絶対幸せにならないで!

「に、虹くんはテスト何点だったの?」

ちらほらと長袖の人が目立つようになってきたこの頃。僕らの作戦は変わらず進んでいた。河内さんが委員会や部活で昼いないとき、僕と晴先輩は虹くんとお昼をともにするようになったが、そんな日はほとんどない。1回1回が大切なアピールタイムなのだ。

「現代文が37点でー、数学が40点」
「た、高いな……」晴先輩がポツリとつぶやく。
「僕はこの前、晴先輩に数学教えてもらったら10点上がったんだよ!晴先輩ほんと教えるのが上手くて、ね?」
「え、あー、まあ理数系は得意なんだ」

僕は晴先輩の肘でつついた。

「先輩、はやく言ってくださいよ」
「いや、九条頭いいじゃないか、教えることなんて、」
「いいから!」僕は小声で急かす。
「んんっ、九条は苦手な科目とかあるのか?」
「うーん、物理かなー、テストもいつも20点台だし最近授業もなにがなんだか……」
「そ、それは大変だ!晴先輩、物理得意ですよね?」

僕の目線を受けた晴先輩はパスを受け取った。

「あ、ああ!物理は一番得意だ!50点満点取ったことあるしな……どうだ九条、教えるよ」
「本当?助かるー!じゃあ今度図書館で勉強会しましょうよ!」

楽しげな虹くんの横で晴先輩と目を合わせた。

「これでいいのか?」
「ばっちりです!」




作戦に朝も昼も夜も関係ない。

「おい、九条は本当にくるのか?」
「おそらく。今日は日直のはずですから」
「なんで知ってるんだよ、お前らクラス違うんだろ?」
「だって今日は12日でしょ、虹くんの出席番号は12番だから」
「そこまで把握してるとこえーよ」
「あ!来た!」

僕が指差す方向には当番日誌を取りに来たであろう虹くんが、あくびをしながら一人職員室へと入っていった。

「い、いきますよ」

おう、と晴先輩も構える。虹くんが職員室を出た後、どのルートで教室に戻るのかはシミュレート済みだ。晴先輩は曲がり角に先回りして、前を見ていなかった風を装って曲がろうとした虹くんにぶつかる。

「わぁ!」

少し離れたところで僕はその様子を見ていた。2人がぶつかった瞬間、手に汗をかいた。虹くんは小柄だ。高身長の晴先輩とぶつかったら……

「虹くん!」

気づけば叫んで虹くんのもとへ渾身のスライディングを決めていた。摩擦で肘とふくらはぎあたりが熱い。

「ちょ、ちょっと晴先輩!危ないじゃないですか!」
「悪かったな九条、大丈夫か?」晴先輩が差し出した手を虹くんは掴んで立ち上がった。
「全然大丈夫です!おれも前見てなかったから、晴先輩も怪我してない?」
「あ、ああ……俺は大丈夫だ」
「それにしてもそら、反射神経すごいね!おかげで助かったー」
「あー、うん。瞬発力には自信あって、ね。はは……」

虹くんは僕と晴先輩の顔を交互に見て首を傾げた。

「ん?ていうか、2人は朝からなにやってるの?」
「……え?」

僕は言葉に詰まって、なんと返そうか頭をフル回転した。

「えっとー、あれだよあれ」
「あれ……?」
「生徒会の手伝い!」

僕と晴先輩の声が重なった。




「これ本当に意味があるのか?」

昼休み、晴先輩に生徒会室へ呼び出された僕は部屋に入ってそうそう、晴先輩に疑念の目を向けられる。

「なくはない……と思うけど」
「確認なんだけど、佐藤は九条が好きなんだよな?今も」
「もちろんです」

なにを当たり前なことを。

「もういっそ、告白しないのか?」
「え?なんで?」

ありえません、と僕は言う。

「あ、いや……悪い。なんでもない」
「俺さ、」

晴先輩はなにか思いつめた表情で言った。

「俺は今、九条と付き合おうとしている」
「はい、ん?知ってますけど」

なんですか今更、と僕は付け足した。あんなに忙しく人が動いていた生徒会室も今は月二回ほどの委員会報告会の時しかほとんど使われない。あと一二ヶ月もすれば、球技大会などの行事の準備で忙しくなるだろう。

