものを見るように僕を見上げていて、ため息すらも聞こえてきそうだった。僕は何も気にしていないそぶりをしながら缶を拾い上げて、部屋の隅に置かれたゴミ袋に放りこんだ。金属同士がぶつかる悲鳴が聞こえた。それは連鎖的にくりかえしていって、缶が袋の底にたどりついてから、ようやく止んだ。これでいったい何個目の空き缶が生まれたのだろう。
父は窓際を陣取って、酒瓶を逆さまにして仰いでいた。窓の向こうから入る風が彼のタンクトップをゆらす。そのせいでこちらにただよってくる匂いは、汗とアルコールが混ざったひどい匂いをしていた。僕は眉をひそめて、半分息を止めながら自室につながる襖を開けて、閉じた。ようやく呼吸ができる。僕は襖を背に崩れ落ちて、目の前に平べったく広げられた煎餅布団に身を投げた。布団が薄っぺらいせいで、身体に走った衝撃は思ったよりも大きかった。
狭く息苦しい家の中で、辛うじて息をできるのがこの部屋だった。よほどのことがなければ、家族はここには入ってこない。
そう、本当に、よほどのことがなければだけど。
やがて、父が机に酒瓶を叩きつける音とともに、何かががちゃがちゃと忙しなく動く音が聞こえた。少し耳をすませて、それが玄関扉の鍵を開ける音だと気がついた。
おそらく、母が帰宅したのだろう。何週間かぶりに。
諦念じみた感情が荒波のように押し寄せる。これは、その「よほどのこと」が起こりそうだ。
僕のその予感は案の定当たることとなる。
「おい、お前。家事放り出して何日もどこ行ってたんだよ」
「は? 別にどこでもいいでしょ」
襖に近づかないように、僕は部屋の隅にうずくまった。極限まで息を殺す。彼らに存在が気づかれないように。
「ふざけんなよ、それでも母親か!?」
「なにそれ、いまさら父親面? ならまずはその空き缶掃除から始めなさいよ」
「てめえ……!」
灰皿がひっくり返る音。絹を裂くような女の叫び声。また始まった、と思いながら、僕は部屋の中央に鎮座する布団の、その上にかけられた毛布を手持ち無沙汰にたぐりよせた。それをまとえば、少しだけ自分が身を隠せたような気分になれる。
襖の向こうでは、床に何かが散らばったようだ。母が好んで身につけているパールのネックレスがちぎれたのかもしれない。もっとも、パールといっても、あれは明らかにつかまされた偽物だろうけど。
このまま全てを放棄して眠ってしまいたかった。けれどこの騒音の中ではとても熟睡はできないだろうし、もういっそのこと窓から外に抜け出してしまおうかとすら思う。そうして部屋の一面にはめられたガラスを見上げるが、よくよく考えたら靴がなかったな、なんて思ってしまって、抱いていた期待も淡く消えた。
そんなことを呆けた頭で考えていた時だった。突然大きな音を立てて襖が開かれた。同時に向こうからの腐った空気が傾れこんでくる。僕は思わず肩を跳ねさせて目を剥いた。
「そこまで言うならこいつに判断させればいいじゃないの」
視界の先に立っていたのは、人の形をした悪魔だった。
くたびれたワンピースを身体に貼りつけて、ちぎれかけのネックレスを首に垂れ下げた女型のそれは、意地悪く口の端を上げながら僕を見下ろしていた。
その背後から、もう一人の悪魔が現れる。それは大人の男の形をしていた。染みまみれのタンクトップをなびかせながら、それは言った。
「はは、確かにそれがいい。俺たちの『息子』だもんなあ?」
彼らは次第に僕の方へと近寄ってくる。身を乗り出して、不快な笑い声をあげて、そしてやがて、僕の胸ぐらをつかんだ。
「どっちがお前の『理想の親』だ?」
それからのことはよく覚えていない。気がついたら僕は、ささくれた畳を見つめて床に伏せていた。
襖は閉ざされている。その向こうからはかしましいテレビの音と、スナックか何かを齧りながら笑い声をあげる両親の声が聞こえてきた。
身体を起こして、自分の肌を確認する。あちこちが青く、紫になっていた。その場所を押さずとも、内側から広がっていくような鈍い痛みを感じた。
どうやら二人は僕をサンドバッグにしたことで気が済んだようだ。人はよく、協力して一人を追いつめることで連帯感が生まれるという。
僕は肌のところどころについていたイグサのかすを払った。
『どちらが理想の親か』
確か、そんな質問を最後にされた気がする。
現在の惨状を見るに、僕はその質問にうまく答えられなかったのだろう。実際、目を覚ました今でもきちんと答えられる自信はない。
あの親が理想でもなんでもないことは、僕が一番よく分かっていた。
