「わあー、すっげぇ!」
3人の予定を合わせた結果、予定よりかなり遅れてしまい、もう肌寒い季節に入りつつあった。駿河ハヤブサパークは東海地方にある有名な遊園地で、駐車場には全国各地のナンバーの車が停まっている。
「ハヤブサパークなんて中学生ぶりだー」
虹くんはなつかしい、とはしゃいでいた。晴先輩は去年友達ときたらしい。
「そらはいつぶり?」
「小学生ぶりかも。昔よく家族で来てたんだ」
エントランスへ入ると既にジェットコースターが動いていた。まだ白い息の出る朝に風を切る音と楽しそうな悲鳴が響き渡る。
「晴先輩は絶叫系得意?」
「俺は得意!ここの三大コースターも制覇してる」
さすが!と手を叩く虹くんはいつにも増して楽しそうで自然に笑みが溢れる。この笑顔、守りたい。どっかのCMで言っていたセリフは今の僕の心を正確に代弁していた。
「そらは?ジェットコースター」
急に名前を呼ばれてアスファルトを見つめていた視線を上げた。
「あー、僕はちょっと……苦手かな」
「えー!そうなの!?そらの提案だからてっきり乗れるものかと」
「あ、いや!怖いけど乗れなくはないよ!乗ったことはあるし!」
ちがうちがう、と手を振りながら必死に弁明する。これでジェットコースターに乗らないなんて言う結論が出たら大変だ。地図を見ながら三大ジェットコースターのひとつ、瞬速ライダーを目指す。虹くんは地図を難しい顔で睨むと、晴先輩は横から覗き込み、正確な道順を指差す。
……いい感じじゃん。
晴先輩と虹くんの仲は日に日に近づいていた。僕と先輩で考えた作戦通り、偶然を装ってほぼ毎日虹くんと晴先輩は顔を合わせ、3人で話した。ただその距離が友達の範疇を出ないことを僕も、そしておそらく晴先輩も気づいているかもしれない。だからここへ来たんだ。
「瞬速ライダーへようこそ!瞬速ライダーは日本で一番速いジェットコースターです。みなさん、発車の際は背中をしっかりと背もたれにつき、顎を引いてください」
2分おきに流れるアナウンスが鬱陶しくなってきた。コースターが通る音が聞こえるたびに上を見上げる。
「あと30分だってさー、やっぱ朝から並ぶと意外と早いなぁ」
混んでる時は60分待ちが当たり前の看板コースターだったため、30分待ちはかなり短縮されている。
「そうだ!指スマしよ!」
虹くんは右手を出して言った。
「指スマ?」晴先輩が聞く。
「うん!五回勝負で負けた人が昼の飲み物奢りね」
「おお、いいじゃん!佐藤、どうだ?」
「もちろんやる!」
飲み物奢りとあらば急に負けられない戦いになった。
「ふぅー、よーし!」
指は一人2本まで上げられるルールにし、僕たちは手を前に出す。虹くんはオリンピック選手が競技の前にやるような深呼吸をした。
「指スマ4!」
トップバッターの晴先輩は外した。くぅー、と悔しそうな顔を見て僕と虹くんは笑う。
「指スマ2!」
上がった指は3つだ。マジかー、と僕は頭を抱える。惜しかった。
「次俺か!よーし、指スマ5!」
僕と晴先輩は2ずつ、上がった指は4だ。
「うわー、だめだー」
直後、晴先輩は虹くんを指差しながら笑う。
「え?え?九条さ、5なら自分上げないと絶対むりだろ!」
「え、あ、そっか!やばい、おれバカじゃん!」
晴先輩は小馬鹿にして笑い続けた。口を尖らせる虹くん、全く気にしない先輩を見て、おかしくて僕も腹を抱える。
「はいはい、次俺なー、指スマっ、2!」
「ねぇ!ちょっと今さー、指スマって言った後に間があったって!ズルだ!」
「ちょっと噛んだだけだって!なんだ、九条は審査員か?」
「今のは確定でズルです!」
「負けてるからって言いがかりはやめてくれよ」
晴先輩はもう抗議する虹くんをまあまあ、と押し返す。
「おれは認めない!そら!判決は!」
虹くんは勢いよく僕を指差した。その目は味方だよな?と訴えている。
「そうだ、佐藤!言ってやれ!」
晴先輩も同じだ。まったく、この2人はなにを争っているんだ。12時の太陽がまぶしくて、僕は目を細めた。しばらくの沈黙の後、僕はフッと軽く笑う。
「もちろん今のは……」
目をつぶる。僕は息を整えて堂々と宣言した。
「ズルに決まってるだろ!」
なんでだよー、と悔しそうな晴先輩の横で僕と虹くんはハイタッチをした。僕よりいくらか小さい手の温度が一瞬、僕に移る。
「佐藤、お前裁判員失格だな」
「僕はちゃんと自分の良心に従って判断しましたよ。まあ、これ認めると先輩が勝ちになっちゃうのでね」
「なにが良心だ。私情入りまくりじゃないか」
そんなこんなで戦いは終結。僕と虹くんは大逆転をかまし、晴先輩の負けとなった。
「楽しかったー」
「意外と早く終わったよな」
瞬速ライダーはスタートした瞬間のスピードがレベチで速い。いや、速いなんてもんじゃない。首がもげそうだった。足がまだふわふわとしていておぼつかないその感覚が懐かしい。地球温暖化で季節を失った現代は10月といえども暑い。昼を少し過ぎたばかりの気温は初夏に匹敵すると思う。僕らは晴先輩の奢りで屋台のタピオカ店へ向かい、外にあるテーブルに座りながら次の乗り物を話し合う。
「空中散歩もいいよなー」
虹くんは地図の真ん中辺りを指した。
