絶対幸せにならないで!

夜、家に帰ると小さな机の上にある棚、その1番上の引き出しを開けた。閉じ込めていた、必死に無視しようとあの日以降、開けてはいなかった。怖かった。青い空にもくもくした白い雲、そして虹が架かったデザインのかわいい封筒。雨上がりの階段に一度落ちているからかところどころカピカピになっている。ゆっくりと便箋を取り出して開く。ふぅーっと息を吐く。
さようなら
その文字が滲んでいるのは、雨がまだ乾いていないところに落ちたからじゃない。涙の跡だった。

「なんで今ごろ……」

逃げてはいけない。自分だけ何も知らなかった。このまま知らないふりして友達を続けていくのはそらにも失礼だ。スマホを開いてそらに電話をかけよう、そう思って画面を開くけど通話開始ボタンを押せなかった。ベッドに寝転んで深呼吸をする。それでもできずに立ち上がって部屋を歩き回っても指先が震えていた。

「……よし」

バンジージャンプと同じだろう。早く飛ばないとどんどん先延ばしになって怖くなる。こういうのは勢いに限るのだ。おれは半ば投げやりな気持ちでボタンを押した。コールがかかると一気に心臓が加速してスマホを握る手に力が入った。プルルルルという機械音がさらに緊張を加速させる。

『もしもし虹くん?どうしたの?』

顔を見ていないのになぜかおれは目線を泳がせていた。そらはきっとおれのことが好きだった。なのになんでそんなに普通なの……

『そら。久しぶりだね』
『うん、久しぶり。元気だった?』

電話越しの明るい声におれは一瞬やめようかと思ったほどだ。

『元気だったよー、今バイト終わり』
『へぇー、お疲れ。僕はレポートやってた』
『そう……』

空返事にそらの声音は一気に変わる。

『……虹くん?』
『あのさ、』

今さらでごめん。無視しようとしてごめん。そらは優しいから、大切だからって逃げようとしてごめん。おれはずっと自分のことしか考えていなかった。半年も眠らせてさ、情けなくてごめん。

『卒業式の日、カバンひっくり返したの覚えてる?』
『カバン?あー、僕がやったやつか!覚えてるよー』

目をつぶって、ゆっくりと開けた。

『手紙がさ、落ちてたんだ』

電話口に緊張感が走った。そらの部屋の物音まで聞こえてしまうほどの静寂におれは呼吸すらできない。

『手紙……?』

そらは全てを察したようだった。おれは続ける。

『今おれの家にある』
『読んだの?』
『……読んだ』

外の音で雨が降っているとわかる。

『そらは——』

どうか、壊れないで。

『そらはおれのことが好きだったの?』
『……』

祈るように返事を待つ。意外にも答えはすぐだった。

『好きだった……?今も好きだよ』
『え……?』
『だって親友でしょ、僕たち。嫌いなわけないじゃん』

おれは抜けそうな力をそのままに語気を強める。

『そういうのじゃなくて!あの手紙、書いてあること全部おれとのことだった。全部本当なら、嘘じゃないなら、そらはおれを、』
『虹くん』

遮る言葉には圧倒的な圧を感じた。シャッターをガシャンと閉められるような、拒否されてるみたいで思わず息を呑む。

『昔さ、バスケの授業で勝負したの覚えてる?』
『え?』

——「勝った方は負けた方の願いを聞く!なんでも!」

『覚えてるけど……』
『最後じゃんけんで僕が勝った。その願いをまだ聞いてもらってなかったよね』
『え、うん……』

おれは眉をひそめる。高校2年生のときの話だ。

『もうこのことは聞かないで。手紙を見たことも内容も全部忘れて』

その手紙も捨ててほしい、とそらは言った。

『なんで……』
『あのとき虹くん、なんでも願いを聞くって言ったよ』

冷たい氷のような声。部屋に響く雨の音も大きくなって、きっと明日まで止まないだろう。

『それがそらの願い、なの……?』

縋るような確認にそらは当たり前だとばかりに言う。

『うん。むりなら友達やめる』

どの方向にも進めない、おれは固まって答えが出なかった。友達をやめる、そんな言葉がそらから出るなんて。驚きと戸惑いと突き放された気がして鋭く傷つく心。おれの中のなにかが急に音を立てて崩れ落ちる感覚に目の前がぐるぐると気が遠くなる。

『わかったよ、そら』

最後にはそう言っていた。するとそらは明るく返事をしていつものテンションに戻った。

『虹くん冬休みいつから?』
『え、あー、1月15日くらいから、かな』
『こっち帰ってきたら連絡してね、ご飯行こうよー』

行きたいお店あるんだー、と呑気に話すけど、おれは話が全くといっていいほど頭に入ってきてなかった。
本当になにもなかったことになってる。おれの望んだなにも変わらない関係。

『じゃあ虹くんまたね!電話ありがと!』

しばらくスマホを耳から離せない。終わったのに、全部解決したのに、腑に落ちないのはなんで。机の上に開いたまま置かれた手紙を手に取る。結局、これに込められた想いがどれほどか教えてはくれないらしい。手に力が込められて、手紙の端がくしゃっとなる。もう機会はない。なにも知ることはできない。聞きたいことが山ほどあるのに。

おれのこと好きだったの?
なんで言わなかったの?
ずっと仮面を被ってたの?
気持ちを押し殺してたの?

もっとはやく気づいていれば、高校生のときだったら、タイミングが違えば、おれたちは……
おれたちは恋になっていたのだろうか。
何度も何度も手紙を読み返す。ラブレターなのにラブレターとは少し違う。その愛のようなものは海よりも深い、まるで願い事を書き留めたみたいだった。呼吸が激しく、苦しくなる。

おれはこの先、そら以上の愛に出会えるのだろうか。

「なんでよ……」

会って話がしたい。今すぐそらに会いたい。おれはそらが好きだ。その好きが友達を超えるかどうかなんてわからなくても、おれはそらをかけがえのない人だと思っている。インスタを開くとそらの投稿の写真を見つめた。知らない、きっと新しい友達と笑っている様子をただ見つめた。そらはおれの親友だ。誰よりもそらのことをわかっている。ずっと一緒にいた、1番大切な親友だ。親友、なのに……。濁流のように押し寄せ、溢れ出す感情はやがて暗くて醜いドロドロとしたものを運んでくる。頭をぐしゃぐしゃに掻きたくなる、目を向けたくないもの。スマホを握りしめる。画面にはいまだ写真を表示していた。
そんな顔で笑わないで。おれにもその笑顔向けてよ。この気持ちは、独占欲?
だって……
虹がない方が空は大きく見えるのかもしれない。でも虹は空がないと存在できないでしょ。

「そら……」

ごめん。今だけこんなことを思うおれを許して。
おれ以外とは、絶対幸せにならないで。そんな想いなどもちろん口に出すことはできず、空虚な部屋にスマホが床に落ちる音だけが響いた。