世の中には、僕よりひどい環境に身を置いている人間は、きっともっとたくさんいるだろう。それと比較すれば自分はずっと幸せだ——そう、思うことができればよかったのだが。
けれどあいにくなことに、僕は中途半端に常識を持ち合わせてしまっていた。僕より辛い目にあっている人が何人いようと、現状が悲惨であることに変わりはないのだ。だから、僕もまた一つの「不幸」のくくりに入る。
不幸は比較するものではない。そういう「常識」を知識として知ってしまっていたことが、まずかった。
かといって、脱却できる気もしない。学校は見て見ぬふりをしているし、救いあげてくれる親戚もいない。僕に残された道はただ一つ。耐え忍ぶことだけだった。
「いたい……」
際限まで小さくして発した声は、もはや僕以外に意味を理解できないであろう程度にはむなしくかすれていた。
黄、緑、赤、青、紫。さまざまな色にまみれた腕を抱きながら、僕は天井を見上げた。
年季の入った天井は湿気っているようで色が暗い。年輪の模様が、かっと目を開いて僕を見下ろしていた。深淵を見ているようで、僕は自らの背が震えるのを感じた。
僕はおもむろに立ち上がった。子供机に置きっぱなしになっていたペン立てと向かい合う。
手を伸ばして、黄色と黒の塗装が施された道具をつかんだ。遠い昔に、図工の時間で使った子供用カッターだ。
錆が入り始めている。あまり身体に良くなさそうだな、なんて他人事のように思いながら、僕はカッターの刃を押し出した。
音を立てて剥き出しになった刃は、鈍色の光を持って僕を見つめる。きらめくほどの艶もないそれは、虚無に包まれていた。
僕は数センチ長さが伸びたカッターを右手に握る。
左手の服の袖をはがして、思い切り刃を突き立てた。
これがどういう仕組みなのかは分からない。こんなことをしても、身体に悪いだけだということも知っていた。そんなことを考えながら、僕は赤色の液体に紛れこむ焦げをじっと見つめていた。
痛いのは嫌だ。だって、痛いから。そう思うのに、痛みだけが僕の友人で、僕を安心させてくれた。実に不思議な感覚だった。矛盾する何かが、僕を生にしがみつかせている。
そんなことをくりかえしていたら、やがて痛みらしい痛みも、そこまで感じなくなってきた。父も母も、自傷する僕を気味悪がるばかりで、何かをしようとする様子もなかった。
やがて二人は僕を認識しなくなった。向こうの方から僕を避けるようになったのだ。
唯一の友人であった「痛み」にすら、僕は見捨てられた。僕は正真正銘、孤独になったのだ。
たった一人の世界で、僕は今日も死んだように生きていく。
それから、僕がカッターを握ることはなくなった。
「そう……輝実は、そんな思いをしたんだね」
短く面白みもない、ただひたすらに重いだけの僕の話を聞いてなお、颯汰は僕のそばから離れなかった。
唯一の友であったはずの「痛み」はなくなり、新たに手に入れた友は「颯汰」だった。彼は僕を恐れるでも、気味悪がるでも、かといって同情するようなそぶりも見せず、ただ淡々と僕の話を聞いていた。その瞳は探究心に満ちていて、僕はフラスコの中のホムンクルスか何かになったような気分だった。
「面白くないでしょ、こんな話」
「そう? 俺は嬉しいよ」
「僕の話を聞けて?」
颯汰は破顔した。幼い子供のように無邪気な笑みを浮かべた彼は、けれど惜しいとでも言いたげに首を横に振る。「もちろん、君のことを知れたのは嬉しいけど……」
「やっぱり俺の見立て通りだ。君と俺は、確かに『同類』だった」
颯汰は何かに納得したように、うなずきながらそう語る。けれど僕の中には一つの違和感があった。
「同類って言っても、僕たちは全部が一緒ってわけではないよ? 僕は君みたいにお母さんから溺愛されてはいないし、君は両親に暴力は振るわれてない」
僕の言葉に、颯汰はいたずらめいた様子で歯を見せた。
「同類っていうのは、あくまで性質が同じってだけだ。何もかもが同じってわけじゃない。りんごもみかんも、違う果物だけど、果物という一つのくくりでは同類だろ。分かる? 俺たちはさ、違う形の、同じ場所に生まれたんだよ」
そこまで聞いてようやく、僕は彼の真意が分かった気がした。
僕たちは、「親」という存在に、全てを壊された。その壊し方はそれぞれ異なっている。けれど「壊されたという事実」だけは変わらなかった。
りんごとみかん。果物という性質。彼が言いたいのは、そういうことだろう。