「空中散歩は夕方が結構空いてるぞ」
「じゃあその前に、ぐるぐるフライナーは?」
「いいね」
僕は思わず同意しまい、慌てて咳払いをした。
「じゃあ一回ぐるぐるフライナー行ってからー、時間まだあるだろうから、あ!これは?」
虹くんはイタズラ顔で指差したところには……
「最恐、血みどろ迷宮屋敷……え、むりむり!」
「九条、さすがにそれは、ね?」
「……ん?」
とぼける虹くんの顔は明らかに僕らを嘲笑うかのよう。うわ、絶対行かせるつもりだ。僕も、おそらく晴先輩もそう思ってる。この子に振り回されたい僕ら。虹くんに甘い僕らをどうにかしてくれ。
「迷宮屋敷の所要時間は40分くらいだってさ!意外と長いねー、楽しみだなぁ」
虹くんはそう言って足取り軽く、僕らの前を颯爽と歩いていた。ぐるぐるフライナーを乗り終え、園内の最奥に位置するお化け屋敷へと僕らは進んでいた。
「おい佐藤、お前止めろよ」
晴先輩は僕に耳打ちする。近くにはメリーゴーランドのメルヘンチックな音楽が聞こえてきて、見ると馬や馬車にはしゃぐ子どもたちとそれを微笑ましく見つめ動画を回す親がいた。
「むりですよ、虹くんの顔見ました?あんな楽しそうなのに」
「くっ……見てくれ、鳥肌が立ってる」
「奇遇ですね、僕もです」
僕らはどちらの方が鳥肌が立っているかというなんともどうでもいい争いをする。お化け屋敷は苦手だ。説明できない謎の怪物、異常現象、幽霊のいる場所へ嬉々として飛び込めるほど僕は楽観的ではない。
「しかもここのお化け屋敷って本格的っていうじゃん?途中でリタイヤできる出口がたくさんあるっていう」
「どんだけ怖いんだ……」
僕は深呼吸をして心を落ち着かせた。ふいにいつしかスマホで調べたことが頭に浮かび、指を鳴らす。
「あっ、でもお化け屋敷ですよ。なんでしたっけ……吊り橋効果というやつです。逆にチャンスなのでは?」
「は、は?恋してる暇なんてないって。俺は自分の命の方が大事だ」
「ふん、そうですかー。僕は自分の命より虹くんの命の方が大事ですけどね」
僕が言うと、晴先輩はうわ、と呆れる。
「まあその心配はなさそうだ。見ろよあの目の輝き」
晴先輩は目の前にいる虹くんを指差して言う。チケット販売機の前でるんるんと順番を待っている。
「九条ならいざとなったら幽霊と友達にでもなるんじゃないか?」
「……たしかに」
同意するほかなかった。
券売機を通り過ぎると雰囲気が一気に変わった。メリーゴーランドの音楽がさっきより遠くに聞こえる。あんなに微笑ましく、暖かい気持ちだったのにここへ来るとなぜか不気味だ。作為的なのか、周りにある木も手入れがされてなく、枝が無造作に伸びて垂れ下がっていた。真ん中の大きな屋敷。錆びついた茶色、剥がれかかった塗装……いかにもだ。
「この屋敷で連続殺人事件が起こったらしい。使用人が何人も殺されたんだって!犯人はこの屋敷に代々伝わるいにしえの、」
「わかった、わかった九条。ちょっと黙っててくれ」
「晴先輩はビビりですね。ねぇ、そら?」
「……」
同意できなくてごめん。心臓が悲鳴を上げてる。待っている時間が1番怖い。僕と晴先輩は恐怖に冒され、列に並びながら微妙に噛み合っていない会話を繰り返していた。
「次の方ー」
案内係の人に虹くんが3人分のチケットを渡すと、いよいよその番が来た。尻込みする僕と先輩に虹くんはため息をついた。
「情けないねー、2人とも。はい、おれの肩につかまってー」
虹くんを真ん中に僕らはその肩にガッチリとつかまった。余裕な表情で虹くんが歩き出す。午後一番の太陽と屋敷の暗闇。コントラスト100パーセントに僕の目は狂っていて、なにも見えなかった。
「暗いなー」
「そ、そうだね……」
暗い、というか寒い。虹くん操作の懐中電灯で照らされたおそらくキッチンでは血まみれの包丁が床に転がっていて、その横に……
「しっ、死体!?」
僕が言いながら叫んで全力疾走をする。叫んでいる間は少しばかり怖くなかった。これはまさか必勝法を手に入れたのでは、と思ったが、恐怖を感じるたび悲鳴を上げては体力、精神力ともに持たないだろう。
「佐藤、急に死体とか言うなって」
「すいません……」
「うわ、ここ寝室だー」
「ちょっ、九条。もうちょっとゆっくり行こう」
会話は全て小声で足音すら殺して歩く。静か過ぎて自分の心臓の音すら聞こえそうだ。
「おお、いますねー」
虹くんはなんの躊躇いもない。
「な、なにがだ?」
「え?だから死体」
「ちょっ!むりむり!」
晴先輩は目をつぶっていた。
「先輩!服引っ張んないでくださいよー、伸びます!この服は先月買ったばかりの、」
「………うぅ……うぅ……ゔっっ……」
背後から掠れた唸り声。だんだんと大きく近づいてくる。
「うわぁ!!!!」
僕らは走る。四方からもバリバリと壁の音がする。シーツが切り裂かれる鋭い刃物の音が急に大きく響いて、心臓が止まりそうだった。
「ははっ、急に大きな音はやめてほしいね」
切れた息を整えながら虹くんはゆるりと言う。僕らは命からがらなんとか逃げ延びて、安全とされる階段で休憩していた。
「あと半分くらいか?」
「そうですねー、今から行く一階はメインの大広間ですよ!」
