絶対幸せにならないで!

「はい、授業始めまーす、テストが終わったからって気を抜くなよー」

学ランに加えてカーディガンの季節がやってきた。僕は寒さに弱いわけではないが、分厚くて動きにくいし肩が凝るからあまり好きではない。

「傾きは今までXの増加量分のYの増加量と習ったがー、これをF/Hかっこ……」

先生の話を聞き流しながらとりあえず黒板に書かれた公式をノートに写す。パキッと小さく音が鳴って細かなシャーペンの芯のカスがノートに散らばり、ため息をつく。

「佐藤!」
「はい」
「頬杖をつくな」

すいません、と頭を下げると、何人かが僕の方をチラッと振り返るが、その視線もほとんど気にならなくなっていた。

「まあいい、じゃあ佐藤。この場合の傾きはどうなる?」
「マイナスです」
「そうだな、この場合はXがここからここまでの……」

学校生活は続いていく。いつものようにテストが終わり、その結果から数学のクラス替えが行われた。僕は一番下のクラスから真ん中へと昇格。先生と教室が変わったけど、そこに虹くんはいなかった。一番上のクラスに残ったんだろう。頭いいからな、虹くんは。

「じゃあこの問題は?そうだな……じゃあそこの前から2番目」

一つ変わったとすればその教室に河内さんがいたこと。 

「あ、はい!えっと、式を変形してから代入するので傾きは2aです」

虹くんと同じクラスのはずだったから落ちてしまったのか。僕は後ろから彼女の揺れる髪を見ていた。チョークが滑る音、黒板消しが擦れる音。教室の前方に舞うチョークの粉に一番前の席の生徒が咳き込んで、鬱陶しそうに顔の前で手を仰ぐ。

「来週小テストやるぞー、落ちたら追試だぞー」

ふと窓の外から3年生の階を見上げるけど、死角になってなにも見えない。晴先輩はどこにいるんだろう。あの日からクリスマスを越え、年が明けて、もうずっと会っていない。晴先輩に限らず3年生で一般受験をする人は昼休みの勉強会や放課後の講習で忙しいという。みんな殺気立っていて噂では推薦組と一般組でバチバチなんだとか。

「今日の授業はここまで。明日答え合わせするから出来る限り家でやっておくようにー」

チャイムと同時に空気が緩む。数学セット一式抱えて教室へ戻ろうとすると、ドアの付近で見覚えのある小柄な女子を見つけた。いつか晴先輩が好きだったというあかりちゃん、生徒会の人だった。ボブだった髪もだいぶ伸びて肩を余裕で越えるくらいになっている。チャイムが鳴ると、僕はハッとして取り急ぎ生徒会室へと向かった。休みの人の代わりに委員会報告会に出なければならない。体育祭の準備やら作戦会議の場所として一時期は毎日のように通っていた生徒会室も、今日は人がたくさんいてその余韻も感じられない。奥の倉庫には僕が情熱を注いで作った得点板が埃をかぶっていた。

