「失礼します……」
次の日の昼休み、生徒会室と書かれた扉をおそるおそる開けると、中にいた10人くらいの生徒の視線が一斉に僕に集まった。どうしたらいいのかと視線を泳がせていると、真ん中で画用紙を切っていた男が口を開く。
「おう、あれか。あのー……さ、さー、斉藤、」
「佐藤です」
「おー、そうそう。佐藤くん。若林先生から聞いてるよ」
手伝ってやるのに名前も把握してないのか、と心のなかで愚痴り、ぺこりとお辞儀をした。
生徒会室は画用紙やら発泡スチロールやらが木の古い棚に積み上げられていた。多分、というか絶対いらない色褪せた模造紙があちこちに転がっていて、綺麗好きを自覚する僕は思わず目を細めた。
「とりあえず座ってよ、な?」
教室に舞うチョークの粉と埃。咳き込みそうだ。
「来てくれてありがとうな。俺は副会長の佐々木晴。よろしく」
雰囲気からして優等生。顔は柔らかい印象でいて、体はガッチリとしている。たしか先生情報によると、今年引退したがサッカー部のエースストライカーだったんだとか。
まぶしい。こういう痛いくらいの光は苦手だ。
「佐藤空です。よろしく、お願いします……」
先輩の出した手に遠慮がちに触れる。カサカサとした手の感触に僕は苦笑いをした。
「来月の体育祭の準備でバタバタしててな。佐藤くんがボランティアしてくれるって聞いて助かったよ」
名前忘れてたけどなこいつ。
「あ、いえ。僕なんて全然。役に立てるかも怪しいですけど」
そんなことねーよ、と先輩は立ち上がって生徒会室の奥の奥の奥、ぐちゃぐちゃに重ねられた段ボールの隙間から大きな木の板を取り出して僕に渡した。薄っぺらい、注意しないと手に棘が刺さりそうな木。
「こ、これは?」
「去年使ってた得点板が壊れちゃって、作り直すことにしたんだ。それで佐藤くんにその仕事を任せたい」
「任せる!?」
「おう。俺は注意書き作るのと、前日準備の指揮の打ち合わせで忙しいんだ」
「……」
黙り込む僕に先輩はプリントを渡してきて言った。
「レイアウトはこんな感じで。ペンキとかニスは外の倉庫か美術室にある。なんかあったら俺を呼んでくれ」
「え、え?いや、」
「大丈夫だ、最悪失敗しても板なんかいっぱい、」
話している途中でバイブ音が鳴る。先輩はポケットからスマホを取り出して数秒見た後、出ずにまたポケットにしまった。
「あのー、出なくていいんですか?」
「あー、うん。大丈夫」
「晴先輩ー、会長が呼んでます。会議室に来てくださいって」
また別の生徒会役員の呼び出しに、はいはい、と返事をして先輩は去っていく。
とんだ面倒を押し付けられたものだ。ため息をついてブルーシートとペンキ、その他諸々の道具を求めてまずは美術室に行くことにした。
脇にはブルーシート、右腕には2色のペンキ。左腕にはニスとヘラを詰め込んだ缶を持ってきた僕はヘトヘトになって生徒会室の床へ座り込んだ。
「はぁー、疲れた」
「え?」
「え?」
感嘆詞のオウム返し。見ると、ボブヘアの女の子が目を丸くしてこちらを向いていた。スカートを折らず、第一ボタンまでしっかり留まっている真面目ちゃんという印象だ。
「あっ、すいません。ひとり言です」
何も考えず出た言葉に慌てて言い訳をして、得点板作りに取り掛かる。
ペンキの匂いはよく知らないけど体に悪そう。僕はなるべく口呼吸を意識した。
「あの」
しばらく無言で木の板全体を赤く塗っていると先ほどの女子に声を掛けられ、顔を上げる。
「はい?」
「佐藤くん、でしたよね?」
「そうですけど」
「晴先輩と仲良いんですか?」
「え?いや、今日初めて会ったばかりです」
「あ、そうなんですね」
「……」
「ほらあかりちゃーん、言ったじゃん!」
横から割って入ったのはずっと資料を見つめていた女子。
「てっきり友達かなんかの繋がりでここに来たのかと……」
あかり、と呼ばれた優等生ぽい女子はまごまごと下を向いた。
「佐藤くんごめんね、この子副会長が好きらしくてさー」
「ちょっと美優さん!」
「だから自分から行くしかないんだって!仲を取り持ってもらおうとか考えずにさー」
「あー、ははは」反応に困ってとりあえず笑ってみた。
「晴先輩人気だから私なんかがデートに誘ったとしても来てくれないと思います……」
顔を赤らめながら言うあかりという女の子を見て胸が痛む。その健気さに、この子の恋が叶ってほしいと思った。
「晴先輩っていうのはモテるんですか?」
名札のカラーからおそらく先輩の美優さんに聞いてみる。
「あいつはモテるよー。頭もいいし、サッカー部じゃエースだったもーん。それにあの明るい性格じゃん?」
「へぇー」
「ただ、ねぇ」美優さんはシャーペンをくるくると回す。
「ただ?」
「あいつ彼女とかできたことないんよ」
噂まったくないからなー、と付け足す。
「え?」
「不思議だよねぇ。あんなモテるのに。恋愛とか興味ないんかな」
「あっ、え」僕はどんどん頭が下を向いていくあかりちゃんに目を移した。
「あ!ごめんごめん、あかりちゃん!別に脅してるとかじゃなくて」
慌てて宥める美優さんを横目に作業を続ける。
晴先輩。モテるのに彼女がいたことない?