「……寿命が縮みそうだ」
「ていうか、そら大丈夫?」
無言の僕に虹くんの顔が近づく。このドキドキは恐怖由来なのか虹くん由来なのかは不明。
「へ?あ、だい、大丈夫……」
「汗すごいけどっ」
虹くんは自分の袖で僕の額の汗を拭ってくれた。柔軟剤の匂いがかすかに香る。
「佐藤は俺よりやばいんじゃないか?」
「くっ……先輩、ばかにしてます?晴先輩も先輩のくせに、ビビってるじゃないですか」
「少しはビビらせてくれよ」
ビビらせてくれってなによ、と虹くんはツボり始めた。
「まあでも、怖がってる佐藤、なんか新鮮」
「え、わかる!」
晴先輩の言葉に虹くんまで同意して僕は口を尖らせた。
それから応接間やお風呂、怪しげなパソコンだらけの部屋をなんとか通り、いよいよメインであり最後の大広間へと来た。もうすでに叫び散らかし喉がカラカラだけど。暗闇に目が慣れてきて、なにがあるのか見える。血に染まったカーペット、どこからともなく吹いてくる冷たい風、それに揺れる垂れ下がった長いボサボサの黒髪。テレビやパソコンが不規則にチカチカと光って、ひんやりとした空間に皮膚が冷却されていた。ふぅー、と息を整える。いもしない悪霊に精神を削り取られ、脂汗もかいていた。全身が震え上がる。僕は判断力が鈍って遠慮もなく虹くんの肩を持っていた。僕より小さな背中もなぜか大きく見える。
「よし、最後だー」
「……行くか」
「……うん」
瞬間、肩を持つ手を下ろされた。虹くんは何も言わず、そのまま僕の手を優しく握る。暖かい。虹くんの中でドクドクと波打つ血管が僕にも伝わってくるみたいだ。おれがついてるよ、その手はそう言っていた。大広間は無音だった。派手な音がないのが逆に怖い。ゆっくりと中央のテーブルを通り過ぎ、奥の廃れた暖炉の中にある鍵を見つけなければならず、僕らは無機物と化した死体の間をすり抜けていった。
「暖炉……九条頼む」
「……うわっ!」
虹くんが暖炉の中に手を入れた瞬間、火がついた。無論、火ではないのだが。中でなにかがゆらゆら揺れて、火みたいにオレンジと赤、少し青が混ざった光と熱風、そしてパチパチと木が弾ける音が鳴り始める。
「おい、九条!」
「鍵が、取れないっ……」
鍵に夢中になって、僕らは後ろから大量の幽霊が近づいているのに気づかなかった。おぼつかない足取りで白い服の幽霊たちが迫ってくる。聞き取れない、わけのわからないことをボソボソとしゃべりながら。
やばい、襲われる。誰か助けて——
目をつぶりそうになった瞬間、少し押されて後ろによろけた。パーカーのフードが目の前に、僕の前に立ちはだかっている。
「九条……?」
「虹、くん?」
虹くんは僕と先輩の盾になっていた。息を呑みどうするのか、と思ったら真剣な顔から一転して一言。
「あははっ、あー、どうも。お疲れ様でーす」
軽くお辞儀をする虹くんに幽霊はぽかんとして、一瞬動きが止まる。その隙をついて虹くんは僕と晴先輩の腕を掴み、出口へと走りだす。
「今だっ!走れ!」
幽霊も役を全うしようとしているのか、逃げる僕らを追いかける。出口を先ほどの鍵を使って開けると太陽が顔を出して、そのまぶしさに思わず唸った。
「お、終わったのか?」
晴先輩はその場にへたり込み息を整え、その横で僕も座り込んで放心状態でうなだれた。
「しにそう……」
異世界転生して、そこから現代に戻ってきたみたい。並んでこれから入る人たちが、そんなに怖いの?と不安そうな顔をしていた。うん、怖いよ。虹くんがいなきゃ、怖いよ。
「やったぁ!完走できたね!」
「ちょい、休憩……」
晴先輩掠れ気味の声の晴先輩に僕も賛成する。
「おけい!じゃあ一旦、セントラルエリアのカフェに行くか!」
立ち上がると僕は手に食い込んだ小石を払おうとして一瞬動きを止めた。手のひらを見る。それから思い直して一粒ずつ手で小石を取り、二人の後を追った。
「今日のメインだよー」
カフェで少し休んでから僕らはいよいよ大本命である空中散歩の列に並んでいた。待ち時間は20分ほど。四時近くなるとだんだんと家族連れの人は帰る雰囲気を醸し出し、太陽も刺すような光から優しく僕を暖めるものへと変わっていた。搭乗口までの列は緩やかに坂になっていて、進むたびに足首が痛い。前後周りの会話がやけに大きく聞こえ、晴先輩と虹くんがなにやら話している内容も入ってこない。エコーがかかったようだった。
「ねえ、そらどう思う?」
「な、なにが?」
「え、だからー、球技大会のスポーツ。まずそもそも俺は球技全般苦手なんだけどー、晴先輩はバレーが一番簡単だってさっ」
「たしかにバレーはボールが来たら打つだけだからね」
僕はなんとなくそう言う。
「そらはもう決めたの?」
「うん、テニス」
「バレーじゃないんかい!」
晴先輩と虹くんは笑っていた。
理由はひとつ。テニスはダブルスとシングルが選べるからだ。シングルにすれば一人で勝手にできるし、一回戦で負けておこうと決めている。
「先輩はやっぱサッカーですよね?」
僕の質問にまあな、と晴先輩は返した。
「またそらと応援行きますよ!」
「お、それはうれしいな」
