母の虚像

 夏

 艶やかな桜は散り、その枝に緑をつけはじめた。空の青はさらに色を深め、妙にはっきりとした白い入道雲がこちらを見下ろしていた。
「今日はゲリラ豪雨が来るかもだってさ」
「えー、こんなにいい天気なのに?」
 誰かの会話が、教室の端に座る僕のもとにまで流れてくる。噂を聞いて窓の外を見やれば、確かに空は不思議なほどに晴れ渡っていた。
「予測なく、急に降るからゲリラ豪雨なのに」
 僕の前に座った颯汰が、呆れ声で言った。僕は苦く笑って、中途半端に開いたままになっていた教科書に折り目をつける。
 クーラーで冷やしてなお蒸れる空気は、誰しも好きなものではない。こうも湿度が高いと、教科書の紙も湿気ってしまうから嫌だった。
「輝実は志望校決めてるんだっけ」
「うん。心理学に強い大学に行きたいなって思ってて」
 黄色くハイライトした文章を読み返しながら、ページを何枚かめくる。颯汰はそんな僕を見つめて、何事か考えているようだった。
「どうかした?」
「……いや。ねえ、輝実は塾とか行ってないの?」
「行ってないよ。そんなお金ないからさ」
 僕はあいまいに笑った。叶うなら、塾に行って、もっと高度な勉強をしてみたかった。けれどあいにくと僕の家にそんな余裕はない。かといってこれ以上アルバイトを増やす個人的な余裕もなかった。
「あれ、駅前のコンビニでバイトしてたから、塾のためにお金貯めてるのかと思ってた」
「よく見てるね……僕の家、ちょっと色々事情があってさ。家族がうまく働けない状態っていうか。まあ、要は一日一日生きるので必死って感じなんだよ」
「そうなんだ……」
 颯汰は半ば憐憫の混ざったまなざしで目を剥いていた。この話を他人にしたことはあまりない。こういう反応をされることが目に見えているからだ。
「颯汰は塾に行ってるの?」
「行ってるよ。楽しくないけどね」
 確か、彼はいわゆる才色兼備というやつだったか。テストの点はいつもトップクラスだったし、運動だって目を瞠るくらいのものだったはずだ。あれほどの実力があるなら、塾に行っていて当たり前だろう。
 けれど、そうか。塾とは楽しくないものなのか。
「どのあたりが楽しくないの?」
「うーん」
 彼は頬杖をついて窓の外を見つめた。その先では、体育の準備をしているらしい生徒が駆け回っている。
「俺、大学には行かないからあんまり勉強する意味ないっていうか」
「え!? 進学しないのに塾に行ってるの……?」
 うなずきだけを返された。僕は勝手に塾に行くことは大学進学とイコールになっていると思っていたのだが、世の中はそうでもないのだろうか。
「母さんの頼みなんだよね。進学はしないでほしいけど、学校ではいい成績であってほしいからって」
 彼は困ったように笑った。「よく分からないよね」僕はすっかり返事に困ってしまった。
 塾に行けるだけのお金はあるのに、進学はしてほしくないとは、いったいどういう考えのもとからなのだろう。彼の家庭は僕のところとはまた違った方面に変わっているようだった。
「君のお母さんは、どうしてそんなことを望んでるの?」
「……さあ」
 妙に抜けた声が返ってきた。真相を知った上で、さして興味を抱いていないと言わんばかりの声音だった。僕は彼にどう声をかけるべきか、また困ってしまった。
「このあたりの話は、また今度別の場所でしよう。俺たちきっと、もっとお互いを理解できる余地がある」
 不思議なきらめきが、僕の胸の内に舞った。今までまともに友達のいなかった僕に、深い友人ができるかもしれないという、小さな期待があったのだ。
 あの日の彼の言葉が、再び僕の頭を駆けていく。
——『俺たち。きっと同類だ』


「ねえ、君」
「……」
「ねえ、君だってば。輝実くん」
「えっ?」
 突然頭上から投げられた声に、僕は驚いて顔を上げた。反射で読んでいた本を閉じる。
「最近颯汰くんと一緒にいる子だよね」
 視界の先に立っていたのは、見知らぬ少女たちだった。そういえば、このクラスの中で見たような気がするような。細い記憶の糸をたどって、彼女たちが颯太の取り巻きの中に混じっていたことを思い出した。
