絶対幸せにならないで!

体育がある日だけ、雨だとうれしい。

「よーし、今日は人数が多いからな、試合メインで行くぞぉ!」

グラウンドが使えないときは虹くんのクラスと僕のクラスは合同で体育館を使うことになる。今日はバスケをやるらしい。お昼後だったから横っ腹が痛いけど、虹くんを見つけて頭をすぐに忘れてしまった。

「よーい!」

ピッというホイッスルが耳の奥をキーンと揺らす。虹くんは球技が苦手だと言っていたが、僕と比べれば別に普通だった。背が低いのは短所とよく言っているけれど、それを逆手に取れば逆に長所になると僕は思う。そのおかげで体育祭の日殴られかけた僕を助けてくれたし、今もみんなの間をすり抜けてゴール前の人に素早くパスを回しているのだから。本人は気づいていなくても無意識にそれを武器にしてしまう、それが虹くんだ。

「あっつーい。真冬なのに汗がー」

虹くんがコートから戻ってきた。

「そらー、なんでそんな涼しい顔してんのー」
「休憩だった」
「ずるー」

虹くんは体育着をパタパタとして風を送っていて、僕は目のやり場に困った。チラッと見える鎖骨にサッと視線を逸らした。汗がずっと流れる筋は目に毒だ。

「次の試合さ、おれのチームとそらのチームだよ」
「……え!?」

ほら、とボードを指差すのを見るとたしかにそう書いてあった。

「……勝負しない?」
「どっちが勝つかって?」
「うーん、それだと不公平だからー」

虹くんは真剣に考えていた。

「個人勝負で!」
「こ、個人勝負……?どうやって?」
「得点を多く決めた方が勝ち。ただしアシストも可」
「アシスト……」
「おれの身長を加味してそのくらいのハンデは許して!そらは得点とアシスト両方いけるんだから」

おれはゴールむりだ!と堂々と宣言する虹くんに吹き出す。

「勝った方は負けた方の願いを聞く!なんでも!」

頭がクラクラするくらい、体育館は熱気にあふれていた。僕はゆっくりと口を開く。確かめる必要があった。

「……本当になんでも?」
「うん!」

虹くんはポカンとした顔から花が咲くように一気に笑顔になった。

「次ー、入れー」

ピッー!
気合いを入れる。始まりの合図とともにボールを追いかけた。多分だれもパスしてくれないだろうから奪いにいくしかない。

「虹!パス!」
「おっけ!」

はやい。虹くんが送ったパスを受け取った背の高いやつは綺麗にゴールを決めた。虹くんは味方のチームメイトとハイタッチをした後、チラッと僕の方を見てアピールしてきた。それからというもの虹くんがいる3組は強かった。あっという間に3点差。僕と虹くんの勝負でも虹くんが一点取っていてリードされている。息を吐く。狙うなら最初だ。僕は仕切り直しの笛が鳴ってから全力で走ってボールを奪った。味方の面々はチームメイトのくせに驚いたような表情で固まっている。なんだこいつら。はやくボールを繋げよ。

「おい、守り固めろ!回れ回れ!」

敵のチームが指示を出す。僕は敵の守りが固まる前に一人ゴールへと走り、そのままボールを高く上げる。

「あっ……」

誰もが息を呑んだ。僕の放ったボールは見事な放物線を描き、ネットへと吸い込まれていく。

「え、入った……?」
「さ、佐藤ってあんな動けんの……?」

動けるのかどうか?そんなのわからない。動いたことがなかったから。これは虹くんの力なのか、僕も驚いた。

「あと5分ー」

僕の得点で休憩中のギャラリーが湧いて、僕は思わず凝視してしまう。

「よし、このまま行くぞ!」
「逆転できる!」

思わず口元が緩む。これが……一体感?というやつなのだろうか。ボールは次々と敵味方を渡っていき、真ん中あたりで混戦状態だった。僕も加わろうとした時、後ろから聞こえてきた声が僕だけに響いた。

「あのチビを狙え」

振り返るとその声の主は見当たらない。

「おい佐藤!なに止まってる!」

チームメイトはサッと移動してゴール付近で立ち止まっていた。なんだろう、すごく悪意のあるような雰囲気を感じ、咄嗟に虹くんを探した。

「そのままいけ!虹!」

一人抜け出した虹くんはドリブルしながらゴールへと一直線に進む。あと三歩、二歩……

「危ない!!」

僕の叫びはコンマ単位で遅かった。僕のチームメイトに体当たりを喰らった虹くんはそのまま前方に倒れ込んでいた。なかなか起き上がらない虹くんを見て、僕は呼吸が荒くなる。

