「そらー、ちょっと!」
昼休み、虹くんが僕の教室の扉からちょこっと顔を出した。
「虹くん、どうしたの?」
「お昼食べた?」
「え、うん」
「じゃあ行こ!」
連れて行かれたのはまさかの柔道場だった。
「今日は柔道部の昼練がないって聞いて今日しかないと思ったんだー」
足の指を動かすと柔らかい床に埋もれるような感じがした。
「なに、するの……?」
「そらに護身術を教える!」
「ご、護身……え?」
護身術……って体育祭の時に虹くんがやってたやつか?
「あの時はたまたまおれがいたからいいけど、もしいなかったら大変なことになってただろ?だから基本的な術は身につけておかないと」
おれが相手になってあげる、と虹くんは指を鳴らした。
「いやむりだよ、虹くんに技を決めるなんて、」
「はいまずは腕を掴まれたときね」
虹くんは僕に対して結構強引なことが多い。僕の話を聞かずサッと腕を掴まれた。人肌の温度、虹くんの体温を感じてドキリとする。
「こういうときは空いてる手を添えて肘を使って関節を捻る!いくよー」
「痛たたたっ」
骨を絞られるような、でもうれしい痛み。もちろん、虹くん限定で。
「やってみて!」
さあ、と虹くんが差し出した腕をおそるおそる掴んだ。
「こ、こう?」
「うっ……そう!いいじゃん!」
完璧だね、と虹くんは言って次はどうしようか、と考え込んでいた。
「そうだな……じゃあはい、後ろ向いてー」
くるりと後ろを任された瞬間、僕は固まった。虹くんがピッタリとくっついていている。脇の下から腕を通されて、羽交い締めされているではないか。
「ちょ、ちょっと待って」
「そら!ここで戸惑ってはいけないの!敵は待ってくれないんだから」
「そうじゃなくて……」
「いい?まずはしっかり脇を閉める!それから身体を縮めて」
「ち、縮めて?」
「横に捻る!」
言われた通りにすると、簡単に虹くんが床に転ぶ。たしかにすごい。原理とかよくわからないけど、なるほどハマってしまうかもしれない。
「え、めっちゃできてるじゃん!よーし次は……」
僕は息を呑んだ。天国でもあり地獄でもあるこの時間はなんなんだ。
「押し倒された場合をやっておこうか!」
「あ、え」
はいはい寝転んでー、虹くんは僕を寝かせ、跨いで上に乗る。あ、もうダメだこれ。身体より、僕の心を護身してくれ。生殺しすぎる。虹くんはそんな僕の気持ちなどまったく無視で僕の手を押さえつけた。
「こうしたら動けないでしょ?その場合は素早く手を下に下げる!」
「し、下に下げる……」
「違う違う、もっとはやくだよー」
「はやく……」
護身術などまるで頭に入ってこない。虹くんの顔しか見れないし、この体勢は……
「そしたら拘束が外れるでしょ?そしたら、」
下から見る虹くんの顔はいつもと違って見えた。あらぬ妄想をしようとする頭を殴りたい。このままではいろいろ危ないけど、でもずっとこのままでいたい。僕はとうとう変態に足を突っ込んでしまったのではないかと思ってしまうほどだ。
「片腕に手を通して捻る!最初からやってみて!」
「えっとー、まず手を素早く下に……」
「うわっ……うんうん、合ってるよ」
合っているのだけど、バランスを崩した虹くんの顔がぐんと近づく。あといちいち声を出すのやめてほしい。
「手を通してくるんとする、くるんと」
くるんと?僕は言われたまま身体を捻ると本当にくるとさっきと真逆の体勢となる。
「ぐっ……よいしょっと、いいね!」
虹くんが下で僕が上。心臓の音が聞こえてないか、僕は気が気じゃなかった。
「すごいじゃん!できてるできてる!完璧だね」
こんな体勢のまま言われても反応できない。目を見れない。僕はハッとしてワンテンポ遅れて虹くんから降りると、頬を触って熱を確認した。ただ護身術の相手になってもらっただけなのに、体が熱くて。
「才能あるよ、そら。これでいつどこでなにが起きても大丈夫!」
「は、はは……」
「よーし、じゃあ上級編!準備はいい?」
「はい……」