「おーい、佐藤くーん」

ビクッとなって目を開けると誰もいない。だんだんと遠くなる足音だけが聞こえてくる。

「お疲れみたいね」
「美優さん……」
「はい、報告会の連絡事項。寝てて聞いてなかったでしょ」

美優さんはメモ書きを渡してくれた。僕はありがとうございます、とそれをポケットにしまう。

「久しぶりだね佐藤くん。元気してた?」
「まあ、はい……うわっ!」

突然、パンを投げつけられた。冬のお昼にベランダに出るのが好きらしい美優さんの日向ぼっこに付き合うことになった。顔に当たる空気は冷たいけど太陽はぬるくて心地いい。

「美優さんはまだ生徒会なんですか?」
「え?いない方がいいと?」

美優さんはいつもふざけて僕を困らせる。なにも変わらない。

「ち、違いますよ!受験とかあるし、3年生はみんな引退されたのかと」
「私女子大の推薦取れたからさ、もう解放されてんの」
「なるほど……」

美優さんと2人きりで話すのは初めてだ。よく体育祭の準備をしながら晴先輩と3人で話した記憶はあるけど。パンをかじると濃厚なカスタードが口いっぱいに広がる。

「晴先輩はどうですか?」
「どうって?」
「いや、最近会ってないんで元気なのかなって」
「あー、副会長ねー。あいつ志望校変えたんだって」
「え?」

僕は一瞬手を止める。

「ほら一般になったじゃん?それでもうちょい良いところ目指すってさー、先生からはやめとけって止められてたけど」

僕は反射的にクリームパンを落としそうになった。先生に逆らうなんて晴先輩らしくない。

「ちょっと前に相談されたんよ」

美優さんは声音を変えた。

「相談?」

ちょっと待って、と美優さんは前のめりの僕を静止した。それから咳払いを一つして話し出す。

「先に謝っておくね」
「はい?」
「私知ってたんだよね。佐藤くんと副会長、それからー、虹くん?って人のこと」
「ええ!?」

たまたまね、と美優さんは続ける。

「体育祭の準備してたときあったじゃない?副会長を会議に呼ぶときにさ、会話が聞こえちゃって」

たしかに美優さんは僕と先輩の会話がひと段落したところで教室に入ってきたなと思い出す。

「聞かなかったことにしようと思ったんだけどさー、ほら、私ってなんかわかんないこと知りたくなっちゃう性格なのね?だから直接聞いたの」
「は、晴先輩に!?」
「もちろん」
「す、すごいですね……」
「そしたら最初は誤魔化してたけど、問い詰めたら結構あっさり認めたよ。それからファミレスに連れて行かれてその佐藤くんとの作戦に迷いがでてきたこと、推薦取り消しのこととか諸々相談されて」

私はカウンセラーじゃないっつうのにね、と美優さんは口を尖らせた。
やっぱり悩んでたのか。晴先輩は優しいから僕に付き合ってくれたけど、ただでさえ忙しい人なのに僕は自分のことばかりだった。

「やっぱり僕は晴先輩の負担に……」
「ちょ、ちょ、ちょっと!まだ話はある」

下を向く僕の顎を美優さんはペットボトルでひょいっと掬い上げた。

「あいつが悩んでたのは、佐藤くんとずっと友達でいられるかってことだった」
「え……?」

心に立ち込める霧が一気にどこかへ吹き飛ばされたような気がした。見えなかったものが一気に見えるような視界が広がる感覚。

「あいつは虹くんを好きになりかけてたらしいのね。でもそれ以上に佐藤くんが大切な友達だって、だからどうすればいいかわからなくて苦しいって、あんな副会長初めて見たよー」

あの顔は面白かったわー、写真撮っておけば見せれたのに、と美優さんはかなりゲスいことを言う。

「そんなこんなで悩んでたら推薦切られて、なにから片付ければいいのやら事態がいろいろとね、コンフュージョン?しちゃったらしい」

コンフュージョン、と僕は反芻する。

「混乱って意味ね。スペルはシーオーエヌエフ、」
「だ、大丈夫です!」

話の続きを、と促した。

「……それで美優さんはなんて言ったんですか?」
「まずは進路のことをどうにかしなさいって言ったわよ」

だってさ、と美優さんは風を受けた。

「あいつの助けを借りるほど佐藤くんは弱くないでしょ?」

僕は弱くない。僕のなにを見て、どんなところが弱くないと思ったんだろう。黙りこくる僕を見て、美優さんは目を丸くする。肩や頭、頬を確かめるようにペシペシと叩かれた。

「え、ちょっと待って、え?弱いの?え?え?」
「よ、弱くないです!はい、多分!」

必死な僕を見て美優さんは笑った。

「副会長が言ってたの。もし受験に失敗しても、ダサくても、別にそれでいいんだって。そう思えたから、志望校を変えた。初めて危険な橋を渡ろうと思ったって」

心臓が大きく波打ったのはなぜだろう。

「私が言うのもなんだけどさ、ありがとね」

あいつなんか変わったから、と満足そうな顔に僕も釣られる。美優さんと晴先輩は3年間同じクラスの友達兼生徒会を長年背負ってきた戦友なのだという。

「よーし、昼休みおしまい!」

美優さんははいはい、と僕の背中を押して教室へ入りベランダの鍵を閉める。

「じゃあまたね」

手を振りながらひと足先に出て行った。一人になった教室で大きく息を吸い込む。ここでいろんな感情がぶつかって、混ざって、生まれた。そして今、また新しい感情が僕の中で大きくなっている。