 なんとなく嫌な予感がした。こういうシチュエーションはよく見聞きするものがある。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 そう、例えば「私の颯太くんに近づかないで」とか、そういう。あと、あるとすれば——
「颯汰くん、最近君と楽しそうに話してるからさ。君に色々聞いてみたかったんだよね。どうやって颯汰くんと仲良くなったの?」
 そう、「颯汰くんについてもっと教えて」とねだられるとか。予想通りすぎる展開に、僕はめまいがした。なるべくこういう事態には巻き込まれたくなかったのだが。
「えっと……」
 どう答えるべきか、必死に頭を回転させる。
 彼女たちの目的は、彼とお近づきになること。その方法を知りたいようだけれど、困ったことに僕にはその手段の心当たりがなかった。
 だって、僕は仲良くなろうとして颯汰に声をかけたわけではない。というかそもそも向こうから僕の方に近づいてきたのだ。こちらから近づく方法なんて、分かるはずがなかった。
 彼に気に入られて声をかけてもらう方法でも話せば良いのだろうか。そうはいっても、その手段にだって心当たりはない。
 つまるところ、僕は彼について何も知らなかった。彼が怪我をしていたから、その手当てをしただけ。たったそれだけで、なぜか気に入られた。理由なんて想像がつかないし、彼の性格や背景も詳しくない。
 どうして彼は僕に関わろうとしたのだろう。僕にはついぞ、彼の行動の理由が分からなかった。
「悪いんだけど、僕には分からないんだ。彼の方から声をかけてくれたから。どうして仲良くしてくれるのか、僕の方が知りたいくらいだよ」
 僕は眉を下げて笑ってみせたが、女子生徒たちの意にはそぐわなかったようだ。当然だろう、満足のいく回答が返ってこなかったのだから。周囲の温度がぐっと下がる。
「颯汰くんに、なんて声をかけてもらったの?」
 再び投げられた質問に、何と返すべきか悩んでしまった。ぼんやりと彼の言葉を思い返す。「理想になってくれる」「同類」——僕にすら真意の掴めない彼の発言を、彼女たちにどう伝えるべきだろう。
「……よく分からないけど、僕の何かを気に入ってくれたみたいだね」
 仕方がないので、あたりざわりのない返答をしておいた。一応、これも間違いではないはずだ。少なくとも、彼は僕の中に何かを見出した。
 彼女たちは困ったように互いを見つめ合っている。肝心なことは何も聞き出せなかったようなものなのだから、不満に思うのも当たり前だ。かといって、僕に答えられるものはこれ以上ない。
「じゃあ、彼とは何をきっかけに知り合ったの?」
 僕はまた言葉に詰まった。彼とはあの保健室で知り合ったわけだが、あの時起こったことをそのまま伝えてしまうのははばかられる。彼の尊厳やプライバシーに関わることだからだ。
 誤解を起こさないように、嘘にならない程度で、出来事をぼかすにはどうすれば良いか。
 悩んだ末に、僕は適当な返事をした。
「先生から頼み事を受けて、その途中で颯汰くんと話す機会があっただけだよ」
 教師から頼まれ事があったのは本当だ。そのあとに彼と関わったのも本当。これで問題はないだろう。
 女子生徒は互いに目配せすると、「ありがとう」とだけ告げて去っていった。ようやく行ってくれたかと、僕は本を片手にため息を吐いた。
 彼女たちは僕のもとを離れてなにやら作戦会議をしているようだ。このあと颯汰に話しかけでもしにいくのだろう。
 僕はああいう子たちと関わるのはあまり得意ではない。恋愛事に疎い上に、競争意識も低いタイプだったから、どうにも種族が違うと感じてしまっていた。
 好きな人のために情報をかき集めて、どうしたら近づけるかと作戦を立て、そしてそれを実行に移す。簡単には持ち得ない、素晴らしい勇気と行動力だ。ミステリー小説に例えるなら、まるで探偵のような。いや、逆に犯人にも例えられるかもしれない。相手の知らぬところで自分の利益のために動いているのだから、後者の方がより近しいだろうと思った。