それから特訓は10分以上続いた。
「じゃあ動画のリンク送っとくから見といてねー」
虹くんを見送ると脱力してその場へへたり込んだ。謎に上がっていた息を整えつつ、心を浄化する。
「お花畑……うさぎ、ねこ、赤ちゃん、オーロラ……」
「佐藤?」
「あ、先輩……」
たまたま通りかかったらしい晴先輩は、僕の魂の抜けた返事に心配したのか柔道場へ入って、力の抜けた僕の背中を支えた。
「どうした?体調悪いのか?」
「……」
「おい?」
「僕は護身術をしただけ、僕は護身術をしただけ、僕は……」
「おーい、なに、熱中症か?」
「晴くん?」
視界の端に龍一を見つけ目を細める。なにかの帰り道かプリントを持っていた。
「なにしてるの?」
「佐藤が具合悪いらしい。龍一、そっち持って」
2人に抱えられ、僕は保健室へ連れて行かれた。護身術、全く役に立ってない。
「なんだよそのくだらない理由は!本気で心配したんだぞ」
「そうだよ!理由がバカすぎる!」
ベッドに運ばれた後、事の顛末を話すと、2人に詰め寄られ僕は口を尖らせた。
「だって、きょ、距離が!あーもう、今思い出しても手が震える」
「中学生じゃないんだからさー」
龍一は枕を抱え、僕に軽蔑の眼差しを向けた。君たちと違って僕は初心なんだ、君たちと違ってな!
「もう帰ろ、お腹すいてるんだけどー」
「龍一、まだお昼食べてないのか?」
「うん」
「佐藤は?」
「へ、まだ食べてない……」
晴先輩はやれやれ、とベッドから立ち上がって言った。
「購買いくぞ、パン買ってやる」
「ありがとうございます」
僕は焼きそばパンをかじって言った。北校舎の誰も使わない階段に3人で座る。もちろん真ん中は僕だ。
「虹くんって人はどんな人なの?」
「君とは正反対の性格さ。穏やかで優しくて、なんというか存在そのものが癒し、的な」
「ふーん。晴くんは虹くんを知ってるんだよね?どっちが好き?虹くんかぼくか」
「答えづらい質問をするな」
晴先輩は遠くを見てサンドイッチを頬張った。
「モテるの?その人」
「どうだろう?でも今彼女いるよ」
「えー、ははっ、そらくん完全な失恋じゃん!」
「うるさい!お前もな」
「でもやっぱ7年ってすごいよなー」
晴先輩は片想いはすぐ諦める派だという。恋愛に関しては来るもの拒まず去るもの追わずのスタイルらしい。
「意外に諦められない理由がその年数だったりして」
ぽつんとつぶやいた龍一の何気ない言葉は僕の心を突いた。その年数が、理由。
「どういうこと?」
「7年もずっと心の中にあってそれが当たり前になっちゃったんだよ。あって当然なもの。虹くんのことを考えるのが当たり前で、習慣で、だから今更それをやめようとすると、もやもやするんじゃない?」
「……なるほどな」
晴先輩も感心した様子で頷いた。
「虹くんが日常に馴染みすぎたんだよ。だから諦めようにも頭がそれを拒否する」
「っていうかそれ君にも言えることじゃん」
核心をつかれ僕は逃げるように龍一に言い返した。けどその龍一の言葉は僕の心にこびりついたまま取れない。
「ぼくは晴くんが日常に溶け込んでるわけじゃないし!いつも非日常だったし!」
「まあ、4ヶ月しか付き合ってないからな」晴先輩は呆れたように言った。
「いや、短っ!」
僕は意外な事実に思わず声に出してしまった。ちょっと失礼か。いや、いいか。
それからというもの頻繁に、夏休みが終わってからも変わらず僕と晴先輩は龍一から呼び出され、こうやって階段で昼休みを過ごしていた。
昼休み、虹くんが僕の教室の扉からちょこっと顔を出した。
「虹くん、どうしたの?」
「お昼食べた?」
「え、うん」
「じゃあ行こ!」
連れて行かれたのはまさかの柔道場だった。
「今日は柔道部の昼練がないって聞いて今日しかないと思ったんだー」
足の指を動かすと柔らかい床に埋もれるような感じがした。
「なに、するの……?」
「そらに護身術を教える!」
「ご、護身……え?」
護身術……って体育祭の時に虹くんがやってたやつか?
