✻ ✻ ✻
数日後の夜遅く、帰宅した橘は室内に満ちるいい匂いにハッとなった。
「――お嬢?」
「お帰りー!」
にこにこ出迎えたのは、もちろん斎だ。キッチンで夕食を作り得意顔。
メニューはブリの照り焼きと肉じゃが、生野菜サラダとキュウリの塩もみ、大根の味噌汁。
それらを目撃した橘は反応に迷った。そして低く絞り出す。
「……要求はなんですか」
「話が早いわね」
ニヤリとし、斎は味噌汁の鍋を火にかけた。温め直して一緒にいただくつもりだ。
「まあ手を洗ってきてよ。それともシャワー浴びたい?」
「そういうセリフをお嬢から言われたくないです」
聞きようによっては色っぽくもなる言葉。この場合まっっったくそんな意図がないのはわかりきっているが橘は不満そうだ。
だって変だろう。こんな新婚夫婦プレイを斎が仕掛けてくるなんて。
上着を脱ぎ、ネクタイを外しただけの格好で皿を用意する。二折ほど腕まくりしたワイシャツの袖からのぞく筋肉に斎はウンウンとうなずいた。
「相変わらずパツパツ」
「……私は護衛ですから」
鍛えていることを褒めるのは、信頼しているという表明だ。護衛として頼りにしている――それがこの茶番の結論につながるのかもしれない。斎は危ないことに首を突っ込む気なのだろうか。橘は暗澹となった。
斎が用意してくれた食事は嬉しい。もし美味しくなくても全部食べると決意した。実は軽く食事を済ませてきたのだが黙って平らげるぐらいには、斎の下僕であることが身に染みついている橘だった。
さて斎の目的や、いかに。
「ありがたくいただきます。が、話も進めましょう」
「はーい。いただきます」
きちんと手を合わせ、二人は食卓を囲んだ。
パク。
食べる橘の顔を、斎はじっと見つめる。いちおう反応が気になった。まじまじと見られて橘が眉根を寄せる。だが口から出たのは褒め言葉だ。
「……美味しいですよ」
「そ? よかった。じゃあ毒見も済んだし私も食べよ」
「作ったのは自分でしょう」
「信じちゃダメ。お惣菜かもしれないし」
「違いますね。近くのスーパーのは、照り焼きのタレがもっと甘い」
「橘……お疲れ」
惣菜を食べつけていそうな発言が悲しくなり、ねぎらった。酒も出した方がよかったか。でも橘は首を横に振った。
「お嬢の前で乱れるわけにいきません」
「飲むと乱れるの」
「そんな時も、という話で――それで、この食事はなんのおねだりなんですか」
「――こないだのミュウちゃんのこと」
ピクリ。
橘の箸が一瞬止まる。でも斎はとがめなかった。
「今日会ったんだけどね」
「どこでです。他に誰かいましたか。こちらが店休日なので私は本業を片づけてきたんですが、お嬢はほっつき歩いていたと?」
橘は自然に根掘り葉掘りする。斎が高校生だった頃は交友関係を親に報告するのも橘の仕事だった。そのせいか今は斎も大人なのに素直に聴取される。
「道端でバッタリしただけ。どっちもひとりで買い物の途中だった……ところでこれ、どこかに報告するの?」
「しません。私が把握しておきたいだけです」
「何かおもしろいかな……」
「お嬢のことなら知っていないと気が済まないので」
絶妙に護衛だかストーカーだかわからない言い分を淡々と述べ、橘は悪びれない。
「で、あのミュウとやらがどうしました」
「ワインぶっかけた客が指名するお気に入りの嬢、アズサっていうんだけど。その女にイビられてるんだって。店を替わろうかなって悩んでた」
「ふむ……まあ妥当なのでは」
「こら」
いちおう叱るが、斎にもわかる気はした。
心結は天然のお花畑だ。ぼんやりしてドンくさくて、でも顔が可愛くて胸も大きくて愛嬌があって、なんとなく助けてもらえて生きてきた。
そんな心結にワインを浴びせたのは、少々お元気なタイプの男性客だったとか。そういうやからは気が強く機転の利く女を好むことが多い。アズサもきっと、そういうタイプ。そりゃ心結には苛つくだろう。
「気が合わないのは仕方ないよね。人間だもん」
「その通りです」
