絶対幸せにならないで!

丘の上にある小さな小学校。そこから少し下って細い道に入るとブランコと滑り台、そして申し訳程度の砂場があるだけの小さな公園があった。雑草が無秩序に生えていて、年に数回ある町内清掃の時にしか大人は足を踏み入れないような公園。そこが僕の避難所だった。

「今日はちゃんと学校行きなさいよ」
「保健室はね、本当は体調の悪い子が来るところなのよ」
「そらくん、そろそろ学校来てみないか」

僕のためだということはわかっていた。前に無理やり教室に放り込まれたとき、来るな、変なやつ、キモい、しまいにはゴキブリだのアンモニア臭がするだのと、バカのひとつ覚えのようにクラスメイトは僕を袋叩きにした。なぜ僕を嫌うのか、その理由を説明できるやつなんていないだろう。とりあえずはみ出し者を潰そうという小学生ならではの幼稚で残酷なイベント。そのターゲットがたまたま根暗な僕になっただけなのだから。

「なんで給食の時だけ来んだよ、給食泥棒だー!」
「帰れ!帰れー!」

こらやめなさい、と担任の女性教師は怒る。いじめは良くないので叱っておきましょう、そんなマニュアル通りな対応。

「ほらほら、そらくんも泣かないの。レオくんもゲンタくんも面白がってるだけよ、毎日行けば誰も何も言わなくなるわ」

負けてはダメだ、担任の先生と主任の新倉先生は職員室で僕を慰めた。

「いつでも相談に乗るからな。先生たちはそらの味方だぞ」

しゃがんで僕の両肩を持った新倉先生は力強くそう言った。周りのデスクでパソコンのキーボードを叩く音、コピー機の重低音がやけに耳障りだった。

「今日は頑張ったな、明日も待ってるぞ」

大人たちは味方ではない、助けてはくれないとその時僕は思った。




キーンコーンカーンコーン♪
お昼のチャイムを聞いて、ランドセルを開けた。母さんが作ってくれた小さなおにぎりが2つに水筒。ブランコに座っていつものようにご飯を食べる。
あの日以降、学校に行かなくなった。
だからといって家にも帰りたくない。母さんの不機嫌には息が詰まるし、父さんの明るい慰めには逆に心が抉られるだけで、誰もいない、いつの間にかこの公園だけが安心していられる心休まる場所になっていた。住宅街に囲まれ、やけに静か。世界が僕1人になったような優しい世界。

「あれ?誰かいる」

その世界に突然君が現れた。

「なにしてるのー?」

能天気な声で遠慮なく入ってくる男の子。まだ下校時間じゃないのにランドセルを背負って帰ろうとしている感じだった。

「芙蓉ヶ丘小のひと?」
「え、まって4年生じゃん!おれと一緒!」

名札を見て彼はは目を輝かせた。

「1組かー。おれ2組の虹っ!よろしくっ!」
「あ、うん。よ、よろしく」

握手を求めてきたのだ。完全にペースに飲み込まれ、手を握る。

「あれ、ていうか学校は?まだ授業終わってないよね?」
「……」
「おれさー、腹いたで早退したんだけどさー、学校出た瞬間になんか治っちゃって!」

聞いてもいないことを虹くんはぺらぺらと話し始めた。学校に戻ることも考えたが、次の時間がちょうど苦手な理科だったから帰ることにしたという。

「でも家に帰ってもママが帰ってくるまでゲームは使えないしさー、やることないからここに来た!」
「……そうなんだ」

正直な気持ち、はやく帰ってほしかった。おにぎりを持つ手の力が徐々に抜けていき、居場所を奪われる危険信号が胸を打つ。

「そしたら公園に人がいたからびっくり!よかったー」
「よかった……?」

僕は反射的に虹くんの目を見てしまった。初めて目が合ったとき、虹くんはひまわりのようなまぶしい笑顔で笑ってくれた。

「え?うん!うれしい!だって楽しいじゃん、1人よりもさっ」
「……1人の方がいいよ」
「え?」
「僕はいつも1人でここにいるから。学校なんかより家なんかより、ここで1人でいる方がいい」
「学校行かないの?」
「行かない」被せ気味にきっぱりと言う。
「……なんで行かないの?」

今まで何度も聞かれた質問だった。ただひとつ違うことはその声色。虹くんのは心配や苛立ちのない、単純な疑問のよう。なんで唐揚げが好きなの?なんで卓球クラブに入ったの?と同じテンションだ。