「あの時はたまたまおれがいたからいいけど、もしいなかったら大変なことになってただろ?だから基本的な術は身につけておかないと」
おれが相手になってあげる、と虹くんは指を鳴らした。
「いやむりだよ、虹くんに技を決めるなんて、」
「はいまずは腕を掴まれたときね」
虹くんは僕に対して結構強引なことが多い。僕の話を聞かずサッと腕を掴まれた。人肌の温度、虹くんの体温を感じてドキリとする。
「こういうときは空いてる手を添えて肘を使って関節を捻る!いくよー」
「痛たたたっ」
骨を絞られるような、でもうれしい痛み。もちろん、虹くん限定で。
「やってみて!」
さあ、と虹くんが差し出した腕をおそるおそる掴んだ。
「こ、こう?」
「うっ……そう!いいじゃん!」
完璧だね、と虹くんは言って次はどうしようか、と考え込んでいた。
「そうだな……じゃあはい、後ろ向いてー」
くるりと後ろを任された瞬間、僕は固まった。虹くんがピッタリとくっついていている。脇の下から腕を通されて、羽交い締めされているではないか。
「ちょ、ちょっと待って」
「そら!ここで戸惑ってはいけないの!敵は待ってくれないんだから」
「そうじゃなくて……」
「いい?まずはしっかり脇を閉める!それから身体を縮めて」
「ち、縮めて?」
「横に捻る!」
言われた通りにすると、簡単に虹くんが床に転ぶ。たしかにすごい。原理とかよくわからないけど、なるほどハマってしまうかもしれない。
「え、めっちゃできてるじゃん!よーし次は……」
僕は息を呑んだ。天国でもあり地獄でもあるこの時間はなんなんだ。
「押し倒された場合をやっておこうか!」
「あ、え」
はいはい寝転んでー、虹くんは僕を寝かせ、跨いで上に乗る。あ、もうダメだこれ。身体より、僕の心を護身してくれ。生殺しすぎる。虹くんはそんな僕の気持ちなどまったく無視で僕の手を押さえつけた。
「こうしたら動けないでしょ?その場合は素早く手を下に下げる!」
「し、下に下げる……」
「違う違う、もっとはやくだよー」
「はやく……」
護身術などまるで頭に入ってこない。虹くんの顔しか見れないし、この体勢は……
「そしたら拘束が外れるでしょ?そしたら、」
下から見る虹くんの顔はいつもと違って見えた。あらぬ妄想をしようとする頭を殴りたい。このままではいろいろ危ないけど、でもずっとこのままでいたい。僕はとうとう変態に足を突っ込んでしまったのではないかと思ってしまうほどだ。
「片腕に手を通して捻る!最初からやってみて!」
「えっとー、まず手を素早く下に……」
「うわっ……うんうん、合ってるよ」
合っているのだけど、バランスを崩した虹くんの顔がぐんと近づく。あといちいち声を出すのやめてほしい。
「手を通してくるんとする、くるんと」
くるんと?僕は言われたまま身体を捻ると本当にくるとさっきと真逆の体勢となる。
「ぐっ……よいしょっと、いいね!」
虹くんが下で僕が上。心臓の音が聞こえてないか、僕は気が気じゃなかった。
「すごいじゃん!できてるできてる!完璧だね」
こんな体勢のまま言われても反応できない。目を見れない。僕はハッとしてワンテンポ遅れて虹くんから降りると、頬を触って熱を確認した。ただ護身術の相手になってもらっただけなのに、体が熱くて。
「才能あるよ、そら。これでいつどこでなにが起きても大丈夫!」
「は、はは……」
「よーし、じゃあ上級編!準備はいい?」
「はい……」
それから特訓は10分以上続いた。