恋愛よりも生徒会の仕事に生きてます!って感じなのか。いや、そんな敏腕サラリーマンじゃあるまいし。
「もうすぐ昼休み終わるから、後は放課後に!」
美優さんがそう言ったので僕はペンキの穴に蓋をねじ込んだ。
放課後もやるのか、これ。
額の汗を拭って立ち上がると会議を終えた晴先輩が戻ってきた。
「佐藤くん、どうだった?なにか質問とか」
「いや特には。まだ下塗りだけですけど」
「どれどれ……あ、え、」目をパチパチさせる晴先輩の言葉の続きを待つ。
「が、頑張った……な」
濃さがあちこち違うムラだらけの板を前に晴先輩はそうひとこと言った。
「はい」
「ほ、放課後は俺も手伝うからな、うん」
「ありがとうございます」
手のひらについた赤いペンキをハンカチで擦る。なかなか取れずに強く力を入れると摩擦で熱く感じで諦め、血には見えない鮮やかな赤色が手に残った。
教室へ帰る道すがら、僕はふとスマホを取り出した。インスタを開いて結衣というプロフィールをタップする。虹くんが河内さんと付き合ったと聞いて、僕はその日の夜に彼女のSNSを見つけ出してフォローリクエストを送っていた。
「くっ……」
食いしばった歯が擦れるキシっという音が中で鳴る。この女……!
彼女のストーリーに上がっていたのは『中庭でおひる〜!』とメッセージが添えられた河内さんと虹くんが弁当箱を抱えるツーショット。
僕は知っている。虹くんはこういうプライベートな写真をSNSであげられるのが好きではない。意外に恥ずかしがり屋な虹くんは思い出は見せびらかすのではなく、その人たちだけで大切にとっておきたいタイプなのだ。
……何もわかってないんだな。
ブチっと電源ボタンを押し、僕は態度悪く足音を立てて歩く。
今のうちに新しい彼女候補を探しておこう。そしてそれとなく虹くんに匂わせ勧めておこう。虹くんが幸せになれる、もっと良い彼女を。
「さようならー」
長かった一日が終わり、帰りの会の挨拶を済ませて伸びをする。帰ろうとカバン紐に手を掛けると手についた赤いペンキが目に入った。
「うわ」ひとり言は小さく溢れる。
得点板!生徒会の手伝いがあるじゃんか!
思い出さなければよかった。さすがに無視して帰るわけにはいかないので僕は嫌々カバンを引きずって生徒会室へと足を運ぶ。
うわー、帰れたのに。帰って寝れたのに!
生徒会室に入ると、
「佐藤くん!」
と、晴先輩は毛先がバサバサになったヘラを突き出して僕を出迎えた。
「お疲れ様です……」
「よーし、やりますか!」
ペンキは重ね塗りしないといけない。赤を何度も重ねて乾かして、淵を白で塗っていく。無論、これも重ね塗りをする。真ん中の得点を表示するところには100均で買ってきたホワイトボードシートを専用の糊でくっつける、そんな途方もない作業に僕はしばらく没頭していた。
生徒会室には美優さんと他の人が数人、昼休みよりは人数が少ない。
みんな真剣で、静まり返った生徒会室にヴッーっという機械音が鳴った。おそらく発信源は晴先輩のポケット。
「出ないの?」美優さんがペンで晴先輩のポケットを指す。
「うん。迷惑電話だよ、最近多いんだよな」
「わかる。そういうのってさ、どっから情報漏れてんだろうねー」
ため息をつく晴先輩に美優さんは間延びした声で話しかける。
「てか副会長ー?」
「んー?」晴先輩は美優さんの呼びかけに顔を上げる。
「副会長って彼女いないの?」
いきなり恋バナかい。
「な、なんだよ急に」
「えー?なんか動揺してんじゃん」からかうように美優さんは言った。
「いないよ」
「なんだ、そうなのか」
つまんなーい、と美優さんはペンを鼻に挟む。
「悪かったな、つまんなくて」
僕は2人の会話を聞きながらホワイトボードシートをちょうどいい大きさにカットする。ザクザクと容易く切れる音と感触が心地よい。
「ねね、じゃあさ」美優さんが身を乗り出す。
「最後にいたのはいつ?」
晴先輩に彼女はいたことない。その噂を確かめに本人に直接聞こうというのか。美優さんはズバズバ突っ込んで聞く、いい意味で男らしいと思った。
「えーと、2週間前……?」
「えっ」美優さんだけでなく、教室のいたるところで作業していたみんなが顔を上げた。
え、いたの?いたことあるの?みんなの顔がそう言っている。しかも結構最近だし。
「なんでそんな驚く?」
晴先輩はびっくりしたように聞いた。
「いや、だって彼女の話とかしないじゃん」
「そんな自ら公開しないだろ普通」
「まじ、か……」
いまだ驚きが消えない美優さんに晴先輩はなんだよ?と口を尖らせた。
「これはトクダネだわ。では」
立ち上がる美優さんの腕を晴先輩が急いで掴む。
「おいおい、まさか誰かに言うつもりじゃないよな?」