 少女たちはやがて話に花が咲いたのか、先ほどまでの不満げな様子からは一転して、楽しそうに笑顔を浮かべて会話をしていた。好きな人の好きなところの話でもしているのだろうか。好意を向ける相手もいない僕には縁のない体験だけれど、きっとそれは楽しいものなのだろうと、漠然とした想像だけはついた。
「なに、あの子たちの中に気になる人でもいるの?」
「あ、颯汰」
 いつの間にか、颯汰が僕の横に立っていた。いたずらめいた笑みを浮かべた彼が投げかけてきたのは、嫉妬する子供のような質問だった。僕は彼をなだめるように肩をすくめる。
「そんなわけないよ。皆悪い人たちじゃないけど、特別気になる人まではいないかな」
「へえ、それってもったいなくない? 君、顔もいいし、性格も優しいのに」
 僕は思わず目を丸くしてしまった。彼のような人に褒められるのは、少々恥ずかしいものがある。
「僕、そんなにできた人間じゃないよ。颯汰の方こそ、よっぽどモテそうなのに。彼女さんとか、いないの?」
 颯汰は露骨に視線をそらした。僕は一つまばたきをする。彼の表情は笑顔のままではあったけれど、その瞬間だけは、妙につくりものめいて見えた。何か、顔に笑顔の模様をした仮面を貼りつけているようだった。
「んー、母さんが嫌がるんだよね、そういうの」
「え?」
 僕は愕然とした。母が嫌がるとは、いったいどういう意味だろう。息子が誰と付き合おうと、そんなもの自由ではないか。相手がよほど危険な人物であるならば話は別だが、普通の恋愛であるならば親が介入する必要などない。僕はさすがにいぶかしんでしまった。
「……大丈夫? 過干渉ってやつじゃないの?」
 颯汰は僕に視線を戻すと、「なんてことないよ」と爽やかに笑ってみせた。こちらを見つめる細められた瞳は、なぜだか奇妙にきらめいていた。
「俺が変な人と関わらないか心配なだけだよ。大丈夫」
 本当に平気なのだろうかと眉根を寄せていると、颯汰は親指で僕の眉間を押した。小突かれて、僕は小さなうめき声をあげてのけぞる。
「ありがと。心配してくれてるんでしょ」
 僕は小突かれた眉間をさすりながら、あいまいにうなずいた。正直納得はいっていなかったが、あまり首をつっこみすぎるのも良くないだろう。少なくとも颯汰は笑顔だし、ひとまずはこれでいいと自分に言い聞かせた。
 だけど、これからもし彼に何かがあったなら、その時は僕が彼を守れるようにありたい。
 彼は僕よりずっと背も高いし、きっと力も強い。けれど僕の脳裏に焼きついて離れなかったのは、目の前の明るい陽気な笑顔ではなく、顔色を青白くした、精気のないあの日の彼の姿だった。
 やがて予鈴が鳴った。立ち歩いていた生徒たちは、慌ただしく席に戻っていく。颯太もまた、僕に手を振ってその場を離れていった。僕も彼に手を振り返す。その後はずっと、白い文字が書きこまれていく黒板をぼうっとながめていた。


「ねえ、輝実くん」
「輝実くん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?」
 頭を抱えて叫び出したい気分だった。颯汰と関わり始めてから、明らかに他人から声をかけられる頻度が増えた。その都度下手な愛想笑いを浮かべて、決まりきった適当な返事をするのにも、いよいよ疲れを感じ始めていた。
 彼と仲良くなる方法なんて、そんなもの分からないし知ったことでもない。いったい僕にこれ以上何を求めようというのか。今日もげっそりとした様相のまま、僕は図書室に向かった。
 重い手を叱咤して扉を開く。今日は文系科目の応用編を勉強したい。やりかけの参考書がまだ残っている。
 扉を閉じて部屋に向き直った時、ふと中央の席に見覚えのある人物が座っていることに気がついた。
「あれ、颯汰」
「やっほー」
 頬杖をついた颯汰が、こちらに手を振っていた。ここ最近の悩みの種である彼が、いっそ清々しいくらいに優雅な態度をとっている。なんだか一周回って肩の力が抜けてきた。