「じゃあ動画のリンク送っとくから見といてねー」
虹くんを見送ると脱力してその場へへたり込んだ。謎に上がっていた息を整えつつ、心を浄化する。
「お花畑……うさぎ、ねこ、赤ちゃん、オーロラ……」
「佐藤?」
「あ、先輩……」
たまたま通りかかったらしい晴先輩は、僕の魂の抜けた返事に心配したのか柔道場へ入って、力の抜けた僕の背中を支えた。
「どうした?体調悪いのか?」
「……」
「おい?」
「僕は護身術をしただけ、僕は護身術をしただけ、僕は……」
「おーい、なに、熱中症か?」
「晴くん?」
視界の端に龍一を見つけ目を細める。なにかの帰り道かプリントを持っていた。
「なにしてるの?」
「佐藤が具合悪いらしい。龍一、そっち持って」
2人に抱えられ、僕は保健室へ連れて行かれた。護身術、全く役に立ってない。
「なんだよそのくだらない理由は!本気で心配したんだぞ」
「そうだよ!理由がバカすぎる!」
ベッドに運ばれた後、事の顛末を話すと、2人に詰め寄られ僕は口を尖らせた。
「だって、きょ、距離が!あーもう、今思い出しても手が震える」
「中学生じゃないんだからさー」
龍一は枕を抱え、僕に軽蔑の眼差しを向けた。君たちと違って僕は初心なんだ、君たちと違ってな!
「もう帰ろ、お腹すいてるんだけどー」
「龍一、まだお昼食べてないのか?」
「うん」
「佐藤は?」
「へ、まだ食べてない……」
晴先輩はやれやれ、とベッドから立ち上がって言った。
「購買いくぞ、パン買ってやる」
「ありがとうございます」
僕は焼きそばパンをかじって言った。北校舎の誰も使わない階段に3人で座る。もちろん真ん中は僕だ。
「虹くんって人はどんな人なの?」
「君とは正反対の性格さ。穏やかで優しくて、なんというか存在そのものが癒し、的な」
「ふーん。晴くんは虹くんを知ってるんだよね?どっちが好き?虹くんかぼくか」
「答えづらい質問をするな」
晴先輩は遠くを見てサンドイッチを頬張った。
「モテるの?その人」
「どうだろう?でも今彼女いるよ」
「えー、ははっ、そらくん完全な失恋じゃん!」
「うるさい!お前もな」
「でもやっぱ7年ってすごいよなー」
晴先輩は片想いはすぐ諦める派だという。恋愛に関しては来るもの拒まず去るもの追わずのスタイルらしい。
「意外に諦められない理由がその年数だったりして」
ぽつんとつぶやいた龍一の何気ない言葉は僕の心を突いた。その年数が、理由。
「どういうこと?」
「7年もずっと心の中にあってそれが当たり前になっちゃったんだよ。あって当然なもの。虹くんのことを考えるのが当たり前で、習慣で、だから今更それをやめようとすると、もやもやするんじゃない?」
「……なるほどな」
晴先輩も感心した様子で頷いた。
「虹くんが日常に馴染みすぎたんだよ。だから諦めようにも頭がそれを拒否する」
「っていうかそれ君にも言えることじゃん」
核心をつかれ僕は逃げるように龍一に言い返した。けどその龍一の言葉は僕の心にこびりついたまま取れない。
「ぼくは晴くんが日常に溶け込んでるわけじゃないし!いつも非日常だったし!」
「まあ、4ヶ月しか付き合ってないからな」晴先輩は呆れたように言った。
「いや、短っ!」
僕は意外な事実に思わず声に出してしまった。ちょっと失礼か。いや、いいか。
それからというもの頻繁に、夏休みが終わってからも変わらず僕と晴先輩は龍一から呼び出され、こうやって階段で昼休みを過ごしていた。