ジョットコースターが近くのレールを通ると、時間差で前髪をサッっと吹き飛ばし、みんな雑に髪や服を整えた。
「晴先輩ってワックスなに使ってるんですか?今めっちゃいい匂いした!」
「ユルゲンスってやつの緑色のやつ」
「へぇー、今度使わせてくださいよ!」
「九条はなに使ってるの?」
「キューディかな。たまにしか使わないけど」
「聞いたことないな、キュ、キューディ?」
「そういえば、」
虹くんは突然、僕の髪を触る。
「結構前にそらとワックスのこと話してたよねー、たしかロレンスの2番が好きだって……あれ?」
僕の髪で遊んでいた虹くんの手が止まる。サーっと血の気が引いていくのを感じ、反射的に後ろに避けた。完全にやってしまったかもしれない。
「もしかして今日、おれと同じやつ使ってる?」
「あっ……えっと」
今すぐ逃げ出したい。
「同じ匂いだもん!おれのオススメ聞いてくれたんだー」
虹くんはへへへ、と僕の頭を再び撫でていた。なにも出来ない。ただされるがまま、僕は硬直する。
「……九条、進んでるぞ」
「はいはいー。そういえば先輩、この前の……」
鼻から息を吸ってお腹を膨らませる。それから、一気に口から数秒かけて息を吐く。深呼吸で体を落ち着かせた。自分で舵を切ったのに、航路を見失い、地図も無くしてどっちにハンドルをきればいいのかわからなかった。
「ここの列までであと10分ほどでーす」
キャストさんの声にザワっと盛り上がる。楽しみだと首を伸ばす人もいれば怖いのか目をつぶっている人。その目は覚悟を決めていた。
「そら、じゃんけんで席順を、」
「虹くん」
遮る声は鋭く出た。僕は続ける。
「ちょっとお腹痛くてさ……下のベンチで待ってるよ」
「え、大丈夫?」
「大丈夫か、佐藤」
2人の目を真っ直ぐに見ることはできなかった。目は口ほどに物を言う、というように僕の心を見透かされそうで。
「ぜんっぜん大丈夫……なんだけど、ほら!これ日本一高いってやつだしー、こ、怖くなっちゃって……」
「じゃあ帰ろうよ」
「え、なんで」虹くんに僕は言った。
「なんでって、そらがいないと意味ないでしょ?」
「え?」
「そうだな、また来ればいいだけだし」
「うん!そうだ、晴先輩の受験が終わってから、」
晴先輩まで乗っかって僕はいよいよ大きな声を出してしまった。
「いや!」
「え……?どうしたの……?」
「僕のことはいいから2人で乗ってきて。下で休憩してるだけだからほんと、気使わないで」
少し威圧的な言い方に後悔した。でもこうしなければ、やるしかないのだとわかっていた。
「絶対乗って!戻ってこないで」
それだけ言って押し黙る2人を置き、僕は行列を逆方向に下っていく。ガクガクと脚が震えていて、不思議そうに見る人の視線も無視して歩く。よくやく下に降りて白いベンチに腰掛けるとやっと鼓動が止まった。
「……なにやってんだろ」
自分自身を嘲笑する。僕は虹くんと晴先輩をくっつけたいのに、アシストしなければいけないのに、なんで。なんで。虹くんが僕に触れるたび、名前を呼ぶたび、嬉しくなってしまう。スマホのケースに挟まれた河内さんとのプリクラを見て、晴先輩と話が盛り上がっているのを見て、なんで僕は……
無意識に握っていた拳をゆるめると、虹くんに触れられていた感覚が蘇ってきた。
僕以外と幸せにならないでほしい。
なんで?幸せになってほしいのに、幸せにならないでほしいなんて思う僕は、
「……最低だよな」
溢れた言葉は届かない。届いたとすれば目の前を歩く鳩くらいだろう。僕は鳩がパンくずを探す様子をしばらく見ていた。午後4時半の鐘が鳴って、魔法が解ける時がいよいよ来たのかもしれないと思った。
「ふわぁー、長旅だったねー」
あくびしながら言う虹くんに僕は突っ込む。
「いや虹くん、50分くらいだったけど」
「そうだけどさっ、なんかずーっと長く寝てた気分」
結局虹くんと晴先輩は空中散歩に乗った。まあ、僕があんだけ言ったから当然だけど。乗り終わって二人はなぜか僕の座るベンチへ全速力で走って帰ってきた。お土産をチラッとみて、バスに揺られ、たった今最寄駅についたばかりだ。
「晴先輩はそのまま電車だもんね」
「今日は沼島のスーパーで買うものがあって、途中まで送ってくよ」
「じゃあみんな方向一緒じゃん!やったー!」
虹くんは僕の方を振り返って言う。当たり前かのように、いつものように笑顔で。
「ごめん虹くん」
喉が締め付けられる。
「ん?」
「ちょっと寄るところがあってさ、2人で先帰っててよ」
「そうなのか?佐藤」
「はい、ちょっとね」
「あ、そう?おっけい!じゃあまた学校でね!」
「うん」
ばいばーい、と手を振って歩き出す虹くんと晴先輩を僕はその姿が見えなくなるまで見つめた。もちろん、寄るところなんてない。2人の進む方向とは反対方向へ歩いていく。たくさんの車を見送って、運動不足の脚が限界になるまで歩き続けた。どのくらい経っただろう。そろそろいいか、と家へ向かおうとしたときだった。
「佐藤空」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこにはかなり前に見送ったはずの晴先輩が一人、目の前に立っていた。空はもう、藍色に染まり始めていた。
