絶対幸せにならないで!

真冬でもこの地域は滅多に雪が降らない。ただ寒いだけでむしろ雪があった方が少しは景色を楽しめるのに、とこれはさっき廊下でどっかのカップルが話していた。僕は書道の授業終わり、手に墨汁の匂いが染み付いたまま次の数学の授業へと向かった。

「席替え?」
「マジかー、俺高橋と隣かよ!」
「やったー!一番後ろだー」

真ん中のクラスに友達がいない僕は別にどこでもいいぞ、あ、でも一番前の席はやめてくれと願いながら席を見に行った。後ろから2番目……よしっ!隣の人は……

「えっ……」

河内結衣、しばらく張り出された座席表を見つめ思考停止していた。なんでよりによって河内さんなんだ。ただ先生に罪はない。僕の運の悪さが原因である。

「期末テストも近いからなー、気合い入れていくぞー。はい、号令!」

問題を解いていても右半身が落ち着かない。河内さんが隣にいる……僕には関係ないのに謎の緊張が依然として消えない。

「ねえ」

手が止まる。佐藤くん、という声はたしかに右側から聞こえた。

「……はい」
「佐藤くんって、虹の友達だよね?」
「え?はい。そうです、けど……」
「私のこと知ってる?」
「え!?まあ、知らないことはないですね、はい」

あはは、面白いね君、と河内さんは先生に気づかれない最大の出力で笑う。

「次の問題はー、じゃあ君!」

彼女がなにか話し始めようとしたとき、先生が河内さんを当てた。すると急に僕のノートが奪われた。

「21/2です!」
「そうだな、次はー……」

河内さんは僕のノートを返しつつ言う。

「サンキュー!私この問題わかんなくてさー、君よくわかったね」
「え、まあ……」

そうですね、と僕は適当に返事をしながら黒板の解答と照らし合わせながら丸をつける。河内さんってこんな感じの人なんだ、人によっては親しみやすいようなー、クラスのわりと上位層にいるような女子?

「ところでさ、」
「はい」
「私、虹と別れようと思って」
「……え!?」

先生の黒板を書く音が止まる。僕一点に集中した視線にやばい、と口をつぐむ。

「佐藤、どうした?」
「い、いえ!なんでもありません!」

何事もなかったかのように授業が再開されると河内さんは笑いを抑えきれない様子だった。

「ちょっ、ウケるんだけどー!やっぱ面白いね君」
「急に驚かせないでくださいよ」
「驚かせてないってー、ただ報告しただけじゃん!」
「それより本当なんですか?別れるって」
「うん本当。今日一応放課後に話すってことになってるけど、ほぼ決定」

へえ、と僕はすかして答えた。

「虹から聞いてるかもしれないけど、最近うまくいってなかったんよ。特になにか大きなことがあったわけじゃないけど、別れる理由がないから別れてない、みたいな状態でさー、だったら付き合ってても意味ないかなって」
「哲学みたいですね」
「どこがやねん」

緊張は解け、もう自然と会話ができていた。

「とにかく、君には謝っておきたくて」
「……なんで?」
「私と付き合う前、ずっと虹と帰ってたんでしょ?」
「まあ……」
「ふふ、別に気にしなくていいかなーって思ったけどほら、君に理不尽に恨まれても気分悪いから」
「言い方がいちいち鼻につきますね」

ただ少し面白い人だと思った。

「虹によく君の話聞いてたんだー。思ったより変な人ね」
「よく言われます」

河内さんはわざとらしく手を合わせた。

「とにかくごめんね?虹、君に返すよ」

別に僕のものじゃないけど、と言うと河内さんは意味深にふふっ、と静かに笑った。ずっと変わらない関係なんてない、未来なんてわからないから僕らは悩んで、傷ついて、それでも前を向いていくんだ。シャーペンのグリップを持つ手に力が入る。どんなにわからない問題も立ち向かわなければ、自分なりに答えを出さなければ。わからないから、どうせ解けないからと止まっていてはいけない。ノートにシャーペンを滑らせる音が気持ちいい。

