残り香の湯、雨のジンガ

 陽炎がアスファルトを揺らし、世界が熱にうなされているような昼下がり。私は、古びた石垣に沿って続く坂道をのぼっていた。


 目指すのは、シィカお姉ちゃんの家。そこだけが、焼けつくような外の世界から切り離された、冷たくて静かな聖域だった。


「お邪魔します……」


 引き戸を開けると、使い込まれた畳の匂いと、微かな墨の香りが鼻をくすぐる。そしてその奥に、お姉ちゃんだけの「都会の気配」が混じっていた。


 奥座敷では、シィカお姉ちゃんがすでに文机の前に座っていた。
 彼女が動くたびに、薄いガーゼのようなブラウスから、彼女が愛用する香水の残り香がふわりと漂う。甘いけれど、どこか雨上がりの森のような、落ち着いた香り。私はその空気を胸いっぱいに吸い込み、彼女の隣にそっと座る。


「今日も来たのね、ワカハ。さあ、まずは墨を磨りましょうか」
 お姉ちゃんの声は、風鈴の音のように涼やかだった。
 私は頷き、硯(すずり)に向かう。水を数滴落とし、重みのある墨をゆっくりと回す。


 お姉ちゃんは、私の手元をじっと見つめていた。私は、彼女の視線を感じるだけで、背中のあたりがむず痒くなるような、それでいて心地よい緊張感に包まれる。


 シュッ、シュッ、という規則正しい音。
 それは、私の胸の高鳴りを落ち着かせるための儀式のようだった。


「ワカハ、この歌をどう思う?」


 お姉ちゃんが差し出したのは、彼女が愛用している深い紺色の万年筆で綴られた一首だった。


 金色のペン先が紙の上を滑り、インクがじわりと染み込んでいく。その優雅な筆致さえも、私にとっては美しさの権化に見えた。


 私はお姉ちゃんの横顔を盗み見る。
 すっと通った鼻筋、伏せられた長い睫毛。その白い肌には、まだ子供の私にはない「女」の奥行きがある。


 私はお姉ちゃんの使う万年筆になりたかった。彼女の首筋に纏う香水のひと雫になりたかった。彼女の紡ぐ言葉の、一音になりたかった。


「……とても、綺麗です。お姉ちゃんみたい」


 私がそう呟くと、お姉ちゃんは少しだけ驚いたように目を見開き、それから困ったように微笑んだ。


「ワカハは、私を買いかぶりすぎよ。私なんて、ただの言葉の迷子なんだから」


 そう言って彼女が私の頭を撫でる。その指先の温度、かすかに香る都会の匂い。


 私は目を閉じ、それら全てを自分の細胞の一つ一つに吸収しようと努めた。
 この時間が永遠に続けばいい。
 シィカお姉ちゃんと私の、二人だけの静かな、墨色の夏。
 けれど、その静寂は、庭から響いてきた「異質な音」によって、あっけなく破られることになる。