3人の予定を合わせた結果、予定よりかなり遅れてしまい、もう肌寒い季節に入りつつあった。駿河ハヤブサパークは東海地方にある有名な遊園地で、駐車場には全国各地のナンバーの車が停まっている。
「ハヤブサパークなんて中学生ぶりだー」
虹くんはなつかしい、とはしゃいでいた。晴先輩は去年友達ときたらしい。
「そらはいつぶり?」
「小学生ぶりかも。昔よく家族で来てたんだ」
エントランスへ入ると既にジェットコースターが動いていた。まだ白い息の出る朝に風を切る音と楽しそうな悲鳴が響き渡る。
「晴先輩は絶叫系得意?」
「俺は得意!ここの三大コースターも制覇してる」
さすが!と手を叩く虹くんはいつにも増して楽しそうで自然に笑みが溢れる。この笑顔、守りたい。どっかのCMで言っていたセリフは今の僕の心を正確に代弁していた。
「そらは?ジェットコースター」
急に名前を呼ばれてアスファルトを見つめていた視線を上げた。
「あー、僕はちょっと……苦手かな」
「えー!そうなの!?そらの提案だからてっきり乗れるものかと」
「あ、いや!怖いけど乗れなくはないよ!乗ったことはあるし!」
ちがうちがう、と手を振りながら必死に弁明する。これでジェットコースターに乗らないなんて言う結論が出たら大変だ。地図を見ながら三大ジェットコースターのひとつ、瞬速ライダーを目指す。虹くんは地図を難しい顔で睨むと、晴先輩は横から覗き込み、正確な道順を指差す。
……いい感じじゃん。
晴先輩と虹くんの仲は日に日に近づいていた。僕と先輩で考えた作戦通り、偶然を装ってほぼ毎日虹くんと晴先輩は顔を合わせ、3人で話した。ただその距離が友達の範疇を出ないことを僕も、そしておそらく晴先輩も気づいているかもしれない。だからここへ来たんだ。
「瞬速ライダーへようこそ!瞬速ライダーは日本で一番速いジェットコースターです。みなさん、発車の際は背中をしっかりと背もたれにつき、顎を引いてください」
2分おきに流れるアナウンスが鬱陶しくなってきた。コースターが通る音が聞こえるたびに上を見上げる。
「あと30分だってさー、やっぱ朝から並ぶと意外と早いなぁ」
混んでる時は60分待ちが当たり前の看板コースターだったため、30分待ちはかなり短縮されている。
「そうだ!指スマしよ!」
虹くんは右手を出して言った。
「指スマ?」晴先輩が聞く。
「うん!五回勝負で負けた人が昼の飲み物奢りね」
「おお、いいじゃん!佐藤、どうだ?」
「もちろんやる!」
飲み物奢りとあらば急に負けられない戦いになった。
「ふぅー、よーし!」
指は一人2本まで上げられるルールにし、僕たちは手を前に出す。虹くんはオリンピック選手が競技の前にやるような深呼吸をした。
「指スマ4!」
トップバッターの晴先輩は外した。くぅー、と悔しそうな顔を見て僕と虹くんは笑う。
「指スマ2!」
上がった指は3つだ。マジかー、と僕は頭を抱える。惜しかった。
「次俺か!よーし、指スマ5!」
僕と晴先輩は2ずつ、上がった指は4だ。
「うわー、だめだー」
直後、晴先輩は虹くんを指差しながら笑う。
「え?え?九条さ、5なら自分上げないと絶対むりだろ!」
「え、あ、そっか!やばい、おれバカじゃん!」
晴先輩は小馬鹿にして笑い続けた。口を尖らせる虹くん、全く気にしない先輩を見て、おかしくて僕も腹を抱える。
「はいはい、次俺なー、指スマっ、2!」
「ねぇ!ちょっと今さー、指スマって言った後に間があったって!ズルだ!」
「ちょっと噛んだだけだって!なんだ、九条は審査員か?」
「今のは確定でズルです!」
「負けてるからって言いがかりはやめてくれよ」
晴先輩はもう抗議する虹くんをまあまあ、と押し返す。
「おれは認めない!そら!判決は!」
虹くんは勢いよく僕を指差した。その目は味方だよな?と訴えている。
「そうだ、佐藤!言ってやれ!」
晴先輩も同じだ。まったく、この2人はなにを争っているんだ。12時の太陽がまぶしくて、僕は目を細めた。しばらくの沈黙の後、僕はフッと軽く笑う。
「もちろん今のは……」
目をつぶる。僕は息を整えて堂々と宣言した。
「ズルに決まってるだろ!」
なんでだよー、と悔しそうな晴先輩の横で僕と虹くんはハイタッチをした。僕よりいくらか小さい手の温度が一瞬、僕に移る。
「佐藤、お前裁判員失格だな」
「僕はちゃんと自分の良心に従って判断しましたよ。まあ、これ認めると先輩が勝ちになっちゃうのでね」
「なにが良心だ。私情入りまくりじゃないか」
そんなこんなで戦いは終結。僕と虹くんは大逆転をかまし、晴先輩の負けとなった。
「楽しかったー」
「意外と早く終わったよな」
瞬速ライダーはスタートした瞬間のスピードがレベチで速い。いや、速いなんてもんじゃない。首がもげそうだった。足がまだふわふわとしていておぼつかないその感覚が懐かしい。地球温暖化で季節を失った現代は10月といえども暑い。昼を少し過ぎたばかりの気温は初夏に匹敵すると思う。僕らは晴先輩の奢りで屋台のタピオカ店へ向かい、外にあるテーブルに座りながら次の乗り物を話し合う。
「空中散歩もいいよなー」
虹くんは地図の真ん中辺りを指した。
