母の虚像

 宙を漂う紫煙。それにブレンドされるのは、数日熟成された安酒の香り。
 喉奥に酸っぱいものが込み上げた。僕は眉根を寄せながら、煎餅布団から身を起こす。
 自室の窓を開け放った。紫とは名ばかりの白い煙草の煙が、勢いよくその場を突き抜けていく。追いかけるように、アルコールの匂いも外気と入れ替わった。
 僕は深く息を吸って、吐いた。
 そろそろ学校に行く時間だ。

 春

 群れる人々の合間をぬって、校門の奥へと滑りこむ。皆が思い思いに雑談をかわしあうのを聞き流しながら、僕は廊下を足早に進んだ。これといって友達もいない僕には、足を止めてまで話す相手ももちろんいない。だから今日も一人、誰よりも早く教室へとたどりつくのだ。
 いつも通り自らの席について、鞄につめこんでいた教材をひっぱり出す。一冊一冊を机の中にしまっていって、最後に余った文庫本を一つ、机に置いた。
 お気に入りのミステリー作家が新しく小説を出したから、それを読みたかったのだ。これが、ここ最近のささやかな楽しみだった。
 同級生は、皆何かのSNSに熱中しているようだが、僕はどうにもそういうものに疎かった。かといって、別に詳しくなろうとも思わない。少し爺くさいだろうかとも思ったけれど、自分の中で楽しめるものが他にあるのなら、別にそれで構わないだろうというのが持論だった。僕は読みかけのページに挟んでいた栞を外した。
 何枚か紙をめくって、ふいに教室が先ほどまでよりも騒がしくなってきたことに気がついた。顔を上げれば、中央に数人のグループがたむろしている様子が目に入る。茶髪を巻いた女子や、センターパートにした黒髪の男子、などなど。いわゆる一軍と呼ばれる生徒たちが、集ってはしゃいでいるようだった。にぎやかになって当然だ。
 数人の男女の真ん中に立っていたのは、この学校の中でも特に人気の高い少年だった。
色素の薄いブロンドヘアと、青空のように爽やかな碧眼。確か、彼はイギリス人の父を持つハーフの少年だったか。名前は何だっただろう。……記憶を引き出そうと努めてみたものの、いかんせんクラス替えがされたばかりだったから、彼の名前までは思い出せなかった。容姿が印象的だったから、そのルーツだけは覚えていた。
 僕は視線を本に戻した。彼とは住む世界が違う、というやつだ。関わりあいになる必要もなければ、興味を持つような相手でもなかった。
 やがて、始業のチャイムが鳴った。担任が教室へと入ってきて、ホームルームの挨拶が始まる。僕はそれに従いながら、淡々と今日という一日を過ごすのだ。
「なあ颯汰(そうた)、お前の投稿見たぜ! あの店、今度俺も連れてってくれよー」
 次の授業の教材を準備していた時だった。教室の中央から無邪気な声が聞こえて、僕は今朝と同じように顔を上げた。
「もちろん。あそこのスイーツ、結構美味しかったからおすすめだよ。今度皆で行こう」
 声をかけられて返事をしていたのは、例のブロンドの少年だった。どうやら名前は颯汰というらしい。派手な見た目の割に、案外落ち着いた話し方をするのだな、と思った。彼に関する知識が、また一つ増える。それを使うことなんて、きっとないだろうけれど。
 今はそれよりも授業の準備だ。数学Bの教材を引き出しから持ち出して、今日の授業範囲を確認する。とはいえ、時期はもう高校三年の春。学ぶことは減り始めていて、どちらかというと復習の領域に入り始めた。基礎固めも終わったし、応用問題にも取り組むべきだろう。
「あっはは! 冗談もほどほどにしろよ!」
「こんなんで笑うとか、お前どんだけ笑いのツボ浅いんだよ」
 離れた場所から延々と聞こえてくる歓声。僕はそれをBGMにしながら、教科書の例題を先んじて解いていった。
 彼らのような人間こそが、友人と愉快にすごしながら、適度に勉強をして柔軟に人生のタスクをこなし、楽しい一生というものを送るのだろう。
 平凡な僕には、縁遠いものだと思った。


 一日分の授業が終わった。大半の生徒たちは、これから塾やら何やらに向かうはずだ。僕にはそんなお金はないから、決まって向かう先は学校の図書室である。校舎が閉まるまでの間が、僕に許された短い自由時間だった。
「おっ、ちょうどいいところに。輝実(かがみ)―!」
「はい。何でしょうか、先生」
 日課通り図書室に向かおうとしていた時。廊下で出会った教師に、声をかけられた。
「悪いんだけどさ、これを養護教諭に渡してくれないか? 俺、これから職員会議に行かなくちゃいけなくて」