「ええ?」
わざとらしく首を傾げる美優さんの目はキラキラしていた。
「誰にも言うなよ!言ったらプライバシーの侵害で訴えっからな!」
「じゃーあ、」美優さんは持っていたクリアファイルからプリントを取り出して晴先輩に渡す。
「口止め料として企画書お願い!案が全然思いつかなくてぇ〜」
「お前な……!」
スキップしながら帰っていく美優さんを見て僕は笑ってしまった。このくらい軽く、自分の気持ちを表したり世渡りする人がうらやましい。
はぁー、深くため息をついた晴先輩に心の中でドンマイ!と応援した。
美優さんが去ってから40分くらいが経過すると、大体作業が終わって一旦今日はここまでにしようと解散となった。
「佐藤くんごめん。最後得点板運ぶのだけ手伝って」
「はい」返事をして立ち上がる。
「じゃあみんなありがとなー、また明日」生徒会室を出る前にそうみんなに声を掛け、晴先輩と僕は外の倉庫へ完成した得点板を運ぶ旅に出た。
「いやー、まじ助かったわ。ありがとな」
倉庫に向かう途中でグラウンドを横切った。
「晴くん!」
サッカー部の後輩だろう。プラクティスユニホームを着た集団が晴先輩の周りに集まる。
「おー、練習頑張ってるか?」
後輩と挨拶を交わして軽く雑談をする。
後輩の視線やその熱量で晴先輩は慕われているんだとすぐわかる。さすがだな、と輪から外れて眺めていると晴先輩が僕に手招きをした。
「え?」言いつつ横に並ぶと、
「今生徒会の手伝いしてくれてる、佐藤くん」
「こんにちはっす!」1年生が僕に頭を下げる。僕は急に話の中心になってわけもなくニコニコするしかなかった。
「何持ってるんすか?」
「あー、えっーとこれはそのー、」言葉を詰まらせる僕に晴先輩は代わりに答えた。
「体育祭で使う得点板だ」
「新品じゃないですか!体育祭まじ楽しみっす!」
「部活リレー頼むぞー、1位で繋げてくれよ」
「任せてください!」
後輩と話す晴先輩はまるで親のよう。僕は再び得点板を先輩と抱えて歩いた。
生ぬるい風が顔に張り付く。前側を持って歩く晴先輩の整えられた髪がわずかに揺れる様を眺めながら歩いた。
「うわ……」
体育倉庫は全体的にカビ臭く、中に入ると順位の旗や大縄飛びの縄、メジャーやライン引きが数台あった。
そこの隅に得点板を立て掛ける。
「よーし、これで完了!」晴先輩は僕の目の前に手のひらを向ける。一瞬考えて、ああ、ハイタッチね、とその手のひらに応えた。
「佐藤って電車通学?」
「いや、自転車です。沼島市なので10分くらいですね」
「へぇー、うらやましいよ。俺は電車だからなー」
先に倉庫を出ようと踏み出すと、ミシッと木が軋む音が鳴った。次の瞬間、立て掛けられていたプラスチックのポールが雪崩のように崩れ、僕の頭を直撃……しなかった。反射的に目をつぶっていたから何が起こったか見えないけど、なんでだ?たしかに床にポールが倒れる衝撃音がしたのに。
「痛っ……佐藤、大丈夫か?」
名前を呼ばれ目を開ける。
「せ、先輩!」
晴先輩は僕を庇うような形で横に立ち、倒れるポールを受けた。先輩の頭や肩に当たったおかげでポールは横に軌道を変えて倒れたらしい。
「大丈夫ですか!?」
顔を覗き込むと先輩はへらっと笑って肩についた土埃を払いながら言った。
「そんな心配しなくても、こんくらいヘーキヘーキ」
そう言って倒れたポールを元の場所に戻すと先に外へ出ようとする背中に僕は頭を下げる。
「ありがとうございました」
おう、となんでもないように晴先輩は頷く。
「さ、戻ろっか」
「はい」
純粋にかっこいい先輩だ。
「さすがにみんな帰ったか」
生徒会室は空だった。僕たちも軽く片付けて帰るだけだ。
ヴッー。ヴッー。
ペンキの缶を隅に寄せていると今日何度目かのバイブ音が響く。
「晴先輩、電話鳴ってます」
「あー」窓のすぐ近くの机に座っていた晴先輩はスマホを凝視した。
「出ないんですか」
迷惑電話ですよね、とさっき言ってたことを確認する。
「実は違うんだ」
「え?」
「元カ……半年前に別れた人。復縁しよっていう電話が最近ずっと、」
その時、僕は本当に覗き見ようとしたわけじゃない。本当に。たまたまなんだ。
窓に背を向けて座っていた晴先輩が悪い。スマホの画面が窓に反射して見えてしまったんだ、
『龍一』という名前が。
「え?」
衝撃を受けている間にバイブ音は止まった。固まる僕に何も知らない晴先輩は不思議そうに僕の顔を見つめた。
りゅ、龍一?龍一ちゃん?いやそんなわけ……
「あの」
「なんだ?」
「先輩が付き合ってたのって……男の人、ですか?」
わかりやすく先輩の顔が青ざめる。見てしまったのだからしょうがない、黙ってるわけにも、いかない……よな?