「でもわざわざイジメるのは違うでしょ?」
斎のまなざしは真っ直ぐだった。
「自分の取り巻きのところへ接客にこさせて、抵抗できない相手へ酒ぶっかけるとか気に入らない」
「ですね……」
出た。斎の「気に入らない」。
こうなると斎はテコでも動かなくなる。だがその主張が倫理的におかしいとも思えなくて、橘はいつも斎に振り回されることを選んでしまっていた。とんだ忠犬だと自覚している。
橘は今回も観念し、ため息を飲み込んだ。
「そのアズサをどうにかしたい、と?」
「ていうか彼女を指名するお兄さんたちも含めてなのよ。いつもニコニコ現金払いらしいし、きっと埃が出る」
「……カードが作れない方々ですか」
それはつまり反社。だが斎の信念では属する組織などあまり問題ではない。見ているのは行動だ。
無力な店員を暴力でおどし嗤う根性。男の威を借りて嫌いな同僚をいたぶる品性。万能感に酔う姿はちゃんちゃらおかしい。
橘だって同感だ。頭の中ではもうターゲットへ迫るルートを組み立て始めていた。
「出入りしている客の方の情報を、まず押さえますか?」
「ん」
二人は簡単そうに言った。実際、橘にかかればそんなに難しくはない。
橘の所属は株式会社 TSUKASA 装備。グループの中でも防犯対策・セキュリティに特化した企業で、警察とのつながりも深いのだった。
「後ろ盾がなくなればアズサは泣いて逃げるわ。最初から女同士で向き合ってれば同等なのに、弱くなった気がしちゃうものだから」
「追撃は」
「いらない。本名とかも調べなくていいわ」
「ああ、〈アズサ〉は源氏名というやつですか」
「そ」
それは店に出る時だけの名前のことだ。斎は楽しそうにクスクス笑った。
「ミュウちゃん、今の店での名前は〈まりる〉なんだって。どっちにしてもカワイイよね」
「は?」
橘が妙な顔になった。納得がいかない、と言わんばかりの空気感。そしてつぶやく。
「そこは無印で揃えないのか……」
その言葉の意味は、斎にはわからなかった。
数日後の夜遅く、帰宅した橘は室内に満ちるいい匂いにハッとなった。
「――お嬢?」
「お帰りー!」
にこにこ出迎えたのは、もちろん斎だ。キッチンで夕食を作り得意顔。
メニューはブリの照り焼きと肉じゃが、生野菜サラダとキュウリの塩もみ、大根の味噌汁。
それらを目撃した橘は反応に迷った。そして低く絞り出す。
「……要求はなんですか」
「話が早いわね」
ニヤリとし、斎は味噌汁の鍋を火にかけた。温め直して一緒にいただくつもりだ。
「まあ手を洗ってきてよ。それともシャワー浴びたい?」
「そういうセリフをお嬢から言われたくないです」
聞きようによっては色っぽくもなる言葉。この場合まっっったくそんな意図がないのはわかりきっているが橘は不満そうだ。
だって変だろう。こんな新婚夫婦プレイを斎が仕掛けてくるなんて。
上着を脱ぎ、ネクタイを外しただけの格好で皿を用意する。二折ほど腕まくりしたワイシャツの袖からのぞく筋肉に斎はウンウンとうなずいた。
「相変わらずパツパツ」
「……私は護衛ですから」
鍛えていることを褒めるのは、信頼しているという表明だ。護衛として頼りにしている――それがこの茶番の結論につながるのかもしれない。斎は危ないことに首を突っ込む気なのだろうか。橘は暗澹となった。
斎が用意してくれた食事は嬉しい。もし美味しくなくても全部食べると決意した。実は軽く食事を済ませてきたのだが黙って平らげるぐらいには、斎の下僕であることが身に染みついている橘だった。
さて斎の目的や、いかに。
「ありがたくいただきます。が、話も進めましょう」
「はーい。いただきます」
きちんと手を合わせ、二人は食卓を囲んだ。
パク。
食べる橘の顔を、斎はじっと見つめる。いちおう反応が気になった。まじまじと見られて橘が眉根を寄せる。だが口から出たのは褒め言葉だ。
「……美味しいですよ」
「そ? よかった。じゃあ毒見も済んだし私も食べよ」
「作ったのは自分でしょう」