「ああ、なるほど。分かりました」
 教師に手渡されたのは、何かの資料のようだった。内容は専門用語であふれていてよく分からないが、きっと養護教諭の仕事に必要なものなのだろう。使い走りにはなるが、時間にはそこまで困っていない。僕は二つ返事で彼の依頼を引き受けた。
 図書室に向かっていた足を切り替えて、保健室へ行き先を変更する。放課後だが、保健室に教諭はいるだろうか。
 誰もいなくなった廊下を、僕は一人進んでいく。マジックアワーの輝きが、ところどころ剥がれた床の塗装を照らしていた。どこか遠くから、吹奏楽部の演奏や運動部のかけ声が合奏となって響く。
 黙々と進んで、ようやく目的地にたどりついた。閉ざされた扉の前に立ち、数回ノックする。
「……?」
 返事はなかった。今は保健室にいないのだろうか。
そうなるとこの資料のやり場に困ってしまう。少しの逡巡の末、僕は扉に手をかけた。一度中に入って確認してしまった方が早い。
「失礼します」
 戸を開けたが、中に人はいなかった。どうやらはずれだったようだ。養護教諭がここにいないとなると、人を探さなければいけなくなってしまうし、色々と困りごとが起きてしまう。あまり勉強時間を削りたくもなかったから、さてどうしたものかと悩みながら天を見上げた。
 ——ガタン。
 ふいに、部屋の奥から何かがゆれるような、倒れるような音が聞こえた。
「なんだ……?」
 少なくとも、音の源に心当たりはない。ああ、もしかしたら保健室の奥で教諭が何か作業でもしているのだろうか。
 そう思い立ち、僕は手近な机に資料の紙束を置いて、音のした方へと近寄った。
「あの……」
「わっ」
 その先に立っていた人物を見て、僕は目をみはった。
「えっと……颯汰くん、だっけ」
 下の名前で呼ぶのは少々馴れ馴れしいだろうかと思いつつ、そちらしか知らない以上仕方がないので、僕は彼の名前を呼んだ。颯汰は慌ただしく口を開けたり閉じたりしている。「どうかした……?」それとなく声をかけてみたが、彼はよほど焦っているようで、言葉をどもらせながら視線をあちらこちらへとやるばかりだった。
 ふいに、彼が手元を隠そうとしていることに気がついた。それは必死の勢いだった。手首をつかんで胸元に寄せてはいるが、それがかえって目立つ行動になっている。僕は彼の手元を注視して、次に愕然とした。
「ちょ、血出てる!?」
「あ、こ、これは」
 颯汰は自らの手首を握りながら首を横に振っている。けれどそこからは鮮烈な赤色の液体がひかえめにしたたっていて、まさしく異様な光景だった。
 彼の背後には洗面台がある。血を流してから止血をしようとして、失敗したのだろうか。足元には血に染まったガーゼの塊が落ちていた。
「待ってて、僕がやるから」
 とっさに踵を返して、保健室の戸棚を漁った。見慣れない薬品も多かったが、さすがに簡単な消毒液やガーゼくらいなら見れば分かる。僕はそれらを手に取って、颯汰の元へと戻った。
「手首、出して」
颯汰は一部始終を見つめながらも呆気にとられているようで、僕のまなざしを受けて立ち尽くしていた。
 数秒の間ののち、僕の言葉の意味をようやく理解したのか、彼は恐る恐るといったように左手を差し出した。
 手首には、細長い横向きの線が幾本も刻まれていた。何か、鋭い道具で切ったような痕だった。視線を横にそらせば、彼がその右手に何かを隠すように握っているのが垣間見えた。
 僕は手早く彼の左手首に消毒液をかけると、すかさずガーゼを押し当てた。なるべく強い力を込めて握る。時間が経つごとに、布が色を変えながら柔らかく湿っていった。
 時折ガーゼを取り替えて、それを数回くりかえす。やがてガーゼに赤色がにじまなくなってきた頃合いを見計らって、手を離す。
 彼の手首からあふれていた血は、今はあとかたもなく消えていた。
「待っててね。包帯も持ってくるから」
 もう一度棚を漁りに行って、新しいガーゼと網包帯を取り出した。すぐに戻って、彼の手首にガーゼを当てながら、テープで止めつつそれを網包帯で固定する。これでひとまずは大丈夫だろう。僕は一つ深いため息を吐いた。
「……慣れてるね」
「そうでもないよ。痛みは大丈夫?」
 颯汰は無言でうなずいた。胸を撫で下ろして、僕は彼の白に包まれた腕を見やる。
 傷の原因は容易に想像がついたが、動機は分からなかった。彼のような人々の中心に立つ人間が、どうして自傷などする必要があるのだろうか?