「おい、大丈夫か?」

虹くんは苦しげな声を上げる。僕の中でなにかが腹の底から湧き上がってくる感覚を覚えた。

「なに……」

今、なにを……
僕はコートの外に逃げた犯人に勢いよく掴みかかり、そのまま壁へと押し付けた。数センチ先にある顔を僕は睨みつけた。

「なにやってんだよ!!」

体育館にいる誰もが振り返るほどの声。あちらこちらで繰り広げられていた会話が止まり、静寂が訪れた。

「そら……?」
「うるせぇな、ぶつかっただけだろ?なにムキになってんだよお前」

そのひょうひょうとした言い回しに僕はいよいよ手が出そうになった。

「……放せよ」

手の力は抜かない。精一杯睨むことでなんとか怒りを抑えていたのに。

「放せって言ってんだろ!!」
「うっ……ぐっ」

そいつはなんと右足で僕の腹を蹴った。飛ばされた瞬間、今度は僕の胸ぐらを掴む。周りは当然の出来事に固まっていた。首元の襟が伸びてうなじあたりに布が食い込んでくる。

「お前いい加減にしろよ」
「……ふっ」

勝ち誇ったようなそいつに僕はわざとらしく片側の口角を上げた。
虹くんを舐めんなよ。
瞬間、そいつの胸ぐらを掴む手を抑えた。脇を締め、手を強く押さえたまま一歩後ろに引く。あとはもう勢いよく捻るだけだ。

「ぐわぁ!」

おかしな方向に曲がる腕。そいつは情けない声を上げて座り込み、腕を押さえて悶えていた。

「おい!なんの騒ぎだ!」

体育教官室へ荷物を取りに行っていた先生が騒ぎを聞きつけたのか走って戻って来た。僕らを引き離し事情聴取だと言って職員室へ強制連行を告げられる。体育館を去る直前、振り返ると虹くんは数人に取り囲まれており、まだ痛そうに顔を歪めていた。僕の視線に気づくと少しその表情が柔らかくなったような、気がした。

「佐藤!はやくこい!」
「……はーい」

僕はふざけたような軽い返事、舐めたような足取りで先生の後をついていく。無論、大きく胸を張りながら。それからというもの1時間ほど僕とそいつは職員室で暴力未遂事件を起こしたことをこっぴどく叱られた。しかしその後に次々と証言者が現れ、僕は軽い注意だけで済み、解放されることになった。

「虹くん?」

保健室を開けると独特の消毒液の匂いがかすかに鼻を掠める。虹くんは並ぶベッドの一つに座ってポカンと外を眺めていた。

「あ、そら」
「虹くん大丈夫?どこ怪我したの?」
「怪我ってほどじゃないよ、ちょっと腕擦りむいたのと……多分足首捻挫した」

右腕には大きめの絆創膏、右足首には湿布とテーピングが巻かれていて、歩くと少し傷むと言う。

「さっきのやつ頼まれたんだってさ」
「さっきのって……おれを押した人?頼まれたって?」
「体育祭の時、僕が高田とか数人に絡まれてたでしょ?それで高田がさっきのやつに虹くんを狙えって言ったみたい」
「そうだったんだ……ごめんそら」

虹くんは俯き加減になって言う。

「おれのせいでそらに、」
「虹くんのせいじゃないよ」
「え?」
「僕が勝手にやったことだから。虹くんを傷つけるやつは許さないって決めてるの」

虹くんは最初目を丸くして驚いたような顔をしていたが数秒後、急に吹き出してベッドへ倒れ込んだ。

「あははっ……」

その笑い声につられて僕もわけもわからず笑う。なにが面白いかわからないけど急に笑えてくる。

「やっぱりおれたちって幼馴染だよね、あはは」
「え?」
「実はおれもね、同じこと思ってたから」

虹くんの瞳の中に僕がいた。僕は息を呑んでその続きを待つ。

「おれもね、決めてるんだー。そらを傷つけるやつは許さないって」

奇遇だねー、と虹くんはなんでもないように言うけれど、僕はそれを聞いて一気になにかが体に流れてくる感覚を覚えた。まるで濁流のように勢いが止まらない。

「……なんで?」
「ん?」
「なんでそんなこと思うの?」

無意識に聞いていた。

「なんでって、おれとそらは親友でしょ?ほら、心が通じ合ってんじゃない?」

ふざけてるように見える。この無邪気さが暖かく、そして残酷だ。親友、その言葉が脳内にこびりついていた。

「お互いのピンチの時に真っ先に駆けつける。それってさ、僕と虹くんは……」

それはまるで。

「幼馴染同盟、だね!」

跳ねるような声。虹くんは満足そうに拳を突き出した。僕は導かれるようにそれに拳を合わせる。僕らはそう、親友。お互いの救世主。幼馴染同盟。

「今日はありがとね、そら。かっこよかったよ」

声が出ない。喉がカラカラになってすんなり言葉が通れないから僕は代わりにコクリと頷いた。

「で、結局勝負の話はどうなるの?」

虹くんは捻挫したてで、さすがに今日のところは自転車を漕げないらしく、僕らは自転車を引いて帰ることにした。自転車で15分ほどの道のりも歩けば三十分は余裕で越える。休憩を挟みながらゆっくり家へと向かっていた。チチチ……とタイヤが回る。