「空中散歩は夕方が結構空いてるぞ」
「じゃあその前に、ぐるぐるフライナーは?」
「いいね」
僕は思わず同意しまい、慌てて咳払いをした。
「じゃあ一回ぐるぐるフライナー行ってからー、時間まだあるだろうから、あ!これは?」
虹くんはイタズラ顔で指差したところには……
「最恐、血みどろ迷宮屋敷……え、むりむり!」
「九条、さすがにそれは、ね?」
「……ん?」
とぼける虹くんの顔は明らかに僕らを嘲笑うかのよう。うわ、絶対行かせるつもりだ。僕も、おそらく晴先輩もそう思ってる。この子に振り回されたい僕ら。虹くんに甘い僕らをどうにかしてくれ。
「迷宮屋敷の所要時間は40分くらいだってさ!意外と長いねー、楽しみだなぁ」
虹くんはそう言って足取り軽く、僕らの前を颯爽と歩いていた。ぐるぐるフライナーを乗り終え、園内の最奥に位置するお化け屋敷へと僕らは進んでいた。
「おい佐藤、お前止めろよ」
晴先輩は僕に耳打ちする。近くにはメリーゴーランドのメルヘンチックな音楽が聞こえてきて、見ると馬や馬車にはしゃぐ子どもたちとそれを微笑ましく見つめ動画を回す親がいた。
「むりですよ、虹くんの顔見ました?あんな楽しそうなのに」
「くっ……見てくれ、鳥肌が立ってる」
「奇遇ですね、僕もです」
僕らはどちらの方が鳥肌が立っているかというなんともどうでもいい争いをする。お化け屋敷は苦手だ。説明できない謎の怪物、異常現象、幽霊のいる場所へ嬉々として飛び込めるほど僕は楽観的ではない。
「しかもここのお化け屋敷って本格的っていうじゃん?途中でリタイヤできる出口がたくさんあるっていう」
「どんだけ怖いんだ……」
僕は深呼吸をして心を落ち着かせた。ふいにいつしかスマホで調べたことが頭に浮かび、指を鳴らす。
「あっ、でもお化け屋敷ですよ。なんでしたっけ……吊り橋効果というやつです。逆にチャンスなのでは?」
「は、は?恋してる暇なんてないって。俺は自分の命の方が大事だ」
「ふん、そうですかー。僕は自分の命より虹くんの命の方が大事ですけどね」
僕が言うと、晴先輩はうわ、と呆れる。
「まあその心配はなさそうだ。見ろよあの目の輝き」
晴先輩は目の前にいる虹くんを指差して言う。チケット販売機の前でるんるんと順番を待っている。
「九条ならいざとなったら幽霊と友達にでもなるんじゃないか?」
「……たしかに」
同意するほかなかった。
券売機を通り過ぎると雰囲気が一気に変わった。メリーゴーランドの音楽がさっきより遠くに聞こえる。あんなに微笑ましく、暖かい気持ちだったのにここへ来るとなぜか不気味だ。作為的なのか、周りにある木も手入れがされてなく、枝が無造作に伸びて垂れ下がっていた。真ん中の大きな屋敷。錆びついた茶色、剥がれかかった塗装……いかにもだ。
「この屋敷で連続殺人事件が起こったらしい。使用人が何人も殺されたんだって!犯人はこの屋敷に代々伝わるいにしえの、」
「わかった、わかった九条。ちょっと黙っててくれ」
「晴先輩はビビりですね。ねぇ、そら?」
「……」
同意できなくてごめん。心臓が悲鳴を上げてる。待っている時間が1番怖い。僕と晴先輩は恐怖に冒され、列に並びながら微妙に噛み合っていない会話を繰り返していた。
「次の方ー」
案内係の人に虹くんが3人分のチケットを渡すと、いよいよその番が来た。尻込みする僕と先輩に虹くんはため息をついた。
「情けないねー、2人とも。はい、おれの肩につかまってー」
虹くんを真ん中に僕らはその肩にガッチリとつかまった。余裕な表情で虹くんが歩き出す。午後一番の太陽と屋敷の暗闇。コントラスト100パーセントに僕の目は狂っていて、なにも見えなかった。
「暗いなー」
「そ、そうだね……」
暗い、というか寒い。虹くん操作の懐中電灯で照らされたおそらくキッチンでは血まみれの包丁が床に転がっていて、その横に……
「しっ、死体!?」
僕が言いながら叫んで全力疾走をする。叫んでいる間は少しばかり怖くなかった。これはまさか必勝法を手に入れたのでは、と思ったが、恐怖を感じるたび悲鳴を上げては体力、精神力ともに持たないだろう。
「佐藤、急に死体とか言うなって」
「すいません……」
「うわ、ここ寝室だー」
「ちょっ、九条。もうちょっとゆっくり行こう」
会話は全て小声で足音すら殺して歩く。静か過ぎて自分の心臓の音すら聞こえそうだ。
「おお、いますねー」
虹くんはなんの躊躇いもない。
「な、なにがだ?」
「え?だから死体」
「ちょっ!むりむり!」
晴先輩は目をつぶっていた。
「先輩!服引っ張んないでくださいよー、伸びます!この服は先月買ったばかりの、」
「………うぅ……うぅ……ゔっっ……」
背後から掠れた唸り声。だんだんと大きく近づいてくる。
「うわぁ!!!!」
僕らは走る。四方からもバリバリと壁の音がする。シーツが切り裂かれる鋭い刃物の音が急に大きく響いて、心臓が止まりそうだった。
「ははっ、急に大きな音はやめてほしいね」
切れた息を整えながら虹くんはゆるりと言う。僕らは命からがらなんとか逃げ延びて、安全とされる階段で休憩していた。
「あと半分くらいか?」
「そうですねー、今から行く一階はメインの大広間ですよ!」