 颯汰は口をつぐんだまま、僕の視線から逃れるようにうつむいている。さすがに見ていられなくて、僕は彼の両手をすくった。
「あの、また怪我しちゃったら僕に言ってくれていいから。一人でだと、手当てするの、大変でしょ?」
 颯汰はおもむろに顔を上げると、信じられないものを見るように僕を見つめた。
 ほんの一瞬、彼は口を開いた。けれどすぐに、なかったことにするように閉ざした。
 代わりに、彼は僕の手を握り返した。強くもなく弱くもなく。ただひたすらにすがりつくように、僕の指先に彼自身の指をからませた。
 なんだかいっそうかわいそうに思えてきて、僕は絡めさせた指先を甘やかすように抱きしめた。見上げれば、切なげに眉を寄せた颯汰の姿がそこにあった。


 翌朝、僕はいつものように、生徒の合間をぬいながら教室を目指した。
 廊下を進む足は、いつもより心なしか遅い。
昨日の出来事が衝撃的で、つい頭がそちらの方に傾いてしまうのだ。
 色白な肌からしたたり落ちる赤黒い液体。それを覆い隠す無機質な粗い布。そして、僕を見下ろす、悲痛にゆがんだ青色の瞳。
 その光景は色鮮やかなフィルムとなって、僕の脳にはりついていた。
 ついさっき見たかのような映像に意識を奪われながら、僕はおぼつかない足取りで教室にたどりついた。作業のように歩いていたせいで、上履きが椅子にぶつかるまで自分が自分の席のそばにまで来ていたことに気づかなかった。
 すっかり心ここにあらずとなっている。僕は自嘲して、荷物を置いて席についた。
 あまり考えていても仕方ない。僕は読みかけだった小説を取り出して、前に挟んでおいたページから栞を外した。
 新作だから、まだ小説もそこまで読み進んではいない。昨日、ようやく事件が起きたばかりなのだ。これから捜査パートに入る。キャラクターと共に犯人探しをできる感覚が楽しくて、僕はミステリー小説を好んで読んでいた。
 殺人事件を前にして、新人探偵が立ち上がる。相棒をかたわらに連れて、恐ろしい事件に挑んでいくのだ——
「あ、それ今流行ってる作家の新作だよね。犯人、教えてあげようか?」
 ページをめくろうとしていた手が止まった。頭上から降ってきた声は、つい最近聞いたばかりの音だった。
「犯人は結構序盤から出てきてるんだけど……」
「あ、待っ、ストップ! 言わないで!」
「はは、冗談だよ。俺もまだ、その作品読んでないし」
 そう言って、彼——颯汰は笑った。昨日とは打って変わって、爽やかで軽快な、クラスの中でよく見る彼の笑顔だった。あの弱々しい姿は嘘だったのかと思わせるほどに。
「えっと……」
 何の意図があって彼は僕に声をかけてきたのだろう。やはり昨日の件で何かあったのだろうか。
 話に出して良いものかとためらっていると、先んじて彼が口を開いた。
「昨日はありがとう。おかげさまで化膿したりせずに済んだよ」
「そ、そっか。ならよかった」
 それ以降何と返せばいいのか分からなくなって、僕は閉じた本を片手に目を泳がせた。
 これで話はおしまいだろうか。気まずいから早く帰ってくれないかな、なんて思っていたけれど、その思いに反して、颯汰はその場を離れようとしなかった。
「あの……他に何か?」
 僕は挙動不審に視線を上げた。その先で静かな笑みをたたえた颯汰の瞳とかちあって、思わず向けていた視線をそらす。
「ずっと気になってたんだ。どうして君は、あんなに傷の手当てに慣れてたのかなって」