「どうしよっかー、引き分けになるのかな?」
「平等にじゃんけんにする?」

僕の提案に虹くんはワンテンポ遅れていいね、と返事をした。

「一発勝負で!」

僕が言うと、虹くんはなんだか思いつめた表情で深呼吸をして構えた。

「最初はグー、じゃんけん、ぽい!」

僕はパー、虹くんはグー。

「ははっ、負けちゃった!なんだよもーう、そらにアイス奢ってもらおうと思ったのに」

悔しそうに頭を抱える虹くんがおかしかった。

「もしかしてお願いってそれだったの?」
「……え、うん。なにか文句でも?」

口を尖らせる虹くんをかわいいなと思う。アイスなんて言ってくれればいつだって奢るし、いつだって一緒に食べるのにな。

「で、そらの願いは?」
「願いかー、うーん」

僕は虹くんとこうやって一緒にいられるだけで幸せだから、願いなんてすぐに思いつかない。

「考えとくよ」
「ほう、なんか怖いわー、そらの願い」
「なんでよ!」
「ははっ、わかんないけどさっ」

晴先輩と以前話した河川敷を通り過ぎる。誰かが踏みつける砂利の音、パシャパシャという水の音は以前とは少し毛色の違う、すっと心の内に入っていくような心地よさがあった。

「前ここで晴先輩と話したんだー」

虹くんはへぇー、と言いながら僕と同じように欄干に腕を乗せた。

「風が気持ちいね」

そう言ってゆっくりと目を閉じる。まつ毛が見えるほどの距離、僕はその横顔から目を離すことができずに呼吸を忘れて見つめた。

「全部がどうでもよくなりそう」

寂しさを含んだ言葉に僕は違和感を覚えた。僕はそれでもなにもできず冬の乾いた風を感じる。足元には落ち葉がどこからか飛ばされて、それが車に通行人に踏まれぐしゃっと潰れる音が鳴る。

「さっ、帰ろ帰ろー」

数分して急にパッと目を開けるので僕は一瞬心臓が止まりかけた。虹くんは先に自転車のスタンドを上げ、はやくー、と僕を呼ぶ。僕らの住む沼島市の端っこはどちらかというと田舎の方。周りには山が見えるしなんというか、緑が多い。僕らは見慣れた田んぼのあぜ道を歩いていた。いつのまにか稲は緑から黄金色に、そして今は刈られ、乾いた土に藁が残る程度になってなっていた。

「虹くん」

僕は少しだけ前を歩く背中に呼びかけた。

「んー?」

あの頃みたいだ。

「なにかあった?」

僕にはわかっちゃうんだな。
虹くんの瞳が揺れた。そのわずかな表情の変化で僕はもう虹くんの心を読み取ってしまうほど虹くんを見てきたから。

「……なにかあったって程でもないよ」
「でもあるんでしょ?」
「……」

僕は自転車を止めて虹くんの前にまわり込んだ。

「僕にはなんでも話してよ、ね?」
「そら……」

虹くんの肩を持つと、僕は顔を上げた虹くんと視線が合った。

「……別れるかもしれない」

身構えていた体からスッと力が抜けた。別れるかもしれないって……

「もしかして、彼女?」

虹くんは頷いた。

「なんか、一周回ってよくわかんなくなっちゃってさ。結衣といるのは楽しいんだけど、なんていうか、いつも機嫌を損ねないように過ごしてるって感じで疲れちゃうんだよね」

でも付き合うってそういうことじゃないよなー、とどこか遠くを見ながら虹くんはため息をついた。

「最近喧嘩までいかなくても言い合うことが増えちゃってさー、ただの倦怠期なのかもしれないけど」
「……付き合って何ヶ月だっけ?」
「7ヶ月」

うん、なくはないね、と僕は足元にあった石を靴で踏みいじる。

「でも……好きなんだよね?」
「うん」

肯定の返事がもう何度目か僕の心を刺す。鋭くて熱くて痛い。その痛みにも慣れてしまった。なんで言ったらいいんだろう、付き合ったことのない僕にそんな難しい恋愛倫理の解決策なんてわからない。

「喧嘩は別にそんな大きなやつじゃないし、それを乗り越えればよくなるのかもしれないけどさー、その疲れるとかいうのはただおれの問題なだけで……」

虹くんは時折首を傾げたり眉をひそめたりしながら考え込んでしまった。頭のいい虹くんはいろんな人の気持ちをちょっとずつ汲み取って誰も傷つかない、最適な結論を出そうとする癖がある。
でもごめん。

「……僕の考えを言ってもいい?」
「うん」
「大前提、虹くんが決めたことなら僕は応援するよ」

土の匂い。僕は踏んでいた石を蹴った。

「でもその選択が虹くんを苦しめたり、また悩ませたりすることになるならそれは賛成できないな」

だって、僕にとっては虹くんが一番大事だから。

「もし虹くんが出した答えが間違いだと思ったら、僕が全力で止める。だからさ、悩んで悩み抜いて、ゆっくり考えていいよ」
「そら……」
「幼馴染同盟でしょ?」

虹くんの口元が綻ぶ瞬間、僕の世界はまた一段と鮮やかになる。ずっと笑っていてね、その笑顔で僕は明日も生きられるんだから。

「……前にもこんなことあったよね」

虹くんは右肘の傷跡をなぞる。僕らの通学路、どこまでも続く田んぼのあぜ道。

「ほらちょうどここでさ。小6のときかな」