「……寿命が縮みそうだ」
「ていうか、そら大丈夫?」
無言の僕に虹くんの顔が近づく。このドキドキは恐怖由来なのか虹くん由来なのかは不明。
「へ?あ、だい、大丈夫……」
「汗すごいけどっ」
虹くんは自分の袖で僕の額の汗を拭ってくれた。柔軟剤の匂いがかすかに香る。
「佐藤は俺よりやばいんじゃないか?」
「くっ……先輩、ばかにしてます?晴先輩も先輩のくせに、ビビってるじゃないですか」
「少しはビビらせてくれよ」
ビビらせてくれってなによ、と虹くんはツボり始めた。
「まあでも、怖がってる佐藤、なんか新鮮」
「え、わかる!」
晴先輩の言葉に虹くんまで同意して僕は口を尖らせた。
それから応接間やお風呂、怪しげなパソコンだらけの部屋をなんとか通り、いよいよメインであり最後の大広間へと来た。もうすでに叫び散らかし喉がカラカラだけど。暗闇に目が慣れてきて、なにがあるのか見える。血に染まったカーペット、どこからともなく吹いてくる冷たい風、それに揺れる垂れ下がった長いボサボサの黒髪。テレビやパソコンが不規則にチカチカと光って、ひんやりとした空間に皮膚が冷却されていた。ふぅー、と息を整える。いもしない悪霊に精神を削り取られ、脂汗もかいていた。全身が震え上がる。僕は判断力が鈍って遠慮もなく虹くんの肩を持っていた。僕より小さな背中もなぜか大きく見える。
「よし、最後だー」
「……行くか」
「……うん」
瞬間、肩を持つ手を下ろされた。虹くんは何も言わず、そのまま僕の手を優しく握る。暖かい。虹くんの中でドクドクと波打つ血管が僕にも伝わってくるみたいだ。おれがついてるよ、その手はそう言っていた。大広間は無音だった。派手な音がないのが逆に怖い。ゆっくりと中央のテーブルを通り過ぎ、奥の廃れた暖炉の中にある鍵を見つけなければならず、僕らは無機物と化した死体の間をすり抜けていった。
「暖炉……九条頼む」
「……うわっ!」
虹くんが暖炉の中に手を入れた瞬間、火がついた。無論、火ではないのだが。中でなにかがゆらゆら揺れて、火みたいにオレンジと赤、少し青が混ざった光と熱風、そしてパチパチと木が弾ける音が鳴り始める。
「おい、九条!」
「鍵が、取れないっ……」
鍵に夢中になって、僕らは後ろから大量の幽霊が近づいているのに気づかなかった。おぼつかない足取りで白い服の幽霊たちが迫ってくる。聞き取れない、わけのわからないことをボソボソとしゃべりながら。
やばい、襲われる。誰か助けて——
目をつぶりそうになった瞬間、少し押されて後ろによろけた。パーカーのフードが目の前に、僕の前に立ちはだかっている。
「九条……?」
「虹、くん?」
虹くんは僕と先輩の盾になっていた。息を呑みどうするのか、と思ったら真剣な顔から一転して一言。
「あははっ、あー、どうも。お疲れ様でーす」
軽くお辞儀をする虹くんに幽霊はぽかんとして、一瞬動きが止まる。その隙をついて虹くんは僕と晴先輩の腕を掴み、出口へと走りだす。
「今だっ!走れ!」
幽霊も役を全うしようとしているのか、逃げる僕らを追いかける。出口を先ほどの鍵を使って開けると太陽が顔を出して、そのまぶしさに思わず唸った。
「お、終わったのか?」
晴先輩はその場にへたり込み息を整え、その横で僕も座り込んで放心状態でうなだれた。
「しにそう……」
異世界転生して、そこから現代に戻ってきたみたい。並んでこれから入る人たちが、そんなに怖いの?と不安そうな顔をしていた。うん、怖いよ。虹くんがいなきゃ、怖いよ。
「やったぁ!完走できたね!」
「ちょい、休憩……」
晴先輩掠れ気味の声の晴先輩に僕も賛成する。
「おけい!じゃあ一旦、セントラルエリアのカフェに行くか!」
立ち上がると僕は手に食い込んだ小石を払おうとして一瞬動きを止めた。手のひらを見る。それから思い直して一粒ずつ手で小石を取り、二人の後を追った。
「今日のメインだよー」
カフェで少し休んでから僕らはいよいよ大本命である空中散歩の列に並んでいた。待ち時間は20分ほど。四時近くなるとだんだんと家族連れの人は帰る雰囲気を醸し出し、太陽も刺すような光から優しく僕を暖めるものへと変わっていた。搭乗口までの列は緩やかに坂になっていて、進むたびに足首が痛い。前後周りの会話がやけに大きく聞こえ、晴先輩と虹くんがなにやら話している内容も入ってこない。エコーがかかったようだった。
「ねえ、そらどう思う?」
「な、なにが?」
「え、だからー、球技大会のスポーツ。まずそもそも俺は球技全般苦手なんだけどー、晴先輩はバレーが一番簡単だってさっ」
「たしかにバレーはボールが来たら打つだけだからね」
僕はなんとなくそう言う。
「そらはもう決めたの?」
「うん、テニス」
「バレーじゃないんかい!」
晴先輩と虹くんは笑っていた。
理由はひとつ。テニスはダブルスとシングルが選べるからだ。シングルにすれば一人で勝手にできるし、一回戦で負けておこうと決めている。
「先輩はやっぱサッカーですよね?」
僕の質問にまあな、と晴先輩は返した。
「またそらと応援行きますよ!」
「お、それはうれしいな」
ジョットコースターが近くのレールを通ると、時間差で前髪をサッっと吹き飛ばし、みんな雑に髪や服を整えた。