「ま、窓に反射して……」
焦ったような顔で晴先輩が窓を振り返る。
「あの、僕は絶対誰にも言わないんで安心してください」
言わないも何も言う相手がいないだけですけど。
「あ……」
俯く晴先輩はさっきの頼もしさなど見る影もなくなってしまった。
言わなきゃよかったかな。
人間、誰でも突っ込まれたくないことだってあるのに。僕はその罪悪感からなんとかしないとと思考を巡らせる。
「そんな、落ち込まないでください!」
この人は輝いていないといけない類の人だ。だからなんとかして元気を取り戻してもらわないと。
頭を落とす晴先輩の肩に手を置き、励ます。しばらくすると下を向いたまま晴先輩は口を開いた。
「……俺はゲイなんだ」
自信なさげにポツリとつぶやく、ひとり言みたいな声。
「はい」
「はいって。引かないのか?」
「なんでですか」
「別に多くはないけど、今まで付き合った人はみんな男だよ」
「ゲイならばそうでしょう」
いまだ顔を上げない晴先輩は言う。
「男が好きだなんて知ったらきっとみんな……」
その言葉の続きは言いたくなさそうだった。
晴先輩の弱さを僕は見た気がした。
「ダメなことだって思うんですか?」
「……え?」
驚いたように少しだけ晴先輩は顔を上げた。
「そんな自分じゃダメだって、嫌いだって思うんですか?」
単純な疑問だ。詰問しているようだけどそんなつもりはない。
生徒会室は妙に静かで互いの呼吸すら聞こえる。たまに廊下を歩く足音が振動を起こす。
「あの、」
まあいいだろう。
「僕はたぶんゲイじゃないんですけど、僕の好きな人も男ですよ」
「へ?」
晴先輩は今度はしっかり僕の顔を見る。
「でも僕はそんな自分をダメだと思いません。むしろその人を好きになったことを誇らしく思うんですよねー」
「そう、なのか……」
「だからそんな落ち込むことないじゃないですか」
剣道ならば一本取られた。僕はそんなつもりじゃなかったけど、晴先輩の顔はそんな感じだ。
もともと親しみやすいテイストの先輩だったけど、少し戸惑っている先輩の方がより親しみやすくなったと僕は思った。
「で、その元彼がメンヘラちっくで別れたと?」
しばらくしてから、晴先輩は目に正気を取り戻してその元彼について話してくれた。
軍手をつけて段ボールの仕分けをしながら。僕は椅子に座り、もう既に綺麗な黒板に黒板消しを擦り付ける。
「ああ、それからちょっと経ってからメールやら電話やらが止まらなくてな、困ってたんだ」
「そんなのブロックすればいいじゃないですか?」
「え、そん、急に?」
「迷惑なんですよね?」
「まあ」
「……え?どういうことですか。躊躇う要素あります?」
「そんなシャットダウンみたいなこと、」
再び晴先輩の電話が鳴る。
「はあー、もうめんどくさいですねー」
僕は無視しようとする先輩のスマホを奪って着信拒否のボタンを押した。
「お、おい!」
「はいはいブロック〜!」
しっかりと消したことを確認してスマホを返す。しばらく放心状態で晴先輩は固まっていた。
「先輩は優しすぎますよ。変に喧嘩別れじゃないんだし、お互い納得した上で別れたのなら縋ってくる向こうが悪いです」
「まあ、そうだな」
「別れたとしても好きであることに変わりないなら、その人の幸せを願わないと」
夕暮れの空を見上げると、カラスが2匹優雅に空を飛んでいた。
「……とか偉そうなこと言ってますけど、僕もよくわかんないですけどね」
「え?」
「付き合ったことないんで」
「え?好きな人がいるって……」
「片想いです。7年の」
「ええ!?」
「……ははっ」ひとテンポ置いて、やっと晴先輩は笑った。
「なんで笑うんですか?」
「いやー、なんか恋愛マスターみたいだなって」
「いやそんな」
「どんな人?どんな所が好きなんだ?」晴先輩は目を輝かせて聞いてきた。
「どんな……」
いろんなシーンでの虹くんの笑顔が思い浮かぶ。僕の肩に肘を置いて歩く帰り道、見たい映画があるって誘ってきてくれるところ、風邪をひいたと言ったら飴をくれた日、2人でテストの反省会をした時のこと、そして……出会った時のこと。
何時間でも思い巡らすことができるだろう。好きな所なんてたくさんありすぎて全部、と言いたい。全部、というか虹くんの存在それ自体が好きというのが正しいのかもしれない。
「告白とかしないのか?7年も好きなのに」
完全に恋バナモードの晴先輩は楽しそうに聞いてきた。
「それはないですねー」僕は軽く笑う。
「え?」
「探してるんですよ、その人に相応しい人を」
「ど、どういうことだ……?」
「にじくんを幸せにしてくれる人を探して……」
言いながら僕は晴先輩の顔を見た。
ちょっと待てよ。
晴先輩は成績優秀。サッカー部の元エースで誰からも慕われる人格者。さっき僕に怪我をさせないように自分を盾にして守ってくれた。
それに……ゲイなんだよな?