『別れることになった』

数日後、部屋で受験勉強をしていると虹くんからメッセージが来た。

『そらのおかげでちゃんと考えられた ありがとう』

ありがとう、という文面が深く響く。今日はスタンプがない。僕はゆっくりとベッドに突っ伏して枕に顔を埋めて目をつぶる。虹くんの恋が、終わった。




「そらくーん!久しぶり!」

うわ、この声。

「龍一……」

上級生のクラスになんの躊躇いもなくずかずかと入ってくる神経の図太さは尊敬するけど真似したいとは思わない。

「見てよ外の天気!」
「天気?」
「今日の天気は?」
「……晴れてるね」
「はいはい、弁当持って!」

僕はいいとも嫌だとも言う前に連れ出された。

「また屋上かよ」
「雲ひとつない快晴!ピクニック日和でしょ?」

まあ、と僕は弁当を広げて口に運んだ。

「そらくんは相変わらず暗いねー、ご飯がおいしいならおいしそうな顔してよ!」
「おいしそうな顔ってなんだよ」

龍一は購買で買ったらしいおにぎりを食べていた。一面青い空に飛行機雲が一筋残っている。

「はいこれ」

龍一が僕に小さな箱を渡した。中に個包装のチョコが何個か入っているお菓子だ。

「さっき晴くんに購買でたまたま会ったんだー、おにぎり買ってもらって、それでそらくんにもって」

晴先輩に会ったのか、いいな。そんなことを思いながらふいに箱の裏を見た瞬間、目に飛び込んできたものに僕は声にならない声を出した。グッと息が詰まってそれを見つめる。

「これは……」

『佐藤空FIGHT!!』

ネームペンで大きく書かれた字。文面からでも伝わってくる力強さが懐かしくって、目の淵に涙が溜まっていった。

「……ありがとう」
「受験、ラストスパートだって。受かるといいなぁ」
「うん」

二人で上を見上げて、青空に願いを込める。

「……そらくんにひとつ言ってないことがあったんだ」
「はいはい」

きっとどうでもいいことだろうから僕は適当に流して、ウインナーを頬張った。

「今度はなに?」
「ぼくさ、晴くんのこと正式に諦めたんだー」
「え?」

反射的に龍一の方を見るとえ、なに、と怪訝そうな顔を返された。

「もうやめたの。好きって言う気持ちで相手を縛るのも、自分を縛るのも良くないから。それに、これからは友達として仲良くやっていけばいいってそらくんが言ってくれたでしょ?」

やっと理解できたかも、と龍一は言う。

「……君は成長してるね、もっとご飯食べた方がいいよ」
「なにそれー」
「褒めてんの」
「嘘だぁー、褒めてるふりしてバカにしてるでしょ?」
「いや?」
「てかそらくんもなんか変わったよねー」

え、と僕は箸を持つ手を止める。

「なんていうか顔が?スッキリした顔になってる」
「そんなの日によるだろ」
「そうかなー、じゃあ気のせいかな」

龍一のカバンから国語の教科書がチラリと見えた。

「なんで今日カバン持ってきてんの?」
「ああ、帰りに現代文のワーク出さなきゃいけないから。期限おくれちゃってさー」

おもむろにワークを取り出しやったページを見せつけてくるが、ほとんど赤で答えを写した感じのやる気のないワークだった。

「老婆の日記の話か……去年やったよ」

たしか恋人を亡くした日から毎日日記をつけていた老婆の話。

「そう。日記ってすごいんだってね、言葉にできなかったことが誰にも伝えられないことが、もうすらすらと文字に出てくるんだって!」

心の中の想いが整理される、カウンセリングとかでもよくやるってさ、と龍一はおそらく授業で習ったことをそのまま僕に伝えた。去年やってるから知ってるのに。

「そんなことより、」

龍一は大の字に寝転がった。僕も真似るとアスファルトがちょうど良い暖かさで、大きく深呼吸をする。

「そらくんは最近どうなの?ほら虹くんとは?」
「別になにもないよ」
「ええー?つまんなーい。彼女がいったって別にアピール、」
「別れたってさ」
「え!?」

龍一は一瞬にして起き上がって僕を叩く。

「え、なになにそれ!?え?そらくんチャンスじゃん!」
「うん……諦めるチャンスだ」

一瞬風が止む。世界から音がなくなって雑音も雑念も消えた世界。

「……は?なに、言ってんの……?」
「虹くんが別れたって聞いたとき、僕、なんて思ったと思う?」
「え……?それはラッキー、みたいな?」
「なにも思わなかったんだ」

報告を受けたとき、僕はそうか、という感想以外出てこなかった。よかったとも、うれしいとも思わなかった。

——「で、そらの願いは?」

あの体育の日、告白の決意をしなかった時点で決まっていたんだ。

「もう十分なんだ。付き合えなくたって、僕はこれ以上にないくらい虹くんからたくさんのものをもらった。今の僕がいるのは虹くんのおかげで、僕は虹くんと友達でいられるだけで幸せで、これ以上望むものなんてない」

それが僕の出した答え。

「そらくん……」
「こんな気持ちは恋じゃないのかも。結局なにかわからなくて、僕はずっと悩んできた」

それでも楽しかった。虹くんからもらった笑顔も楽しさも苦しみも悲しみも、その全てが僕を生かしてくれた。

「それに、なにも変わらないから」
「なにも変わらないって?」

僕は広い空に目を向ける。

「気持ち。僕は今でもずっと虹くんが好きだし、それは多分一生、変わらない。ただその幸せを、僕は親友として見守っていくって決めたんだ」

龍一はため息混じりに理解できないと首を振る。

「やっぱそらくん、変だよね?」
「……君もな」

もうすぐ昼休みが終わる。教室に戻らねば。

「晴れた日はまた屋上に呼んでよね」

そう言うと龍一は疑うような目を向けながら最後には、

「ったく、しょうがないなー」

と笑ってくれた。




「ただいまー」

学校が終わり、爆速でチャリを漕いだ。家の扉を開けると僕はリビングには寄らずに自分の部屋のベッドに飛び込む。カーテンの閉まったままの薄暗い部屋。しばらくクリーム色の天井を見上げ、静けさに浸ると、騒がしかった心臓も、絡み合っていた感情も緩やかに、すらすらと解けていくように、心が澄み渡っていく。

「よし、やるか」

そう言って立ち上がり椅子に座ると、机に広げたのはテキストではなく便箋だった。

——「日記ってすごいらしい!言葉にできなかったことが誰にも伝えられないことが、もうすらすらと文字に出てくるんだって!」

「……まあ日記じゃないけど」

そうつぶやいてペンを握った。