「信じちゃダメ。お惣菜かもしれないし」
「違いますね。近くのスーパーのは、照り焼きのタレがもっと甘い」
「橘……お疲れ」
惣菜を食べつけていそうな発言が悲しくなり、ねぎらった。酒も出した方がよかったか。でも橘は首を横に振った。
「お嬢の前で乱れるわけにいきません」
「飲むと乱れるの」
「そんな時も、という話で――それで、この食事はなんのおねだりなんですか」
「――こないだのミュウちゃんのこと」
ピクリ。
橘の箸が一瞬止まる。でも斎はとがめなかった。
「今日会ったんだけどね」
「どこでです。他に誰かいましたか。こちらが店休日なので私は本業を片づけてきたんですが、お嬢はほっつき歩いていたと?」
橘は自然に根掘り葉掘りする。斎が高校生だった頃は交友関係を親に報告するのも橘の仕事だった。そのせいか今は斎も大人なのに素直に聴取される。
「道端でバッタリしただけ。どっちもひとりで買い物の途中だった……ところでこれ、どこかに報告するの?」
「しません。私が把握しておきたいだけです」
「何かおもしろいかな……」
「お嬢のことなら知っていないと気が済まないので」
絶妙に護衛だかストーカーだかわからない言い分を淡々と述べ、橘は悪びれない。
「で、あのミュウとやらがどうしました」
「ワインぶっかけた客が指名するお気に入りの嬢、アズサっていうんだけど。その女にイビられてるんだって。店を替わろうかなって悩んでた」
「ふむ……まあ妥当なのでは」
「こら」
いちおう叱るが、斎にもわかる気はした。
心結は天然のお花畑だ。ぼんやりしてドンくさくて、でも顔が可愛くて胸も大きくて愛嬌があって、なんとなく助けてもらえて生きてきた。
そんな心結にワインを浴びせたのは、少々お元気なタイプの男性客だったとか。そういうやからは気が強く機転の利く女を好むことが多い。アズサもきっと、そういうタイプ。そりゃ心結には苛つくだろう。
「気が合わないのは仕方ないよね。人間だもん」
「その通りです」
「でもわざわざイジメるのは違うでしょ?」
斎のまなざしは真っ直ぐだった。
「自分の取り巻きのところへ接客にこさせて、抵抗できない相手へ酒ぶっかけるとか気に入らない」
「ですね……」
出た。斎の「気に入らない」。
こうなると斎はテコでも動かなくなる。だがその主張が倫理的におかしいとも思えなくて、橘はいつも斎に振り回されることを選んでしまっていた。とんだ忠犬だと自覚している。
橘は今回も観念し、ため息を飲み込んだ。
「そのアズサをどうにかしたい、と?」
「ていうか彼女を指名するお兄さんたちも含めてなのよ。いつもニコニコ現金払いらしいし、きっと埃が出る」
「……カードが作れない方々ですか」
それはつまり反社。だが斎の信念では属する組織などあまり問題ではない。見ているのは行動だ。
無力な店員を暴力でおどし嗤う根性。男の威を借りて嫌いな同僚をいたぶる品性。万能感に酔う姿はちゃんちゃらおかしい。
橘だって同感だ。頭の中ではもうターゲットへ迫るルートを組み立て始めていた。
「出入りしている客の方の情報を、まず押さえますか?」
「ん」
二人は簡単そうに言った。実際、橘にかかればそんなに難しくはない。
橘の所属は株式会社 TSUKASA 装備。グループの中でも防犯対策・セキュリティに特化した企業で、警察とのつながりも深いのだった。
「後ろ盾がなくなればアズサは泣いて逃げるわ。最初から女同士で向き合ってれば同等なのに、弱くなった気がしちゃうものだから」
「追撃は」
「いらない。本名とかも調べなくていいわ」
「ああ、〈アズサ〉は源氏名というやつですか」
「そ」
それは店に出る時だけの名前のことだ。斎は楽しそうにクスクス笑った。
「ミュウちゃん、今の店での名前は〈まりる〉なんだって。どっちにしてもカワイイよね」
「は?」
橘が妙な顔になった。納得がいかない、と言わんばかりの空気感。そしてつぶやく。
「そこは無印で揃えないのか……」
その言葉の意味は、斎にはわからなかった。