最後のパズルのピースがはまるように、僕の思考は一気にクリアになった。
この人じゃない?虹くんを幸せにできる人って。
僕は座っていた椅子から立ち上がって晴先輩のところへ小走りに駆け寄る。そして、ガシッとその手を両手で掴んだ。
「な、なんだ」僕の勢いに少々怯えているようにも見える晴先輩は目を大きく見開いた。
そして僕の心臓もバクバクと興奮状態で収まらない。
まっすぐに先輩の目を見て僕は言った。
「あんたが付き合ってよ、虹くんと」
「……は?」
次の日の昼休み、生徒会室と書かれた扉をおそるおそる開けると、中にいた10人くらいの生徒の視線が一斉に僕に集まった。どうしたらいいのかと視線を泳がせていると、真ん中で画用紙を切っていた男が口を開く。
「おう、あれか。あのー……さ、さー、斉藤、」
「佐藤です」
「おー、そうそう。佐藤くん。若林先生から聞いてるよ」
手伝ってやるのに名前も把握してないのか、と心のなかで愚痴り、ぺこりとお辞儀をした。
生徒会室は画用紙やら発泡スチロールやらが木の古い棚に積み上げられていた。多分、というか絶対いらない色褪せた模造紙があちこちに転がっていて、綺麗好きを自覚する僕は思わず目を細めた。
「とりあえず座ってよ、な?」
教室に舞うチョークの粉と埃。咳き込みそうだ。
「来てくれてありがとうな。俺は副会長の佐々木晴。よろしく」
雰囲気からして優等生。顔は柔らかい印象でいて、体はガッチリとしている。たしか先生情報によると、今年引退したがサッカー部のエースストライカーだったんだとか。
まぶしい。こういう痛いくらいの光は苦手だ。
「佐藤空です。よろしく、お願いします……」
先輩の出した手に遠慮がちに触れる。カサカサとした手の感触に僕は苦笑いをした。
「来月の体育祭の準備でバタバタしててな。佐藤くんがボランティアしてくれるって聞いて助かったよ」
名前忘れてたけどなこいつ。
「あ、いえ。僕なんて全然。役に立てるかも怪しいですけど」
そんなことねーよ、と先輩は立ち上がって生徒会室の奥の奥の奥、ぐちゃぐちゃに重ねられた段ボールの隙間から大きな木の板を取り出して僕に渡した。薄っぺらい、注意しないと手に棘が刺さりそうな木。
「こ、これは?」
「去年使ってた得点板が壊れちゃって、作り直すことにしたんだ。それで佐藤くんにその仕事を任せたい」
「任せる!?」
「おう。俺は注意書き作るのと、前日準備の指揮の打ち合わせで忙しいんだ」
「……」
黙り込む僕に先輩はプリントを渡してきて言った。
「レイアウトはこんな感じで。ペンキとかニスは外の倉庫か美術室にある。なんかあったら俺を呼んでくれ」
「え、え?いや、」
「大丈夫だ、最悪失敗しても板なんかいっぱい、」
話している途中でバイブ音が鳴る。先輩はポケットからスマホを取り出して数秒見た後、出ずにまたポケットにしまった。
「あのー、出なくていいんですか?」
「あー、うん。大丈夫」
「晴先輩ー、会長が呼んでます。会議室に来てくださいって」
また別の生徒会役員の呼び出しに、はいはい、と返事をして先輩は去っていく。
とんだ面倒を押し付けられたものだ。ため息をついてブルーシートとペンキ、その他諸々の道具を求めてまずは美術室に行くことにした。
脇にはブルーシート、右腕には2色のペンキ。左腕にはニスとヘラを詰め込んだ缶を持ってきた僕はヘトヘトになって生徒会室の床へ座り込んだ。
「はぁー、疲れた」
「え?」
「え?」
感嘆詞のオウム返し。見ると、ボブヘアの女の子が目を丸くしてこちらを向いていた。スカートを折らず、第一ボタンまでしっかり留まっている真面目ちゃんという印象だ。
「あっ、すいません。ひとり言です」
何も考えず出た言葉に慌てて言い訳をして、得点板作りに取り掛かる。
ペンキの匂いはよく知らないけど体に悪そう。僕はなるべく口呼吸を意識した。
「あの」
しばらく無言で木の板全体を赤く塗っていると先ほどの女子に声を掛けられ、顔を上げる。
「はい?」
「佐藤くん、でしたよね?」
「そうですけど」
「晴先輩と仲良いんですか?」
「え?いや、今日初めて会ったばかりです」
「あ、そうなんですね」
「……」
「ほらあかりちゃーん、言ったじゃん!」
横から割って入ったのはずっと資料を見つめていた女子。
「てっきり友達かなんかの繋がりでここに来たのかと……」
あかり、と呼ばれた優等生ぽい女子はまごまごと下を向いた。
「佐藤くんごめんね、この子副会長が好きらしくてさー」
「ちょっと美優さん!」
「だから自分から行くしかないんだって!仲を取り持ってもらおうとか考えずにさー」
「あー、ははは」反応に困ってとりあえず笑ってみた。
「晴先輩人気だから私なんかがデートに誘ったとしても来てくれないと思います……」
顔を赤らめながら言うあかりという女の子を見て胸が痛む。その健気さに、この子の恋が叶ってほしいと思った。
「晴先輩っていうのはモテるんですか?」
名札のカラーからおそらく先輩の美優さんに聞いてみる。
「あいつはモテるよー。頭もいいし、サッカー部じゃエースだったもーん。それにあの明るい性格じゃん?」
「へぇー」
「ただ、ねぇ」美優さんはシャーペンをくるくると回す。
「ただ?」
「あいつ彼女とかできたことないんよ」
噂まったくないからなー、と付け足す。
「え?」
「不思議だよねぇ。あんなモテるのに。恋愛とか興味ないんかな」
「あっ、え」僕はどんどん頭が下を向いていくあかりちゃんに目を移した。
「あ!ごめんごめん、あかりちゃん!別に脅してるとかじゃなくて」
慌てて宥める美優さんを横目に作業を続ける。
晴先輩。モテるのに彼女がいたことない?