 無意識に唇を噛んでいた。眉根を寄せて机の木目をにらむが、颯汰は言葉を訂正するそぶりを見せようともしなかった。僕の様子に気づいているのかいないのか。なんとなく、気づいた上でこういう態度を取られている気がした。
 彼はなぜ、こんなことをするのだろう。ちょうどいいおもちゃでも見つけた気分なのだろうか。彼がそこまで性悪であるとは思いたくなかったけれど、こうまで僕を追求してくる理由までもは分からなかった。僕は彼の領域に踏み込もうとしていないのに、どうして彼はずけずけと踏み入ってくるのだろう。
「ねえ、どうして?」
「……昨日も言っただろ。別にどうってことじゃない。ちゃんと保健体育の教科書にも書いてある程度の知識だよ」
 実際そうだろう。止血の仕方なんて、誰が知っていたっておかしくはない。きっと彼が言いたいのはその所作が迅速であったことへの違和感なのだろうけど、僕はその点について何も言わないことにした。
 颯汰は変わらず笑みをたたえたままだった。「そっか。確かにそうだね」
そう言って向けられる笑顔は、嫌味のないものだった。なんだか卑屈な態度をとってしまった自分の方が、よっぽど嫌なやつのように思えた。
「傷は、もう大丈夫なの?」
 振り払うように、僕は異なる質問を投げかけた。颯汰は一つまばたきをすると、その丸い瞳を大きく見開いた。
「大丈夫。水につけたりするとさすがに沁みるけど、他は問題ないから」
「そう……」
 なんだか始めにした会話に戻ってしまった気がする。自分のコミュニケーション能力の低さに嫌気がした。
 一方の颯汰は、僕の机に手を置いて身を乗り出してきた。こちらを熱心に射抜くその空色の瞳は、奇妙なきらめきを持って爛々と輝いていた。
「俺さ、君ともっと仲良くなりたいんだよ」
「え……?」
 困惑を隠せないまま、僕はぼんやりと言葉をこぼした。颯汰は小首をかしげながら、心底楽しそうに語る。
「俺、本当はあんまり人付き合いが好きじゃないんだ。皆仲良くしてくれるから、大声じゃ言えないけどさ」
「なら、どうして僕なんかと」
「そんなの、決まってるだろ」
 おもむろに、颯汰に手を取られた。僕より一回り大きい、けれど丁寧に手入れのされたなめらかな指先に絡め取られる。
 固く握られた両手の向こう側で、颯汰が滔々とつぶやいた。
「君なら、俺の理想になってくれそうだから」
 周囲のざわめきが遠く感じた。教室の端の端にある僕の席に、颯汰がいることに対して気づいている人はまだいないようだ。だから、この異様な状況から助けてくれる人もいない。僕は背筋に冷たいものが走っていくのを感じた。
「そんなこと言われても、僕は……第一、君の理想って何?」
 颯汰はほほえむだけだった。一人だけのキャッチボールがこんなにも恐ろしいものだとは。僕はいよいよ彼の真意が分からなくなって、彼の手を振り解きたくなった。
 そうして手を払おうとした時だった。僕の両手を抱いていた彼の手のひらに、さらに力がこもった。
「それに、俺たち。きっと同類だ」
 細いようで節のある彼の指が、僕の手の甲を淫猥に撫でた。喉に何かが詰まったような心地になって、言葉を失ってしまう。
 突然脳裏をよぎったのは、誰かの怒号だった。物が割れる音、壁が叩かれる音。頭からかけられる液体。鼻腔に、すえたアルコールの匂いがただよった。
「君、名前はなんていうの?」
 力をなくした手を彼に預けながら、僕はささやくように言った。
「……輝実。輝く、実りって書くんだ」
 吐き出された声は、情けないほどに震えていた。
「いい名前だね」