「さっきも言ったけどさ、俺、嬉しいんだよ。君という同類を、分かり合える存在を手に入れられたことが」
僕はなんとなく不服な気分になった。彼の言葉は、少しばかり都合がいいように聞こえてしまったのだ。
「それって、虐待を受けている人なら僕以外でもよかったってこと?」
子供じみた言動だと分かってはいたが、僕はむくれるのをやめられなかった。でも、誰だってそうなると思いたい。人に必要とされて、喜ばれて、けれどそれが誰でもよかったと言われてしまえば、拍子抜けしてしまうのは誰しも同じなはずだ。
「そうじゃない! そんなわけないだろ!」
僕の予想とは裏腹に、颯汰は眉を上げて叫んだ。
彼は口を開いた。けれどその口は数度開いたり閉じたりをくりかえすばかりで、言葉を発することはなかった。最後に、彼はやっぱりやめたとばかりに、視線を泳がせながら閉口してしまった。僕はそれが気に食わなくて、顔を外方に向けた。
「なんだ。やっぱりそういうことなんだね」
全てを放り出したいような気持ちだった。僕は床に手をついて、足に力をこめた。もうこのまま立ち去ってしまいたい。
けれどそんな思いを引き止めたのは、するりと伸ばされた颯汰の腕だった。
「ま、待って」
颯汰は僕の手首を強くつかんでいた。骨がきしんで、音でも鳴ってしまうのではないかと思うほどに。「痛い……」そうつぶやいても、彼にはまるで聞こえていないようだった。僕は久々に、彼に対して恐怖というものを感じた。
「お願い、今度、今度ちゃんと話すから」
彼は追いすがるように、僕の腕を引いた。僕は思わず情けない声をあげて転げてしまう。その先で僕を受け止めたのは、彼の薄い胸だった。
「ごめん、不安にさせて。でもこれだけは言わせて。俺には、君しかいなかったんだ。君だけが……俺の理想だった」
いつか聞いた言葉だ、と漠然と思った。
彼の真意はいつまで経っても分からない。一つ分かるたびに、またもう一つ分からなくなる。
僕は彼の胸元に埋まりながら、静かに呼吸した。浅くも深くもない、普段の呼吸だ。
彼の拍動は、いくばくか速い気がした。僕にすがりつくような、彼のあの瞳を思い出す。背に回された腕も、僕を逃したくないとでも言わんばかりの力がこめられていた。視界の端に金色の糸がすべり落ちる。それは曇天の下でも透き通るように輝いていて、異国人の遺伝子とはすさまじいものだと思った。
颯汰の父も、似たような容姿を持っていたのだろうか。颯汰の母は、自らの夫の容姿をどう思っていたのだろう。彼女が颯汰に執着している時点で、その答えは出ているような気はした。
「颯汰は、きれいだね」
「え?」
彼は目を丸くして、僕を見た。彼のような姿形なら、きっと褒められることは何度もあっただろうに。それでもなお彼は、まるで人生で初めて誰かに褒められたかのような、そんな顔をしていた。
彼の腕の中から見上げて、僕はそのまろい頬に触れる。
「君はもう、こんな月並みな言葉、聞き飽きてるだろうと思うけど……でもやっぱり僕は、君のその星みたいなきらめきが好きだよ」
颯汰の紺碧の瞳に光が灯った。彼は苦しげに目を細めると、下唇を噛んだ。
「俺を星に例えた人なんて、君が初めてだよ。輝実」
「そうなの? 僕は、君には星が一番似合うと思うよ」
彼の瞳の端から、色をなくした雫が溢れていく。「意外と泣き虫だね、君」僕は思わず笑いを吹き出してしまった。瑠璃からあふれつづける涙を拭い続けて、僕は唱えるように言った。
「月は誰かの力を借りなければ光れない。君は自分の力で光り輝いているから、月は違うね。でも、太陽かと言われるとそれも少し違う。だって、太陽はまぶしすぎる。彼は周りの全てを焼きつくしてしまうけど、優しい君は、そんなことしないでしょ? だから僕は、君は星だと思うんだ」
人々を見守り、優しく照らす星。彼の白にすら近く見えるブロンドの髪は、まさしく星で例えるにふさわしいと思った。
「叶うなら、僕も星になりたいな」
「……どうして?」
かわいそうなくらいに涙声の彼の背をさすりながら、僕は幼子に寝物語を語る母親のようにささやいた。
「だってそうすれば、僕はずっと君のそばにいられるから」
僕は彼の胸元から身体を起こした。彼の広い手のひらに自らの手のひらも重ねる。
「僕、君の言う『理想』が何なのかはよく知らないけど……君が本当に僕だけを求めてくれているなら、僕はそれに応えるよ。君が僕の星でいてくれる限り、僕は君のそばにあり続ける」
颯汰は手を浮かせると、僕の片手を包んだ。僕たちが出会った時の、あの瞬間のように。

