残り香の湯、雨のジンガ

 静謐(せいひつ)だった夏に、その「音」は突如として割り込んできた。
 ザッ、ザッ、と力強く芝生を蹴る音。規則的でありながら、獲物を狙う獣のような、しなやかで猛々しい呼吸。


 墨を磨る私の手が止まる。お姉ちゃんは、縁側の向こうを見つめて、今まで私に見せたことのないような、蕩(とろ)けるような甘い微笑みを浮かべていた。


「ダニエウ、あまり無理しないでね」
 お姉ちゃんが呼んだその名は、彼女が都会から連れてきた恋人のものだった。


 庭にいたのは、陽光を跳ね返すような褐色の肌を持つ大男だ。ダニエウ。遠いブラジルの血を引くという彼は、上半身を裸にし、独特のリズムで体を揺らしていた。


 それは「カポエイラ」という格闘技なのだと、お姉ちゃんが教えてくれた。
 右へ、左へ、重心を低く保ちながらステップを刻む。その動き——『ジンガ』と呼ばれる基本のステップを目にした瞬間、私の胸の中にあった短歌の概念が、音を立てて崩れ、そして再構築された。


(……これが、リズム……?)


 私が和紙の上に求めていた、五・七・五・七・七の調べ。言葉の連なりが持つ「揺れ」や「溜め」が、彼の肉体を通じて、地響きのような躍動となって眼前に現れていた。


 お姉ちゃんへの憧れは、いつの間にか、その隣に立つ異質な存在への強烈な好奇心へと形を変えていく。


「ワカハも、やってみる?」


 休憩に入ったダニエウが、タオルで汗を拭いながら私に笑いかけた。白い歯が眩しい。


 私は吸い寄せられるように、縁側から庭へと裸足で降りた。


「こう……ですか?」
 見よう見まねでジンガを刻んでみる。ダニエウの大きな手が、私の肩や腰に添えられ、正しい位置へと導く。


 お姉ちゃんの指先は、羽毛のように軽やかで冷たかった。けれど、ダニエウの手は、岩のように硬く、火のように熱い。触れられた場所から、電気のような刺激が全身に走る。


「ワカハ、筋がいいよ。いいリズム、持ってる」


 たどたどしい日本語。けれどその低い声は、私の鼓膜を震わせ、直接胃の腑を掴むように重く響いた。


 褒められるたびに、私の心臓はうるさいほどに脈打つ。それは、お姉ちゃんに「綺麗な歌ね」と言われた時の、天にも昇るような心地よさとは違っていた。


 もっと、泥臭くて、熱くて、逃げ出したくなるほどに重い……「生(なま)」の感覚。


 
 ダニエウが動くたびに、彼の体から立ち上る野生的な匂いが、お姉ちゃんの香水の残り香を塗り替えていく。


 私は、自分が刻むリズムが次第に速くなっていくのを感じていた。それが、ダニエウへの弟子入りという名目の裏側にある、正体不明の情動に突き動かされているのだとは、その時の私はまだ、認めたくなかった。


 夏の空が、にわかに暗い雲に覆われ始めていた。
 湿った風が、私たちの間を吹き抜けていく。