恋愛よりも生徒会の仕事に生きてます!って感じなのか。いや、そんな敏腕サラリーマンじゃあるまいし。
「もうすぐ昼休み終わるから、後は放課後に!」
美優さんがそう言ったので僕はペンキの穴に蓋をねじ込んだ。
放課後もやるのか、これ。
額の汗を拭って立ち上がると会議を終えた晴先輩が戻ってきた。
「佐藤くん、どうだった?なにか質問とか」
「いや特には。まだ下塗りだけですけど」
「どれどれ……あ、え、」目をパチパチさせる晴先輩の言葉の続きを待つ。
「が、頑張った……な」
濃さがあちこち違うムラだらけの板を前に晴先輩はそうひとこと言った。
「はい」
「ほ、放課後は俺も手伝うからな、うん」
「ありがとうございます」
手のひらについた赤いペンキをハンカチで擦る。なかなか取れずに強く力を入れると摩擦で熱く感じで諦め、血には見えない鮮やかな赤色が手に残った。
教室へ帰る道すがら、僕はふとスマホを取り出した。インスタを開いて結衣というプロフィールをタップする。虹くんが河内さんと付き合ったと聞いて、僕はその日の夜に彼女のSNSを見つけ出してフォローリクエストを送っていた。
「くっ……」
食いしばった歯が擦れるキシっという音が中で鳴る。この女……!
彼女のストーリーに上がっていたのは『中庭でおひる〜!』とメッセージが添えられた河内さんと虹くんが弁当箱を抱えるツーショット。
僕は知っている。虹くんはこういうプライベートな写真をSNSであげられるのが好きではない。意外に恥ずかしがり屋な虹くんは思い出は見せびらかすのではなく、その人たちだけで大切にとっておきたいタイプなのだ。
……何もわかってないんだな。
ブチっと電源ボタンを押し、僕は態度悪く足音を立てて歩く。
今のうちに新しい彼女候補を探しておこう。そしてそれとなく虹くんに匂わせ勧めておこう。虹くんが幸せになれる、もっと良い彼女を。
「さようならー」
長かった一日が終わり、帰りの会の挨拶を済ませて伸びをする。帰ろうとカバン紐に手を掛けると手についた赤いペンキが目に入った。
「うわ」ひとり言は小さく溢れる。
得点板!生徒会の手伝いがあるじゃんか!
思い出さなければよかった。さすがに無視して帰るわけにはいかないので僕は嫌々カバンを引きずって生徒会室へと足を運ぶ。
うわー、帰れたのに。帰って寝れたのに!
生徒会室に入ると、
「佐藤くん!」
と、晴先輩は毛先がバサバサになったヘラを突き出して僕を出迎えた。
「お疲れ様です……」
「よーし、やりますか!」
ペンキは重ね塗りしないといけない。赤を何度も重ねて乾かして、淵を白で塗っていく。無論、これも重ね塗りをする。真ん中の得点を表示するところには100均で買ってきたホワイトボードシートを専用の糊でくっつける、そんな途方もない作業に僕はしばらく没頭していた。
生徒会室には美優さんと他の人が数人、昼休みよりは人数が少ない。
みんな真剣で、静まり返った生徒会室にヴッーっという機械音が鳴った。おそらく発信源は晴先輩のポケット。
「出ないの?」美優さんがペンで晴先輩のポケットを指す。
「うん。迷惑電話だよ、最近多いんだよな」
「わかる。そういうのってさ、どっから情報漏れてんだろうねー」
ため息をつく晴先輩に美優さんは間延びした声で話しかける。
「てか副会長ー?」
「んー?」晴先輩は美優さんの呼びかけに顔を上げる。
「副会長って彼女いないの?」
いきなり恋バナかい。
「な、なんだよ急に」
「えー?なんか動揺してんじゃん」からかうように美優さんは言った。
「いないよ」
「なんだ、そうなのか」
つまんなーい、と美優さんはペンを鼻に挟む。
「悪かったな、つまんなくて」
僕は2人の会話を聞きながらホワイトボードシートをちょうどいい大きさにカットする。ザクザクと容易く切れる音と感触が心地よい。
「ねね、じゃあさ」美優さんが身を乗り出す。
「最後にいたのはいつ?」
晴先輩に彼女はいたことない。その噂を確かめに本人に直接聞こうというのか。美優さんはズバズバ突っ込んで聞く、いい意味で男らしいと思った。
「えーと、2週間前……?」
「えっ」美優さんだけでなく、教室のいたるところで作業していたみんなが顔を上げた。
え、いたの?いたことあるの?みんなの顔がそう言っている。しかも結構最近だし。
「なんでそんな驚く?」
晴先輩はびっくりしたように聞いた。
「いや、だって彼女の話とかしないじゃん」
「そんな自ら公開しないだろ普通」
「まじ、か……」
いまだ驚きが消えない美優さんに晴先輩はなんだよ?と口を尖らせた。
「これはトクダネだわ。では」
立ち上がる美優さんの腕を晴先輩が急いで掴む。
「おいおい、まさか誰かに言うつもりじゃないよな?」