「顔色が悪いね。何かあった?」
「困り事が増えてるんだよ。君のせいでね」
「え、俺のせい?」
 颯汰は自らの顔を指差して呆けている。僕はこれみよがしにため息を吐いてみせた。君という存在に、僕がどれほど悩まされているのか、君はまったくもって知らないのだろうな。そんな言葉が口から飛び出そうになったが、彼から見てみればそれは理不尽以外の何者でもない。仕方がないので、僕は「大したことじゃないけどね」とつけ加えておいた。
 けれど颯汰はそれでは納得しなかったようだ。彼は頬をふくらませて、机の天板を爪で細かく叩いた。
「大したことなかったらそんな顔はしないだろ。まったく、何があったの? ちゃんと話してよ」
 颯汰はいたって真面目な顔をしている。これ以上突き放すのも何だか違う気がして、僕は迷った末に細く息を吐いた。
「君と仲良くなりたいっていう女の子たちがたくさん僕のところに来るんだよ。まったく、モテ男もほどほどにしてくれない?」
「なにそれ!」
 彼は心外だとばかりに目を見開いた。
「それで、俺に責任があるって? うーん」
 渋い顔をした彼は、困ったように肩をすくめた。腕を組んで、宙を睨んでいる。まあ、理不尽に思われてしまって当然か。さすがに言いすぎたかと、僕はごまかすことにした。
「……君に責任があるとまでは言わないけど。ちょっと困ってるのは事実ってくらいかな。ま、そのうち僕から大した情報を引き出せないって分かったら、皆落ち着くだろうとは思ってるよ」
「そうじゃなくって……」
 颯汰はきつく眉根を寄せてうなっていた。何か決定的に気に食わないものでもあるようで、肘に添えられた彼の指先は、一定のテンポを刻むようにゆれていた。
「君が何かにつけて女の子たちと一緒にいたのは、そのせい?」
「まあ、そうだけど」
 目を開けた彼は、突然僕の方に身を乗り出した。思わず僕はのけぞってしまう。
 彼は依然としてきびしい顔つきをしていた。
「なんだかそれって、むかつく! その時間があったら、俺たち、もっと一緒にいられたってことじゃんか」
「ええ……?」
 颯汰は腕を組んだまま、鼻息を荒くして目を伏せた。
 確かに、彼女たちと関わっていた時間は颯汰と一緒にいる時間に置き換えることはできたかもしれないが、そこまで必死に彼との時間を作る理由は何だろう。
 僕には彼の考えていることがとんと理解できなかった。僕よりもずっと人望があって、友達がいて、きっと誰からにも好かれるのに、彼はある日を境に交友関係を僕だけに絞るようになった。
 それもこれも、あの時僕が彼の傷を手当てしたせいなのだろうか。
「ねえ、もっと二人でいられる場所に行こうよ。ここは意外と人も多いし」
 彼はちらりと視線を脇に寄せた。彼の言う通り、図書室は学内の公共の場所である以上、人の出入りがある。そもそも本を読むための場所だから、長時間声を出して会話するのにも向いていない。場所を改めようという彼の発言はもっともだった。
 ただ、僕にはここを離れがたい理由がある。
「でも、僕は勉強がしたくて……」
「受験勉強くらい俺が教えるよ。必要なら教材も買ってあげる。だからさ、二人でいられる場所に移動しようよ」
 僕は情けなく口を開けたまま呆けてしまった。彼にそこまで尽くされる必要があるだろうか。申し訳なさ以上に困惑が勝っていた。
「なにも、そこまでしなくても……」
 おそるおそる言ったが、けれど彼はさみしげに目を伏せるばかりだった。
「……輝実は、俺とは一緒にいたくない?」
 そういう言い方をされてしまうと弱い。卑怯な男だと脳内の自分が叫んでいた。それでも目の前の彼は、確かに尾を下げた犬のように身体を縮こめている。それを不憫だと思わずしていられるはずがない。ここで断りを入れる方が、よっぽど失礼でかわいそうだろう。
 僕は半ばやけになりながら答えた。
「そんなことはないよ。ただ、君の負担にならないかだけ心配だったんだ」
 とたん、颯汰は目を輝かせた。彼は僕の肩に両手を置いて、きらめく太陽のような笑顔を僕に向けた。