「みんな、僕に来ないでほしいんだって」
「……」
「招待されてないパーティーには行かないでしょ。僕は友達いないし教室にいるとみんな嫌だって言うの」

空気を読んだだけ、そのつもりだった。踵を地面に押し当て強く擦ると、地面の硬くなった砂が少し削れて窪みができ、靴の底がすり減った。

「僕はいらないってっ……もっとみんなみたいにできたら、変われたら、僕だって……みんなと同じになれるのに……今さら変われない……もう全部、おしまいなんだよ……」

涙声で最後はほとんど話せなかった。涙は堰を切ったように溢れ出す。今まで先生はもちろん、親の前でさえ泣かなかったのに。

「ふーん」

虹くんはおもむろにブランコを降りるとなぜか近くの砂場にしゃがんで雑草を弄り出した。

「別に変わらなくていいじゃん」
「……え?」

僕も涙もびっくりして止まる。虹くんは雑草から目を離さずに言った。

「うん、そのままがいいよ。だって君は悪くないじゃん?」
「……え?」
「人に合わせる必要なんてないよ」

みんな一緒なんて気持ち悪いしね、と虹くんは笑った。

「そのままでいてよ」

頬に伝う涙が急に暖かい。

「それに、みんながどう言ったのか知らないけどさ、」

虹くんは僕の顔を見上げた。

「少なくともおれは歓迎してる!今この公園に君がいることをね!」

あ、でもここ学校じゃないか、へへ、と虹くんは急におちゃらける。

「1人じゃつまんなかったし、とにかくありがと」

隅に立つボロい時計塔が13時20分を指した。

「そらくんだっけ?」
「え?うん」

虹くんは雑草の中からなにかを抜き取り僕のところへ寄ってきた。

「おれと友達になろうよ!」

目の前には四葉のクローバー。虹くんはポケットからハンカチを取り出してそれを挟むと僕に差し出す。ボーッとしている間に、虹くんはランドセルを背負って出口に立っていた。

「あ、そのハンカチ!パパのだから明日返してねー」
「え、僕は学校に行かな、」
「学校に行くんじゃなくて、おれにハンカチを返しに来てって!明日の昼休みは図書室にいるよ。じゃ!」

手を振り慌ただしく帰っていく。台風の後、薙ぎ倒された物や崩れた家を見る時のように、僕は呆然と虹くんが立っていた場所を見ていた。さらりと吹く風が涙をも乾かしてゆく。
虹くんによると、僕はなにも変わらなくていいらしい。脳内で絡まっていた糸が解かれるでもなく綺麗さっぱり消えて、記憶喪失のように自分がなにを悩んでいたのかわからなくなっていて。

——「うん、そのままがいいよ。だってどうみても君は悪くないじゃん?」
——「そのままでいてよ」

その言葉は革命だった。
ずっと変わらなきゃと思っていた。今の自分はダメだから、普通になってみんなと同じにならなければいけなかった、はずだ。




「これ、昨日ありがとう」

次の日、僕は驚くほど素直に学校へ向かった。ただ虹くんにハンカチを返すためだけに。

「あ、そらくん!ねえ見てよこれ。このまちがいさがし、8個まちがいがあるらしいんだけどさー、どうしても最後のひとつが見つからなくて。ちょっと助けてよぉー」

図書室の端っこでまちがいさがしの本にハマっているらしい虹くんは帰ろうとする僕の腕を無理やり引っ張って座らせる。その最後のまちがいが見つかるまで帰らせてはくれなさそうだった。

「これじゃない?」

夜空の星の数が右の絵の方がひとつ多い。僕が指を差すと虹くんは本に顔を近づけて確認する。

「あ、え?ほんとだ!」

この問題は超難問と書いてあり、かれこれ5分以上格闘していたからか、見つけられた達成感で僕らは興奮し、ハイタッチをして喜びを分かち合った。

「え待って、そら天才じゃん!」
「天才って、それは言いすぎ……」
「明日もやろうぜ!もっと難しいバージョンもあるんだ」
「……うん」

虹くんがいる学校。虹くんという存在を知ったらこの場所も人生も捨てたもんじゃないと思えた。数ヶ月後、虹くんが隣のクラスにいるなら、と入った教室はやはり始めは悪口のパレードが何度も開催されたが、それもしばらくすると収まった。それにもう誰になにを言われても跳ね返してしまうのだ。大人たちの目も変わり、僕の人生は再び動き出したようだった。
世紀の大革命。すべてがひっくり返った瞬間。
それを難しい言葉でパラダイムシフト、ということを後々僕は知ることになる。




「ちょちょ、そらー!」

休み時間が終わる3分前、僕の教室に虹くんが慌ただしく駆け込んでくる。

「次の時間絵の具セット必要らしい!おれ忘れちゃってさ、そら持ってない?」
「持ってるよ」
「ほんと!貸して!」
「いいよ、はいこれ」
「うわぁ、サンキュー!じゃ後で下駄箱でっ!」

手を振る僕はもう普通の小学生。7年前の出来事である。