「ええ?」
わざとらしく首を傾げる美優さんの目はキラキラしていた。
「誰にも言うなよ!言ったらプライバシーの侵害で訴えっからな!」
「じゃーあ、」美優さんは持っていたクリアファイルからプリントを取り出して晴先輩に渡す。
「口止め料として企画書お願い!案が全然思いつかなくてぇ〜」
「お前な……!」
スキップしながら帰っていく美優さんを見て僕は笑ってしまった。このくらい軽く、自分の気持ちを表したり世渡りする人がうらやましい。
はぁー、深くため息をついた晴先輩に心の中でドンマイ!と応援した。
美優さんが去ってから40分くらいが経過すると、大体作業が終わって一旦今日はここまでにしようと解散となった。
「佐藤くんごめん。最後得点板運ぶのだけ手伝って」
「はい」返事をして立ち上がる。
「じゃあみんなありがとなー、また明日」生徒会室を出る前にそうみんなに声を掛け、晴先輩と僕は外の倉庫へ完成した得点板を運ぶ旅に出た。
「いやー、まじ助かったわ。ありがとな」
倉庫に向かう途中でグラウンドを横切った。
「晴くん!」
サッカー部の後輩だろう。プラクティスユニホームを着た集団が晴先輩の周りに集まる。
「おー、練習頑張ってるか?」
後輩と挨拶を交わして軽く雑談をする。
後輩の視線やその熱量で晴先輩は慕われているんだとすぐわかる。さすがだな、と輪から外れて眺めていると晴先輩が僕に手招きをした。
「え?」言いつつ横に並ぶと、
「今生徒会の手伝いしてくれてる、佐藤くん」
「こんにちはっす!」1年生が僕に頭を下げる。僕は急に話の中心になってわけもなくニコニコするしかなかった。
「何持ってるんすか?」
「あー、えっーとこれはそのー、」言葉を詰まらせる僕に晴先輩は代わりに答えた。
「体育祭で使う得点板だ」
「新品じゃないですか!体育祭まじ楽しみっす!」
「部活リレー頼むぞー、1位で繋げてくれよ」
「任せてください!」
後輩と話す晴先輩はまるで親のよう。僕は再び得点板を先輩と抱えて歩いた。
生ぬるい風が顔に張り付く。前側を持って歩く晴先輩の整えられた髪がわずかに揺れる様を眺めながら歩いた。
「うわ……」
体育倉庫は全体的にカビ臭く、中に入ると順位の旗や大縄飛びの縄、メジャーやライン引きが数台あった。
そこの隅に得点板を立て掛ける。
「よーし、これで完了!」晴先輩は僕の目の前に手のひらを向ける。一瞬考えて、ああ、ハイタッチね、とその手のひらに応えた。
「佐藤って電車通学?」
「いや、自転車です。沼島市なので10分くらいですね」
「へぇー、うらやましいよ。俺は電車だからなー」
先に倉庫を出ようと踏み出すと、ミシッと木が軋む音が鳴った。次の瞬間、立て掛けられていたプラスチックのポールが雪崩のように崩れ、僕の頭を直撃……しなかった。反射的に目をつぶっていたから何が起こったか見えないけど、なんでだ?たしかに床にポールが倒れる衝撃音がしたのに。
「痛っ……佐藤、大丈夫か?」
名前を呼ばれ目を開ける。
「せ、先輩!」
晴先輩は僕を庇うような形で横に立ち、倒れるポールを受けた。先輩の頭や肩に当たったおかげでポールは横に軌道を変えて倒れたらしい。
「大丈夫ですか!?」
顔を覗き込むと先輩はへらっと笑って肩についた土埃を払いながら言った。
「そんな心配しなくても、こんくらいヘーキヘーキ」
そう言って倒れたポールを元の場所に戻すと先に外へ出ようとする背中に僕は頭を下げる。
「ありがとうございました」
おう、となんでもないように晴先輩は頷く。
「さ、戻ろっか」
「はい」
純粋にかっこいい先輩だ。
「さすがにみんな帰ったか」
生徒会室は空だった。僕たちも軽く片付けて帰るだけだ。
ヴッー。ヴッー。
ペンキの缶を隅に寄せていると今日何度目かのバイブ音が響く。
「晴先輩、電話鳴ってます」
「あー」窓のすぐ近くの机に座っていた晴先輩はスマホを凝視した。
「出ないんですか」
迷惑電話ですよね、とさっき言ってたことを確認する。
「実は違うんだ」
「え?」
「元カ……半年前に別れた人。復縁しよっていう電話が最近ずっと、」
その時、僕は本当に覗き見ようとしたわけじゃない。本当に。たまたまなんだ。
窓に背を向けて座っていた晴先輩が悪い。スマホの画面が窓に反射して見えてしまったんだ、
『龍一』という名前が。
「え?」
衝撃を受けている間にバイブ音は止まった。固まる僕に何も知らない晴先輩は不思議そうに僕の顔を見つめた。
りゅ、龍一?龍一ちゃん?いやそんなわけ……
「あの」
「なんだ?」
「先輩が付き合ってたのって……男の人、ですか?」
わかりやすく先輩の顔が青ざめる。見てしまったのだからしょうがない、黙ってるわけにも、いかない……よな?