「晴先輩ってワックスなに使ってるんですか?今めっちゃいい匂いした!」
「ユルゲンスってやつの緑色のやつ」
「へぇー、今度使わせてくださいよ!」
「九条はなに使ってるの?」
「キューディかな。たまにしか使わないけど」
「聞いたことないな、キュ、キューディ?」
「そういえば、」
虹くんは突然、僕の髪を触る。
「結構前にそらとワックスのこと話してたよねー、たしかロレンスの2番が好きだって……あれ?」
僕の髪で遊んでいた虹くんの手が止まる。サーっと血の気が引いていくのを感じ、反射的に後ろに避けた。完全にやってしまったかもしれない。
「もしかして今日、おれと同じやつ使ってる?」
「あっ……えっと」
今すぐ逃げ出したい。
「同じ匂いだもん!おれのオススメ聞いてくれたんだー」
虹くんはへへへ、と僕の頭を再び撫でていた。なにも出来ない。ただされるがまま、僕は硬直する。
「……九条、進んでるぞ」
「はいはいー。そういえば先輩、この前の……」
鼻から息を吸ってお腹を膨らませる。それから、一気に口から数秒かけて息を吐く。深呼吸で体を落ち着かせた。自分で舵を切ったのに、航路を見失い、地図も無くしてどっちにハンドルをきればいいのかわからなかった。
「ここの列までであと10分ほどでーす」
キャストさんの声にザワっと盛り上がる。楽しみだと首を伸ばす人もいれば怖いのか目をつぶっている人。その目は覚悟を決めていた。
「そら、じゃんけんで席順を、」
「虹くん」
遮る声は鋭く出た。僕は続ける。
「ちょっとお腹痛くてさ……下のベンチで待ってるよ」
「え、大丈夫?」
「大丈夫か、佐藤」
2人の目を真っ直ぐに見ることはできなかった。目は口ほどに物を言う、というように僕の心を見透かされそうで。
「ぜんっぜん大丈夫……なんだけど、ほら!これ日本一高いってやつだしー、こ、怖くなっちゃって……」
「じゃあ帰ろうよ」
「え、なんで」虹くんに僕は言った。
「なんでって、そらがいないと意味ないでしょ?」
「え?」
「そうだな、また来ればいいだけだし」
「うん!そうだ、晴先輩の受験が終わってから、」
晴先輩まで乗っかって僕はいよいよ大きな声を出してしまった。
「いや!」
「え……?どうしたの……?」
「僕のことはいいから2人で乗ってきて。下で休憩してるだけだからほんと、気使わないで」
少し威圧的な言い方に後悔した。でもこうしなければ、やるしかないのだとわかっていた。
「絶対乗って!戻ってこないで」
それだけ言って押し黙る2人を置き、僕は行列を逆方向に下っていく。ガクガクと脚が震えていて、不思議そうに見る人の視線も無視して歩く。よくやく下に降りて白いベンチに腰掛けるとやっと鼓動が止まった。
「……なにやってんだろ」
自分自身を嘲笑する。僕は虹くんと晴先輩をくっつけたいのに、アシストしなければいけないのに、なんで。なんで。虹くんが僕に触れるたび、名前を呼ぶたび、嬉しくなってしまう。スマホのケースに挟まれた河内さんとのプリクラを見て、晴先輩と話が盛り上がっているのを見て、なんで僕は……
無意識に握っていた拳をゆるめると、虹くんに触れられていた感覚が蘇ってきた。
僕以外と幸せにならないでほしい。
なんで?幸せになってほしいのに、幸せにならないでほしいなんて思う僕は、
「……最低だよな」
溢れた言葉は届かない。届いたとすれば目の前を歩く鳩くらいだろう。僕は鳩がパンくずを探す様子をしばらく見ていた。午後4時半の鐘が鳴って、魔法が解ける時がいよいよ来たのかもしれないと思った。
「ふわぁー、長旅だったねー」
あくびしながら言う虹くんに僕は突っ込む。
「いや虹くん、50分くらいだったけど」
「そうだけどさっ、なんかずーっと長く寝てた気分」
結局虹くんと晴先輩は空中散歩に乗った。まあ、僕があんだけ言ったから当然だけど。乗り終わって二人はなぜか僕の座るベンチへ全速力で走って帰ってきた。お土産をチラッとみて、バスに揺られ、たった今最寄駅についたばかりだ。
「晴先輩はそのまま電車だもんね」
「今日は沼島のスーパーで買うものがあって、途中まで送ってくよ」
「じゃあみんな方向一緒じゃん!やったー!」
虹くんは僕の方を振り返って言う。当たり前かのように、いつものように笑顔で。
「ごめん虹くん」
喉が締め付けられる。
「ん?」
「ちょっと寄るところがあってさ、2人で先帰っててよ」
「そうなのか?佐藤」
「はい、ちょっとね」
「あ、そう?おっけい!じゃあまた学校でね!」
「うん」
ばいばーい、と手を振って歩き出す虹くんと晴先輩を僕はその姿が見えなくなるまで見つめた。もちろん、寄るところなんてない。2人の進む方向とは反対方向へ歩いていく。たくさんの車を見送って、運動不足の脚が限界になるまで歩き続けた。どのくらい経っただろう。そろそろいいか、と家へ向かおうとしたときだった。
「佐藤空」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこにはかなり前に見送ったはずの晴先輩が一人、目の前に立っていた。空はもう、藍色に染まり始めていた。