「……作戦は続けるんだな?」
「うん、もちろん。次は……」

僕は黒板に作戦の候補を書き連ねた。

「やっぱ昼休みが一番関われるのにー!いっつも彼女といるからなー、どうしたものか」

どの作戦も時間がないとできない。僕が頭を抱えると晴先輩も唸る。

「うーん、数を打つならやっぱ廊下とかで会うしかないんじゃないか?」
「あ、委員会!報告会の時虹くんいますよね、図書委員会だし!その時に、」

突然、ガラガラと扉が開く音がした。僕は全身から血の気が引く感覚を覚え、素早く振り返ってその主を見る。

「龍一!」
「やっほー、晴くんにそらくん」

僕は龍一の目線が黒板にいこうとした瞬間、両手を広げて防ぐ。その隙に晴先輩が高速で黒板を消した。

「な、なにしてんの……?」
「生徒会の機密情報なんだ、誰にも見せるなって言われてる企画の会議をしてたんだ」
「え?2人で?」

ああ、今日はな、と晴先輩は意味のわからない言い訳をする。

「え、でもそらくん生徒会じゃないじゃん」
「て、手伝いだよ!先生に許可もらってるんだ」
「ていうか、どうした龍一?」
「先生が呼んでたよ、晴くんの進路指導担当」
「あー、わかった。ありがとな」

教室を出ていく晴先輩に手を振る。3年生は大変だな。1年後の自分を想像して顔をしかめる。

「ところでそらくん」
「ん?」

龍一はめずらしく上機嫌だった。

「お昼行こうよ!」




「君が晴先輩抜きで僕を誘うのめずらしいな」

龍一と僕は屋上でパンをかじる。初めて来た屋上は雲ひとつない青空。風が吹くたび額につくうっとうしい前髪を避けてくれる。

「屋上は立ち入り禁止だからって晴くんは誘っても来てくれなかったんだよ」
「え、立ち入り禁止なのここ!?」

え、うん、と龍一は普通に答えた。施錠の鍵が壊れているのを知って、1人になりたい時よく来ているらしい。

「まっ、晴くんは真面目くんだからねー」

僕がそこまで真面目じゃないと思われているのが鼻につくが目をつぶっておくことにした。

「晴くんは優しいんだよ」

龍一は遠くの街並みを眺めながらひとり言のように言った。

「優しい?」
「うん。1回だけ、一緒に行ってくれたんだ。ぼくが何回も誘うからいやいやだろうけど、屋上でこうやってお昼を食べてくれた」

想像できる。晴先輩は押しに弱い、その優しさにつけ込むやつがここに2人もいるのがその証明だ。

「で?」
「晴くんは少ししてすぐ戻ろうと言ったんだけど、ぼくがごねてるうちに先生に見つかったんだ」

龍一はきっと後悔しているのだろう、顔をわずかに歪めた。

「晴くんは優等生だし、多分ぼくに言われてきただろうって先生もわかってたからそのときは注意だけで済んだけどね」

保守派の晴先輩と冒険派の龍一か。

「それでも晴くんは優しいからぼくを怒ったりしなかった。ただぼくといるといつも疲れてそうで……不安になったんだ。それに、」
「それに?」
「学校では付き合ってること絶対言わないこと、噂されたら別れるって言われたんだ」
「あー、たしかに晴先輩、モテるのにその噂が一度もないって言われてたな」
「そう!ぼくは公開しないまでもそこまで隠す必要はないと思ってたんだけどねー、それだけはどうしても譲れないって言ってて」
「それで別れたと?」