「負担になんて、なるわけない! 俺は君と一緒にいられるだけで、ずっと幸せなんだよ」
 圧倒的な太陽の輝きを前に、僕は目を細めることしかできなかった。一方通行の光を前にしてでしか発光することのできない月の気持ちが、今なら少し分かる気がした。
「……君は、僕に何を求めてるの? どうして僕なんかと一緒にいるだけで幸せになれるだなんて、そんなことを言えるの? 僕は、君の与えてくれるものに何も返せないのに」
 彼は目を丸くした。こちらをのぞきこむその碧眼には、不憫なものを見るような色が垣間見えた。
「俺は、すでに君からたくさんのものをもらってるんだ。俺の行動の全ては、そのお返しにすぎないんだよ」
 そう言って、頬を指の背でなでられた。心をくだくような、柔らかく優しい手つきだった。僕はいよいよ表情に困惑を隠せなくなる。
「君に何かを与えたなんて、そんなの心当たりがないよ。君は、僕に何を見出したの?」
 颯汰はそのまろい頬に、静かな微笑をたたえた。
「……君は、あの人よりもずっと、——に向いてる」


 その言葉はささやくようで、僕にはうまく聞き取れなかった。それに、彼はそれ以上何も言わなかった。混乱して言葉に迷っている僕の腕を引いて、颯爽と立ち上がってしまったのだ。
 つないだ手には大して力はこもっていないのに、妙な束縛感があった。手のひらの内側から鎖が生えて、僕の腕に複雑にからみあっているようだった。その隙間からしつこいくらいに音が鳴って、それが僕の頭の中でくりかえし反響している。そんな幻聴すらも聞こえた。
 階段を駆け上がる彼の背を見つめる。彼は僕に何を求めているのか、結局分からずじまいだった。ただ胸のうちに、薄暗いもやのようなものがただよっていた。まるで、先も見通せないほどに。
「……ここ、入って大丈夫なの?」
「大丈夫。校舎が閉まる時間まではいつも開いてるんだ。あはは、心配になるセキュリティだよね」
 彼は軽快に笑って、僕を扉の奥に招いた。
 彼に案内されたのは、学校の屋上だった。蒸れる空気が一帯にたちこめていて、あまり気分は良くない。けれど幸いにも今日は曇りだったから、灼熱の炎天下に放り出されるということはなかった。それだけでも御の字だろう。
「人がいないのはありがたいけど、夏に長く外にいたら熱中症になるんじゃない?」
「じゃあ、次からはクーラーが効いてる、人の少ない場所を探そう」
 そんな場所、あるのだろうか。いぶかしむ思いがそのまま顔に出ていたのか、颯汰は僕の顔を見て、おかしいものを見たように腹を抱えて笑った。「ちょっとした学校探検だと思おうよ」明らかにおちょくられている。とはいえ彼の言葉は、ある種もっともかもしれないとは思ったけれど。
「それで、今はどのあたりの勉強をしてるの?」
「あ、えっと……この古文の問題がちょっと難しくて」
「オッケー、一緒に見ていこうか」
 そういえば、始まりは一応勉強会だったか。ようやく思い出して、僕は鞄に詰めこまれたままになっていた参考書をひっぱりだした。ふせんを貼っていたページを開いて、詰まっていた箇所を指差す。颯汰は問題を一瞥すると、口元に手を当ててしばらく考えこんだ。
「なるほど。君はここを誤読してるみたいだね」
「え、ほんと?」
 颯汰の指導は驚くほどに分かりやすかった。僕が残していたメモをもとに、ミスを的確に見つけ出しては、すぐに正しい解法を共に考えてくれる。塾講師が向いているのではないかと思ってしまうほどだった。
「……颯汰、本当に頭いいんだね。そんなに勉強ができるなら、僕なんかよりずっといい大学に行けそうなのに」
「そうでもないよ。言われたことを言われた通りにやってるだけだから」
「その言われた通りのこともできてないんだね、僕……」
「ああ! そういう意味じゃなくて! ごめん、言い方が良くなかったな」
 颯汰は薄くはにかむと、頬をかきながら小首をかしげた。
「俺、母さんの言いなりになってるっていうか。昔から、どうしても彼女の顔色をうかがって、彼女が一番喜ぶであろうやり方や結果を選び取ろうとしちゃう癖があるんだ」
