残り香の湯、雨のジンガ

 その日の午後は、異様なほどに空気が重く、湿っていた。


 シィカお姉ちゃんは、法事の準備の手伝いで隣町まで出かけており、家には私とダニエウの二人きりだった。


「ワカハ、もっと腰を低く! ジンガのリズムを止めるな!」
 庭で繰り返される、激しい稽古。Tシャツは汗で肌に張り付き、飛び散る汗の雫が西日に光る。


 その時だった。空が急に暗転したかと思うと、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が、叩きつけるように降り注いだ。


「うわっ、すごい雨……!」
「走れ! 中に入るぞ!」


 二人はずぶ濡れになりながら、笑い声混じりに母屋へと駆け込んだ。
 薄暗い廊下で立ち止まると、激しい雨音が屋根を叩く音だけが響く。Tシャツは透け、髪からは絶え間なく水滴が滴っていた。


「このままじゃ、風邪をひくよ。お姉ちゃんが帰る前に、温まらなきゃ」
 ダニエウの言葉に導かれるように向かったのは、いつもお姉ちゃんが使っている風呂場だった。


 扉を開けると、そこにはまだお姉ちゃんが朝に使った香水の残り香が、湿り気を帯びて停滞していた。主のいない、けれど彼女の気配が色濃く残る聖域。
 そこで、私たちは図らずも、一つの湯船に身を沈めることになった。


 狭い浴槽。逃げ場のない沈黙の中で、お湯の熱さがじりじりと肌を刺す。
 湯気の中に浮かび上がる私の肌は、自分でも驚くほど真っ白で、そして、中学生という年齢を裏切るように豊かに育った胸が、水面で心許なく揺れていた。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。
 ダニエウの瞳が、いつもの「師匠」のものではなくなっていた。それは、昨夜の障子の向こうで、お姉ちゃんを貪っていたのと同じ、一人の「男」としての剥き出しの視線。


 
 彼がゆっくりと、湯船の中で立ち上がった。
 水音と共に現れたその股間には、私の細い腕よりも太く、猛々しいほどに反り立つ「雄」の象徴が、脈打つ熱を持って鎮座していた。


(……これがお姉ちゃんを、あんな風に……)
 圧倒的な現実を前に、私は息を呑む。


 それは、言葉や短歌では決して表現できない、暴力的で、それでいて神聖なまでの生命の塊だった。


 今の私がこれを受け入れたら、私は私の形を留めていられない。壊れて、溶けて、お姉ちゃんのように狂わされてしまう。


 恐怖が背筋を駆け抜ける。けれど、それ以上に私の胸を支配したのは、どうしようもないほどの「愛着」だった。お姉ちゃんが愛し、私が焦がれた、この圧倒的な熱。


 私は震える手を伸ばし、その硬く熱い「生命」にそっと触れた。
 指先から伝わる鼓動。それは庭で刻んだジンガのリズムよりも速く、重い。
 いつか、自分もお姉ちゃんのような大人になりたい。


 この巨大な熱を、恐怖ではなく愛として抱きしめられる強さが欲しい。
 私は自分への誓いを立てるように、目を閉じ、その熱い先端へとそっと唇を重ねた。


 雨音にかき消されるような、小さな、けれど確かな決別の儀式。
 私はもう、ただ墨を磨るだけの少女には戻れないのだと、その沈黙の熱が教えてくれていた。




唇から伝わる、脈打つような熱。
 私の小さな口では到底受け止めきれないその大きさに、私は本能的な恐怖と、それ以上の陶酔を感じていた。


 けれど、ダニエウの大きな手が、私の肩を優しく、けれど拒絶するように押しとどめた。


「……ワカハ、ダメだ」


 掠れた彼の声。見上げると、ダニエウは苦しげに目を閉じ、必死に自分を律していた。


 彼は分かっていたのだ。このまま進めば、私は壊れてしまう。そして、彼が心から愛しているシィカお姉ちゃんとの世界も、二度と元には戻れなくなるということを。


「今は、ここまで。……君はまだ、蕾(つぼみ)だから」


 ダニエウは私の頭に大きな手を置き、子供をあやすように優しく撫でた。
 猛々しく立ち上がっていた「雄」の象徴が、湯船の中に沈んでいく。私たちはそれ以上、言葉を交わさなかった。ただ、雨音だけが脱衣所に響き渡り、お姉ちゃんの香水の残り香が、湿った空気の中で二人を包み込んでいた。


 風呂から上がり、髪を拭きながらリビングで所在なく過ごしていた、その時。


 ガタガタと激しく引き戸が開く音がした。
「ただいま! ひどい雨ね、すっかり濡れちゃった」


 玄関に現れたのは、買い物袋を抱え、服を肌に張り付かせたシィカお姉ちゃんだった。


 お姉ちゃんの白い首筋を雨の雫が伝い、足元のタイルに小さな水たまりを作っている。


 ダニエウと私は、一瞬だけ視線を交わした。
 つい数分前まで、同じ湯船の中で、お姉ちゃんの知らない「熱」を共有していた二人。その秘密が、私の胸の奥でチリチリと音を立てて焼ける。


「あ……お帰りなさい、お姉ちゃん」
 私は努めて冷静を装い、タオルを肩にかけたままお姉ちゃんの方へ歩み寄った。


 彼女の体からは、私が憧れていたあの香水の香りが、雨の匂いに混じって淡く漂ってくる。けれど今の私には、その香りの裏側にある、昨夜の障子越しの喘ぎや、先ほど触れたダニエウの猛々しい熱の方が、ずっとリアルに感じられた。


「お風呂、沸いてるよ。すぐに入って温まって」


 私が告げたその言葉は、どこまでも日常的な響きを持っていた。
 けれど、そのお風呂が、つい先ほどまで別の熱に支配されていたことを、お姉ちゃんは知らない。


「ありがとう、ワカハ。助かるわ」
 お姉ちゃんはいつものように優しく微笑み、浴室へと消えていく。


 私は、お姉ちゃんの背中を見送りながら、自分の中の何かが決定的に変わってしまったことを悟っていた。


 あの湯船に残した沈黙の熱。
 それは、お姉ちゃんから教わったどの短歌よりも重く、私の体に刻まれていた。