そう、と言って龍一は続ける。

「結局、カチカン?が合わなかったってことね」

価値観……付き合ってみないとわからないこともたくさんある。その時ばかりは龍一が恋愛経験者の苦しみを知っている師匠に見えた。

「で?」

え、と龍一は不思議そうに僕を見る。

「この話の結論は?もしかして君の恋愛ストーリー聞かされてただけ?」
「む、うるさいなぁー!なんでも話してって言ったのはそらくんでしょ!」

そうだったな、いつかそう言った気もしなくもない。

「つまり、この話の結論は……」
「あ、あるんだ」

どうせ龍一らしいくだらないことだろうと腕を組んだ。

「優しさは残酷だってこと」

さらりと風が僕らの間を駆け抜ける。その言葉には妙な説得力と重みが乗っていた。

「優しさは、残酷……」
「晴くんはぼくを振った。ぼくの嫌なところも言わずにただ別れよう、とだけ言ってね。それなのに今もぼくを突き放したりはしない。そらくんと3人でお昼まで一緒にいるし、怒らないし、何事もなかったように話すでしょ?」
「そう、だね」

晴先輩と龍一がカップルであったことを時々忘れそうになるほど僕らは3人でただの友達のようだった。龍一は手に持っていたちぎりパンを線の入っていないところまでヂリヂリにちぎる。

「もういっそ、バッサリ切ってくれればいいのにね」

いつも明るく能天気な龍一の沈む表情を初めて見た。嬉しそうに笑うその仮面の下ではいつも涙を流していたのか。

「つまり、振られたいってこと?」
「うーん、振られたいっていうか、今のままなら振られた方がいいのかも」

好きなのに、振られたい。そんな一見おかしな感情を僕らは持っている。風が雲を運び、太陽を隠した。光が遮断される。

「そしたら前に進めるじゃん?」
「……わかるよ」

きっと僕らは関係が崩れてしまうのが怖いんだ。優しい人はなにをしてもずっと友達でいてくれる。だけど一度崩れた関係は歪な形のまま進んでいって、きっと自分も、そして相手も苦しめることになる。

「多分……」
「ていうかさ、」

龍一は急に口調が軽々しく、僕の話を遮った。

「ん?」
「そらくんって攻め受けどっち?」

麦茶が気管に入って、盛大に咳き込む。

「うえ、汚なっ!」

なんだこいつは。緩急の差が激しすぎるだろ。

「は、は!?な、なんだよいきなり」
「いいからさー、教えてよ」

龍一はじりじりと攻め寄ってくる。僕は濡れた制服をハンカチで拭き取った。

「……考えたこともないな」
「え?」
「虹くんが相手なら僕はどっちでもいいし」
「は?」
「そもそも、僕と虹くんはそういうんじゃないの!」

ピシャリと言う。そう、僕は虹くんとそうなりたいわけじゃない。変なの、と龍一は座り直して僕を見た。

「そらくんってぼくより重症かも」
「よく言うよ。ストーカーしてた君の方がやばいに決まってる」

龍一は僕の攻撃を無視してグミの袋を開ける。ひとつ摘んで僕の口元へ差し出す。

「なに?」
「はい、あーん」
「やめろよなんであんたの、」
「いいから!あーん」

半ば強引に押し込まれた。

「固っ!なにこれ」

ジャリジャリするし、酸っぱすぎる。

「超スーパーハイパーハードグミ。サイダー味!」
「歯が折れそう……」

龍一は文句を言いながらグミを咀嚼する僕を見てツボったらしく、ずっとケラケラと笑っていた。




放課後、僕は晴先輩と生徒会の備品の買い出しに付き合った。ホームセンターでスズランテープや模造紙、結束バンドなどを袋いっぱいに購入、学校に運ぶ仕事を終えると、先輩がクレープを奢ってくれた。

「お昼のやつ、なんだったんですか?」

先輩を駅まで送る道を並んで歩く。

「進路のことだよ」
「あ、推薦?とれそうですか?」
「いや、その推薦をやめて一般入試で受けてみないかだとさ」
「はっ?」

僕の眉はハの字に曲がる。基準に達しなかったのか?どんな基準か知らないけど、晴先輩に限ってそんな……
晴先輩は僕の思考を読み取ったみたいにすぐさま否定した。

「あ、いや推薦は余裕でとれるんだ。ただ普通に一般で受けても受かるだろうから他の子に譲ってほしいって」
「そんなのありなんですか!?推薦とるために今まで頑張ってきたのに?」