 細められた彼の瞳は弧を描いてはいたけれど、その奥に潜む色は輝かしいものではなかった。明確な違和感が、僕のこめかみを走っていった。
「……颯汰は時々、お母さんの話をしてくれるよね。でも、何だかちょっと……」
「変わってる、って思うんだろ?」
 彼の笑顔はひどくいびつで、ブリキの人形のように、木片に絵の具で塗りたくった風に見えた。
「……俺、母子家庭でさ。俺がまだ小さい時に、父さんが別の女の人を作って、家を出てっちゃったんだよ。母さんはもともとヒステリックになりやすいところがあったから、父さんが限界になっちゃったのかもしれないね。それにしても不倫だなんてひどいやつだけど……」
 彼の絵に描いたような笑顔は、次第に薄れていった。鈍色の雲を見つめたまま、彼は訥々と語る。
「それから、さ。母さんがもっと不安定になっちゃって。俺に色々求めるようになったんだよ。成績とか、見た目とか、とにかく外聞を……あとは」
 唐突に、彼は言葉を止めた。止めたというよりかは、どう話すべきか分からず、欠落してしまったかのようだった。
「……言いたくないことだったら、無理に言わなくていいんだよ」
 彼は僕を見て、奇妙なくらいに目を見開いた。眼球が転げ落ちてしまわないかと、くだらない心配してしまうほどに。
 深い青色の虹彩が、からめとるように僕を見つめる。僕には、自らの何の変哲もない真っ黒な虹彩を、彼の網膜に映すことしかできない。
「あは、あはは……やっぱり君って」
 ふいに、彼が表情をゆがめた。こぼれ落ちそうだった瞳は、今や薄く細められて、まぶしいものを前にしたように僕を一心に見つめていた。その目尻からは、無情なくらいに透明な雫がしたたっていく。
「颯汰。大丈夫だよ、颯汰」
 彼が母に何を求められていたのか、僕には詳しくは分からない。けれど彼が今ひどく苦しんでいるのは確かで、そして僕がそんな彼を救いたいと思っているのも、また一つの事実だった。僕はしきりに「大丈夫」とくりかえしながら、彼を自らの胸に抱き寄せた。何が大丈夫なのかなんて分からなかったけれど、それでもそう言わなければならない気がしたのだ。
「輝実……」
 彼は僕の腕の中で、うわごとを言うようにつぶやいた。僕の背に彼の腕が回される。その腕は、真夏だというのに布で包まれていた。
 遠い日の僕のようだった。
「輝実はさ、苦しくならないの?」
「え?」
 まさか自分の話をされるだなんて思ってもみなかったから、僕は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。彼は顔を上げると、仕方ないものを見るようにくしゃりと笑う。
「俺、輝実のこと、もっと知りたいよ」
「……別に、僕に知って面白いものなんて……」
 そううなった瞬間、彼に二の腕をきつくつかまれた。
「輝きすぎた実は、時に腐り落ちる。ねえ、君はどうして、あの時俺の傷をすぐに手当てしたの? あんなにも、慣れた手つきで」
 息が止まって、喉に言葉がつかえてしまった。彼が、足を踏み出そうとしている。今まで誰も触れることのなかった、気づきさえしなかった、僕の心のうちのまっさらな新雪の上に。
「君は大量の血を見ても、少しも驚かなかったね。どちからというと、俺が手首を切っていたことの方に驚いているようだった。手当てをする手には迷いがなくて、それに何より君は……俺があんなことをした理由を追求しなかった」
 彼の瞳孔は丸く開かれていて、僕を見つめるその視線はひどく鋭かった。
「それは、君自身がそういう経験をしたからだよね? 君は自分を傷つけて、それを自分で手当てしたことがある。そして同時に、誰かにそれを追求される苦しみも知っている……」
 深い青色に視界を呑まれてしまいそうだった。僕はとっさに目をそらす。音が鳴りそうなくらいに両手が震え始めた。それをなだめるように、彼が僕の両肩に添えた手にさらに力をこめる。
「ねえ、輝実。君も、俺と同じ苦しみを味わったんだろう?」
 あの日、彼が言った言葉を思い出す。彼は確かにこう言った——僕たちは『同類』だと。