「ま、窓に反射して……」
焦ったような顔で晴先輩が窓を振り返る。
「あの、僕は絶対誰にも言わないんで安心してください」
言わないも何も言う相手がいないだけですけど。
「あ……」
俯く晴先輩はさっきの頼もしさなど見る影もなくなってしまった。
言わなきゃよかったかな。
人間、誰でも突っ込まれたくないことだってあるのに。僕はその罪悪感からなんとかしないとと思考を巡らせる。
「そんな、落ち込まないでください!」
この人は輝いていないといけない類の人だ。だからなんとかして元気を取り戻してもらわないと。
頭を落とす晴先輩の肩に手を置き、励ます。しばらくすると下を向いたまま晴先輩は口を開いた。
「……俺はゲイなんだ」
自信なさげにポツリとつぶやく、ひとり言みたいな声。
「はい」
「はいって。引かないのか?」
「なんでですか」
「別に多くはないけど、今まで付き合った人はみんな男だよ」
「ゲイならばそうでしょう」
いまだ顔を上げない晴先輩は言う。
「男が好きだなんて知ったらきっとみんな……」
その言葉の続きは言いたくなさそうだった。
晴先輩の弱さを僕は見た気がした。
「ダメなことだって思うんですか?」
「……え?」
驚いたように少しだけ晴先輩は顔を上げた。
「そんな自分じゃダメだって、嫌いだって思うんですか?」
単純な疑問だ。詰問しているようだけどそんなつもりはない。
生徒会室は妙に静かで互いの呼吸すら聞こえる。たまに廊下を歩く足音が振動を起こす。
「あの、」
まあいいだろう。
「僕はたぶんゲイじゃないんですけど、僕の好きな人も男ですよ」
「へ?」
晴先輩は今度はしっかり僕の顔を見る。
「でも僕はそんな自分をダメだと思いません。むしろその人を好きになったことを誇らしく思うんですよねー」
「そう、なのか……」
「だからそんな落ち込むことないじゃないですか」
剣道ならば一本取られた。僕はそんなつもりじゃなかったけど、晴先輩の顔はそんな感じだ。
もともと親しみやすいテイストの先輩だったけど、少し戸惑っている先輩の方がより親しみやすくなったと僕は思った。
「で、その元彼がメンヘラちっくで別れたと?」
しばらくしてから、晴先輩は目に正気を取り戻してその元彼について話してくれた。
軍手をつけて段ボールの仕分けをしながら。僕は椅子に座り、もう既に綺麗な黒板に黒板消しを擦り付ける。
「ああ、それからちょっと経ってからメールやら電話やらが止まらなくてな、困ってたんだ」
「そんなのブロックすればいいじゃないですか?」
「え、そん、急に?」
「迷惑なんですよね?」
「まあ」
「……え?どういうことですか。躊躇う要素あります?」
「そんなシャットダウンみたいなこと、」
再び晴先輩の電話が鳴る。
「はあー、もうめんどくさいですねー」
僕は無視しようとする先輩のスマホを奪って着信拒否のボタンを押した。
「お、おい!」
「はいはいブロック〜!」
しっかりと消したことを確認してスマホを返す。しばらく放心状態で晴先輩は固まっていた。
「先輩は優しすぎますよ。変に喧嘩別れじゃないんだし、お互い納得した上で別れたのなら縋ってくる向こうが悪いです」
「まあ、そうだな」
「別れたとしても好きであることに変わりないなら、その人の幸せを願わないと」
夕暮れの空を見上げると、カラスが2匹優雅に空を飛んでいた。
「……とか偉そうなこと言ってますけど、僕もよくわかんないですけどね」
「え?」
「付き合ったことないんで」
「え?好きな人がいるって……」
「片想いです。7年の」
「ええ!?」
「……ははっ」ひとテンポ置いて、やっと晴先輩は笑った。
「なんで笑うんですか?」
「いやー、なんか恋愛マスターみたいだなって」
「いやそんな」
「どんな人?どんな所が好きなんだ?」晴先輩は目を輝かせて聞いてきた。
「どんな……」
いろんなシーンでの虹くんの笑顔が思い浮かぶ。僕の肩に肘を置いて歩く帰り道、見たい映画があるって誘ってきてくれるところ、風邪をひいたと言ったら飴をくれた日、2人でテストの反省会をした時のこと、そして……出会った時のこと。
何時間でも思い巡らすことができるだろう。好きな所なんてたくさんありすぎて全部、と言いたい。全部、というか虹くんの存在それ自体が好きというのが正しいのかもしれない。
「告白とかしないのか?7年も好きなのに」
完全に恋バナモードの晴先輩は楽しそうに聞いてきた。
「それはないですねー」僕は軽く笑う。
「え?」
「探してるんですよ、その人に相応しい人を」
「ど、どういうことだ……?」
「にじくんを幸せにしてくれる人を探して……」
言いながら僕は晴先輩の顔を見た。
ちょっと待てよ。
晴先輩は成績優秀。サッカー部の元エースで誰からも慕われる人格者。さっき僕に怪我をさせないように自分を盾にして守ってくれた。
それに……ゲイなんだよな?
最後のパズルのピースがはまるように、僕の思考は一気にクリアになった。
この人じゃない?虹くんを幸せにできる人って。
僕は座っていた椅子から立ち上がって晴先輩のところへ小走りに駆け寄る。そして、ガシッとその手を両手で掴んだ。
「な、なんだ」僕の勢いに少々怯えているようにも見える晴先輩は目を大きく見開いた。
そして僕の心臓もバクバクと興奮状態で収まらない。
まっすぐに先輩の目を見て僕は言った。
「あんたが付き合ってよ、虹くんと」
「……は?」