俺も驚いたよ、と晴先輩は途中の河川敷で足を止めた。

「まあ、いいんだ。学校としてはなるべく多くの人を合格させたいからな。危ない人を推薦して合格させたほうがいいんだろ」
「訴えます?教育委員会に」

やめとけ、と先輩は僕を軽くあしらった。ぎゅっとクレープを持つ手に力が入る。

「先輩……」

なるべく聞きたくなかった。

「まさか、承諾なんてしてないですよね?」
「……」

僕はため息をつく。

「なに、晴先輩はイエスマンですか!なんで断らないの!?」
「だって、たしかにA判定だし……」
「2月まで受験が伸びるんですよ!本当だったら年内に終われたのに」
「そ、それは……まあ推薦でも一般でも受かればいいんだ受かれば」
「……やっぱ優しすぎですね」
「やっぱって?」

なんでもないです、と僕はクレープにかぶりつく。口の周りに付いたホイップが今日はやけに鬱陶しかった。

「まあいいんだ。受験は団体戦っていうし、みんな推薦の枠取るために頑張ってたから、別にサボってやつに譲り渡すってわけじゃないし」

それはどちらかと言うと僕より自分を納得させようとしている言い方だった。僕は欄干に伏せるようにして川を眺める先輩の整った横顔を見つめた。学校帰りなのかランドセルを背負ったまま追いかけっこをする子どもたちの声。不安も悩みもなにもなさそうに今を純粋に楽しんでいる。その様子を見ながら先輩はわずかに口元を綻ばせた。

「……後悔してます?」

思い返してみれば晴先輩は放課後からずっと、どこか上の空だった。

「いや……そんなことは、」
「正直に!」

半ば脅迫みたいだったけど僕は晴先輩の本音を聞きたくて語気を強めた。

「……ちょっと後悔してる」
「やっぱり。先輩はいつも本音を言いませんよね」
「そうかな」
「そうですよ、自覚もないとは驚きです」
「ははっ、でもこうする以外にできることもないし、みんながいいならいいんだろ」

晴先輩は黙る僕のおでこをつんと押した。

「そんな軽蔑した目で見るなって!顔に出すぎ」

情けないよな、と先輩は寂しく笑う。出会ってから何度か見た少し影を纏った先輩の姿。僕はそんな先輩を見るたびに距離が近づいて、たくさんのことを知れた。

「情けないかどうかは知りませんけど、」

口に広がっていた甘みが消え、手に残った紙をグジャグジャと限界まで丸めてポケットに入れる。

「僕は生徒会の手伝いをする前から先輩のこと知ってました」

驚く晴先輩に、有名でしたから、と返す。

「成績優秀、スポーツ万能、人望が厚くて、おまけにイケメン。非の打ち所がない、優等生ってイメージでした」

そう、漫画で出てくるような典型的なヒーローだ。

「だから僕は興味がなかった」

晴先輩の眉間に皺がよる。なにを言っているのかわからない、と言いたげな表情だ。

「そんな完璧な人間とはきっと関わることはないと思ったから。なんというかこれですよ、これ」

僕は右手をロボットのように直角に曲げ、左手をまっすぐに伸ばした。

「なんで言います?中学数学の図形で」
「……ねじれの位置?」

晴先輩はおそるおそる答えた。僕は大きく頷く。

「でもそんなとき、元カレがどうとか、男が好きだとか、嘘ついたり誤魔化したりしながら人知れず悩んでて、なんだこの人普通に人間じゃん、って思って」

それは先輩に差し込む人工的な光が消えた瞬間だった。

「僕は初めて興味が湧いた。仲良くなりたいって思った」

晴先輩の瞳はわずかに揺れた。子どもたちが相変わらず元気に走り回っている砂利の音が聞こえる。

「佐藤……」
「堂々としている先輩より、今みたいに悩んだり困ったりわたわたしている先輩の方が僕は好きだな」

トラックが高速で駆け抜け、生ぬるい風が互いの髪を揺らす。

「……ありがとな」
「事実を言っただけだよ」

はやく帰りましょう、と5分ほどで駅に着くと、先輩は邪念が吹き飛んだように笑顔で手を振り改札へ消えていった。

「さ、帰るか」

カラスの鳴き声は掠れていて、大きく息を吸い込み、僕は夕方の空を仰いだ。